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VAN研(ヴァンガード経営研究所)

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晋作はいわゆるやんちゃ坊主

<反・薩長史観>

『おもしろき こともなき世を おもしろく』は、高杉晋作の辞世の句とされている。晩年の高杉を看病し、その死を看取った野村望東尼が、「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われています。

 

これが慶応3年(1867年)春のことだが、その少し前から労咳(肺結核)に冒されていたという。27歳の死であったが、まさに幕末の世を一気に駆け抜けた生涯であった。

 

この高杉を顕彰したのは明治新政府、とりわけ長州閥の面々でなかでも伊藤博文が熱心であった。

 

高杉は松下村塾に通ったが、塾生の中では最も高い身分であったと言われる。過激な思想を持つ松陰を師とすることには父親が猛反対であり、何度か引き離されている。

 

高杉自身も松陰のあまりの過激な発言を制することもあり、やや距離を置いていたようではあるが、安政の大獄による処刑には衝撃を受け、次第に松陰の思想に傾倒していくようになったようだ。

 

だが、禁門の変に突入していった久坂玄瑞とは一線を画し、一時は藩政からは自ら身を引いて逼塞している。だが、時代が高杉を必要とするようになる。

 

関門海峡における攘夷の実行に対し、4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠などを行った後の和議交渉で、高杉は全権の役を担っている。

 

上海への渡航体験で見聞したことが買われたわけだが、その態度は交渉相手のひんしゅくを買ったのではないかと思われる。もっとも強い態度が、逆に効果をもたらしたとも評されている。

 

たとえば、イギリスが「彦島租借」を持ち出した際には、日本の歴史を披瀝して煙に巻いたとか威風堂々と反論した結果、租借を免れたとも言われるが、これが史実かどうかはハッキリ言って分からない。Photo

 

この明確に分からない(事実でない)ことが、薩長史観の中では「高杉の手柄」として主張されていること自体がまやかしといえるのではないか。

 

他にも、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちした事件にも高杉は参加しているが、これは上海密航留学の後である。渡航体験で「正しい認識を得ていた」などと、どうして言えるのか?

 

第一次長州征伐のおりには、「功山寺の挙兵」を実行して結果として藩政を握ることになるが、確かに行動の人であろうとは言える。だが、奇兵隊の創設、初代総督は確かに高杉だが、すぐに手放さざるを得なくなっている。

 

功山寺挙兵でも、奇兵隊は最後にやっと動いたのであり、危ういところでの挙兵成功だった。

 

第二次長州征伐では、幕府海軍を撃退したり小倉城攻撃を成功しているが、これも当初から幕府側の志気が上がっていなかったことや、将軍家茂の死去による組織壊滅によるところが大きい。

 

また、幕府側から薩摩すなわち西郷が外れていたことが「勝利」につながったであろう。しかし、結局高杉は西郷と出会うことなくこの世を去る。西郷は高杉の「功績」など、知らなかったのではないか?

平和な江戸時代を潰したのはだれだ?

明治維新150年のイベントが、本格的に始まろうとしている。たかがお祭りだし、教科書的には確かに150年経つわけなので、それらのイベントに異を唱えようという気はない。

 

ただ、正しい『日本の歴史』を学ぼうといっている知識人たちの欺瞞が腹立たしいだけのことだ。彼らにとっての正しさとは何だろうと、問いただしてやりたくなるわけだ。

 

まさか、まさか、戦前の明治維新とやらから80年足らずの「歴史が正しかった」などと、のたもうているのか?戦前史観が立派で日本的で、心が純粋で素晴らしかったなどとほざいているとすれば、笑止千万なことだ。

 

室町時代後期を戦国時代と呼んでいるが、応仁の乱を契機に長い戦乱の世が続いた。信長、秀吉、そして家康という三人の英傑がその乱れた世を(方法はともかく)ただし、世を平和に導いた。

 

これは歴史の事実である、誰も否定はできまい。そして家康が豊臣氏を大坂の陣で滅ぼして、本当の平和が出現した。「元和偃武」と呼んだが、偃武とは「武器を偃(ふ)せて武器庫に収める」こというそうだ。

 

実際、その後起こった地域紛争である島原の乱を除いては、武器を使う戦いは幕末に至るまでほとんど皆無だったといって間違いない。その間200年以上、世界市場もまれな平和な時代だった。Photo

 

確かに政治は一握りの武士階級が牛耳っていたことは間違いないが、だからといって農工商の人たちがさほど虐げられた生活だったとはいえない。

 

江戸時代は封建制度によりがんじがらめであり、人々は非常に惨めな生活を送っていた、そんな事実はほとんどなかったと言って良い。第一「封建制度」など、日本にあったのか?

 

明治の学者たちが、あるいは階級制度を無理矢理歴史に当てはめていこうとする、マルクス主義的歴史観を持っている一部の人たちが、江戸時代をそのように規定したのだろう。

 

それを論じるのがこのコラムの趣旨ではないので先を急ごう。要するに、江戸時代の200数十年間はおしなべて平和な時代であった。少なくとも、その前の戦国時代に比べるようもないほど人々は平和に暮らしていた。

 

その平和な江戸時代を強引に、武力を持って打ち破ったのが明治維新とやらの主役たちだった。

 

江戸に入った東軍(官軍とは呼ばない)を、江戸市民は蛇蝎のように嫌ったという。実際、東軍兵士たちは乱暴で平気で無法なことを繰り返していた、これは明白な事実だ。

 

江戸市民が東軍を嫌ったのは、それまでの江戸が平和な都市だったからに他ならない。将軍のお膝元だったからだけではない。江戸以外の都市でもローカルでも同様で、江戸はその一つの象徴だった。

 

それを東軍が無理矢理に占領し、破壊し、自分たちの欲求をそこに展開した。その先鋒となったのが、西郷隆盛に他ならない。一体西郷が何をやったのか、いくつもの事実が彼の『破壊者』ぶりを証明している。

 

繰り返す、江戸200有余年の平和を破壊したのは西郷隆盛という男だったという事実を。かれの座右の銘とも言われる「敬天愛人」が聞いてあきれる。

西郷は僧月照を心中に見せかけて・・・

いよいよ西郷(隆盛)である。今回の大河ドラマの評判(視聴率)のことは知らないが、今はまだ激動前のことであるので静観といった感じである。

 

昔から人気は高い、知名度も幕末では坂本龍馬と双璧だろう。江戸城を無血開城したとか、新政府においてもカネや栄誉に執着しなかったとか、西南戦争での潔い自決だとかが決め手になっているらしい。

 

同じ郷中(ごじゅう)出身の大久保利通と比べれば、その差はダントツであるが、では西郷が「新政府で何をやったか」となると、こちらは大久保にくべて極めて分が悪い。

 

しかも西南戦争(西南の役)では「朝敵」となったために官位を剥奪され、当初は靖国神社には祀られなかった。明治22年の憲法発布に伴う御社で赦され、追贈(正三位)されるとともに、改めて靖国の英霊となった。

 

過去にも触れたことがあるが、写真は遺されていないらしい(残っている説もあるが西郷とは確認されていない)。上野や鹿児島の西郷像は、実際のイメージとはどうも違うらしい。

 

有名な肖像画も本人とは違う。ただ、錦絵にはいくつか描かれていて、それが本当に西郷の姿ではないかと言われ始めている。

 

だいいち、隆盛という名(諱)も本当ではない。これは父親の諱で、西郷は「隆永」だったらしいが、届け出の際に隆盛と誤って届けられ、それで通したのだという。細かいことにはこだわらなかったのだろうか。

 

さて私の隆盛観であるが、幕末の史実を知るにつれて大きく変わってきている。

 

坂本龍馬が西郷を評して、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と言ったとか。

 

この話に頷いている頃は、やはり西郷は偉大な人物で「維新の英傑」であると思っていた。ただ、政治的には大久保よりは少し落ちるかなぁ、それがまた西郷の魅力だというくらいに評価していた。Photo

 

しかしだ、幕末に西郷が実際にやったことをつぶさに見つめてみると、果たして英傑と呼んでいいのかどうか疑問を感じだした。そのいくつかを、私なりに述べていくことにしよう。

 

その第一は僧月照との「心中未遂」事件。詳しくは省くが、月照は溺れ死にしたが西郷は蘇生した。ちっともおかしくないではないか、と反論されるだろう。記録にそうあるじゃないかと。

 

ではその記録はいつ誰が書いたのか?少なくとも、当時の薩摩では月照は邪魔者であった、疫病神と言っても良い存在だった。ならば、、、うがちすぎだろうか。

 

西郷は最初の流刑に遭う、しかしそれは「身を隠す」程度のものだったのではないか。実は西郷自身が月照を殺害したのではないか。殺害を指示した側の遺した資料でしか判断できないのでは、真実は闇の中だろう。

 

ここで今回の紙数がいっぱいになったので、後は次回に。

薩長同盟のウソと逃げの小五郎

さて、桂小五郎である。池田屋事件で、現場から早めに「消えていた」ために命を長らえることになったことは、前々回に書いた。それらを含めて『逃げの小五郎』という異名をとった。

 

維新の三傑の中ではただ一人、畳の上で死んでいる。京都三本木の芸妓幾松との出会い、そして彼女は桂の逃亡生活を助け、やがて妻(木戸松子)となり死を看取っている。

 

幼少の頃に名門桂家の養子になり、幕末の志士と言われる人物の中では比較的高い身分だ。藩校明倫館で学んだ時に吉田松陰と出会うが、松下村塾で学んだことはない。つまり松陰門下生ではない。

 

しかし、松陰の思想には大いに共鳴し、その後は久坂玄瑞や高杉晋作らと共に過激な攘夷派として行動している。確か映画の「鞍馬天狗」の中でも度々登場している、もちろん正義の志士としてだが。Photo

 

下関での外国船打ち払いに際しては、高杉と共に久坂に批判的だったが、積極的な反対行動はとっていない。このあたりが高杉とは違うところで、あくまで思想家という片鱗が見られる。

 

八月一八日の政変後も京都に潜入したまま、朝廷内の長州シンパの公家たちと連絡を取り合い復権を目指すも、禁門の変で水泡に帰す。

 

もっともこの頃にはすでに京都を脱出し、但馬の出石に逃亡していた。第一次長州征伐後、保守政権を倒した高杉らが長州藩の主流になると、呼び返されて政権の中枢につくことになった。

 

そういう意味では幸運な男である。剣術の達人というが、彼自身が剣を抜いたことはほとんどないらしい。しかしおそらく、過激派の天誅の裏には桂の影がチラチラしている。

 

藩に戻った桂は、武備恭順の姿勢を貫くと共に、新式兵器を購入して兵制改革を進めていく。実際の推進に当たったのは村田蔵六、のちの大村益次郎らしい。

 

そして有名な「薩長同盟」を結ぶのだが、この同盟は果たしてきちんとした同盟であったのかは、多くの史家が疑問を投げかけている。

 

私は専門家ではないので分からないが、少なくとも口約束に毛が生えたくらいのものではないかと思っている。坂本龍馬の活躍も有名だが、龍馬がそれほど重要な役目だったとは思えない。

 

龍馬は、長州と薩摩すなわち桂と西郷の間の口約束を「確認書」の形にしたものに、第三者として署名しただけだろう。それも龍馬という重要人物ではなく、イギリスあるいはグラバーの代理人としての役割ではないか。

 

ただ、これを機に薩長が合同して倒幕に向かったことは間違いなく、まぁ同盟らしきものは同意されていたのだろう。これ以降は、いよいよ西郷の出番である。

 

つまりは理論派の桂ではなく、行動派の西郷が表舞台に出てくるのだ。行動派というが、西郷はあくまで暴力革命いや政権奪取を目指したのだ。

 

これは史実だ。どうきれいに飾ろうとも、西郷は「敬天愛人」などという高邁な思想があったとは思えない。

<反薩長史観> 長州藩は間違いなしの朝敵

禁門の変、あるいは蛤御門の変と称されている。

 

禁門とは禁裏の門ということで、つまり天皇のおられる御所の各門のことである。もちろん、そこには警備の兵が配置されていて通常の一般人は通ることができない。

 

天皇が住まわれる御所は決して侵してはいけないところなので、禁裏と呼ばれているわけであるが、前回の池田屋事件で書いたように、「勤王の志士」どもはそこに放火しようとしたのだ。

 

池田屋事件で吉田稔麿ら藩士を殺された長州藩の急進派は激高して、すぐにも京都へ攻め上ろうとします。高杉晋作や久坂玄瑞は、拙速だと意見しますが勢いに押されてしまいます。

 

しかも久坂自身は次第に急進派に傾き、自らも「孝明天皇に冤罪を訴えて、八月十八日の政変の恥を雪ぐ」として上京していきます。

 

久坂らは天王山(山崎)に本陣を置きますが、先鋒の来島又兵衛や福原越後は早くも洛中に入ろうとします。朝廷内でも長州シンパの急進派公家たちが暗躍します。

 

これに対して孝明天皇は毅然たる姿勢を守られ、長州藩兵に対して退去命令を出し、そして一橋慶喜や京都守護職の松平容保に掃討を命じます。

 

この時久坂は、天皇が退去命令を出されたのであればやむを得ずとして、命令に従おうとしたと言われます。しかし結局は急進派に圧されるまま、自らも御所に近づこうとします。

 

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洛中での攻防が最も激しかったのが蛤御門です。ここを守っていたのが会津藩兵でしたから、憎しみに燃える長州兵の攻撃も激しいものがあったようです。

 

さらに中立売門や乾門などにも攻め込みますが、薩摩藩兵の応援部隊が入ってこれを阻止します。この時薩摩兵を率いていたのが西郷隆盛であったようです。

 

八月十八日の政変では会津と薩摩はタッグを組んでいたわけですが、禁門の変では薩摩の出兵がかなり遅れています。西郷にもしかしたら迷いが生じていたのでしょうか。

 

久坂が御所に近づこうとした頃には戦闘はもはや終わりに近づき、長州兵は指揮官を失って退き始めていました。もちろん久坂は御所に入ることができず、隣接の鷹司邸に入ります。

 

ここで前関白輔煕に朝廷への建白書(赦免状?)を託そうとしますが、すでに出仕の後でした。結局、久坂らは屋敷内で自害して果てます。

 

こののち、改めて長州藩の追討が決せられ、これが第一次長州征伐につながっていくわけですが、この時点で明らかに長州藩は「天皇に弓引く」朝敵でした。

 

弓引くどころか、鉄砲やあげくに大砲を撃ち込んだわけですので、弁解の余地はありません。洛中も大半が火災によって焼けてしまい、多くの屋敷や寺社、商家などが消失してしまいました。

 

その朝敵が「維新」とやらのどさくさの中で赦免されて朝敵を解かれ、幕府や会津藩等を追討する側に回るなどとは、笑止千万でしょう。

 

教科書にも、こういう市街戦闘があったことと京都の町の多くが消失したということだけが、さらっと書かれているだけというところに、欺瞞を感じざるを得ません。

反薩長史観・池田屋事件から見えること

池田屋事件というと、新撰組が「起こした」テロ事件だと教科書的には教えられましたが、その真相は真逆に近いものであったことは、すでに正しい歴史として語られています。

 

この事件には伏線がありました。池田屋事件は元治元年(1864年)6月(旧暦)のことですが、その1年前の文久3年に「八月十八日の政変」が起きています。

 

八月十八日の政変は、京都在住の会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派が、尊王攘夷の核となっていた長州藩と朝廷内の急進派公家たちを、京都から武威を持って追放した事件です。

 

政変の前には、長州藩による攘夷の実行(アメリカ商船などへの発砲)があり、外国からの報復攻撃を受けた長州藩が他の藩にも攘夷実行を迫り、尊攘派公家たちが天皇の大和行幸を企画します。

 

これを良しとしない会津藩と薩摩藩が諸藩にも呼びかけ、孝明天皇の了承を得て政変を実行したわけです。これにより長州藩士の多くは帰郷を余儀なくされます。

 

さらに過激派の公家たちも朝廷、さらに京都を追われ「七卿落ち」として長州へ下ります。この事態に長州藩の急進派は激高し、京都奪回を目指すことに血道を上げます。

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久坂玄瑞も、もちろんその中の中心人物として動くことになります。

 

ところで、この政変によっても桂小五郎など一部の長州藩士や、尊攘・過激派の志士たちはまだ京都に潜伏し、巻き返しの機会を狙って「地下での動き」を強めます。

 

そしてついに、とんでもない計画を立て実行しようとするのです。なんと、祇園祭前の風の強い日に御所を焼き打ちし、混乱に乗じて孝明天皇を拉致して長州に連れて行くというものです。

 

この計画を見ても、「勤王の志士たち」が尊王だとまだ唱えることができますか?すでに武器や火薬などは、潜伏先に蓄えられ始めていました。

 

その潜伏先の住人であった古高俊太郎を新撰組が捕獲し、激しい拷問を加えてこのとんでもない計画の自白に追い込みます。その実行打ち合わせが行われる日も特定します。

 

しかし、どこで打ち合わせが行われるかがはっきりせず、新撰組の近藤勇(局長)は隊士を二つに分け、近藤自身が率いた10名ほどが池田屋に踏み込みます。

 

2階にいた過激派志士たち20余名に向かって斬り込んだのは、近藤たち4名とされています。逃げ出す者が多かったようですが、当然ながら激しい斬り合いになったのは言うまでもありません。

 

松陰門下の四傑の一人だった吉田稔麿も命を落とします。この時斬られた志士たちは後に新政府から「殉難七士」と呼ばれますが、とんでもないテロを実行しようとした彼らをですか!?

 

これをもってしても、薩長史観の欺瞞性が分かるでしょう。どうみても新撰組の方が正義であり、志士たちの方が悪者であるとしか思えませんがいかが。

 

なお、桂小五郎は事件が起こる前にさっさと逃げ出しており、その後京都にしばらく潜伏して後、芸者幾松とともに但馬の出石に逃亡していきます。

 

この事件に、久坂たちはさらに激しい怒りを爆発させますが、どちらに非があるのかハッキリしていますから、久坂もまた尊皇ではないと断言できるのです。

 

次はいよいよ禁門の変(蛤御門の変)です。

反薩長史観・池田屋事件前夜の京都

尊王攘夷といいますが、これは本来別物であって一体ではありません。尊王ということについて考えてみれば、日本(人)は古代からずっと尊王であり、江戸幕府もまたその一線を守っています。

 

自ら天皇になろうとすることが「反尊王」であるとすれば、明らかなのは足利義満と、もしかしたら織田信長くらいでしょうか。弓削道鏡は自ら目指したかどうか、孝謙天皇がそれを望んだのか微妙なところです。

 

徳川将軍は、たしかに公家諸法度などで朝廷を圧迫はしましたが、政権自体は天皇から委嘱されたものでしたし、言うなれば公武合体に常に心を配っていたといえます。

 

一方攘夷は、外敵を排除しようという思想であり施策ですが、開国することと矛盾するものではありません。幕府の官僚たちは諸外国事情を誰よりもよく知っており、武力による攘夷が危険なことを知っていました。

 

それでも、相手(諸外国)が我が国を侵害しようとするならそれは排除する(戦う)、そのためには富国強兵や兵制の近代化をすぐにもやらなければならないと考えていました。

 

孝明天皇のお考えも、根底には夷狄(外国人)嫌いがありましたが、あくまで平和的にということであったと思います。また、外国との交渉を含めて政治向きは幕府に委任しているという根本発想です。

 

ところが、京都市中で「勤王の志士」と名乗る暗殺屋たちが跋扈し、次々に血祭りに上げていく様子をみて大半の公家たちは怖じ気づいてしまいます。

 

その中で声を大きくしていったのが攘夷派の公家たちです。その代表が三条実美(写真)であり、それを後押ししたのが久坂玄瑞をはじめとする長州藩士たちでした。

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三条たちは次々に天皇に諮ることなく勅(偽勅)を乱発し、志士と名乗るテロシストたちはその偽勅をネタに過激行動を繰り返していきます。

 

何しろ当時の京都においては、京都守護職である会津藩士の武力が幕府側最大のものでしたが、一方の長州藩の勢力は他藩の過激派を含めるとそれを遙かに超えるものでした。

 

その武力を背景に、久坂たちはどっちつかずの公家たちを圧迫し続け、さらに過激な行動を繰り広げていったわけです。図に乗っていたといってもいいでしょう。

 

ところがこの長州藩士たちが、今日の町衆には意外と人気があったのです。それは彼らが花街でお金を落としてくれたからといわれています。それに比して会津藩士は堅物で、あまり遊び歩かない。

 

では島原などで遊ぶことの多かった新撰組の方はどうか、こちらも一部の乱暴狼藉者を除けば、決して嫌われてはいなかったようです。

 

話が横にそれました。いよいよ「池田屋事件」前夜です。

 

この事件の背景とされる事実を見れば、いかに長州藩士を主とした志士たちが無茶苦茶であり、尊王を標榜しながらその実は真逆であったことが証明されます。

 

明治新政府が、この事件を新撰組という暗殺集団による、有能で前途ある志士たちへの殺戮だった、と定義した理由がわかるというものです。

 

その中心人物は木戸孝允、すなわち事件当時の桂小五郎ですが、桂自身はうまく逃げおおせます。では、次回は池田屋事件の経緯を正しく見ていきましょう。