『私とMGと経営』こぼれ話(12)

社内メンバーだけの2回目のMGで、インストの藤原さんから何冊かの本を紹介していただきました。


MGの開発者である西順一郎さんの著書、1月にお目にかかる前に何冊か読んでおこうと決めました。

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その本の中で、MGを活用している会社として「HIDE4社」が紹介されていて、


またその内の2社(博進堂とエリナ)が新潟にあり、その地には佐々木隆という素晴らしい人がいることを知りました。


どうも新潟は『MGの聖地』のようだなとその時に感じ、是非訪ねていってみたいと思ったものでした。


まさかその時には、やがて自分がその新潟に住むようになるなどとは、もちろん想像もしていませんでした。


まずは佐々木隆さんに会ってみたい、姫路MGの次には新潟で開催されるMGに行ってみたい。


そういうことで藤原さんから情報を得て、佐々木さんに連絡をとってみることにしました。


もっとも、ちょうど仕事や出張が立て込んできた時期でもありましたので、


実際にお電話ができたのは12月に入ってから、運良く佐々木さんは在社されていてお話しすることができました。


その時には、事務的に翌年(1988年)度のMG開催予定を尋ねたに過ぎませんでした。


会社の繁忙期が終わる5月の後半以降に参加する旨をお話しして受話器を置きました。


これが佐々木隆さんとの、最初で最後の接触機会となってしまいました。


今から振り返れば、もっともっとMGについてとか色んなことを話しておけば良かった。


たったの1~2分で電話を切ってしまったのを、今でも本当に残念に思います、出会うことも叶いませんでしたし。


その電話から10日余後に佐々木さんは急逝されてしまったのです、弱冠39歳でした。


12月21日、奇しくも城野宏さんと同じ(城野さんはその2年前の1985年)命日です。


その話を、私は年を開けて姫路のMGに参加した際に、西先生からお聴きすることになるのです。


結局その年はMGを2回、10期やっただけで終わりました、まだまだ黎明にもほど遠い時期でした。

『私とMGと経営』こぼれ話(11)

初MGが終わった翌月、会社の研修派遣メンバーの最終グループが完了したあと、社内研修実施が告げられました。


インストラクターは、同じく兵庫MG会の藤原さんでした。


研修派遣メンバー中心、今度はみんな顔なじみでしたので気は楽でした。


東京や福岡といった支店のメンバーや工場幹部も、毎月のように顔を合わせていたので和気藹々ムードです。


それでも営業部長や経理部長も参加されるということで、会社もかなり本気なんだなと感じたものでした。


会社のある岡山市の郊外にある研修施設、一部の幹部を除いて全員が宿泊という合宿研修でした。

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もちろんほぼ全員が2回目のMG、今回初参加も数名いましたので、全員初心者といってもよい研修でした。


社長も初日の朝には顔を出され、この研修の意義を語られました。


そして2日目のまとめの講義が終わったあとに、MG導入を提起されたY専務から話がありました。


曰く、社内研修の一環としてMGを継続実施していくこと、


また幹部社員だけではなく、総合職の一般社員も部署や男女にかかわらず体験してもらう。


ついては社内インストラクターを3名養成することにするので、自薦他薦で誰かやってくれないかと。


手を挙げたのは生産管理の課長だけでしたが、人事の係長も役割として他薦で選ばれました。


あと一人ということで専務から直接指名されたのは、何と私でした。これも経営管理室長という役割のせいだったでしょう。


こうして3名が選ばれ、翌年(1988年)春以降のMGインストラクターコース(MGシニア)を目指すことになりました。


シニアに参加する前にあと数回MGを体験すること、社外の研修に参加するように告げられました。


藤原さんからは、早めに開発者である西先生が来られるMGに参加した方が良いともいわれました。


その日程をお尋ねして、年明け1月の姫路開催MGなら行けそうだと分かり、すぐに専務に申告して了解を得ました。


ゲーム成績は再び落ち込んだ社内MGでしたが、目標の決算トップは獲得、所要時間も短縮できました。


同時にインストラクターへの道がひらかれ、それが後半人生に大きくつながることになるのです。


ちなみにこの時、私はあと少しで36歳の誕生日を迎えることになる頃でした。

『私とMGと経営』こぼれ話(10)

初MGもゲームが終了し、まとめの「戦略会計」講義が始まりました。


その冒頭で成績発表・ことがら表彰があるのは、今も昔も変わりません。


ゲームの成績(最終自己資本)は自分には関係ないことと傍観していましたが、その中に自分の名前がありました。


あれ、なんであるのかなと目を凝らしてみると、「決算順位」が記載されているのです。


しかも2番目に書かれています、なるほどここは最終の5期の順位なんだと理解しました。


初めてのMGで2番目というのはすごいですね、とインストの藤原さんから言われて「そんなものなんだ」と思いましたが。


成績順に表彰状が渡されたその後に、(私にとっての)ハプニングがありました。

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それは特別表彰ですと言って私の名前が読み上げられたのです。


新人決算特別賞、へぇそんなことで表彰状がもらえるのかと思って、すこし照れてしまいました。


結果的に言えば、この特別表彰状が私がその後長く、今に至るまでMGを続けるきっかけになったようです。


もしこれがなかったとしたら、続けていこうという気持ちは大して湧かなかったのではないかと感じています。


ゲームの成績で(本当の)表彰状をいただくのは、それからかなり先のことになるのですが。


その時に、目標にすることは単に成績(自己資本)やPQ(売上)だけではないという、気付きをさせてもらったこと、


そのことが強い刺激になったことは間違いありません。


実際に、次の目標は決算順位でトップになることになりましたし、


決算時感を1分でも短縮していくことになりました、まずは20分を達成することから。


いずれにしても、「機会があれば続けよう」という気持ちにはなったようです。


自分から進んでやっていくという前向きな気持ちになるのは、もう少し後のことになるのですが、次回はそのあたりから。


帰りの新幹線の中では、岡山までぐっすりと居眠りできたようでした。

『私とMGと経営』こぼれ話(9)

初MGの最終第5期、4期は上位卓でもまれてしまい埋没しましたので、下から2番目くらいの卓でした。


もちろん次繰り(青チップ)はなく、機械は小型のまま、セールスマン2人が唯一の財産でした。


在庫も合わせて5個程度、売り物も1個だけ、キャッシュも特別融資の長期借入を含めても、緑3枚と保険加入をして辛うじとていう感じ。
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幸いに(?)周りもほぼ同じような状況でしたし、再びジュニアルールで市場にもそこそこの材料。


前期4期とは違ってゆったりとしたゲーム時間の流れ、もっともP(入札単価)は低空飛行、


ただただラッキーカードに期待ということで、辛うじて売れた分のキャッシュを青チップ1枚だけの投資に。


そんな状況の最終期でしたが、何とか単年度の赤字も比較的小さく抑えられて、自己資本は100をすこし切った数字(91)で終わりました。


最後は会社盤の上のものをほとんど売り切ってしまい、仕掛品が2個残っているだけという状況でした。


最初からゲーム成績の方は捨ててかかっていましたから、決算「勝負」に全身全霊です。


おそらく周りのことなど、全く眼中になかったことでしょう、一心不乱に電卓と鉛筆に集中。


これまた幸いに、在庫もピタッと合い(20個足らずの販売でしたから)、現金勘定もバッチリ。


同卓の誰かが在庫が合いませんといっているのを尻目に、第5表に取りかかります。


こちらも焦ることもなく、最後に縦横も合いましたのであとはSTRAC表(MQ会計表)作成。


ところがトップの方はもう早くも提出、「焦るなよ」と自分に言い聞かせて最後の仕上げ。


名前や丸付けもチェックして提出、2番目でした。決算所要時間は確か25分くらいでした。


そして間違いもなくOKが出て、決算順位を見ると、トップだったベテランさんに次いで2番目でした。


よしやったぞとは思いましたが、その時にはこのMGを今後も続けていこうという気には全くなっていませんでした。


ゲーム成績がイマイチだった悔しさはありましたが、だからといって次回はリベンジだなどという気持ちも全く起こっていませんでした。


二度とやりたくない、という気持ちはありませんでしたが、これが最初で最後かなという意思だったでしょう。


まぁこんなものかというくらいのことで、一緒に来ていた会社のメンバーもほぼ似たような成績。


その中では真ん中くらいの成績でしたし、決算はトップでしたから満足ではないにしろ、ホッとした感覚でした。

『私とMGと経営』こぼれ話(8)

初MGの2日目が始まりました。


かなり遅くまで(午前様まで)起きていましたので、起き上がっても頭はいささかボーッとしていました。


同室のSさんから「何か一つ目標を設定してやるといいですよ」と、前夜アドバイスをいただいていました。


ゲームではどうも勝てそうには思えませんでしたので、決算順位で上位に入ることにしようと考えてきました。


前日の第3期で10位以内に入れましたので、少なくも10位以内、可能なら5位以内を目指そうと決めました。


第4期は前日の第3期にラッキーカードのおかげでそこそこにPQ(売上高)があがり、すこし上位卓に移動でした。


しかもシニアルールが適用されるとのこと、それって何ですか? 説明も飲み込めないままゲームがスタート。


販売力はセールスマン2人で4個売り可能でしたが、小型機械だけでは仕入も生産も追いついてきません。


青チップの次繰りは1枚もないし、さりとて特急40円はとても投資ができません。赤チップで売る知恵もありません。


ひたすらラッキーカードを待つのみですが、こういう時にはちっとも引きません、ついには東京市場に20円売りです。


それも前半はそれなりに売らせていただけるのですが、後半になると東京市場にお競合してくるのです。


何とか15個くらいは必死で売りましたが、当然にP(販売単価)は上がりませんから大赤字になりました。


こうなったら決算順位で「勝負する」しかありません、心を決めて一斉スタート。Photo_20200727203501


シニアルールでしたから人件費・経費を間違わないように気を付け、幸い在庫も合わせもピッタリ、差額もゼロで第5表に。


涙ぐましい努力で、日付と名前とはあらかじめ書いておいたのですが、前期BSはさすがにやりませんでした。


こうして業績数字は惨憺たるものでしたが、確か6、7番目くらいに提出することができました。


あとは間違いがないことを祈るのみ、私より前の人が2人「ハイ、ダメ~」でしたので、心臓はバクバクです。


バンドーさん!あ、ダメかなと思ったらすこし間をおいて「OKです」!!


何と何と決算順位欄には赤い文字で「3」、やったー! 大赤字に落ち込むこともなくふうっと息を吐き出しました。

『私とMGと経営』こぼれ話(7)

1208110 第2期のゲームが終わり決算がスタート、その頃は全員が決算も一斉スタートで所要時間を計っていました。


第1表資金繰り表は比較的早めに間違いもなく終わったのですが、第5表はそうはいきませんでした。


原価計算のところでつまずいて、というのも製造ミスが1個あったためでしたが、そこでつまずきました。


さらにその特別損失と前期損失分の計算ミスで縦横が合わず、ウロウロしてしまいました。


隣の方が「まず差額がいくらかを書いて」とアドバイスしてくれた時には、汗びっしょりでした。


くやしかったですね、それなりに自信があったはずなのですが、ゲームはダメで決算もさらにダメダメ。


3期目は始まる前にもう「採用する」と決めていて、始まってすぐにセールスマンを増員(1人ですが)。


それが功を奏したわけでもありませんが、「商品の独占販売」を2回も引いてPQは一気に上がりました。


もっとも2回目に引いた時には製品在庫がなくて商品を仕入れて販売、隣の人が教えてくれました。


当時のリスクカードは独占販売カードは、独占販売と広告販売のどちらか選択でしたので、もちろん前者を選びました。


青チップや赤チップはまだ買えず、機械も小型のままでしたが、それなりにPQは上がり翌日は少し上の卓へ。


決算は順調でした、特損がなかったこともありましたし、商品仕入のところは隣の人がアドバイスをくれました。


多分決算順位は、50数人中で10番以内に入ったかと思います。同じ会社の中ではトップでした。


何とか初日を終えましたが、どっと疲れが出て頭はズキズキ痛いし「まだ明日もあるのか」という気持ちが本音でした。


夕食後の明日4期の準備、夜の講義と経営計画の後にビールが出て交流会となりましたが、


正直その場から早く逃れてしまいたい気分でした。呑んだビールの美味くなかったこと。


宿泊は2人部屋で、すでにMGを50期か60期やられている食品会社の専務Sさんと一緒でした。


とにかくなかなか寝付けなくて、ベッドの中で寝返りばかりうっていたようです。


何しろ、目をつぶると青やら赤やら緑やらのチップが頭の中を駆け巡るのですから、寝られないですよね。


それに気が付かれたのか、Sサンが声をかけてくださり、しばらく缶ビールでお話しすることに。


ご自身がMGを始められた頃の体験や、色んなことを話してくださいました。気が付いたら暦も翌日へ。


強烈な印象のMG初日、おそらく多くのシーガルたちも同じような体験をされたことでしょう。


正直、「合宿」でなかったら2日目はなかったかも知れませんね、ホント。

『私とMGと経営』こぼれ話(6)

初MG(1987.0919)初日の午後、第2期の準備とルール説明が始まりました。


この時のルールは「MGⅠ」ルールでした。


現在のルールとの大きな違いは、緑チップが3枚(@10円)で、


材料倉庫にマーチャンダイザー、これで材料が1円安く買えます。


工場の緑はPAC生産性(現在はコンピュータ)で、1個多く作れる(完成投入できる)。


営業所の緑はマーケットリサーチで、入札で売れたら記帳する時に1円高く書ける。


これが完全に頭に入り間違いなくできるまでには、最低15期から25期くらいはかかりました。


青チップは今と同じですが、次繰りできるものはこの青だけ、ですから次繰り盤には「研究所」と記してあります。


赤チップは@10円、記入は確か営業経費(現在の本社経費)欄で、一度に複数枚買えますが期末には全部返却。


そしてセールマン1人に有効なのは2枚までという制限付き、この制限がなくなったのは比較的最近です。


教育チップはまだなくて、黄色のチップは保険でした。201808


ちなみに後日「教育」ができて黄チップが使われたため、一時期保険がなくなり「経費内蔵」になった期間もありました。


オレンジチップが数ヶ月後に追加されて、こちらが「オレンジ保険」となるわけです。


それから、完成投入はどちらも@1円ではなく、投入が@2円で完成が@1円でした。


採用には人数制限がなく、一度に何人でも採用できましたが、さすがにねぇ。


いずれにしても、ルール説明はただただ聞いているだけで、頭には全く入っていきませんでした。


「やってみれば分かりますから」という藤原インストの言葉、なんやそれ!?って感じ。


不親切やなぁ、もっと分かるように説明してくれよと思っていたのでしょう、きっとね。


そしていよいよ第2期のゲームがスタート、とにかく無我夢中の暗中模索。記帳するのにあたふた。


ですから何をどうやったかなんて憶えていません、気が付くと自分の順番が回ってきていましたから。


ルール表を手元に置いていましたが、見て確認する暇もなく終わりました。


当時は行数ではなく時間で「ハイ、終わり!」、第1表は30行でしたが、多分15、6行しか使えませんでした。


で、PQは124円でQが5個、つまり単価は25円でした。どうやって売ったのでしょう。

『私とMGと経営』こぼれ話(5)

兵庫MG会(主幹・後藤昌幸さん)の神戸MGの幕が開きました(1987年9月19日)。


第1期シミュレーションが始まりました、第1表資金繰り表を取りに行くところからもうウロウロです。


いくつか用紙が並んでいたので、初心者の中には第1表だけでなく他の用紙を取る人もあり、注意を受けていました。


私は隣にいた数回目受講という方の真似をしようと思っていましたので、とりあえず間違えずにできました。


とにかく番号順にやって下さいというのですが、どの番号なんだ?と目はウロウロ。


右の上ですよ、ありましたありました。ここからなんだと頷きながら鉛筆を走らせます。


この時の鉛筆は「やや濃いめがいい」と聞いていましたが<HB>でした、普段は<H>を使って仕事をしていましたので。


藤原(良明)さんのインストはやや初心者が多めなのでゆっくりでしたが、その時の私にはすごく速く感じました。


とにかく追いついていくのに必死です。隣の方はペースを合わせていましたが、対面の方はさっさと先に進まれていました。


頭が大混乱したまま、それでもナントカ第1表を埋め終わったと思ったら、休む間もなく次の表(2/3表)です。


それも四苦八苦して提出して一息入れる間もなく、休む間もなく第5表(マトリックス会計)です。


これは当然初めて目にする表でしたから、インストの進行に合わせていくだけで大汗をかきました。


ナントカ全部が埋まり最終の縦横合計(総資産・総資本)を出したら、悔しいことに合いません、呆然でした。


アレ、インストの言う通りにやったはずなのにと思っていたら、単なる記入ミスがありました、もう汗だけです。


最後の仕上げはSTRAC表(当時はBS表やCF表はありませんでした)、これはただ言われるままに数字を書き込むだけ。


それで提出してしばらくしたら、「バンドウサ~ン、ハイ、ダメ-!」と藤原さんの声。

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え、どこか違っていたっけと出て行ったら、ここにマルがありませんとひと言。どうでもいいじゃん、と思いましたっけ。


散々な第1期シミュレーションでしたが、これはホンの序章(写真の第1表は最近のモノで当時のモノとは異なります)。


そんなこととはつゆ知らず、お昼の弁当の味も程ほどに、短い休み時間の後すぐに午後が始まりました。


その昼休みは「どこの誰、なぜ来たか?」、えっ、何をしゃべれば良いんだ。


だって、「会社の命令」とか「業務命令」と言ってはいけない・・・って言われてもなぁ。


さて、どうスピーチしたのでしょうか。ムニャムニャと何とかごまかしたのでしょうね。


そこのところは、一向に記憶にございません。

『私とMGと経営』こぼれ話(4)

1987年9月19日、それが私の初MG(西研MG=MQ戦略ゲーム)体験日でした。


前回書きましたように、会社の幹部社員(部課長クラス)研修の一環として派遣メンバーに選ばれたのです。


毎回7、8人での研修派遣で、私のグループは3番目、確か私を含めて8人だったはずです。


当日の朝岡山から新幹線で新大阪まで行って、バックして(神戸)三ノ宮の手前の灘駅で降り歩いて会場に向かいました。


現在は建物がもうありませんが、神戸製鋼所の研修センターでした。そこで1泊2日の泊まり込み研修。


1番目と2番目に派遣されたメンバーから、かなり詳細の情報を入れていたメンバーは「大変らしいぞ」と話していました。


私は先入観などない方がいいとその話には加わらず、いつものように持っていっていた文庫本を読んでいました。


その日の参加は50人ちょっと、9卓だったように記憶しています。けっこう広めの会場でした。


後から知りましたが、初MGは私たち8人を含めて15、6人くらいいたようでしたから、ざっと1/3は初心者でした。


講師(インストラクター)は藤原(良明)さん、これも後で知るのですがかなりのスパルタ・筋骨型インストでした。


他にも亀井さん、木田さんというお二人のスタッフが初心者を中心にフォローされていました。


会場に入った雰囲気が、それまで受けた研修とはかなり違う空気だと感じました。20190825-mg11 (写真は昨年の米百俵MG)


あちらこちらで話の輪が咲いていて、みんなが仲間内みたいな感覚があり、私(たち)は異質の存在のようでした。


それでも話しかけられるままに名刺交換して尋ねて見ると、初めて顔を合わせる同士の方が多いと知りました。


だからこそ不思議な感じがしたわけですが、初めてMG会場に入った未体験者は今も同じ感覚を持つのでしょうね。


そしていよいよ始まりました、机の真ん中に「中華料理」を思わせる道具が置いており、まずはどこへ座ったらいいのか。


ホワイトボードに「席は自由」と大書してありましたが、会社の年上の課長が藤原さんのところに聞きに行きました。


そして戻ってきて「どこでも空いているところに座れだってさ」というので、私は端っこの方に向かいました。


そうしたら「初心者は前に」と藤原さんの声、自由だって言ってるんじゃないのかと心で文句を言いながら前の方に。


さっそく、西研MGの洗礼を受けたというわけでした。

『私とMGと経営』こぼれ話(3)

MG(西研MG=MQ戦略ゲーム)との出会いの話は、もう何度かこれまでの他のコラムにも書いてきました。


ここでは概略だけ書いて、これまでは余り触れることになかったことを「こぼれ話」として書くことにしましょう。


その前に「なぜMG研修に参加することになったのか」の話から。


その機会は今から33年前ですから、1987年(昭和62年)のことです。


もちろん昭和天皇の時代、内閣総理大臣は中曽根康弘さんでしたが、竹下登さんに交代した年でもあります。


俵万智さんの『サラダ記念日』が大ヒット、NHKの大河ドラマは『独眼竜政宗』でした。


国鉄がその年の3月31日に分割・民営化されて幕を閉じ、JRグループ6社が翌日4/1に発足しました。


私がT社にお世話になって丸12年が来ようというその冬、常務のお一人Yさん(生産部長)がある講演に参加されました。


Y常務は2年半ほどでしたが、開発部長として私の上司になられたこともあり、結婚式にも出席していただきました。


そのY常務が聴かれた講演が後藤昌幸さん(当時兵庫ダイハツ社長)で、その話に出てきたMGという言葉に反応されたのでした。35328676_10155640245276463_5800923142264 (写真左が後藤さん)


すぐに後藤さんに「MGとは何か」と詳しく尋ねられ、そこで西研究所と西順一郎先生のことをお知りになったそうです。


この先は若干推測をまじえてですが、Y常務はすぐに西先生(西研究所)にお電話されました。


そしてMGセミナーについてお尋ねになり、参加できるかどうか聞かれました。


それに対して西先生からは通常のジュニアコースではなく、他のセミナーを勧められたようです。


当時既に50歳になられていたY常務が初めて参加されるなら、『社長MG』の方がが良いということでした。


社長MGは、企業経営者それも若干年齢の高い方を対象として2泊3日のセミナーだったと後に伺いました。


Y常務はこの研修に出られ(那須高原だったそうです)、初MGの洗礼を受けられたわけです。


その受講感想として、「これは良い、ぜひ自社の研修として採用していこう」と決心されたそうです。


常務会でも実施することが決まり、まずは管理職(部課長と一部副課長)を対象とすることになりました。


神戸で、後藤昌幸さんが当時主幹をされていた兵庫MG会が毎月セミナーを開催されていましたので、


毎回8~10人ずつ、4回に亘って派遣することが決まりました。


ちなみに私はその3番目のグループ、すなわち「会社の(業務)命令」による受講だったということになります。