新潟駅が変わります

新潟駅の現在の駅舎が取り壊されて、新しい駅舎建設工事が始まっています。


現在の駅舎は「3代目」で1963年の竣工、その直後の翌年に新潟地震にも見舞われました。

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その後の風雪にもしっかり生き延びて現在に至りますが、高架工事も最終局面に入りいよいよ4代目駅舎が造られます。


一連の立体化工事は2007年の南口整備から始まり、いよいよ最終局面に入っていくようです。


私が始めて新潟駅に降り立ったのは確か1971年頃だと思いますが、


もちろんその頃は新幹線も開通しておらず、越後線や白新線も非電化で気動車が多く見られました。


信越本線・上越線の白眉は特急「とき」で、181系の大きなボンネットが目立っていました。

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高架ホームは来年度には全て完成し、新駅ビルを含めた工事も数年先には完了の予定です。


古いものが消えゆくのは寂しいですが、駅が新たな拠点として町が発展していくのは楽しみです。


地上は自由通路と南北道路になり、駅で分断されていた交通も便利になります。

急行用名車キハ58系

キハ58系といえば、気動車の中でも最大量数を誇った急行用車両です。


エンジンを2台積んだのがキハ58、1台エンジンがキハ28、碓氷峠越え専用のキハ57、
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北海道向けに二重窓など耐寒構造のキハ27など、バリエーションも多彩でした。


年次によっても細かい違いがあり、全国津々浦々でその姿を見ることができました。


地方のローカル線に急行列車が走るようになったのも、この58系の功績と言って良かったでしょう。


気動車の特性を活かした多層立て、すなわち都会から地方への急行はいくつもの行き先があり、


主要駅での解結(解放連結併合)作業も、ファンにとってはたまらないものでした。ファンにとってはたまらないものでした。


中には駅における神業的な解結もあり、二方向から来て別の二方向に連結し直す列車とか、


途中で別かれた編成が、その先の駅で再び連結されるという「再婚列車」なるものまでありました。


誕生の頃には冷房は搭載されておらず、夏場などは窓を全開にしていましたが、


やがてグリーン車(一等車)から冷房化が始まり、夏の旅も快適になりました。


今日は私のアルバムから2枚の写真を紹介します
(上:キハ5733 急行「越後」 下:キハ58229 急行「うわじま」)。

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新潟のキハ40型よ永遠に

国鉄形気動車キハ40形(キハ40、キハ47、キハ48)は、1977年から全部で888両製造されました。


地域ごとにきめの細かい仕様で、全国のローカル幹線やローカル線で活躍をして、どこでも見られたものでした。


戦後の気動車発展の礎となったキハ10系を淘汰し、改良版のキハ20系も老朽化によって置き換えていきました。


基本は21mの大型車体で普通鋼、エンジンも従来型よりも高出力としましたが、重量があって加速力には難がありました。


このため、後にはさらに出力の大きなエンジンに換装された車両も登場しています。

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また北日本の一部の地域を除いて冷房化も実施され、現在残っている車両はもちろん全て冷房車です。


中には急行用や特急用に改造されたものも現れて、各地で活躍している姿を見ることができます。


この内JR東日本では運用範囲がドンドン少なくなって、青森・秋田県の五能線や男鹿線、津軽線などのみとなり、


これも間もなく新型の電気式ディーゼルカーに置き換えられる予定で、まさしく最後の活躍です。


また、新潟・福島県の只見線(小出ー只見間)では暫定使用も最終局面で、キハ110形に置き換わります。


北海道や西日本、あるいは九州では今しばらく活躍する姿が見られますが、いずれ消えゆく運命です。


新潟地区(新津運輸区)は、数年前までキハ40形の牙城と言える地域でしたが、


急速に新型ディーゼルカーに置き換わってしまい、カラーバラエティに富んだ編成も見られなくなりました。


今日はその中から2種類のカラーバラエティ(新潟色と国鉄急行色)を載せることにいたします。

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北三陸海辺を走る八戸線

コロナ禍が収まらない中、旅鉄もままならないので今昔の写真をアップしてきました。


それも一段落ということで、ここからはここ10年くらいの間の各地鉄道線、車両をランダムに載せて参ります。


その最初はJR東日本八戸線、なぜという理由はありませんが、列車の冷房化が日本で最後になったローカル線です。


八戸線は、東北新幹線の八戸駅(青森県)を起点に、三陸沿岸を南下し久慈駅(岩手県)に至る64.9kmの非電化路線です。

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JR東日本とは新幹線で接続していますが、旧東北本線は青い森鉄道に移管されて、在来線としては孤立路線となっています。


また、八戸駅はかつては尻内駅でしたが71年に改称され、かつての八戸駅は本八戸駅となりました。(右写真は八戸駅)


本八戸駅の方が市の中心街には近く、このあたりは都市計画で高架線が続いています。


75年に久慈駅から先、普代までの久慈線が開通しましたが、84年に三陸鉄道(北リアス線)に移管されました。


上記に書きましたようにずっと「リゾートうみねこ」(下写真)を除いて非冷房車(キハ40系)ばかりでしたが、


2018年に最新のキハE130系気動車に置き換えられて、「リゾートうみねこ」と合わせて全列車が冷房車になりました。


かつては準急や急行列車も運転され、一時は上の直通の急行「三陸」もありましたが、現在は全て普通列車です。


なお、八戸駅に近い八戸貨物駅からは八戸臨海鉄道が一部並行し、貨物列車も運転されています。

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只見線の復活が待ち遠しい

JR東日本の只見線、福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶ、延長135kmの非電化ローカル線です。


しかし2011年7月の集中豪雨により鉄橋が流されたりして、現在も途中の会津川口駅と只見駅の間約28kmが不通です。


その架橋架け替え工事等の完成メドが付いて、2022年には復旧することが発表されました。


一時は不通区間はバス連絡のままとされる案も出されましたが、何とか全線復旧が見えてきました。


私は、上越線を中に挟んだ西の飯山線(越後川口-豊野)と、東のこの只見線が日本でも最高のローカル線だと思います。


四季折々の自然に溶け込む姿が何とも言えません、それだけ自然災害も多いことになるのですが。


冬の雪景色も素晴らしいですが、夏の緑の中を行く列車、秋の紅葉の中を走る列車、車窓風景も見飽きることがありません。

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かつては、両終点を結ぶ急行「奥只見」号なども走っていましたが、今は1~2両の普通気動車が走るのみです。


かつては会津若松区に常駐していたキハ40型(写真)が全線を走っていましたが、北側はこの3月からキハE120型に置き換えられました。


南(小出)側はまだキハ40型(新潟色のキハ40/47=新津区所属で長岡常駐)が走っていますが、これもキハ110型に置き換えが決まっています。


なお、会津若松側の会津若松-西若松間には会津鉄道の列車も乗り入れています。


本数的にはこちらの方が多いのですが、観光列車も走っています。


2002年の5月に訪れた(全線乗り鉄)時には、元名鉄特急車のキハ8000型が健在でした。


「AIZU MOUNT EXPRESS」のヘッドマークも誇らしげ(下写真)でしたが、数年で廃車されたのは残念でした。


2年後の全線復旧開通したら、またゆっくりと全線を乗り鉄したいものです。

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越後線が面白い

私の家のすぐそばを、JR越後線が走っています。最寄りの小針駅までは歩いても5分足らずです。


もっとも2月の下旬以来「やわやわライフ」に入ってからは、一度も乗車機会には恵まれていません。


元々は越後鉄道という私鉄で国に買収されたローカル線で、現在は普通列車のみが運転されています。


新潟駅から日本海側を柏崎に向かいますが、歴史的な経緯もあって起点が柏崎、終点が新潟です。


また地図では海の近くを通っているように見えますが、海岸段丘や小高い山が間にあって海はほとんど見えません。


戦前の新潟側終点は、新潟から信濃川を渡った白山駅(現在駅より西、今は小学校)でした。


戦争中に信濃川を渡る貨物線(新潟(旧)ー関屋間)が敷設され、戦後それを旅客船としても使用、白山駅も移りました。


ずっと非電化で気動車が走り、準急や急行も走っていた時期もありました。E129129_1705


70年代から新潟大学が沿線の五十嵐(内野)の段丘に移転し、また高校も多いことから通学生が一気に増えました。


そして84年に電化され、新潟寄りの新潟-内野間は通勤通学路線となり、現在でも日中20分毎の運転です。


運転される電車のほとんどはE129系(2両~6両編成)ですが、古強者の115系もしぶとく残っていて1往復は6両編成でがんばっています。


我が家からは走る姿は見えませんが(道に出ると見えます)、走行音は風に乗って聞こえてきます。


今年いっぱいの遠征がなくなりどこへも行かない状況ながら、電車の音を楽しみながら過ごしています。

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広島と長崎の電車

戦争(太平洋戦争=大東亜戦争とも)の終結から75年、3/4世紀が経とうとしています。


戦争を終わらせる大きな要素として原爆投下が云々されていますが、それは暴論とも言うべきでしょう。


それによってなくなった方の命を思えば、「戦争をしてはならない」という言葉しかなくなるわけです。


ここではそのことについてこれ以上は書きません。


そんな2つの原爆被災地は戦後見事に復興し、原爆で大きな被害を被った路面電車も今や日本で1、2の盛業です。


広島には、原爆被害から復活した電車(被爆電車)が今も走っています(写真の車両とは違いますが)。


原爆ドームと共に、これからもしっかりと「歴史」を伝えていってほしいと願っています。


広島も長崎も、原爆投下被災からそれほど時間を置かずに電車の運転が復活しています。


これはすごいことだなと思うと同時に、電車の音が市民を勇気づけたことに思いを馳せます。
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まさに「鉄道マン」たち(もちろん女性もいました)の誇りを感じます。


広島の電車(広島電鉄)は延長距離も運転本数も日本一の路面電車、LRTシステムの先駆者でもあります。


3車体、5車体の連接電車が市内と郊外とを頻繁運転で結んでいます。


広島駅前の停留場も、新路線への変更に合わせて大幅に改築されて、益々便利になることでしょう。


京都、大阪、神戸など各地で活躍した電車が、今も現役で市民の足としてがんばっています。


長崎電気軌道も、日本で最初の「軽快電車」が走り出した先駆者であり、古い電車も大事に使っています。


これからも2つの町の路面電車は、元気で活躍してくれるはずです。コロナが終息して、また訪ねていきたいものです。

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真夏の旅鉄

その昔、といっても40~50年くらい前には、旅に出て客車列車に揺られることもけっこうありました。


70年代の幹線にも長距離列車が、急行はもちろん普通列車も残っていました。


学生時代は夏休みを利用して遠方に出かけることが多かったわけですが、


昼間の列車は急行であっても冷房車はまだ多くなく、各駅停車は間違いなく非冷房でした。

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となると、窓は全開で走ることになりますし、古い客車だと扇風機もない車両もありました。


客車列車だと駅に停車をしますと機関車のモーターやエンジン音が聞こえるほかは無音、


昼間ならセミの声が響き、夜ともなれば蛙の大合唱がうるさかったものでした。


田舎の駅でも特急や急行列車に抜かれる時、あるいは単線で行き違いの時などは長い時間の停車もありました。


そんな時は機関車の音もあまりしなくて、いかにも夏という雰囲気を味わうことができました。


しばらくホームに降りて、駅やホームにあった水道で顔を洗うと、地下水などだと涼感も味わえました。


スモーカーであった私は、ホームに降りてゆっくりと1、2本を吸っていたものです。


すこし大きな駅なら10分以上停車することも当たり前で、時には機関車の交換ということも。


これまで牽引してきた機関車が切り離され、新たな機関車がゆっくりとやってきて連結される。


これは乗り鉄にとってはもちろん、撮り鉄には見逃せない「イベント」でした。


発車までにはもうしばらく時間があり、駅弁やお茶を買い入れるのもこういった駅でした。


かつては時刻表に駅弁を売る駅には記号が表示されており、欄外に弁当名と値段が記してありました。


またホーム上でのうどん・そばの立ち食いの楽しみもありました。
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ただ「そばアレルギー」のある私は、うどんやきしめんしかない店を選んで食べるようにしていました。


やがて発車のベルが鳴り響き、駅長あるいは助役の合図で車掌が笛を吹き、やがて汽笛一声、ガクンと客車が揺れての出発です。


こういう旅の風情はほとんどなくなってしまいましたが、未だそんな面影を感じる駅は各地にあります。


今はそこに止まる列車は、電車や気動車、それも多くは短い編成両数になってしまいました。


それでも、鈍行列車にゆっくりと揺られる旅はやっぱり最高です。

都電は絶滅危惧種か

都電、今では荒川線が残るだけになりましたが、かつては山手線の内側はもちろん、都内を縦横に走っていました。


60年代後半から都電廃止は次第に加速して、1972年11月にほとんど全廃されてしまいました。

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荒川線も廃止の方向が示されていましたが、72年に一部系統(王子駅前ー赤羽)が廃止されたのに留まりました。


これは12km余の路線のほとんどが専用軌道であり、代替道路のないところも多かったことによります。


現在も路面併用軌道は王子駅前ー飛鳥山間と、小台ー熊野前間のみです。


後者はセンターリザベーションで車とは分離されていますので、車と競合する純然たる併用軌道は前者のみです。


専用軌道区間はけっこうスピードも出して走りますので、踏切も整備されています。


全ての停留所は高床式ホームとなっており、前後にはスロープが設けられています。


荒川線は王子電気軌道という私鉄線が前身で、元々は4つの正式線名(鉄道要覧)を持っていました。


その4つは三河島線、荒川線、滝野川線、早稲田線でしたが、95年に荒川線が正式名称になりました。


途中の折り返しはありますが、運転系統は一つです。全線を通して乗車すると標準運転時間は53分となっています。


車両も軽快な路面電車、最新のモータや制御器を搭載した車両もあり、もちろん全て冷房車です。


他の都市に見られる連接車・連結運転が見られないのも荒川線の特徴かも知れません。


「さくらトラム」の愛称もつき、これからも元気に都内を走ってくれることでしょう。


というわけで写真は72年廃止直前の錦糸町駅前の都電と、最近2016年の大塚駅前を走る荒川線です。

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昭和の軽便鉄道

軽便鉄道という言葉は、現在ではほとんど死語になっています。


鉄道の敷設には厳しい法律があり、資本力の弱い地方での設立は難しかった時代がありました。


そんな時代に、主に都市部では軌道法という許認可が地方鉄道法よりは易しい法律によって、路面軌道線が作られました。


またローカル地域では、官鉄(国鉄)に連絡する簡易な鉄道として軽便鉄道法による鉄道敷設が行われたのです。

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多くの鉄道が官鉄よりも狭いゲージ(軌間)を採用しましたので、軽便鉄道というとミニ鉄道的なイメージがあります。


しかし実際には、官鉄と同じ1067mmのところや、中には標準ゲージ(1435mm)の軽便鉄道も存在しました。


主体は762mm(2フィート6インチ=ニブロク)軌間で、北九州では915(910)mmが多く採用されました。


戦後は大半の軽便鉄道が廃止されたり、国鉄に合わせて標準軌への改軌を実施した鉄道もありました。


今日は非電化の軽便鉄道を代表する2つ、尾小屋鉄道(石川県・1977年廃止)と井笠鉄道(岡山県・1971年廃止)の2枚を紹介します。


尾小屋鉄道は、非電化軽便鉄道としては国内で最後まで残った鉄道で、現在も車両が動態保存されています。


井笠鉄道の車両は、蒸気機関車や客車が西武鉄道山口線で走りましたが、客車は今も北海道で活躍しています。


なお、電化された軽便鉄道では三重県の三岐鉄道北勢線と、四日市あすなろう鉄道が近代化されて残っています。

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