在庫が合いませ~ん!!

■連載『MG&脳開企業革命』(35)

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さて、期末の棚卸となりました。6月末の2日間を出荷停止にして、全員総出で二人1組になって実地の棚卸開始です。前日までにオフコンから出力されていた在庫明細表が棚に貼られ、集計表の表も用意されました。

 

在庫の金額はざっと15千万円、アイテムが多い上に各商品のほとんどがサイズものです。多いものでは一つの商品で30サイズくらいあるものもあって、数えるのも大変です。

 

一通り数え終わるのに1日半たっぷり掛かり、女性社員が2人キーボードの前に座り続けて数を打ち込んでいきます。差違表が打ち出されて、今度はそれを持って再び数え直しを行います。Photo_2

 

もちろん2日間では終わらず、7月がスタートして新年度に入ると、少ないながらも出荷作業が始まります。差違が埋まらないものは、最終的には実際在庫に合わすのですが、実はその差異が異常に大きいのです。

 

しかもその差異がマイナスに振れています、ということは実際の数に合わせてしまうとそれだけ粗利益を減らすことになります。前期在庫金額+今期の仕入金額-期末在庫金額(Z2)=今期の売上原価(VQ)です。

 

Z2の金額がコンピュータ(帳面)在庫より少なくなれば、当然ですがVQが増えてその分MQ(粗利益)が減るわけです(PQ-VQ=MQ)。それが数百万円ですから、これは大問題です。

 

そうでなくても、前期決算予測では損益分岐点スレスレなのですから、どうするかという腹を決めねばなりません。顧問税理士さんとじっくりと相談をし、この際在庫には目をつぶって経常利益をプラスで終わることにしました。

 

PQは前期対比102%でしたが、MQは大幅にダウンし、その上F(固定費)も増えていました。G(経常利益)は何とか150万円でしたが、上記のように実質は赤字決算で終わりました。

 

赴任して3ヶ月ですから、もちろん私の経営責任ではないとしても、この会社を盛り返していかねばならない責任はずっしりと感じました。自己資本比率は9%を下回り、借入も多く余力はないという状況でした。

 

4月の時点での移動平均(MAV)分析をさらに3ヶ月プラスして行い、辛うじて下げ止まりには近づいていたものの、MQは底だろうなと思われました。粗利益率(m%)は20%を割り込み、危機的状態でした。

 

何から手を付けるか、優先順位を決めてなどと悠長なことは言っておられません。やれるところからやっていく、という以外にはありません。とはいえ、どこに手を付けていくか、メスを入れるかは決めなければなりません。

 

私は、まず利益感度分析だと直感しました。当社の現状での利益感度を社員全員が知れば、自ずと方向が見えてきて全社一丸となることが可能だと。その為にはMGを繰り返してやるのが一番だと。

 

利益感度のテキストも作成しました。まずは自社の状況を知り、どこが重要ポイントかということを肌感覚で知ってほしいと。だからこそMGをやるのだ、朝礼の中で毎回表現を変えて説明しました。

 

56人での1卓ワンデーMG、半日MG7月は繰り返し行い、8月には社外からゲストを招いて全員でワンデー研修を行いました。ゲストの方からは、それなりに刺激は受けたようでした。

中小企業家同友会に入会しました

■連載『MG&脳開企業革命』(34)

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さて、年度末(6月)が近づいてようやく忙しさも一段落、マイツール教室も希望者のみを対象でしたが2回目を行って、少しキーボードに触ってみようかという社員も現れてきました。

 

私は、やっぱり若い人が触ってくれるだろうなと考えていたのですが、実際には60歳に近い取締役2人が手を出してくれていました。もちろん最初は試行錯誤、操作エラー音が四六時中鳴っている状態でした。

 

それでも、互いにマニュアルを見ながらやっているようでしたので、私も聞かれること以外は口を出しませんでした。その内に他のメンバーも加わってきました。そうなると、マイツールの台数を早めに増やしたいと思うようになります。

 

MGもワンデー研修を是非期中にということで、土曜日休みに開催しました。社員はもちろん全員参加です。親会社に行った際に、ゲーム盤を3台しばらく借りる旨をお願いしてきて、既に届いていました。

 

殆どの社員が、1年ぶりのMGでしかも2回目ということで、2期の決算が終わったのが5時前、3期の決算は8時過ぎまでかかりました。辛うじてMQ会計の解説だけを入れることが出来ましたが。

 

おそらくこの時点では、「MGは好きだ」という社員はいなかったことでしょう。それどころか、「もうやりたくない」オーラが出ている感じもありました。

 

さて、そんな中で中小企業同友会(以下同友会)とのつながりができました。

 

長岡に突然に出向して来ましたので、妻の親族以外にはほとんど知っている人がいません。仕事のつながりも、自社の仕事の関係以外にはありません。

 

幸いに、それまでのMGで知り合った方がお一人おられました。それが当時()点塾の社長をやられていた清水信博さんでした。現在のソフトパワー研究所の前社長です。
 

 

Photo

清水さんの紹介で同友会の例会に参加、その場で入会を決めました。当時はまだ長岡市内の会員は少なく、毎週の例会場は新潟市内でしたので、毎週車で往復しました。

 

例会は夜でしたので、例会後には毎回親睦会もありました。車でしたのでお酒は呑めません、そこで34回に一度は新幹線で往復しました。美味しいお酒に酔ってしまい、長岡駅で乗り過ごしてしまったことも。

 

同友会では、地元の企業の方との交流を深めることができました。何よりもそれまでは自社の業界、あるいはその関連くらいの会社しか知らなかったので、ありがたいことでした。

 

結局同友会とは2006年に社長を退任する時まで、16年間お世話になりました(会社としては今も会員のはずです)。その間、長岡地区会(現支部)立ち上げを行い、初代地区長もやらせていただきました。

 

また、全県の副代表理事を都合4年間務め、その間には青年経営者全国交流会(青全交)もあり、全体集会の司会もやりました。お世話になった方の中には既に鬼籍に入られた方もおられます、ご冥福を祈ります。

 

そんな中で、いよいよ中期5カ年(会社再建)計画の最初の年度を迎えることになります。

中期5カ年計画が認められた

■連載『MG&脳開企業革命』(33)

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年度末(6月)が迫っていました。今期の最終PL見込みは損益分岐スレスレ状態、やや赤字に振れそうでした。肝心の粗利益率はまだ改善の兆しが見えていません。

 

BSも不良資産の大きさに唖然としている状態で、なんとかしたいと思っていても利益が出せない状態では、ハッキリとした見通しが立てられない。大きな山崩しの現場をただ見つめているだけの状況。Photo_2

 

繁忙期が新学期商戦、そして夏物商戦と続いてきていたので、MGをやりたくてもまだやれない情勢。マイツール(MT)も3台設置してイントロ教室はやったものの、一向に使う兆しが見えない。

 

いわば八方塞がりの状況でしたが、立ち止まっているわけにはいきません。まずは今期の終わりを見据えながら、次期の計画を練っていかねばなりません。何よりも、その前に将来戦略を固めねば。

 

まずは深呼吸、現状は分かりすぎるくらい明らかでした。言ってみれば、これがどん底というんだなと思いました。ただ朗報もあります。あれだけ痛みのあった十二指腸潰瘍は、ウソのように治っていました。

 

現金なものですね、月末の支払・決済キャッシュが間に合った途端に、痛みが消えてしまったのですから。つまりはストレスによる病だったのでしょう、不思議なものです。

 

体調が回復すれば、頭の冴えも元に戻ってきます。数日で中期戦略を仕上げることができました。本当は長期戦略、さらにその上位である経営理念を創らなければなりませんが、それには時間が足りません。

 

中期経営計画(5カ年)、そして年度(第27期)経営計画・資金繰り計画を案としてまとめました。年度計画は営業担当者からそれぞれ出してもらい、MTの力を借りて修正を加えながら一気に集計しました。

 

それをベースに中期計画を微修正し、まとめた案を抱えて親会社に出張しました。正直に言えば、実現ができるかどうかは自信が持てない案でした。それでも、夜行列車に揺られる中で「できる」と自分に言い聞かせました。

 

と言うより、やらなければいけないということが第一でした。やろうと決めている手法には確信には至らないまでも、やれば必ず効果が上がることは自信がありました。ただその為には、まずMGをやることが必要条件です。

 

中期5カ年の初年度から1千万前後の経常利益を出すことを、計画していました。累積赤字を抱えていますからあと2年は法人税免除です、その間に不良資産もできるだけ処理する。

 

絵に描いた餅に終わらないよう、戦術もかなり具体的にラインナップしていました。だがしかし、まずは親会社の社長から計画にOKをもらうことが先決です。社長がOKでも、担当常務はどうか?

 

案の定、常務からは何点かの疑問点が指摘されました。粗利益の改善がこれほど一気にできるのか、あるいは経費の計画が「赤字会社なのに上げていく」とはどういうことか、しかも上げ幅が大きい。

 

もちろん、私は反論しました。心の中では、「あなた方は当社がこういう瀕死状態だということにすら、気付いていなかったではないか」と思っていましたから、思い切ったことが言えました。

 

結局、社長の「まぁ、これでやらせてみてどうか」のひと言で決まりました。その分、『経営責任』とやらがズシンとのしかかってきたわけですが。

不良資産がキャッシュフローを詰まらせていた

■連載『MG&脳開企業革命』(32)

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キャッシュの苦労はその後も繰り返し続きましたが、その月末のようにあわや崖っぷちという事態こそありませんでしたが、かなり厳しいスレスレ状態は繰り返されました。

 

しばらく経って経常収支上はしっかり利益の出せる状態になっていくのですが、それでもキャッシュについてはなかなか状況が改善されませんでした。なぜそうなるのか、その原因がおぼろげに分かってきました。

 

まずはその問題点を書くことにしますが、これについては大きな赤字を出した数年前に遡る要因が大きかったのです。そんな時のことなど私には関係ない、と逃げるわけにいかないが経営者の辛いところです。

 

私たちは、会社の(経営の)数字というと、まずは損益計算書(PL)に目を向けます。何しろ分かりやすいからです、財務諸表あるいは試算表が余り理解できなかった私ですら、PLは分かりました。

 

分かりましたといっても、利益と名の付く項目に「▲」がついていないから赤字ではないのだな、と思う程度です。間違いではありませんが、底の浅い理解であったことは確かです。

 

MGの期数を重ねても、経営感覚が普通程度ならそこで留まってしまうでしょう。幸いなことに、200期を超えてさらに期数を重ねていきますと、なぜか期末貸借対照表(BS)が気になり始めます。

 

何も確信があったわけではありませんが、どうも当社の問題点は、PLはもちろんではあるけれど、もしかしたらBSの方にも大きな課題があるのではないか、そういう直感が沸き起こりました。

 

そこで税理士のTさんにそれとなく尋ねてみたのです、問題点を指摘してくれませんかと。そうしましたら、我が意を得たりと言わんばかりに、T先生はいくつかの問題点を列挙してくれました。Photo

 

集約してひと言で言えば『不良資産』、大きく分けて不良売掛金、不良在庫、そして不良貸付金の3つが当社の財務の足を引っ張っているのだと、率直に教えていただきました。

 

そんなこと、親会社で販社から送られてくる決算書や試算表を眺めている時は、全く想像もしませんでした。しかし、当社の重い病巣がそこにあるのだということをハッキリと自覚しました。

 

これが足を引っ張っている内は、会社は良くならいのだとT先生は指摘されました。流動資産、すなわちその中で「1年以内にキャッシュになる」はずの中に、そうはならない膿が溜まり溜まっているのだと。

 

総額ざっと5千万円。この数字は正確ではありませんが、私の経営セミナーの中では、この5千万円という数字で解説していますので、ここでもその数字で押し通させていただきます。

 

とてつもない数字です。当時の総資産(総資本)がざっと47千万円でしたから、10数%に当たります。そんな不良資産があったら、つまり会社は瀕死状態といってもあながち間違いではなかったわけです。

 

再建という二文字がどっかと私の方に押し掛かってきました。何とかしなければならない、下降傾向のPL業績を上向きにしていかねばならない、と同時にBSも改善していかねばならない。

 

重い役割を感じました。同時に果たしてできるのだろうかとも思いました。しかしやらなければなりません。出向当初の役割がそうでなかったのだとしても、こうなったらやるしかないのです。

小切手はすぐにキャッシュにならない

■連載『MG&脳開企業革命』(31)

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1990年の月末、2627日が土日でしたので、営業社員たちは28日からの4日間を集金日として行動予定に入れていました。お客様にも支払予定日がありますから、早く伺っても無駄骨のことがあります。

 

それでも逸る私は、20日締め日後のミーティングで24日頃からの早めの集金を指示しました。どうせ、支払う予定のものだから、お客様に事前にお願いすれば大丈夫だろうとも思っていました。

 

要するに、現場のことを余り知らなかった私は、非常に困難な指示を出していたことになります。それでも、専務の言うことですから表向きには文句も言わないで聞いていましたが、内心はそれは無理だよと感じていたはずです。

 

それでも、24日から26日の間でいくらかの集金が集まりました。最初からの予定よりは若干多かったようですが、現金あり、小切手あり、手形ありと内容も様々です。

 

ところが、そこで私の現場知らずというより無知が露呈されました。それは小切手についてでした。大学時代法学部だった私は、手形小切手法という課目を受講していましたが、それが全く役に立たないものでした。

 

無知な私は、小切手はどこの銀行の窓口に持っていっても、即座に現金に代わると思っていました。現金と同等のものだという学問的知識が、現場では役立たないのです。

 

確かに、その小切手をそのまま支払に回すことは可能ですので、それをやれば「現金と同等」ということも是だったかも知れません。また、「銀行渡り」あるいは「線引き」と称する小切手も中にありました。Photo_2

 

いずれにしても、自分の取引銀行の取引支店以外の振出小切手は、銀行取り立てに出さなければいけない、しかもそれが「現金化」(つかえるようになる)には数日かかるのだと。

 

ならば、小切手は振り出しの銀行・支店の窓口で現金化して持ち帰るように、改めて指示をしました。ところが前述の「銀行渡り(線引き)小切手」は、それができないことも初めて知りました。

 

以上のような知識は、日曜日に本屋に走って見つけた手形・小切手の「実際知識」なる本で読んで、初めて「そうなんだ」と分かりました。本が見つかっただけ幸いだったわけですが、危機はまだ去っていません。

 

月曜日(28日)と火曜日(29日)の集金では、高額の小切手が何枚かありました。銀行渡りでないものは、担当営業マンに現金化を指示しましたが、問題は銀行渡り小切手です。取り立てに出しては間に合いません。

 

窓口で現金化する方法、本を読みかじりましたら出ていました。振出人、つまりお得意先の社長にお願いして、浦に代表印(銀行印)を押していただき、その上でその銀行・支店の窓口に持参する。

 

担当者に頼みましたら、色んな理由をつけて断られました。もうそちらの地域には行かないからとか、他の納品があるからとか、要するに「イヤだ」ということだったのです。なぜイヤなのか、その理由も後で分かりました。

 

仕方がないので、私自身が得意先に出向いて頭を下げ印をいただき、窓口に走って現金化してきました。それが最終の31日ギリギリでした。銀行には16時まで待ってくれとお願いしました。

 

辛うじて間に合いました。結果的には、小口現金と当座残高を足して150万円くらいは月末に残りましたが、危ういところでした。こんなキャッシュの苦労は二度としたくない、と強く意識しました。

十二指腸潰瘍なんだとさ

■連載『MG&脳開企業革命』(30)

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まずは少しお断りです。この連載コラムですが、できるだけ具体的に書いていきたいのですが、それでも何もかも表に出すというわけにはいきません。人や会社・店の固有名詞はもちろん、数字についてもです。

 

出せる範囲では出して参りますが、いくら30年近く経っているとしても公開されているデータ以外は、お許しをいただきたいと思っています。私自身に関わることなど、できるだけ出せる範囲でということでご了承下さい。

 

さて、マイツール(MT)の導入でもたついているところに、長く当社の経理をやってくれているベテランの女性係長から、衝撃的な情報が伝えられました。

 

このままいくと、今月(19905月)末の支払い・決済にお金が足りないように思われるとのこと。そこで一緒に資料を見ながら電卓(私はMT)を入れてみたのですが、確かに足りそうにありません。それも2000万円ちょっと。

 

何度やり直しても、予測結果が変わろうはずがありません。そこでやれることは何かを考えます。借入の枠は残っていないのか、まずはメインバンク他数行に当たってみましたが、いい反応はありませんでした。

 

メインバンク(当時は新潟中央銀行)の融資担当者は、「今以上には無理ですね」と申し訳なさそうな返事。他の銀行は、どちらかといえばけんもほろろでした。「雨降りには傘を貸さない」ことが、身に染みて分かりました。

 

最後の砦は、加盟している卸組合の転貸融資ですが、万が一のために残しているなけなしの枠を使うことにしましたが、これは500万しかありません。次に取り立てに出している受取手形の組み戻し。

 

金額の大きな2社の手形を戻していただき、さらにそれを割引に回します。二重に手数料を取られ、もちろん割引料という利息もかかりますがやむを得ません。これで1000万ほどを調達し、残りは約500万円。

 

ここから先は売掛金回収、つまり集金に頼るしか手立てはありません。しかし、500万円以上集金を増やせというのは、5月の「回収月」とはいえなかなか大変です。でも、それしかありません。

 

ただ悲しいかな、私は大きなミスをしていました。それは現場の仕事をまだよく知っていなかったからでしょう。つまり集金といっても、「現金回収」が第一ですし、もし小切手なら取り立ての日数余裕が必要なのです。Photo

 

その指示が抜け落ちていました。どれほど集金してきても受取手形では論外、ギリギリに小切手をもらってきても、現金化できないケースが出てきます。

 

そうなったら自分でも腹をくくるしかありません。禁じ手ではありますが、自分の定期預金などを解約してでも支払いに充てる、そう決心しました。カミさんに冗談混じりで「覚悟しておいて」と告げました。

 

20日の締め日に請求書が発送された頃から、腹の痛みが激しくなってきました。どうにも我慢ができず紹介された医者に行きましたら、十二指腸潰瘍だと診断、すぐに入院した方が良いと。

 

冗談じゃない、「今入院したら会社が潰れます」と訳の分からぬことを言って、薬を処方してもらいました。それでもキリキリと痛むばかり、しかし弱音は吐けません、日々の集金データを見ながら一喜一憂です。

 

月末に向けてのカウントダウンが始まりました。

せっかく貼った資料を剥がされた

■連載『MG&脳開企業革命』(29)

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4月の下旬、連休前に親会社(の社長と担当常務)に赴任からの状況報告、そしてMTをリースするための社長個人保証印の了解を得るために岡山に戻りました。

 

この頃にはもちろん家族も新潟(長岡)での新生活を始めており、小学校6年生になった娘は市内で最も古い、伝統のある小学校(明治初期の国漢学校の後身)に通い出していました。Photo_2

 

妻は新潟の出身でしたが、長岡には余り縁がなく戸惑いもあったようです。後から知るのですが、新潟と長岡では少し方言も違います。もとより長岡藩と、幕府天領(開港地)という違いがあります。

 

娘も出生地は確かに新潟県ですが、岡山で育っていましたので言葉の壁にまずは突き当たったようでした。それでもさすがに子供は順応性が高く、早くも友達ができたようでした。

 

さて、親会社への出張では、首尾良くMT1台(ラップトップタイプのLX)借りて帰りました。GW直前には、リースで導入したMTのセッティングも完了しました。私のMTを含めて3台、これで体制がひとまず整いました。

 

まずは基本的な使い方と基本コマンドをまとめた資料を作成し、GW明けに社員を2グループに分けて、就業時間後にMT教室を開講しました。これで使い始めてくれるだろう、いやいやとんでもないことでした。

 

誰も使おうとはしません。根気よく待つことにしました、必ず使ってくれるだろう、一度使えば便利さが分かるはずだと。甘かったですね。朝は私が電源を入れ、使える状態にしておくのですが、一向に誰も使いません。

 

これには参りましたね、使わなければ机の一角を占拠するただの箱なんですから。そんな状態がしばらく続きました。その間に、大変なことが持ち上がったので、MTの話はいったんここまでにしておきます。

 

いずれにしても私はMTで次々に色んな資料を作成しました。会社の現状が大変な状況であることを知ってほしいので、移動平均のグラフはもちろん、こうすればいいという資料も作成しました。

 

特に利益感度分析のデータ・資料は役立つだろうと思い、いくつかのシミュレーションをまとめて作成し、これを全員が目を通してくれそうな場所に掲示することにしました。

 

必ず目に入るところ、思いついたのはトイレ(特に男子トイレ)でした。ここならイヤでも目に入るはずと、わざわざマーカーで色を付けて貼り出しました。ところが、次にトイレに入ると剥がされていました。

 

誰が剥がしたんだ!と頭にきて事務所に戻りますと、剥がされた資料がデスクの上にあり、営業担当部長が「私が剥がしました」と言います。どうして?と当然聞きますね。

 

その返事は、「あのトイレは来店されるお客様も使われますので」でした。これには私の方が赤面です。現場のことをちっとも知らないことを、自ら白状したようなものでした。

 

現場をもっと知らなければならない、事務所にいてキーボードを叩いているばかりではダメだ。外に出てお客様のところに足を運ぶ、会社内にいれば倉庫や出荷場にも足を向けて実際状況を肌で知ることだ。

 

そんな時です、経理の担当女性から思わぬ報告を聞かされたのは。

リースが組めない、どうしよう

■連載『MG&脳開企業革命』(28)

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さて、MGをすぐにでも会社の中でやりたかったのですが、まだ繁忙期(新学期商戦の次は夏の衣替え商戦)が続いていましたので、それが一段落するまではお預けです。

 

気は逸りましたが、焦ってみてもしょうがないと自分をセーブしました。とにもかくにも、完全な納品を達成することが先決です。現場はそれに向けて、大忙しの日々が続いていました。

 

となれば、すぐにできることはマイツールです。出社してみて真っ先に気が付いたのは、この会社が「手書きと電卓」の会社だということでした。親会社払い下げのオフコンが1台ありました。

 

このオフコンが仕入・販売の要になっていて、伝票や帳票類の全てはここから吐き出されていました。年代物ではありましたが、まだまだ十二分に稼働しておりました。

 

Photo

その他にと見渡すと、古いワープロ機がありました。こちらはさらにかなりの年代物で縦型、メーカーがどこであったかは忘れてしまいましたが、仕事の速さはかなりゆっくりでした。(写真はイメージです)

 

それ以外には何も無い、ですから会議用の資料や計画表などはすべて集計用紙に手書き、縦横計は電卓で計算するという状況でした。一見して大変な作業と思えました、とくに全員分の集計作業などは。

 

前任の方はその辺りが非常にこまめで、細かい字で行間に注釈を入れられたりしておられましたが、私はとてもそれはできないなと感じました。そこでマイツール(以下MTと書きます)の登場です。

 

各担当者には当面、今まで通り手書きで資料を作ってもらうとして、その数字の部分(予算と実績、月次修正計画)だけは私が改めてMTに打ち込み、縦横集計と串刺し集計をやることにしました。

 

少なくとも、これで計算ミスは皆無になりました。とくに串刺し集計については、アッという間にできるので重宝したものです。しかし、西先生に言われた「(MT1台だけでは動かない」という言葉が、耳に響きました。

 

実は会社に持ってきた1台は、私が個人で購入(リース)したMTで、他にいささか内緒でプリンター(大型のドットプリンター)だけは、お借りして持ってきました。これしはオートシートフィーダーも付属していました。

 

あくまで内緒で、前職の部下である副課長だけには断りを入れていましたが、いずれ見つかって返還を余儀なくされるだろうとは思っていました。当面のつなぎ役です。

 

ではもう1台はどうするか、さらに営業と仕入に1台ずつはほしいところでした。しかしここで、難問が降りかかりました。リースでの調達を意図したのですが、リース会社がウンと言ってくれないのです。

 

つまり赤字会社であるという理由、すでに車やオフコンのリース残高がかなりあるので、これ以上はということでした。何しろ今では10万円ちょっとのマシンも、当時は50万円前後しましたから。

 

リースが組めなければMTの追加導入が困難になる、リース会社の担当者に頼み込んで策を授かりました。親会社の社長から個人保証をもらえればと言う条件で、1台分のリースが可能になると。

 

もちろん早速頼みました。さらに秘策を考えました。親会社に報告等で出かける時に、もう1台かつての職場のMT1台、半年から1年という期限付きで借りて帰ろうということです。

MGをやらなくてはいけないな

■連載『MG&脳開企業革命』(27)

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当社(私が出向・赴任した販社)の設立は1965年、かつて長岡市にあった問屋が経営に行き詰まり、そこで働いていた5名(だったと思います)の方が独立し、取引のあった親会社に支援を求めて会社を作ったのです。

 

地盤はその問屋から引き継いだようですが、やむにやまれず立ち上げた会社でした。当初は街中のしもた屋を間借りする形、のちにもう少し大きめの木造借家(長岡市本町)に移って、徐々にですが業容を整えていきました。

 

少しずつメンバーも増え、私が親会社の販促担当者として初めて訪問したのは1980年頃、雪の降り積もった季節でした。大雪が屋根に積もり、ミシミシと音のする古ぼけた社屋でした。Photo_2

 

それから数年、1983年に郊外にできた団地・新産業センターに新社屋を建てて移転、ようやく自社の建物での営業活動が始まりました。資本金も2400万円に増資、売上も4億円を超えました。

 

私が赴任した前年1989年の売上高は5億円を超え、長岡市内でも新潟県内でも専門問屋として、一目置かれる存在になりつつありました。社員数も13名と全国販社の中でも中堅クラスでした。

 

そういう表面的な数字だけを見ていた私にとって、厳しい実情を示す移動平均分析(MAV)データは、大いにショックでした。「話が違うじゃないか」というのが、正直な気持ちでした。

 

データを幹部社員に示しても、そうなんですかとうなずくだけ、厳しい状況だとは直感的に感じていたかも知れませんが、売上も伸びているのだから大丈夫でしょうとでも言いたげでした。

 

確かにその年(1990年)の売上高は、伸び率こそ鈍化したものの前年比1千万円くらいは増える見込みでした。だから良いじゃないか、そう言いたげな表情が見て取れました。

 

しかし、粗利益率は前年よりも3%前後ダウンしており、結果として利益が大きく減少することが見えていました。それを言ってみるのですが、明確に理解しているとは思えない表情でした。

 

これはぜひとも、全員でMGをやらなくてはいけないなと決意を固めました。「売上高は役に立たない」、そのことをしっかりと分かってもらわねばならない。その上で、何をやらねばならないかを自分たちで考えられるように。

 

遙か遠い道のりだという気がしました、重苦しい気持ちになりましたが、そこはぐっと我慢をして「繁忙期が終わったら、MG研修をやって、当社の数字を皆さんに理解してもらうことにします」と宣言しました。

 

その時はまだそれで十分間に合うという感覚でした。夏服シーズンの終わる5月末以降には、学びに時間もかけられるだろうと。

 

だが、もっと待ったなしの現実が私を待ち構えていました。それはGWを過ぎて数日後でしたが、とりあえずそのことは少し先に譲り、マイツールの社内導入についてまず書いていこうと思います。

 

当社の企業革命の順序としては、実はマイツール(MT)が一番で、2番目がMG、そして3番目が脳力開発の学びと実践でした。

移動平均グラフに青ざめた

■連載『MG&脳開企業革命』(26)

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会社(当社と表現します)は学校制服を中心としたユニフォーム卸業でしたので、季節変動がとても大きな会社です。年間売上の40%近くが23月に集中します。一方8月などは3月の120程度という商売です。

 

月次の数字を眺めるだけでは、一体当社は伸びているのかどうかということが分かりにくいのです。そこでMGとペアで学んでいたマイツール(MT)が役に立ちます。天野先生(故人)から教わったMAV、移動平均分析。

 

さっそく、PQ(売上)とMQ(粗利益)、そしてm率(粗利益率)などいくつかのデータを5年分集めて入力し、それを12ヶ月移動平均(Aデータ)、24ヶ月移動平均(Bデータ)を計算してグラフ化。

 

とたんに、顔色が青ざめるのが分かりました。売上の移動平均データは、それほど問題ではなかったのですが、粗利益のそれは余りにも非常な結果でした。天野先生の声が頭の中に響きました。Mmav

 

Bデータの折れ線をAデータが上向きに追い越していくポイントを、ゴールデンクロスと呼んでいますが、それとは逆に下向きに追い越していくポイントを「デッドクロス」と呼ぶのだそうです。

 

そして、デッドクロス・ポイントから同じ傾向が3ヶ月続くと黄信号が点る、6ヶ月続くと赤信号だと。そして何と当社のそれは7ヶ月目に入っていました。しかもAデータの下降傾向が強い。

 

原因は一体何だろうか、それは次にグラフ化したデータでハッキリと見えてきました。つまり粗利益率が徐々に、しかもずっと落ち続けているという事実。これでは売上が上がっても、利益は上がらないはずです。

 

数年前の赤字決算以降、親会社からの支援を受けていましたので粗利益率は上がっていないとおかしいのです。にもかかわらず、低落傾向が続いている。支援が終了すれば、さらに落ちることは明白でした。

 

何としても歯止めをかけなければならない。しかし、営業マンたちは数字が落ちていることを認識していても、手をこまぬいている。もしかしたらどういう手を打てばいいのか、分からないのではないだろうか。

 

何よりも、危機感がそれほどには感じられない。悲壮感を持てとはいわないけれど、かなり厳しい状態にあることをもっと感じてもらわないと行けない。幹部社員にそのデータを示しましたが、反応はイマイチでした。

 

最繁忙期が終わって、みんな疲れ切っているようでもありました。目先の納品に全力を尽くしたので、ちょっと休ませてくれという感じだったのでしょう。気持ちは分かりますが、ことは急を要します、待ったなしです。

 

そこで、より分かりやすい資料・データを作ってくり返し状況を伝えました。彼らだって分かっているはずです、給料は余り上がらないし、賞与も大して金額をもらえてはいない。もらえるだけマシでいいのか?

 

バックに親会社があるという寄りかかる気持ち、安心感がそうさせるのでしょうが、独立の販社としていつまでも甘えているわけにはいきません。親会社からは、支援の縮小(ほぼゼロ化)が暗に伝えられていました。

 

決算月は6月ですが、残り2ヶ月余りの中で最終予測をしてみると(これも移動平均データを使った移動年計で予測)、再び赤字転落の可能性があるという厳しい状態でした。

 

やるしかない、私の中で「再建」という言葉が明確に見えてきました。