歴楽人さろん

脳力開発講座の中で、時おり歴史の話をします。


1日フルに講話と演習を積み重ねるリアル講座シリーズにおいては、


毎回歴史上の人物(英傑と呼ばれる人たち)を取り上げて、「歴史に学ぶ人間学」と題して講話をしています。


今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響もあってリアル講座は中止のやむなきになり、


オンラインに切り替えて、この日曜日13日より8回のシリーズで4ヶ月間の講座を開講しました。


毎回が90~120分の講座ですので、その中に「歴史に学ぶ人間学」を組み込むことはなかなか至難のことです。


そこで一つの講座だけはそれに集中することにして、YouTubeでのサブ講座をつくることにしました。


最初の企画プランをマンダラに記したのは5月の下旬ですが、


それから何度かマンダラを書き換えていく内に、当初の方向とは少しイメージが変わっていきました。


そして行き着いたのは、とにかく毎回短い時間で「歴史と人」を語ろうということです。


歴史の流れの中で、その都度の人間を取り上げて私自身の思いの言葉で語ってみようかと。


このシリーズ動画には『歴楽人(れきがくじん)サロン』と名付けてみました。


書きながら思いつきました、「サロン」は「さろん」と書き直すべきですね。

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語るために調べていると、一人の人間には様々な「解釈」がついているんだということに、気が付かされました。


これはまさに、脳力開発でいうところの多角度思考に他ならないなと。


とりあえず神代の昔からと思いましたが、少なくとも実在の確かなところから初めていくことにしました。


一つの動画で基本は一人ですが、そうでないことも出てくる予感です。


二人以上が登場することもあるでしょうし、逆に一人が数回登場してくることもあるでしょう。


編年体ということでもないですが、時代順にと考えていても、


きっとあっちへ行ったりこっちへ戻ったりと、観ていただける方をウロウロさせてしまうでしょうね。


またあくまで私自身の解釈なども出てくるので、腹を立てる方も出てくることでしょう。


私は学者ではなく単なる趣味人ですので、そのあたりは鷹揚な広い心でよろしくお願いいたします。


ではぜひ『歴楽人さろん』にお越し下さい。

戊辰戦争が始まった日

1月3日は、152年前に本格的な「内戦」が始まった日。


そう、戊辰戦争の皮切りになった鳥羽伏見の戦いの始まった日である。私が習った教科書には戊辰の役と記してあったが、昨今はキチッと戊辰戦争と書いてあるようだ。


無血開城した江戸城明け渡しのイメージから、明治維新(維新という言葉もまやかしだと思う)は無血革命と賞賛されていたようだが、その表現がとんでもないことは論を待たない。


鳥羽伏見の戦いを除けば、都である京都から遠い東北あるいは越後方面での戦闘であったが故に、さほどの血が流されることなく明治新政権が誕生したように思われているが、決してそうではない。
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会津鶴ヶ城の戦い、その前の二本松城の攻防戦、さらには越後長岡城を巡る100日を超える血戦で流された血は、同じ日本人同士の戦いではなかったか。


その事実を矮小化して、さも旧弊の徳川政権から速やかに明治政権(薩長政権が正しい?)に代わったと教えてきた、歴史教育とは何だったのだろうか。


温故知新-歴史を学べ、歴史の中にこそ日本の未来を見ることができると多くの先達が言ってきたが、間違った歴史を学んだところで意味は薄いだろう。


幕末の徳川政権が老朽化・疲弊していたことは事実だが、それでも他の誰よりも情報を持っていたことは事実である。ペリー来航に狼狽えたこともあるが、驚愕して足が止まったことはない。


第一「鎖国」という事実はなかったわけだから、幕府が遅れていたわけでもない。ただ、つかんでいた情報を活かせなかった、あるいは活かせる人材を前面に出せなかったことはある。


井伊直弼を貶める表現は多いが、「開国」を推進していたのは薩長ではなく幕府ではなかったか。むやみに攘夷を叫んで無鉄砲に大砲をぶっ放し、痛い目に遭ったのは誰か。その責任(賠償)を他人(幕府)に押しつけたのは誰か。


近代装備を駆使して、時代遅れの兵器の幕府軍と闘ったというが、実態はどうだったか見直してみるが良かろう。近代陸軍、海軍を作っていたのは幕府側だった。活かしきるシステムが不備だった。


近代装備はどうやって手に入れたのか、日本を食い物にした死の商人たち(グラバーなど)から、それも密輸でではないのか。密輸というのは当時の国法を犯していたと言うことだ。


勝者だから遡って咎められることもなく正当化され、「偽造」した詔勅や錦旗を振りかざした罪も咎められなかった。


結果が良ければ全て良しではない、歴史を正しく学ぶとはどういうことなのか、考え直すべき時ではないか。


少なくとも、これまでの主流となってきた薩長史観を先ずは外して見るべきだろうね。


今年のその視点で、歴史を問い直してみようと思っている。

赤穂浪士討ち入りは12月の大雪の日?

時は元禄15年12月14日、といえば「赤穂浪士の討ち入りの日だな」と多くの日本人が反応するでしょう。


この時期になると(今年はやったかどうかは知りませんが)、歴史特集か時代劇かは別として、テレビ番組の中にほとんど必ずこの事件が登場します。


事件の内容を改めて触れることはしませんが、先に書いた年月日をキチッと言える方も少なくないはずです。そして12月14日の江戸が大雪だったと聞いて、昔は寒かったのかなナンテ。


歴史が余り好きでない方はもちろんのことですが、歴史好きの方にしてもこのように年月日をキチッと言える事件は他にあるでしょうか。


私もけっこう歴史好きですが、この他に年月日をキチッと言える歴史的事実(事件)は、パッとは思い浮かびません。


脳力開発で講話の中でお話しする本能寺の変、これは何度も話をしていますので、天正10年6月2日とそらんじています。


あるいは、事件そのものに年月日の入った「文久3年8月18日の政変」くらいでしょうか。


ではここで問題です。冒頭の討ち入り事件は西暦では何年でしょうか? これはかなり難問で、正確に答えられる方に出会ったことはないと言ってもいいですね。


最近はスマホなどを使いこなす方が多いと思いますが、ネットで元禄15年を検索してみるとたちどころに「(西暦)1702年」と出てきます。


そこで討ち入りがあったのは「(西暦)1702年12月14日」だと答えますと、これは大間違いなのです。えっ!?どうしてなの?


実のところ、私もかつてはこういう間違いをあちこちでやっていました。上記の本能寺の変も「1582年6月2日」とパワポなどに書いてしまっていました。実はこれも間違い。


和暦だけでしゃべれば問題がないのですが、分かりやすいように西暦を併用すると間違いを起こしてしまうのです。


つまり「天正10年(1582年)6月2日」と書くのは良いのですが、「1582年(天正10年)6月2日」に本能寺の変が勃発したと記すのは誤りなのです。


勘の良い方はお気づきかと思いますが、当時の日本の暦である和暦は陰暦です。そして西暦はグレゴリオ暦なのですが、さらに言えば本能寺の変の辺りまではユリウス暦だったそうなのです。


そこでグレゴリオ暦で言うと1582年7月1日が正解、ユリウス暦だと1582年6月21日なんだそうです。当然日本に来ていた宣教師たちは、ユリウス暦を使っていたはずです。Photo_20191227154601


冒頭に戻って討ち入りは12月の事件だけにさらに面倒。「元禄15年(1702年)12月14日」は正解ですが、「1702年(元禄15年)12月14日」は間違いになるのです。


なぜなら元禄15年12月14日は、西暦では「1703年」1月30日に当たるんですから。これなら江戸の街に大雪が降っていたというのも、納得できるのではないでしょうか。


歴史を語る時には、こういうことに十分気を付けないといけませんね。教科書の表記にも間違いが散見されるようです。


年の途中で(つまり今年のように)元号が変わることもありますので、こちらも要注意です。

歴史教育こそ英語に先駆けて

歴史好きです。歴女があるなら「歴男」もあっていいでしょう。


歴史が好きになったのは、高校生最後の年くらい、たまたま担任の先生が日本史の担当だったこと。


それまでは歴史の授業がキライでした、なぜなら年号やら人名やら事件名を憶えることがキライでしたから。


歴史の勉強ってなんとつまらぬモノかと思っていたからですが、その先生のおかげで考え方が180度転換しました。


歴史は面白い、それは歴史というのは「人が行動した結果の積み重ね」だから。つまり点ではなく、流れや面で見るのが歴史なんだと分かったからです。


そういう観点から見ると、歴史ほどと言うより人間ほど面白いものはないということに気付きました。なぜこの人はそのように動いたのだろうか、と思いを巡らせるとワクワクしてきます。


年号やら人名やら事件名などは言ってみれば付箋あるいはインデックスみたいなものですが、相変わらず学校での歴史の授業はそれが続いているのは残念なことです。


しかも歴史の授業が少なすぎる。何でも英語の授業は小学校低学年から始まったり、昨今ではプログラミングも早くからカリキュラムに組み込まれる。


それはおかしいだろうと思うのです。歴史の授業ほど、小学生いやもっと早くから始めるべきではないかと。


もっとも、間違いだらけの教科書ではどうにもならないのですが。これまでの通説が否定されたり改訂されたりしていますが、教科書への反映は追いついていかない。


例えば「戦国時代は関ヶ原の戦い(1600年)をもって終わった」とありますが、正確には大坂の陣をもって完了したということでしょうし、外形的には秀吉の小田原攻めに終焉を求めることができるはずです。


あるいは徳川綱吉の出現が、心理的な「戦国」の終わりととらえる意見もあるくらいです。Photo_20191127071701



源頼朝や足利尊氏の絵が本人ではないことがようやく教科書に反映されましたが、関が原合戦での小早川秀秋の行動や、幕末の西郷隆盛の事績などには相当の誤りがあるようです。


8月15日はいつまで経っても「終戦の日」で太平洋戦争はそこで終わった、でも本当は終わっていません。降伏文書への署名はさらに後のことですし、その時点では「敗戦」であるべきなのに。


歴史を点としかとらえていないから、様々な間違いがそのまま見過ごされていますし、相変わらずの記憶力テストが続いています。


自国の正しい歴史をうろ覚えなままで、国際感覚も英語もへったくれもないでしょう。


それこそ国際交流の中で恥ずかしいことだという認識が希薄だと思うのですが。


隣国との「歴史認識の違い」と言われても、それは何のこと?と首をかしげているようではねぇ。

大仙陵はホントに仁徳天皇陵なのか?

国連教育科学文化機関(ユネスコ)諮問機関のイコモスが、世界文化遺産に「百舌鳥(もず)・古市古墳群」(大阪府)を登録するよう勧告したという、嬉しいニュースが入ってきた。

来月には、間違いなく登録が決定されるだろう。この古墳群には大小49の古墳があるそうで、それらは4世紀後半から100年前後の天皇(正確には大王=おおきみ)や、豪族の墳墓であるはずだ。

私は大学卒業までは大阪や神戸に住んでいたので、この古墳群には小学校の遠足で来たこともあり、歴史を学んでいた学生時代にも何度か訪れたことがある。

この内最も著名な古墳(前方後円墳)は、墳丘の長さが525m、紺としての最大長が840mもある大仙陵で、説明書きには「世界最大」とされている。古墳の周りをぐるりと1周すると3キロ近くある。

ところでこの墳墓の主、すなわち埋葬されているとされているのは仁徳天皇(第16代)である。私が小学校時代に習った教科書には「仁徳天皇陵」と、明確に記してあった。
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それがいつしか大仙陵と呼ばれるようになり、「伝仁徳天皇陵」と表現されることもあった。要するに、仁徳天皇陵かどうかは不明・不確定であるということで、仁徳陵ではないという説も根強い。

こんな、世界最大とも言われる墳墓の主が分からない、確定されていないとはどういうことだと思われる人も多いはずだ。ところが、今回の世界文化遺産登録に当たっては「仁徳天皇陵」と明記されている。

それでいいのだろうかと、私などは思ってしまう。もちろん私自身は仁徳天皇陵に間違いないはずだと考えているし、そうであるという資料(史料)も少なくない。でも、実際には不確定なのだ。

墳墓が作られたのは5世紀頃なので、現在のように整備保存されていたわけではない(管理はされていた)ので、江戸時代には内部の一部が露出していて盗掘の跡もあったらしい。

仁徳天皇陵に比定しているのは、他ならぬ宮内庁である。天皇のお墓だからそういうことになるのだろうか、宮内庁はこの墳墓の精密な学術調査を2018年まで許していなかった。

これは大仙陵に限ったことではない。古市古墳群野中で最大の誉田山(こんだやま)古墳も応神天皇陵と比定されているが、こちらも未調査だったため不確定である。その他全国には同様な墳墓が多数ある。

どうして宮内庁は(墳墓墳丘内部の)学術調査を許さなかったのか、そのことを記した本もあるが、私はまだ読んではいない。しかし、天皇の墓だからという理由だけでは、理由にならないのではないか。

仕方がないので、墳墓墳丘の外部あるいは周辺の調査のみがされていた。また天皇陵(らしき古墳)の周辺に点在する、陪塚(ばいづか)すなわち近親者や従者の墓はどうなのだろうか。

学術調査を求める声が大きくなり、世界文化遺産登録の申請を行うことからなのか、ようやく1年くらいに前に調査が許可された。まだ、その端緒についたばかりで大きな発表は成されていない。

調査が進めばきっと今まで知られていなかったことや不確定だった事柄が、一気に判明する可能性が大きい。もしかしたら仁徳陵である可能性が高まったのだろうか。

何しろ「倭の五王」が一体どの天皇なのかについても、完全には明らかにされておらず諸説あるくらいなのだから。私などは、今後の調査に大いに期待したいところだ。少なくとも閉鎖的な宮内庁ではあってほしくない。

江戸の武士道が幕府を滅ぼした

新大関貴景勝が誕生した、平成最後の大関昇進となる、おめでたいことだ。伝達の使者への口上に「武士道精神」が使われたことで、にわかに「武士道」への関心が高まっているようだ。

私などは、「武士道精神」よりもその後に続いた「感謝と思いやり」の方に耳が傾いたのだが。まぁ、考えてみれば感謝と思いやりもまた、武士道の具体的なカタチ・表れではあろうね。

武士道と聞くと、皆さんは何を連想されるだろうか。佐賀鍋島家の山本常朝が著した『葉隠』だろうか、それとも新渡戸稲造の『武士道』だろうか。私は上杉謙信を思い浮かべた。Photo_3

もっとも、謙信の生きた時代である戦国の世には、まだカタチとしてのハッキリした武士道の定義はなかったらしい。武士道の心(精神)や姿勢自体は鎌倉時代からあったようなのだが、明確になったのは江戸時代だ。

江戸時代と言っても前半はまだ戦国のスタイルを残していたわけで、よって謙信もまた当時の武士の心を体現していたのだろう。義を重んじる姿勢、常に先頭に立って戦う勇の精神が謙信の特長であった。

また、戦国から江戸初期の頃の武士は「主君を代える」ことに躊躇はなかった。最終的に家康に仕え、家康から絶大な信頼を得て幕府成立に大きな力を発揮した、藤堂高虎を見れば分かるとおりだ。

その時代の武士道が変化してきたのは、家康が儒学とくに朱子学を重視したせいだろう。その集大成は5代将軍の徳川綱吉であり、このころから醸成された武士道が今に伝わるものになったのだと推測している。

もっとも、綱吉の少し後の時代に書かれた山本常朝の『葉隠』だが、そこには藩政批判も書かれていたので鍋島家中では広がらなかったらしい(禁書だったという話も伝わる)。

さて、朱子学的武士道は「忠孝」重視、とくに主君への忠義が第一だ。その以前の「忠孝」ではむしろ「孝義」の方が重んじられていたらしい。

それが反対になったのは、綱吉の将軍時代だ。日本的朱子学と言われる所以で、何よりも主君への忠義が重んじられるようになったわけだ。だからこそ、赤穂浪士達は評価され、切腹という名誉の死を与えられたのだ。

それを決定したのが綱吉であることを、無視してはならないだろう。ところが幕末には、この「忠義」という考え方が幕府の崩壊に繋がったことは皮肉なことだ。幕府の基本哲学が、幕府自身を滅ぼしたわけだ。

つまり、忠義の対象たる主君を突き詰めていけば、日本では「天皇」に行き着くことになるわけだから。しかも幕末のそういう哲学のベースになったのは水戸学、すなわち徳川光圀を源とする「大日本史」の思想哲学だ。

黄門様も、まさか自分が推奨した考え方が結果的に「徳川」(幕府)を滅ぼすとは考えてもいなかっただろう。しかも、最後の将軍徳川慶喜は水戸家の出であった。

貴景勝の口上の話から、かなり話題が飛び抜けてしまったが、新大関にはますます精進してがんばってほしい。こうなったら、ぜひ「新年号」で最初の横綱を目指してもらいたいものだ。

脳力開発講座のまとめは歴史講義

今年の脳力開発講座が、今月神戸の第1回講座から始まりました。来月は東京でスタート、新たに開講する福岡は少し遅れて6月から始まります。

 

基本的なプログラムはこれまでの2年間と大きくは変わりませんが、少しずつではありますが新しい試みも加えて(ということは何かを削って)います。

 

まとめの講話について、それぞれ1回はゲストの方をお招きすることを考えているわけですが、後は従来通り私の歴史講話で締めくくります。

 

今回の神戸講座では、定番の織田信長の話でした。これは、脳力開発の提唱者である城野宏先生が、セミナーの中で繰り返しやられた内容でしたから。

 

もちろん、城野先生と同じストーリーではありません。私は私なりに信長を学び、自分の足で足跡を辿り(例えば桶狭間など)、そしてそれを脳力開発に当てはめてお話しします。

 

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歴史の事実は一つですが、その時その人(つまり信長)がどのように考えて行動したかということは、私の想像の産物です。

 

普遍性で、すなわちその条件の中なら人はどう動くかには共通性がある、というところから心を推し量り、そこに信長という特殊性(個性)を加えていくのです。

 

その意味では、信長は普遍性を越えたところに多くの個性があったとも言えるわけで、そこに加えるのは実は「私の個性(特殊性)」なのかも知れません。

 

『信長公記』(太田牛一)をベースにしながら、たくさんの信長研究家の分析を参考にしながら、というよりはそれらに私なりの是非を加えて、皆さんにお話しします。

 

オリジナルを加えているとすれば、そこに「戦略と戦術」という形での盛り付けを工夫していることでしょうか。

 

次回の東京(4月19日)でも、まとめの講義では信長を取り上げます。

梅原猛さんから学んだこと

今日が成人の日と言われても、昭和世代にはちょっと馴染みが薄い。私の時代は1月15日で固定されていた、とはいえ当時の私の感覚では単なる休みの一つだったのだろう。

 

成人式にも出なかった。当時は大阪府高槻市に現住所があり、そこでの式案内をもらった記憶があるが、出席してはいない。神戸の下宿で一人飲みしていたかも知れない。

 

ちょっと世の中に拗ねていた時代だったが、とりわけ反抗的というわけでもなかった。当時流行った「ノンポリ」に近かったのだろうが、日本の歴史(通史)に背を向け始めていた。

 

私が歴史に興味を持ったのは、高校3年生の時の担任が日本史の先生だったからであり、先生が歴史を学ぶ面白さを教えてくれたからだ。

 

歴史とは人間が作ったもの、人間が行動した結果の積み重ねということを教えていただいた。だが、人間が作ったということの、また別の意味をまだ考えてはいなかった。

 

つまり、歴史は確かに人間が行動した結果の積み重ねではあるけれど、為政者や権力者Photo によって脚色、あるいは作り替えがあったものという意識は薄かった。

 

それを覆してくれたきっかけは、梅原猛さんの『隠された十字架』を呼んだからだった。聖徳太子についての通史的な理解をぶち壊された、古代史のイメージが変わった。

 

いや、古代史だけでなくどの時代にも「作られた歴史」があったことを感じた。それまでは、通史の史書ばかりを読んでいた。もちろん講座派とマルクス学派の違いは感じていたが。

 

梅原先生の著書は、その他にも何冊か読んだが、正直私にはかなり難解で理解を超えたものが多かった。それでも古代史を別の視点で見るきっかけになった。

 

どういう意志を持って書かれた歴史なのか、事実を見極めるのは困難ではあるが、事実があること確かなのだ。ベールを外しながら、自分なりに理解することを心がけてきた。

 

昨年は「明治維新150年」だったし、大河ドラマでは西郷隆盛が主人公として描かれたが、私自身は常に維新史に疑問を投げかけて、敗者の目からも見るように心がけた。

 

それによって、今の為政者あるいは権力者が、維新史の中から何をピックアップし、これからどうしていきたいかが私なりに感じられたようだ。

 

その意味で梅原先生には大いに感謝したい。その梅原先生が亡くなられた。合掌。

なぜ元号なのかを知るべきだ

今年も残り3週間、相変わらず巷には『平成最後の』が溢れている。平成という元号が使われるのも、残すところ140日余りになり、新元号がどうなるのか憶測記事もネット上などに散見される。

 

いつ発表されるかの議論も出ており、政府は1ヶ月くらい前を考えているようだが、反対意見、すなわち新天皇が即位の後に発表するようにという声も少なくない。

 

平成の場合には、昭和天皇が崩御されてほとんど間をおかずに発表されたのだが、生前退位の場合はどうするのか、新憲法・新皇室典範の下では前例がないので、そういった議論も巻き起こるのだろう。Photo

 

今の法律では一人の天皇に一つの元号と定められているわけだが、歴史的に見ればそれはほとんど例外的なことだったわけで、それこそ災害や大きな出来事のたびに改元された例が多い。

 

勝手に想像するのは甚だ失礼だろうが、古代いや近世の事例に照らし合わせても、東日本大震災や今年の大水害発生に合わせて瑞祥年号に代えられたのではないだろうか。

 

今年は明治維新150年ということだが、明治天皇の御代は「元号は明治(だけ)だった」と思っている人が多いが、それは正確ではない。

 

しかも慶応に改元されたのは孝明天皇の御代である。孝明天皇が崩御されたのは慶応2年で、新天皇が即位された際にはすぐには改元されなかったのだ。

 

だから、もしかしたら明治天皇ではなくて慶応天皇だったかも知れないし、明治維新ではなく慶応維新と歴史の教科書に記されたかも知れない。新政府樹立という大きな節目なので、改元されたわけだろう。

 

あるいはまた、孝明天皇の御代の元号は「孝明」ではない、「元治」である。元号が諡号とされるようになったのは、明治天皇からだ。それまでの諡号は、元号とは同じではなかった。

 

つまり今盛んに論議されている、検討されている元号は、皇紀2600数十年(神話の時代を含めて)の歴史の中では、全く新しいテーマなのだと言ってよい。

 

日本人なら、こういう歴史の流れを知っておいてほしいと思うが、おそらく現代の歴史あるいは公民と言われる学校教育では、一部を除いてはやられていないのだろう。

 

そういう意味では、歴史教育がないがしろにされていると言っても過言ではないだろう。元号の持つ意味、そして諡号(来年の場合は生前退位なのでまだ先のことになるが)の持つ意味を、知るべきだと思うのだがいかが。

 

元号廃止という意見も少なくない、その方が合理的だという意見に私も反対ではない。しかし、廃止するべきではない。なぜなら、日本人はこれまで元号の元で歴史を刻んできたのだから。

 

元号の意味するところ、その元号がなぜ制定されたのかまでを含めて歴史なのだ。それをいい加減に、あるいはないがしろにすべきではない。「維新」とやらから150年、その前後の歴史を正しく知ることと含めて。

歴史は面白いという視点を大切に

「歴史に学べ」とか「歴史に学ぶことはいいことだ」と、言われるエラい人が少なくない。感じるのは、うがった見方かも知れないが『上から目線』だ。

 

そのようなことを書かれている評論などもたくさんある、1冊の本にされているのも見かける。私も何冊かを手に取って読んだ。共感する部分もあったが、時には反発も感じた。

 
もちろん、私も歴史から学ぶことは大事だと思っている。これから未来に向けての示唆にもなるとも、現在の迷いを解決する手段の一つだと考えてもいる。

 
歴史は「人」が作ったというか、人が行動することによって生まれたものだから、学ぶ価値は大いにある。その時の環境・条件の中で、誰がどう動いたかを知ることは有意義だろう。

 
全く同じ環境・条件であることはないにしても、似たような環境・条件は自分の目の前に現れることがある。その時の参考にはなるはずだ。

 
つまり私の思う「歴史に学ぶ」とは、人間の行動を学ぶことに尽きるわけで、人間(学)を学ぶということに他ならない。

 
上から目線の方々が言うところの「歴史に学ぶ」ことについて考えてみると、二つの問題がある。

 
一つ目は、学ぶ対象が歴史に名を残す人物、さらにいえば時代を作った英傑と呼ばれている人物から学べと言っていることだ。

 
もちろん、無名の人は歴史に名を残さないので、学びようがないということもある。だが、そういう英傑だけを取り上げていいのか。まぁ、中には「失敗に学ぶ」視点もあるようだが。

 
戦国時代でいえば3人の天下人、幕末で言えば3英傑といったところか。それもいいのだが、表の部分だけを取り上げて良いのかということも感じる。Ct0o6gb0_400x400

 
すなわち二つ目の問題、果たしてその歴史は正しいのかということである。歴史はその時の為政者たちによって、都合のいいように歪められているということだ。

 
そこのところをしっかり見ておかないと、誤った認識をしてしまう。脳力開発で学ぶところの両面思考、あるいは多角度思考が大切だ。

 
私も自分のセミナー・脳力開発講座で歴史の人物を取り上げて講義をするが、その視点だけは忘れないようにしている。

 
よって、様々な角度の本を読んで自分なりの考えをまとめている。最近も織田信長に関する、つまり桶狭間の戦いを中心とした「否定的な」内容の本を読んだ。

 
それによっていくつか修正が必要と感じたポイントもある。しかしそれは部分であって、全体を左右するものではないとも思った。

 
明治維新と呼ばれる歴史についても、両方の見解を記した本をたくさん読んできた。ネット情報も数多く拝見した。これからもそうしていくつもりだ。

 
100%正しくということは不可能だろうが、少しでも『真実』に近づけることを目指そう。それには、確定的事実は何かをしっかりととらえることだろう。

 
感情的な思い入れや、無条件の絶賛だけは避けようとも思う。ハッキリ言えることは、「歴史は面白い」ということだ。