総合自己評価は70点

■連載『MG&脳開企業革命』(50)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@ 


さて、この連載コラムも50回を数え、そろそろここらで最終回にしようと思います。販社に出向してから親会社に戻るまで、16年半の長きに亘ったわけですが、ここでは再建の5年間を中心にお話ししました。

出向してからは専務取締役(代表取締役社長は親会社の社長が兼務)でしたが、実際上は社長としての役割を行っておりました。名実ともに代表取締役社長に就任したのは、1997年の9月の株主総会でした。

やっている仕事自体はほとんど変わりがなかったのですが、代表取締役のゴム印に自分の名前が入ると、やはり責任の重さを感じました。

メインバンクにも、自分の名前で連帯保証書を提出します。形式的なものですからと言われましたが、それでも万が一会社に何かあったらどうなるのかと思うと、身が引き締まりました。

借入金の期末ゼロを含めて第2次5カ年計画も、大過なく順調に進んでいました。ピークに達したのはその計画の4年目にあたる99年6月末決算でした。期末借入ゼロを達成した年でもあります。

この年のPQ(売上)は7億4千万円、私が退任して以降もここまでは到達していませんので、会社の史上最高といってもいいでしょう。引き継いだ年(90年6月末)と比較して136%、MQ(粗利益)は160%です。

社員の数は3人増えただけ(123%)ですので、大幅に生産性が上がったことにもなります。経常利益も、コンスタントに1千万円を超え、この年は2千万円を越してこれも史上最高益となりました。

もっとも経常利益率は3%内外ですので、それはまだ低いですねという声もあるでしょう。確かに世の中で良い会社と言われるところは10%とか20%という利益率を上げておられる企業があります。

でも私は、3%くらいで十分(ちょうど良い)ではないかと思っていました。同業ではトップ、の企業の中でも上位の給与水準に達し、賞与も年2~3回出せるのです。その上で将来への内部留保も年々増やしてきました。
Photo_28

ただ、第2次5カ年計画の後半からは2つの問題点を感じ始めていました。一つは「守りの姿勢」でした。確かにどん底からの這い上がり時期はみんなが必死になって、新しいことへの挑戦にも前向きでした。

失敗を恐れない、失敗も恕すという会社の雰囲気もありました。それが6年7年と経つにつれて、少しずつ薄れてきたように感じました。いや、というより私自身が守勢の行動になっていたのかも知れません。

もう一つはm率(粗利益率)を重視する余り、m率を稼げない商品や得意先を避ける傾向が出てきたことです。とくに新規開拓が企業制服以外に伸びてこないことが気に懸かりました。

幸い、MGについては3人に2人は100期以上を体験、なおも期数を伸ばしていましたし、脳力開発については私が講師となって継続しており、その研修の中で「カツを入れる」ことにしました。

創業よりも守成が難しいのは、失敗を恐れない姿勢が薄れてくるからとして、新規開拓・深耕開拓の目標の見直しを行いました。またm率よりもMQ絶対額の重視を打ち出しました。MQミックスの勉強も加えました。

大きな目標が必要ということで、第3次5カ年計画には「自己資本比率30%」という旗印を掲げました。2000年6月決算では25%を超えましたので、早期に達成できるものと考えていました。

しかし、実際には次の5カ年では僅かに届かず、私が代表取締役を退任する直前の2006年6月決算で、ようやく30%の大台を超えることができました。すでに市場の縮小が始まり、PQ/MQとも減少する年もありました。

新規事業への挑戦もやや不発(1勝2敗)に終わりました。しかし、人づくりという面では「自ら考え自ら動く」人財づくりができたと思いますし、色んなところから評価もしていただきました。

企業は人なり、この目標には到達できましたが、では「社員とその家族を幸せにする」ことができたかについては、道半ばというところで終わってしまいました。総合自己評価は70点というところでしょうか。

というところで、このコラム『MG&脳開企業革命』の筆を置きたいと思います。

期末借入金残高をゼロにできた

■連載『MG&脳開企業革命』(49)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@ 

この連載コラムも今回で49回目、そろそろ一区切りをつけようと思っています。もちろん、「企業革命」はまだまだ続くわけですが、5カ年計画の達成で「普通レベル」の会社になったことまでが大きなヤマでした。

次の5カ年計画で立てた目標も、期末の借入金ゼロとかイントラネットの構築などいくつかありましたが、これらも紆余曲折を経て実現・達成ができました。

ことにイントラネットなるものは、おそらく相当に時代を先取りしたのではないかと思います。最初は採ってもアナログ的で、1枚のフロッピーを全員に回して書き込み回覧するという形。

フロッピーには営業報告とかクレームとかタイトルが付けられており、毎朝私の手元に集まってくるスタイル。全部が集まると、その集まりが今時のサーバーというイメージです。当時はまだ内蔵ハードディスク(HD)がなかったのです。

それもすぐにHD内蔵のPCが登場、最初は20MBとか40MBでしたが、そこは日進月歩です。さらに電話回線を通してのネットアクセスを採り入れると、全員がNIFTYのIDをとって本格ネット参戦でした。

NIFTYのHOMEPARTYに情報集結場所を作り、そこに全員が書き込んで共有する。ツリー構造の書き込みスタイルでしたから、関連を辿ることも、またキーワードで検索することも容易でした。

ちなみにIDを取得してメールやイントラネット環境を作り始めたのは1996年ですから、第2次5カ年計画の前半の頃でした。

借入金のことも少し触れておきましょう。制服屋、とくに学校制服・体操服が主要扱い商品ですから、季節変動が大きいことは以前にも書きました。その上に、シーズン前には在庫をしっかり積み終えます。
Photo_26

とくに親会社からの仕入ウエイトが大きく、その支払は手形でということになっていますので、その手形決済がシーズンオフの夏前後にピークを迎えます。

それに合わせた資金繰りをしますが、8月ないし9月に借入額が一気に増えます。私が出向して来て引き継いだ頃(1990年)の期末には、年間のピークが約2億4千万、期末にも1億近い借入残高でした。

これを10年で期末残高ゼロにすることを目標にしました。もちろん親会社への買入債務(買掛金と支払手形)あってこそできる数字ですが、少なくとも決算書(BS)に(期末)借入なしというのはいいでしょう。

10数年前に土地を購入し社屋を建てた時に借りた高度化資金(長期借入)が、1998年には完済できますので、できればこの年にゼロにしようと心密かに目標を描いて取り組みました。

短期借入すなわち運転資金を減らすためには、売上債権を減らすことと在庫を減らすことが必要条件です。前者は集金を増やす、回収率を微増でいいから上げていくこと、手形集金は無くすことです。

在庫についても不良在庫を処理することで、適正在庫をストックすることができます。さらに、新学期商戦の販売予測精度を上げることで、在庫を減らすことを目指しました。

こうして決算末の1ヶ月前、5月末までには短期借入金を全額返済することができたのは、計画より2年早い1998年5月のことでした。心の中で「やったぞ」と喝采を上げました。

次の借入は8月初めですので2ヶ月間の余裕があります。この期間に年間の資金繰り計画表を作り、取引銀行との交渉をじっくりとすることができるようにもなりました。当然、有利な条件に恵まれるようになりました。

金利の低下傾向にはありましたが、それ以上の条件提示を受けられるようになったのは、金融機関からも評価される会社に生まれ変わったということです。大きな壁を突破できた喜びを噛みしめました。

再建計画達成で「普通」レベルに

■連載『MG&脳開企業革命』(48)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@ 

新規事業(企業ユニフォーム)を立ち上げてしばらくして、親会社もレディス・ユニフォーム事業を新規に立ち上げました。桂由美さんなどともタイアップしての華々しいスタートでした。

親会社の事業ですから私たち販社もラインナップの一つに取り上げましたが、私は自らつながりを作った仕入先数社をメインにしました。商品アイテムも多く、また取引条件も有利でしたから。

ワーキングウェア(作業服)については親会社が手を付けていませんので、こちらは私がまず東京や広島(福山・府中)のメーカーを直接訪問し、その大半と取引契約を結びました。

親会社のウエイトは新規事業立ち上げ時点では95%以上ありましたが、ここから少しずつ下がっていきます。もちろん全体のPQ/MQを上げていきましたから、親会社との取引の絶対額は常に増えていました。

新たなメーカーとの取引は白紙からのスタートですので、いくらかこちらの希望も聞いてもらえました。取引額の少ない内はそれほど無理が言えませんが、それなりのボリュームになれば要望も出しやすくなります。
Photo_23

ただ失敗が一つありました。それは一定額以上の支払を手形で行ったことです。新規事業スタートの時点ではまだキャッシュフローが安定せず、資金繰りの厳しい月もありました。

故一倉先生から「手形を切ったり受け取る商売はダメだ」と教えられていましたが、背に腹はかえられないという部分もありました。もっとも、まだ私自身が手形の怖さを知っていないからだったと反省しています。

ちなみに、社長になった頃からは徐々に手形支払の基準を引き上げ、退任前には親会社以外の仕入先への手形支払は廃止することができました。

先を急ぎすぎました。新規の企業ユニフォーム事業は、2年目から女性のHさんがメイン担当になり、私はバックアップに回りました。企業の新規開拓活動は、引き続き私の担当でしたが。

メーカーの展示会や、メーカーの本社訪問なども彼女に任せることが多くなりました。旦那さんや子どもさんもいましたが、義父母さんが面倒を見てくれるというのに甘えて、どんどん外にも出てもらいました。

1年も経たない内に商品知識はもうベテランの域に達し、むしろ私の方が教えてもらわなければならないくらいに。そうなると自信もついてきますから、セールストークにも誠意と安心感が満ちてきます。

2年目の目標3千万円(PQ)はさすがに厳しかったのですが、それでもあと一歩というところまできましたし、MQ(粗利益)は目標を突破して営業の男性たちを驚かせました。

とくに繁忙期シーズンは新春の3~4月、夏物の5~6月、秋の衣替えなどスクール&スポーツユニフォーム部門と重なりますので、ほとんど一人で企業回り、受注からメーカー発注、加工外注から納品までやらねばなりません。

ホント、脱帽でした。自ら志願して始めた仕事ですから周りを頼れないとも思っていたでしょうが、それにしてもMG効果とはすごいものです。

この部門、やがて介護施設向けのユニフォームなども加わった他、医療や看護、介護などの専門学校へもアプローチを広げ、後者には男性担当も充てるなどして、スクール&スポーツと並ぶ第3の柱に成長しました。

おかげで、少子化傾向が加速していき始めても、業績は落ちることなく少しずつ伸びていくことができました。当初の5カ年計画も達成して会社の再建ができ、地域での普通レベルに達するところまで到達しました。

新規・企業制服事業を立ち上げました

■連載『MG&脳開企業革命』(47)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@ 

今日がついに「平成」最後の日です。この連載コラムの舞台は、平成時代の前半のおよそ1/2ということになります(平成2年~平成18年)。

ここまで最初の数年間、再建(改革)5カ年計画の話を進めてきました。計画のスタートが平成2年の7月1日、ひとまずの締めくくりが平成7年の6月30日です。

丸3年で累積赤字を解消し、懸案の一つであった不良貸付金の清算も終えることができました。PQ(売上)は当初より1.3倍を超え、それ以上にMQ(粗利益)は1.6倍を超えました。

4年目からは復配(僅か5%ですが翌年には10%に)を実施し、主立った社員にも自社株をもってもらうようにしました。私も、社員と共に親会社の名義株を取得してこの会社に身を捧げる気持ちを表しました。

と書いてきますと、すべてが何だか順調に進んでいったように思われるかも知れませんが、実際には失敗したこともいくつかありますし、社員との間で意見のすれ違いも何度かありました。

最初の内は、MG研修やマイツール(MT)導入への抵抗があったことは、これまでにも書いたとおりです。幸い3年が経過した頃には、これらに対する反対は殆どなくなりました。成果によって、理解が進んだのでした。

ところで少子高齢化が叫ばれてもう久しいですが、第2次ベビーブーム(1971~74年)世代が中学生になった80年代中盤を過ぎると、学校制服業界でも将来を懸念する声が上がり始めていました。

彼らが高校に入る頃まではそれでも、バブル経済とも相まって業界にも活気がありましたが、バブルがはじけると一気に問題が浮き彫りになってきました。早めから手を打てなかった同業での倒産、廃業が始まりました。

私たちの企業グループは業界トップの数社の中に入っていましたが、将来を予測すればだんだんと尻すぼみになってくることは明らかです。競合が激しくなり、価格競争になってはトップたりとも安心はできません。

ましてや、市場規模の大きくない地方問屋の当社にとっては死活問題です。そこで、再建5カ年計画には新規事業への進出をすることを盛り込んでいました。
Photo_20

急がねばなりませんが、新規事業に向ける人材を既存メンバーからは出せません。そこで、中小企業家同友会の共同求人にも参加するなど、大学・短大卒の人材採用を進めましたが、結果は余り芳しくありませんでした。

3年間で4名を採用しましたが、現在まで会社の主力メンバーとしてがんばってくれているのは1名だけです。結局中途採用に頼るしかないという状況を受け容れざるを得ませんでした。

そこで、新規事業は私自身(当時専務)が手がけることにしました。その事業はあくまで「制服屋」というジャンルの中で求めることにし、ビジネスウェア(企業制服)の企業直販に乗り出しました。(写真はイメージです)

スタートは年度途中の92年の年明けから、最初は同じ産業団地に入っている会社や、中小企業家同友会でご縁を得た企業回りを始めました。なかなか成果は出ませんでしたが、それでも数社から注文をいただきました。

夏服で盛り返して初年度は計画のPQ300万円をクリアできましたが、これではとえても経営の柱にはほど遠い数字です。どうしても専任の担当者が必要だと、強く感じました。私一人では1千万円がやっとでしょう。

そんな時に手を上げてくれた女性社員がいたのです。総務・経理担当として中途採用したHさん、「ぜひ営業をやらせてほしい」との言葉に、私の方から飛びつきました。

彼女はMGを始めて数回目でその面白さを感じ、実際の営業活動をしたいと思ったのだそうでした。もちろん、制服の仕事は初めての体験、ユニフォームの素材や縫製の知識も殆ど持っていません。

周囲のメンバーは心配をしたようですが、私はMG研修の時の負けても成績が悪くても明るく元気な様子に、大いに期待することにしました。いざとなればフォローしてあげられる。翌年の目標PQは初年度の10倍、3千万の設定です、無茶苦茶だよなと笑いながら。

『最高の負債』にありがとう

■連載『MG&脳開企業革命』(46)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@  

ここで少し時を遡って、親会社時代のことを振り返ってみます。4月途中入社という形で親会社に入社したのは1976年のことでした。

私がボランティアをしていた団体(財団)の理事長が、たまたま当時の社長出会ったというご縁で「拾っていただいた」入社でした。最初の配属は商品開発部宣伝企画室、以来12年間配転もなく過ごしました。

開発部(企画)の仕事内容は、宣伝販促から商品企画、マーケティングまで広がり、時にはグラフィックデザイナーのまねごともやり、コピーライター的な仕事もこなしました。門前の小僧で店舗レイアウトもやりました。

いずれにしても同じ部署から10年以上も動かない(部や課の名称は何度か変わりました)のは、親会社の中では稀な例でした。ただそこに必要というより、他に動かしようがないと思われていたのでしょう。

その間に係長に昇格しましたが、昇格すると組合員を外れると同時に、会社の株を持たされる(社員持ち株会)ことになります。つまり株主になれたわけですので、決算書をもらって株主総会にも出席します。

ところがこの決算書なるものが、さっぱり読めません、理解できません。当時32、3才、これは困ったなということで経営や会計の参考書を買ってきて勉強を始めますが、何度も途中で挫折です。

難しくて手に負えない、どうせこのまま企画の仕事を続けていくのだからあんまり必要もない。そう思ったわけですが、もちろん負け惜しみです。

もしこのままの状態で、販売会社に出向などという事態になっていたとしたら、おそらく「売上を上げろ」「経費は節減だ」というだけの現地責任者で推移したことでしょう。

可もなく不可もなく既定の年数(3~5年間)を勤め上げて親会社に戻り、本流である営業部門か製造部門で一般的な出世コースに乗って、もしかしたら経営ボードの一角を占めたかも知れません。
000-mq

あるいは「天下の天邪鬼」を自負していた私は、親会社に戻っていっても本流から離れたところで仕事をしたまま、不満を抱えつつも時代に流されていっていたかも知れません。

その人生の方向を左右してくれたのが1987年9月、MG(MQ戦略ゲーム)、そして翌年1月の西先生との出会いでした。そしてたまたま、MGとの出会いと同じタイミングで開発部から配転(半年間は兼務)になるのです。

新しい職場は経営管理室、社長秘書的な役割を持つ部署でしたが、そこで自社や販社の数字とも向き合うことになりました。MGを学んでいくことと並行していましたので、数字も少しずつ読めるようになりました。

MGに出会ったのが35才、そしてその2年半後の38才で販社に出向することになったのです。2年半で200期に達しましたが、まだまだ未熟、現場を知らないペーパードライバー状態でした。

それがいきなり「修羅場」に直面して、好むと好まざるとにかかわらず「MGを現場実践」することになったわけです。実践というよりは実戦でした。5年の既定期限はアッという間で、気が付いたら16年(半)でした。

普通の安定した会社で会ったら、MGで学んだこともMQ会計の範囲内、せいぜいMQ管理グラフとか利益感度分析などを表面的に活用はしたでしょうし、それなりの結果には繋がったかも知れません。

しかしながら、BSを考えるあるいは重視する経営にまでは至らなかったでしょうし、CF(キャッシュフロー)のことは余り考えなかったでしょう。ましてや、その後の「3S経営」や「人を大切にする経営」などにはねぇ。

その意味で『最高の負債』を抱えてくれていて、ありがとうという思いです。何も無ければ、今こうしてコラムを書いている自分もいなかったことでしょうから。

デッドストック商品を処理する

■連載『MG&脳開企業革命』(45)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@ 

不良貸付金の償却処理が終わっても、まだ不良資産の処理は完了しないままであった。しかしながら、大きな金額であるのでさすがに一気にというわけにはいかない。

価格改定が少しずつ効を奏して粗利益利率の改善が進み、経常利益も確保できる見通しができてきたので、3~4回(期)に分けて償却処理をする方向を決めた。

一括で特別損失処理をする方法もあるのだが、税務処理上否認される可能性もあるので、「デッドストック商品処理」といった科目を作って、経費処理をすることとした。時間(年数)はかかるがやむを得ない。

この方法でも「利益減損処理」ということで否認される可能性はあったが、もし認められれば、その後のデッドストック処理についてお墨付きがもらえる形になるので、敢えて踏み切ったわけだ。

制服の卸業、特に学校制服の場合はデッドストックが発生するリスクが少なくない。新学期とくに入学式に間に合わせる、納期遅れを起こさない為にシーズン前に既存の制服を備蓄しておく。

学校の規模によっても違うが、7~8割くらい事前に在庫を確保しておくわけだ。そして残りについては、採寸後に追加オーダーすることになるが、追加は納期が厳しいのでできるだけ少ない方が良い。

そんな中で、もし制服のモデルチェンジが実施されることになると、その備蓄在庫は無駄になってしまう。それは極端な事例で、モデルチェンジ情報は早めに分かるので、できる限り対応をしていく。

それでも新学期シーズンが終わった段階でも在庫は残っている。できるだけ少なくできることが、担当者の「腕」なのだが、男女比が変わったり体型・体格の読み違いもあって、在庫を残してしまう。在校生用在庫も必要だ。

そのような状況下でモデルチェンジになると、残った商品の多くはデッドストックとなってしまう。体操服の場合は、制服に比べてモデルチェンジがもっと頻度が高い。

平均すると毎年300万円前後のデッドストックが発生する可能性があり、「もう売れない」と判断できる時点で、償却してしまうことが望ましい。それを怠っているとどんどん溜まり込んでいくわけだ。Photo_16

さて、処理を進めていくことにしたが、具体的には焼却処理すなわちゴミの焼却場に運び込むことになる。環境問題が叫ばれるようになってからは「埋め立て処理」になるのだが、この時期はまだ焼き捨てられた。(写真はイメージです)

トラックに商品を積み込み、市の焼却場に運び込む。写真をキチンと撮っておき、もちろん伝票明細も残しておく。焼却場では「焼却証明」ももらわねばならない。それらをセットで保存しておくことになる。

メーカーにいた私には涙が出る仕事だった。工場でミシンを踏んで商品を作っている女性達の顔が浮かぶ、申し訳ない気持ちになったものだ。

結論からいうと、この経費処理は税務署の調査官から認めてもらえた。翌年の税務調査で、とくに指摘がなかったというわけだ。そこで、経営計画の最初から「デッドストック商品処理」予算を組むことにした。

毎年こまめに処理していけば、在庫もキレイになるし、利益の足を引っ張ることもない。これで、不良資産処理も先が見えてきた。

一気に不良貸付金の償却実行

■連載『MG&脳開企業革命』(44)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@


赴任して丸1年、小学校6年生で地元の小学校に編入した娘は、そのまま公立の中学に進むのではなく、国立の(新潟大学教育学部)附属小学校を選んだ。そちらの方が近いからという理由だったらしい。

子どもは慣れるのが早い。岡山を離れる時にはクラスメイトと別れるのがイヤだと泣いていたのが、親よりも早くあっさりと方言にも染まっていた。カミさんは元々新潟県生まれなので、ジタバタは私だけだったようだ。

もっとも、私生活でジタバタしている余裕などない1年であったし、娘の進学のことにもほとんど意見を述べることもなかった、父親失格の私だった。その上「経営者失格」ではかっこうがつかない。

最繁忙期が終わり、シーズンの後始末が一段落して夏物の見通しもハッキリし、今期の最終予測が予想を上回る数字になりそうだと分かっても、まだ不安な気持ちは収まらなかった。

それはそうだろう、たった1年前は申告上僅かながらもG(経常利益)を計上したとは言え、実質的には赤字であったし、累積赤字も不良資産もほぼそのままに引き継がねばならなかったのだから。

年度末6月末の棚卸も、当初1回目ではかなりの誤差を生じていたが、2度3度とやり直して最終的には、さほど大きな差違は出さずに確定が出来た。その数字で試算をして、ようやくホッと一息をついた。

試算の数字を社員にもすぐに公開したが、一様に喜びが溢れていた。親会社の社長にも電話とFAXとで報告、これで2年目に船出が出来る自信が湧き上がってきた。

PQ(売上)も10%以上伸びたが、MQ(粗利益)の伸びはそれをさらに上回った。利益感度分析を繰り返し、商品別に、得意先別にMQアップの戦術を実行してきた成果が出たのだった。

もちろん、すべてがうまくいった訳ではない。新規の学校制服獲得企画コンペで、ライバルに負けてしまったケースもあったし、主力店への深耕開拓ではなお課題を残していた。

最終的なGは当初目標の1000万を超えて、1200万をも突破できた。これで累積の赤字も半分くらいまでに減じることが出来た。しかもF(経費)も10%近く増やしての最終結果だ。

この結果を得て、いよいよ再建2年目の年度には、不良資産の減少に取り組むことを決意した。まずは大赤字を出した時の負の名残り、不良貸付金の処理を一気にやってしまうことだった。
Photo_15

新年度の計画上は一括処理を行っても、なおキチンとGを残して追えることができるはずだった。顧問税理士さんと何度も打合せ・シミュレーションを行い、まずは債務者に内容証明を送ることから始めた。

返済してもらえないことはほとんど(100%)明らかだった。この時、私は生まれて初めて内容証明の書類を作り、郵送するという作業を行った。2ヶ月おきに3回送ったが、当然ながら債務者からはなしのつぶてだった。

そこで、年末つまり半期の最終に一括処理を行った。具体的には債権放棄ということになり、特別損失で残額の約1000万余を「捨てた」ことになった。メインバンクをはじめ、各取引銀行にも説明に回った。

要するに、『負の資産』を作ってしまうことは、後々に大きな禍根を残すのだということを身をもって知ったわけだ。これは、実際経営に携わなければほとんど知ることもなかっただろう。また、再建会社だったからでもあろう。

そんな風に、いくらかでも前向きに考えられたのは脳力開発をやっていたおかげと言える。そしてこれをやることによって、必ずプラスに針が振れていくことを感じてもいたのだった。

しかしまだまだ負の資産は大きく残ったままだったし、業種業容の宿命上、不良在庫は年々増加するのだ。いずれはそこにもメスを入れるとして、まずは当面の膿をなんとかしなければならない。

それには、特に営業部隊の一層の活躍に期待するしかない。幸い、1年目の結果・成果に彼らも自信を持ってくれたようだった。少なくとも、このやり方を続けていけばよいと分かってくれたことは確かだった。

年度計画づくりももちろんマイツール

■連載『MG&脳開企業革命』(43)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@

1991年4月の高校入学式が終わると、私たちの最繁忙期シーズンが終わり、ホッと一息をいれます。この年も納期遅れという事態を招くことなく、無事に終了することができました。

最もそれも僅かな間で、1週間か10日後には夏物の納品に向けた準備活動が始まります。入学と同時に採寸ができている新入生は比較的楽ですが、在校生は希望販売で、時には採寸も伴います。

本格的に忙しくなるのはゴールデンウィーク(GW)明けですが、デパートや専門店では新入学時の商品との入れ替え作業をGWまでに終わらせます。返品の受け入れもピークになります。
Photo_13  

そういう状況の中で、私は早くも7月からの新年度に向けての計画作業をスタートさせます。3月末の時点で今年度の最終着地点もかなり見えてきますので、見込み数字を頭に置いての計画作業です。

ベースには(再建)5カ年計画がありますが、これは年次計画ですので、最新データを元に月次計画に置き換えていきます。トータルが決まれば、月次に振り分けるのはマイツールを使えば至極簡単です。

給与などは個人別に細かい計算もしますが、余裕分を加味して最終的には1/12して書き込んでいけば、各科目の月次数値は完了です。単位は「万」、それで十二分です。

忙しい営業担当者にも、仕入の担当者にも、時間の合間を縫って月別データを出してもらいます。この頃には、集計の仕事はマイツールでやることが定着していました、たった1年で。

これは1日も早く「一人1台(のマイツール)」を実現しなければと、強く思いました。最初の計画よりも1年早めたいという思いを、当然ですが計画予算にも反映しました。

もちろんそれだけ経費(F)が増加していくわけですが、その額はたかだかしれている。そして必ずそれ以上の効果=成果を生んでくれることを確信していました。

5月の下旬に夏物納品もゴールが見えてきますと、いよいよ全員会議の開催です。かっこよく『新年度戦略会議』と名付けました。これはその後の年も継続し、時には泊まりがけで行ったこともありました。

商品別、得意先別の計画づくりは、私の手からは離れそれぞれの担当者に任せ、部課長がとりまとめをしたものが私の手元に届きます。個人別の面接チェックをすると、年次計画が確定します。

私の仕事はさらにそこから進めて、年間の資金繰り計画へと移っていきますが、これもマイツールを使えば丸1日あれば作ることができました。

さらに年間の行事計画、社員教育計画などは、年間カレンダーを作成し、そこに当てはめていくだけ。社員の意見も聴いて微修正をすれば、もう完成です。ここまで全部マイツールでの仕事です。

年間計画表と資金繰り計画表は、次年度が始まる寸前に取引銀行別に提出します。資金繰り表は銀行別に借入・返済計画を記してあります。

まだ期末に多額の借入金が残る状況ではありますが、これも10年後にはゼロにするという密かな目標も作っておきました。結果から言いますと、10年後にしっかりと実現できました。

なお、資金繰り計画書は銀行から大きな評価を受けました。年間の資金(繰り)計画書をあらかじめ出してくる企業はほとんどないということを聞き、誇らしい思いにもなりました。

学校採寸現場にマイツール

■連載『MG&脳開企業革命』(42)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@

学校制服業者にとっては年明けの1月から、4月の入学式・始業式までが1年で最大の繁忙期シーズンとなります。私の会社でもこの時期に年間の8割以上(の売上)が集中していました。

店頭での販売も多いのですが、それ以上に集中するのが学校での採寸から納品に至る、一連の仕事です。公立の小学校から学区の中学入学者への採寸もありますが、これは割合少数です。

生徒数が多くしかも集中するのは私立の中学、そして公立私立の高校です。入学試験後の合格発表時に一斉採寸を行う学校が大半です。

とくに(新潟県の)公立高校の場合は入試が上旬、合格発表がその2、3日後です。4月の入学式までの期間は当然ながら1ヶ月以下です。中には二次試験を実施する学校もあり、そうなると余裕はほとんどありません。

これは新潟県ばかりではなく、全国の都道府県でほぼ同じような状況です。そうなると、採寸を経てからのメーカーに対する追加発注は、一時期に集中します。
Photo_12

事前に生産のキャパを調整していただき、一定の量に対する対応はしていただけますが、それでも発注データが1分1秒でも早くメーカーに届けば有利です。

1991年当時の採寸によるデータ集計、チェックはまさに人力を集中して行っていました。採寸の現場で1名ずつの受注申込書にサイズと数量を書き込み、それを会社に持ち帰って整理します。

数量を数えるのは2人がペアになって行い、サイズ別に「正」の字を書いていくのです。かなり慎重には行いますが、人間がやることですので間違いもゼロではありません。

何より時間が掛かかってしまいます。採寸が終わって会社に戻り、そこからチェックをしながら集計作業をするのですが、早くても夕方、遅いと8時9時を回ることもしばしばです。

一定の在庫も確保していますが、それと照合しながら不足数量を出していきます。何とかその日の内にとがんばれば、メーカーへの追加発注(FAX)を送るのが夜中になってしまうこともしばしばです。

これをなんとかするにはどうしたらよいか、そこでマイツールの活用です。1つは採寸データを会社に戻って、データ入力します。集計コマンドを使って集計すれば正確に、間違いない数字が短時間で出せます。

これで何とか夜中までかかることはなくなったとはいえ、まだまだだと感じました。こうなったら、採寸現場にマイツールを持ち込んで、採寸と並行してデータを入力してデータベースを作る。

しかも金額などのチェックも自動的に行う、その為のコマンドも利用技術もありました。前例はありませんので、大げさに言えば「世界で初めて」私が作りました。

このシーズンは私が立ち会える学校だけに留まりましたが、会社に戻ってからのデータ入力も同じシステム、やり方でできますので、数人にチャレンジしてもらいいました。

これで、少しでも早く正確な追加発注データをメーカー(親会社)に送るという目標が達成できました。翌年以降も徐々にみんなができるように工夫をし、採寸現場へのPC持ち込みも当たり前になりました。

データベースはサイズ集計だけでなく、商品の加工伝票や加工ラベルの発行、商品アソート伝票や納品伝票、請求書まで作り出すことまでできます。在庫との照合ももちろんマイツールです。

親会社ではこれらを行うコンピュータシステムを有料(20~50万円)で提供していましたが、マイツールを使えばアレンジするだけなので無料です。すごいでしょう。

1991年正月の爆弾宣言

■連載『MG&脳開企業革命』(41)

友だち追加←ヴァンガード経営研究所・LINE@

1991年(平成3年)の正月を迎えました。

再建計画に基づく実際の活動を開始してから半年、7月からスタートする年度の上半期は、私たちの会社にとっては「種蒔き」の期間です。スクールユニフォームの仕事はよく農業に例えられました。

夏場にしっかり種蒔きをして秋に生育を見守りながら、冬に入って収穫の準備を始めて春に入ると一斉に収穫を始める。それも一気にです。間には少し別の収穫もありますが、春に比べれば小さな割合です。

売上・利益(PQ/MQ)ベースでいえば、上半期の半年がザッと20%前後、残りの80%内外は下半期、それもその過半を2月3月で稼ぎ出すので。ただ収穫のためには種蒔きと生育が不可欠です。
Photo_10

12ヶ月間の内9ヶ月間は赤字、残りの3ヶ月でほとんど全ての利益を生み出すといっても過言ではありません。それだけ季節変動も激しい業種なのですが、上半期も遊んではいません。

というよりも、この時期にどれだけ動いて種をしっかり蒔いて水と肥料をやることができたか。それが春の収穫期に喜びとなるかの大きな分かれ道になります。気が抜けない半年間ともいえましょう。

ですから、この年度も上半期はいつものように大きな赤字を溜め込み、借入金は目一杯に膨らみました。しかも、賞与を出す計画通り実行しました(1ヶ月分くらいですが)ので、さらに赤字が膨らんでいます。

先憂後楽という言葉がありますが、正直言ってそんな達観した気持ちにはなっていませんでした。幸いに赤字なりに月次目標は達成してきていましたし、「棚蒔き・育成」の報告も順調でした。

そして、正月明けの下半期最初の日の朝礼で、私は年初の挨拶と決意表明のあとで、爆弾宣言をしたのです。それはマイツールに関してでした。

半年間でマイツール(以下MT)の使用人口は徐々に増えてきていました。台数もいくらか無理をして、ようやく私を含めて14名で「3人で1台」というところまできていました。会議資料はMT資料に変わりました。

ですがまだまだ「手書きと電卓」状態からは、とても抜けられたとはいえません。どうしたらいいかと考え抜いたあげく、爆弾発言になったのです。いわく「今後私への提出資料・書類は全てMTで作ること」でした。

会議の数値資料はもちろん、日々の営業報告、行動報告、企画書や上申書、さらには出張時の費用精算書に至るまで、何もかもMTで作成することを義務づけました。そうでなければ受け付けないと。

もちろん、その為には仕組み作りをしなければなりません。そこで定型的なもの、例えば旅費の精算書などはフォーマットを作って、データを入れれば自動計算してくれるようにしました。

月次資料などはすでにフォーマットができていましたが、営業日報なども「1行1データ」の報告様式を決め、日々の報告を義務づけました。ただし、その他の資料の多くは自分でフォームを自由に作ってもよいと。

こうしておくと、誰かが作ったフォームの中でより良いものが最終的に残って統一されていく、それをすでに半年間で見ていました。予想通り、繁忙期に突入する頃にはほぼ狙った状態が実現してきました。

よしこれでいけると感じましたので、「2年後には1人1台(のMT)を実現する」ことも宣言しました。ちなみにこの宣言は、2年後に間違いなく実現できました。

さて、いよいよ肝心要の繁忙期シーズン突入です。私は、もう一つ重要なことを考えていました。ではその話は次回に。

より以前の記事一覧