『私とMGと経営』こぼれ話(31)

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分 昭和天皇崩御、この日が「昭和」最後の日となりました。


昭和天皇(1月31日に追号)、神代の時代を除けば歴代の天皇でもっともご長寿で したね。


私は前日からの長い列車旅を終えて、その日の午後札幌駅のホームに降り立ちました。


土曜日でしたが、正月明けの販売小会社に顔を出して新年の挨拶を済ませました、「おめでとう」は封印でしたが。Photo2_20201019140701


当時(竹下内閣)の小渕内閣官房長官(平成おじさん)から、「新しい元号は、『平成』であります。 」と発表された様子は記憶されている方も多いことでしょう。


その平成最初の日、1月8日は日曜日で、この日に札幌市内でワンデーMGセミナーが開催されたのです。



その第1期目が私にとって記念すべき「100期」目であったのです。


その時のインストラクターは、クリエイティブ・マネージメントの野崎(晴行)さんでした。


第1回目の兵庫MG会・神戸MGから数えて477日目、1年と3ヶ月半といったところでした。


最近は1年も経たない内に100期を達成される方も珍しくないですが、


当時は西研MGを開催されているところも今のように多くはなく、情報も少ない中なので早いほうだったでしょう。


しかも私にとっては、101期目(当日の第2期)は「青チップの解禁」日でもありました。


大倒産のあとで「100期まで青チップを使わない」という誓いが、満了する時でもあったわけです。


もっとも、その日はついに青チップは使わずに終わり、その次のMGに持ち越しました。


100期達成のお祝いも、天皇崩御の翌日でしたから、札幌市内の居酒屋でホンのささやかに身内メンバーだけでした。


ところで、札幌へは「100期達成」の為にやってきたのではなく、あくまで本業の仕事の為でした、念のため。

『私とMGと経営』こぼれ話(30)

タイトルが『私とMGと経営』こぼれ話となっていますが、経営の話がとんと出てきませんね。


すみません、まだしばらくは一介の社員時代の話が続いていきますので、致し方がないのです。


MGを学ぶことによって、ゲームの中で(擬似的に)経営者になってみて初めて、その大変さを感じました。


経営は「絶え間ない意思決定」であると本の中に書いてあったことが、ゲームではあれ実感して感じることはできました。


しかし一方では、「経営者感覚や意識を持て」と言われることに違和感を感じ始めてもいました。


当時はまだ単なる天邪鬼社員としての感覚でしたが、経営を学べば学ぶほどにその思いが強くなっていきました。


確かに一般の社員でも、ましてや幹部社員なら経営者感覚や意識を持つことは必要なのかも知れません。

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現場においては、経営者に代わって判断し意思決定をした上に、責任もとらなければなりませんから。


しかし、あくまで経営者と「同じような」感覚や意識は持てても、ズバリ経営者とイコールはムリです。


なぜなら責任の取り方が全く違うのですから、つまり立場が違うわけですから「同じ」にはなりません。


このことは、脳力開発を学び進めていく中で確信になっていきました。


ならば、自分の役割としての経営者感覚や意識という範囲(ドメイン)でなら可能であり、役割を果たすことが大切だと。


そのように感じた中でMG100期が徐々に近づいて来て、ちょうど99期をもって1988年が終わりました。


明けて1989年、どんな年であるかは分かる人には分かりますね。


昭和天皇が病に臥せられ、余り盛り上がらないままの年末から正月明け、昭和という時代の終焉でした。


まさにその昭和が終わる1日前の1月6日、私は大阪から函館行きの寝台特急「日本海」に揺られていました。


目指すは北海道、暦が変わって列車が青函トンネルを抜けているさなかに昭和天皇崩御のニュースを知りました。


ラジオを聞いていた隣の寝台の方が起き出してきて、トンネルの車窓を眺めていた私に声をかけてくれました。


昭和が終わった実感は余りありませんでした。やがて雪に覆われた北の大地が、ほの暗い中で目に入ってきました。


函館で特急に乗り換え、札幌駅に着いた時に「そうか、昭和が終わったんだ」という思いが襲ってきました。

『私とMGと経営』こぼれ話(29)

さて社内のMG研修が本格化していく中でしたが、自分自身のMG受講もコンスタントに続けていました。


7月のMGシニアの1ヶ月後に下関MGがスタートし、ここで三福水産の河村社長(故人)に初めて出会いました。


工場や事務所も見学させていただきましたが、その強烈な個性や情熱にただ圧倒されました。Photo1_20201012135601


下関MGはその後2~3ヶ月ごとに開催(インストは主に藤原さん)されますが、ほぼ毎回のようにお邪魔していました。


それがご縁で、翌年の秋に開催した社内でのフルMGに河村さんをゲストでお呼びすることになりました。


また10月には、キャッシュフローMG(CFMG)との出会いがありました。


CFMGは名古屋のマスト21(横田真さん)さんが始められたもので、CF-STRACという新たなものに出会いました。


経営管理室で仕事をしていた私は、PLとBSについてはようやく一端の知識と実体験を積み重ねていましたが、


CF(キャッシュフロー)については、殆ど分かっていないというのが現実の姿でした。


なにしろ少し以前までは、「(BSの)別途積立金はどこの銀行の積み立ててあるのか」と経理部長に尋ねたほどですから。


もちろんキャッシュフロー計算書など知るよしもなしという状況でした。


もっともCF計算書はアメリカ等では使われていたものの、当時の日本ではまだほとんど用いられていませんでした。


神戸で開催されたCFMG、その時のインストラクターは牧口さん(現在公認会計士・岐阜在住)と、


サブインストが牧野さん(現在伊賀市在住で伊賀MGなどをやられています)でした。


その時にはまだCF計算書(現在の第6表)はありませんでしたが、第1表と5表はCFMG専用の用紙でした。


つまり現金項目と掛金(売掛・買掛)項目が分けられていたのです(現在は既存の表を使うため分けていません)。


また「集金」は、意思決定カードの半数(30枚)に小さなシールが貼ってあり、


そのカードを引いた時にだけ集金しても良い(売掛1件だけ)ということになっていました。


また、期首に金利と配当・納税を払うのに現金がない場合には、看板に「倒産旗」を立てることになってました(笑)。


以来何度かCFMGをやり、ここで「UZK&W」について学べたことは、後に販社に出向した際に役立ちました。


11月には藤原さんの誘いで高松MGに参加し、多くの瀬戸塾メンバーとの交流を楽しみました。


こうしていよいよ「MG100期」が目前になり、どこで達成するかをあれこれと考えていました。


昨今のようにHPやSNSもなく、MGの会場で出会った方や藤原さんからの情報がすべてでした。


そして、12月の神戸MGの際に狙いを定めて決定しました、その地は真冬1月の札幌。

『私とMGと経営』こぼれ話(28)

親会社時代の1988年秋、本社や支店・営業所までの範囲でMG研修(ワンデー)をひと渡り終えました。


終盤にはインストラクターとしても進行がスムースになり、まとめの講義もゆとりを持ってできるようになりました。


MQ会計(当時は戦略会計・STRAC)を力を入れて講義しましたが、さてどこまで理解してもらえたでしょう。
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それでも営業・管理・開発部門を網羅して、次のステップは生産管理部門や販社にも拡げたいという思いがありました。


また、一通りワンデー3期をやっただけでは十分ではないという思いで、期末(6月)以降来期も継続を人事課の教育担当者にも伝えました。


そのくらいでやめておけば何ごともなく良かったのでしょうが、やっぱり調子に乗っていたのか、言わずもがなのことを幹部会議で発言してしまったのでした。


幹部会議は部長以上、一部課長クラスも参加する会議で、元々私も経営管理室長として事務局の立場で出席していました。


たまたま、MG研修が終わってその報告をするということになっていたのです。


一連の経緯と結果を報告して終わっておけば、それでチョンだったのですが、、、


最後の最後の「蛇足ですが」と付け加えてしまったのです。


今後もMG研修を継続されていくと思いますが、その体験期数を評価の基準に加えてはどうでしょうか、、、と。


人事部長の表情が変わるのが分かりました、かなり近い席でしたから。


それよりも早く、一人の営業担当部長から「板東クン、それは余計な越権発言だ」との鋭い声。


ハッとして、「申し訳ありません」というのがやっとで腰を下ろしました。


確かにそうです、私は本来教育担当者ではありませんし、人事の担当でもありません。


ただMGに関して、その研修のインストラクションを委嘱されているだけの立場だったのですから。


とくに人事評価のことなどは、人事課が素案を作り、最終的には部長会議・常務会で決めていくことですから。


もしかしたら、MG研修はこれでポシャってしまうかなと思いつつ唇を噛みしめました。


MGを最初に受講し、社内研修として提案された専務が助け船を出して下さったのですが、その言葉には上の空でした。


その後を引き継いで、人事部長から「今の板東さんの意見も検討の中に入れておきましょう」との発言があり、その場は収まったようでした。


ある後日談もあるのですが、それは語らないでおきましょう。


幸い、次の年度にもMG研修は部門研修として継続されることになりましたが、体験期数は評価対象にはなりませんでした。


当時37歳になったばかり、まだまだ修業の足りない頃でした。

『私とMGと経営』こぼれ話(27)

初年度の上半期といっても、9月の上旬から12月の初めまでの3ヶ月間で、


本社ビルの部門、営業・管理・開発部門のスタッフ全員についてひと渡りMG体験研修をやることになりました。


12月の中旬以降は次第に繁忙期に入っていきますので、それまでに完了するためにタイトなスケジュールでした。


期数をこなされている皆さんならお分かりになるでしょうが、ワンデー研修はなかなかキツいものがあります。


しかも副課長以上の管理職を除くと、「MG初体験」になるわけですから参加者もインストも大変です。


体験者と言っても1~2回やっただけですから、初心者の面倒をと言っても余り頼りにはなりません。


その上にインストラクターが全くの若葉マークなのですから、大変を絵に描いたような研修になりました。


こちらも研修を通じて伝えたいこと、解説したいことを全部やろうとするものですから大騒ぎでした。


汗みどろになりながら、と言っても半分くらいは冷や汗だったのかも知れません。


毎回受講者の6~7割が初心者ですから、できるだけ分かりやすく詳しくと思うものですから、


時間がかかるわ、その割には参加者の顔を見ると首をかしげているような状態。


ゲームをやっても決算をやっても渋滞したり、立ち止まってしまったり、間違いがあったりでした。


とくにインスト初回の部門はもちろん、スタートから1ヶ月半くらいの受講部門は災厄だったでしょうね(汗)。


今から思い出しても間違ったことを言っていたようですし、しまった、しまったと思うことの連続です。


一生懸命に説明したにもかかわらず、「説明が分かりにくかった」などと感想に書かれるとへこんでしまいました。


こっちは自分の仕事も抱えながら、ときには休みも返上でやっているんだと思うものの、それは受講者にとっては関係のないことです。


そういう試行錯誤を繰り返しながら、それでも回を重ねていく内に「上手になって」いくものです。


まさにMGは期数、MGのインストもまた期数すなわち実践体験だということが、よく分かりました。


分かってくるとメリハリの付け方や、良い意味の手の抜き方もやれてくるものです。


例えばルール説明にしても最初は1時間近くかかっていたのが、最後の部門の研修では40分も掛からなくなっていました。

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決算チェックもドンドン早くなるばかりか、ザッと見るだけでおかしなところを見つけられるようになりましたし、


立ち往生している人のところにもすぐに駆け寄れるようになり、間違い発見も早くなりました。


インストをやることで、実は私自身の大きな学びになってたということでした。


そこで得意の頂に登ってしまうところが、私のまだまだ甘ちゃんなところでした。


その鼻をへし折られるような事態が目の前に迫っていたことに、全く気付かないままに。

『私とMGと経営』こぼれ話(26)

1988年に(西研MG)インストラクターの資格をいただいてから、今日までにどれだけインストしたか、


実はハッキリとした記録がありません。


MG受講であれば100回帳に記帳しますが、とくにインストの記録を残してはいなかったのです。


社内研修として集中的にやった(ただし主としてワンデー3期)時期もありますが、


昨今のように主催や共催セミナーでのインストが本格化したのは、独立した2008年から後のこの10数年です。


マイツールの中にインスト記録(成績表)がキッチリ残っているのは、やはり独立後の2008年からです。


一部消去してしまったものもありますが、以前のものを推測するとしてざっと2000期以上はインストした計算になります。


MG受講と同様、インストにも「最初の1期」というものがあるわけで、その時の記憶を思いおこしています。


7月(1988年)の神戸シニアでは、無条件での新ストラクター免許状をいただくことができました。


その時の「テスト」は確か2つ不正解だったと思うのですが、それでもお情け(?)で免許をいただきました。


期数が60期を超えていたこともあったのでしょうか、「ジュニアをあと★★期」という条件はつきませんでした。



免許をいただいたタイミングでは、すでに新年度(7月~)の教育計画ができていて、


「社内インストラクター」による、部門・部署別社員研修が秋からスタートする旨が記載されていました。


その時点でMGシニアを受講していたのは、インスト候補3人の内では私だけでした。

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さっそく教育担当課長から呼び出しがあり、「よろしく頼むよ」とのお達しがありました。


新しいMGゲーム盤の2台購入が決まっていて、夏が過ぎる頃には届きました。


これで12名ずつの部門別研修がやれることになり、営業部門のいくつかからスケジュール打診がありました。


もちろん通常の業務をやりながら、そのスケジュールを加えていくことになり、中には休みの土曜日にという要望も。


担当の業務については、部下の副課長やスタッフに手伝ってもらえばナントカなると腹を括りました。


問題は、果たして自分にやれるのかということですので、スタート前に数回MGに参加して先輩インストのやっていることをじっくり観察しました。


それでいよいよ初インスト研修(ワンデー3期)に臨むことになりました。

『私とMGと経営』こぼれ話(25)

MGをやったらマイツール、西先生が今でもいつもおっしゃていることですが、シニア研修でその思想ベースに触れました。


その頃はまだワードやエクセルもなく、いわゆる表計算ソフトやワープロソフトも素人には敷居が高いものでした。


まだ「ウィンドウズ」や「マック」以前の時代でしたから、カンタンには使いこなせなかったことを私自身も仕事で体験していました。


また当時のマシンもソフトはかなり高価なものでしたから、いくつも使ってというわけにもいきません。


とくにマイツールは、ハード&ソフト一体マシンで、


デスクトップ型マシンとマイツール・ソフト、さらにドットプリンターまで揃えると優に100万円を超えました。


本社の開発部長の上申して買いそろえようとした際の見積額は、確か140万円くらいだったと記憶しています。


そこで、MGシニア研修の場では「マイツールの台数」を聞かれますが、


私は「今現在はゼロ台ですが、間もなく1台になる予定です」と胸を張りました。


そうしたところすかさず西先生から、「それはいかん、1台では動かん」との声が掛かりました。


どういうことですか?と聞く前に、私の口から「分かりました」という言葉が出ていました。

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ちょうど、情報としてマイツールのラップトップ版マシン「LX」が出たということを聞いていたからです。


デスクトップ(Mr.マイツール)をLXに変更すれば2台、もう少し予算が付けば3台が可能になりそうです。


実際のところはLX3台にプリンターということで、見積額も増加しましたが承認してもらえました。


そこで、私の課で2台、もう1台は別の部署で使うことになりました。


結果として2台はよく動き、1台は余り動かなかったので私のところに引き取ったということになりました。


さらにい後日談ですが、私自身がマイマシンを持ちたくなって1台を個人リースで購入しました。


6人の小さな部署に4台のマイツール、仕事への活用が飛躍的に向上したことは言うまでもありません。

『私とMGと経営』こぼれ話(24)

初めてMGシニア研修に参加したことのお話に移ります。


時は1988年7月22日から3日間、場所は神戸市垂水区の舞子ヴィラでした。


その直前には姫路で平日MGが開催されていて、私は仕事の都合もあって2日目だけ参加させていただきました。


その中のお一人、確か富山から参加されている方は姫路で初MGを体験し、そのままシニアへという流れでした。


当時でも西先生は「ジュニアを15期やったらシニア」へと言われていましたので、異例のことでしたが。


正確に参加者数を憶えていないのですが、3卓であったことは確かで、最近のように4卓24人満杯ではありませんでした。


シニア・プログラムの基本は今も変わりませんから、初日はMG3期やって夕方からポケコン・プログラムでした。


ポケコンは初めての体験で最初は借り物(PC-1251)でやるつもりでしたが、


ちょうど新しいポケコン(PC-1800だったかな?)が出たというので、その場で購入しました。


これは黒色のマシンで二つ折りになるものでしたが、当たりが悪かったのか、その後故障続きに悩まされました。


結局その後に出たPC-1261を改めて買い求め、以後は今に至るまでそれを使い続けています。


BASICは会社のパソコン研修で何度か勉強し、社内にあったMZ-80BというPCでプログラムを組んだりしていました。


馴れているつもりでしたが、さすがに小さなポケコンは使い勝手が違い、


STRAC-1から始まり、T-STRAC、H-STRAC、MQ-STRACまで終えるのに2時間半くらいかかりました。


それでもメンバーの中では早かった方で、夜の10時には風呂にはいってビールが呑めました。


2日目はポケコン経営計画と第4期、そして午後は昼食を兼ねて近くの五色塚古墳へ知的散策に出かけました。

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つい先日、NHKの番組に五色塚古墳が出てきて、本当に久しぶりでしたので懐かしく感じました。


兵庫県では最大規模の古墳 (前方後円墳)で、現在では背景に明石海峡大橋を望むことができます。


知的散策から戻るとマイツール、その数ヶ月前に神戸の兵庫MG会事務所でMGの合間に少し触っていました。


会社のPC(MZ-5521)でマルチプランを使い、部門別損益計算をやり始めて四苦八苦していた時で、


マイツールを使えば、それがあっという間にできてしまうのに感動してすぐのことでした。


会社(上司である開発部長)にマイツール購入を上申し、OKがもらえそうなタイミングでのシニア研修だったのです。

『私とMGと経営』こぼれ話(23)

前回お話しした「8回連続DoNothing」のMG結果ですが、実は黒字で終えることができました。


最終の第4期はそのような「リスク」はなく、最終的自己資本も400近くまで達したのではなかったかと記憶しています。


さすがにA卓とかB卓といった上位卓は、まだまだはるか遠い手の届かないところでしたが、


そこに常に座っておられる、当時の「名人」クラスのシーガルさんの会社盤をじっくり見ることができました。


今とはルールも違い、ゲームは制限時間制で時間内なら第1表をテープでつないでいくことができました。


よってトップクラスの方は、おそらく70~80行(紙1枚が30行)使っていたはずで、


PQも5000円どころか6~7000円代というケースも、不思議ではありませんでした。


何しろ倉庫は使い放題(2台の制限なし)でしたし、「不良在庫」ルールもまだできる前でしたから、


途中経過の時間帯では、会社盤の上に材料・仕掛品・製品が合わせて60個以上ある(現在は最大でも54個)のに、目を丸くしました。
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私でも、同じルールが続いている内には最高で6000円くらい売ったことがあります。


また、P=20円(つまりプライス固定)で売り続けて260個、つまり5200円売ったこともありました。


100人MGの頃は、ようやくどうやったら売れるかのポイントを掴んだところでしたが、


その後は単年度赤字になることもほとんどなく、期数を重ねていくことになります。


まさしく文字通りエポックメイキングであった「あさま100人MG」、大きな学びを得て山を下りました。

『私とMGと経営』こぼれ話(22)

真っ白になっている会社盤を見ても、それほど焦りはしませんでした。


同卓の方は皆さんベテランの方ばかり、ガマンをしていれば材料も廻ってきて、売るチャンスも巡ってくる。


確かにその通りで、活気のある卓でしたのですぐにチャンスをものにしてやろうと虎視眈々でした。


ところがところが、その見通しは大変甘かったことをすぐに思い知らされました。


売り買いは、間違いなく順調に行われていました。


でも私のところには全く材料が廻ってこなかったのです。


私の左隣のお2人が、出てくる材料をことごとく買いさらっていかれるのでした。


左隣のIさんは、バランス良く材料、仕掛品、製品と持たれていたのですが、さらに材料を買い増しされていきます。


それも根こそぎ買える「製造能力」をもたれていましたので、私には1個たりとも廻ってこなかったのです。


そこからついに始まりました、「8回連続のDo Nothing」が。


こういう時には、普段は余り引きたいないと思っているリスクカードが来ないかなと願ってしまいます。


リスクカードなら、そこに書いてあることを(たとえ本意でなくとも)何かやることができますから。


しかしこういう時はなぜか、引けども引けども意思決定カード、それまではけっこうリスクを引いていたのに。


3回連続何もせずにスルーして、さすがに4回目には何とかしなければと思いました。


そこで4枚目の意思決定カードを引いた際には、大きな声で「消しゴム掃除します!」と。

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5枚目は「(ゲーム盤の)カードを片付けます!」、6枚目は、、、


ついに8枚目を引き終わって次は何を言おうかと半ば開き直って隣を見ると、Iさん、そろそろ売る気配です。


ようし、この時を待っていたんだと気を引き締めました。


しかしIさんが引いたのはリスクカード、しかも何と「景気変動・逆回り」とな、天を仰ぎました。


もはや万事休す、と天を仰ぎました。天は我を見捨てたり!