「おはぎといも」が歴史をねじ曲げた

「おはぎといも」、何のことかお分かりでしょうか?

 

今正に明治維新150年、大がかりなイベントこそ余り伝わっては来ませんが、地域によってはかなり盛大に祝っているところもあるようです。そう、お「はぎ」と「いも」のところなどでは。

 

おはぎは萩藩、すなわち防長州毛利家であり、いもとは薩摩島津家です。このはぎといもとが、明治維新というすごいことをやってのけたと、歴史の教科書にもハッキリと記してあります。

 

徳川幕府、徳川宗家はこの「はぎといも」に負けたことになるわけですが、歴史の事実を見ていけばどちらに「理」があるのか意見は分かれますが、私は『教科書通り』ではないだろうと感じています。

 

徳川慶喜が大政を奉還したのは事実であるわけですし、慶喜の目的が奈辺にあったかは別として、大政奉還時点で「討幕」の密勅を用意していたものの、それが偽勅であったことも明らかな事実です。

 

朝廷の反幕派公家たちや「はぎといも」の中の一部、例えば西郷や大久保、木戸たちは焦ったでしょうね。慶喜の巻き返しに遭うことは容易に想像できたでしょう。

 

しかも慶喜の目指していたものは、有力公家や大名による合議制であり、それは後に五箇条の御誓文につながる、「万機公論に決すべし」につながることなのですから。

 

慶喜はその合議政体をリードする立場、名称としては「統領」あるいは「議長」あたりを意思していたと思われます。孝明天皇も崩御前にはどうやらそういう形、あるいは慶喜そのものを支持していたようです。

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ところが実際の歴史は、異なる形で進みました。まさに、逆転サヨナラホームランと言えばかっこいいですが、どちらかと言えば「だまし討ち」でした。そして見事に、慶喜が期待していた「はしご」を外してしまいました。

 

それが「王政復古の大号令」なるもの。明治天皇の勅ではありますが、その御年齢から推察するに、天皇自ら勅の内容を考えられたとは思えません。まさに、討幕を意図する側のクーデターだったわけです。

 

しかし、教科書にはクーデターだとは記されません。なぜなら形だけでも実権を握った側による「仕掛け」なのですから。ここで慶喜が毅然として腹をくくれば、とは歴史のイフにしか過ぎませんね。

 

しかし、これで一巻の終わりとはいかなかったわけで、慶喜は辞官納地に全く応じなかったわけですし、しかも在日諸外国は幕府に外交権がなおあることを認めています。

 

そこで、討幕側は「血を見なければ収まらない」ということで、鳥羽伏見の戦いを仕掛けていき、幕軍はその挑発にむざむざと乗ってしまった。それが維新と言われるクーデターの真相ではないか。

 

といったことを、なぜ歴史教育として教えないのか。答は簡単明瞭、「はぎといも」が政権を奪取したからだ。政権側が、事実とは異なる歴史をねつ造することは、ほとんど全ての国がやっていることだ。

 

その血祭りの直接犠牲になったのが、越後長岡であり、二本松や会津であり、そして蝦夷共和国だった。事実が語られなければ、それらの犠牲者は永遠に浮かばれまい。

全軍を置き去りにした将軍

繰り返しになるが今一度書いておきたい。

 

幕末期における政治家の中で、最も外交的センスを持ち、国力を増大していくことにも意欲を見せ、そしてそれをなし得る力と裏付けを持っていたのは徳川慶喜であった。

 

確かに個人としては有能な人材が在野に、例えば討幕側にもいたことは間違いないが、人材、いわゆるテクノラートの数でも幕府は他を圧倒していたことは間違いない。

 

事実、新政府がスタートしてもそこには人材らしい人材がおらず、結局は旧幕府人を多く採用せざるを得なかった。彼らは、大半がいわゆる「ノンキャリ」として新政府の現場仕事を支えていったのだった。

 

そんな幕府であり慶喜であったが、薩長軍側(まだ長州軍は少なかった)に錦旗が翻ることで、形勢は一気に逆転してしまった。その錦旗が、例え間に合わせで大急ぎに作ったものであったとしてもだ。Photo

 

幕府軍の京都侵攻で一時はびびった朝廷だったが、とくに黒幕と言えた岩倉具視を励まし続けたのは、どうも大久保一蔵(利通)らしい。励ますと言うより、尻を叩き続けたのだろう。

 

いずれにしても錦旗が翻ることで、慶喜は大坂城から一歩も出ることがなかった。京都侵攻軍も、淀藩、津藩はじめいくつかの藩が新政府側に寝返り、せっかくの幕府陸軍もなす統べなく大坂に引き上げざるを得なかった。

 

しかし彼らはなおも意気軒昂であったらしい。なにしろ、まだ数の上では十分に優勢なのだから。しかも、優勢な海軍を持っているし、海軍リーダーである榎本武揚も好戦派に属する。

 

慶喜も、彼らの突き上げには「分かった」と言わねばならなかった。翌日再度の進軍を命じたのは、まさに時の勢いだったのだろう。しかし、慶喜の腹は決まっていた、朝敵になるわけにはいかないと。

 

その方法が余りにもまずかったと言うべきか、稚拙であったというのか、それとも慶喜とは所詮そういう程度の器であったというのか。

 

なんと、将兵の多くを置き去りにしたまま軍艦で夜陰に紛れて大坂を逃げ出すのだ。館長である榎本でさえ、地上に上がっていて留守の間だったという。

 

慶喜が同行を命じたのは、老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の4名だけであった。会津藩と桑名藩は、進軍部隊の中核であり多数であったが、その将兵はすべて取り残された。

 

彼らは、主君である将軍には逆らえなかったわけだ。例えそれが理不尽なことだと分かっていても、抗する訳にはいかなかったのだろう、同情の余地はある。それだけに慶喜の罪は重い。しかも江戸に戻ってからがさらに酷い。

 

松平容保松平定敬兄弟は、江戸城への登城すら許されなかったのだ。一体何のために将軍に従い、大切な藩士たちを置き去りにしたのか。

 

藩士にしても藩主の罪を責めるわけにはいかない。会津藩軍事総督の神保長輝(修理)は、藩内抗戦派からの責めを一身に受けて自害に追い込まれる。会津の悲劇はもう始まっていたのだった。

西郷に使い捨てにされた相楽総三と赤報隊

赤報隊と聞くと、31年前に起こった朝日新聞社阪神支局を襲ったテロ事件を思い出す。あの事件も卑劣極まりないものだったが、犯人は未だに捕まらないまま公訴時効を過ぎてしまった。Photo

 

さて犯人(たち)が名乗っていた赤報隊とは、幕末に結成された尊皇攘夷過激派集団が名乗った名前だ。結成は慶応4年、彼ら自身は草莽の士だと言っていたが、間違いなくテロ集団に違いない。

 

その名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられたようだが、結成の後押しをしたのは西郷隆盛と岩倉具視らしい。隊長は相楽総三、下総の郷士の子として江戸で生まれたそうだ。まだ20代の後半。

 

この赤報隊が結成される以前に、相楽は江戸の薩摩藩邸(三田)を根拠地として、藩邸に集まった不逞の輩と共に江戸市中での乱暴狼藉を繰り返すことになる。相楽はそうした浪士隊の総裁を名乗っていたようだ。

 

おそらく藩邸にいた藩士も、何らかの形で騒乱の中に加わってきたのだろうが、いずれにしても堂々と薩摩藩邸に出入りを繰り返すのだから、「知りません」では済まされない。

 

もちろん、西郷からの指令での動きであるから、いずれ何かことが起こることは予測していたはずだ。というよりも、西郷はそれ(報せ)を今か今かと待っていたに違いない。

 

ついに庄内藩を中軸とした幕府側が藩邸を襲撃し、浪士どもを斬り捨て、あるいは捕縛したことは前回も触れたとおりだ。すなわち大半がこの時に命を失うか、あるいは散り散りに逃げた。

 

この事件が導火線になって、戊辰戦争の最初の戦い、鳥羽伏見の戦いが始まるのだが、それについては次回以降に書いていくことにしよう。

 

問題は京都に逃げ帰った相楽たちの行く末のことだ。相楽を隊長に赤報隊が結成され、東山道軍いわゆる「官軍」の先鋒隊として江戸を目指すことになる。

 

相楽たち赤報隊は、新政府の許可を得て各地で「年貢半減」を宣伝して進軍する。これが各地の民衆の支持を得たことは当然だろう。しかしあくまで口約束で、裏付ける新政府の文書などは発行されていない。

 

第一に、カネのない(江戸に向かう軍費用さえ乏しかった)新政府に、全く財政的裏付けのない年貢半減など、明らかにまやかしの宣伝に過ぎなかった。

 

新政府は密かに年貢半減の「(空)手形」を取消し、これは赤報隊が勝手にやったことだとし、ついには「偽官軍」であると触れて廻った。つまり、相楽たちははしごを外されたわけだ。

 

これに対して西郷がかばい立てに動いた形跡は全くない、見殺しにしたわけだ。用が終わったから不要になった、使い捨てだといった方がいいだろう。相楽総三は信州で敗戦し、下諏訪で処刑された。

 

実際のところ、相楽たちは官軍を名乗りながら行軍の途中で略奪を繰り返していたし、「官軍の捨て駒にされた悲劇の主人公」といった綺麗事ではない部分が多い。

 

昭和に入って相楽たちの名誉が回復されたそうだが、そのことが冒頭の昭和末期のテロ事件に糸がつながっていたのだとしたら、何をか言わんやである。

大政奉還から王政復古までの隙間

教科書的にいうと、一連の流れはこのようになっています。

 

徳川慶喜は、土佐藩の山内容堂の進言を容れて大政奉還を決意し、朝廷に申し入れて認められた。これによって、家康以来260余年続いた徳川幕府は政権を朝廷に返上した。

 

次いで、朝廷は薩摩藩など雄藩の支持を得て王政復古の大号令を発し、これによって文字通り幕府は終わりを告げることになった。

 

私も含めてみんなこの「歴史」を信じて疑わず、徳川(幕府)から新政権(朝廷)への移行がスムースに行われたものと認識していたわけです。

 

それならばなぜ、その後の鳥羽伏見の戦いから会津戦争、五稜郭の戦いに至る「戊辰戦争」が起こったのか。戊辰戦争と言うが、鳥羽伏見の戦い自体は確かに戊辰の年だが、その年で終わったのではない。

 

そもそも政権移行と言うが、政治には内政と外交とがある。一体誰が内政を担い、誰が外交を担当していたのか。内政はともかく外交には相手国があるのだが、それらの国は新政権を承認していたのか?

 

とにかく疑問だらけだ、というよりきれい事(ハッキリ言えばウソ)で固めたが故に、つじつまの合わないことばかりなのだ。それを『正史』として学ばされたのでは、迷惑極まりないではないか。

 

正しい歴史を学べと言っている政治家、学者、評論家などなどがたくさんいるのだが、こんな間違った歴史を学んでも何にもならない。

 

もしかして学校での歴史の勉強がいつも、幕末維新で終わってそのあとはさらりと流してきたのは、正しい歴史を覆い隠すが故のことなのか? そもそも多くの教師が、正しい歴史を知っているとは言いがたい。

 

さて大政奉還も事実だし、王政復古の(大)号令も史実には違いない。それを否定しようとは思わないが、その二つの出来事の間には何があったのだろうか。Photo_3

 

何よりハッキリしていることは、大政奉還のあとでも政権運営能力を持っていたのは徳川幕府であったこと。慶喜と彼を取り巻く幕僚たち、江戸の官僚たちであった事実だ。

 

朝廷の公家どもにはそんな能力など、ホンのかけらもない。彼がやれたことは、ああでもないこうでもないと無味乾燥な意見を述べるか、有職故実をさぐってみて「分からない」という結論に至るだけのことだ。

 

あとは、偽物の勅や綸旨をねつ造すること、声の大きな力の強そうな人間の意見に相乗りしていくことくらいであった。その人間の一人が岩倉具視という怪物だった。その岩倉を薩摩の西郷や大久保がバックアップしていた。

 

大政奉還をしても慶喜はまだ実権を握っていた。政治テクノラートは自分の側にしかいなかったのだし、とくに外交権は朝廷からも確かに委任されていた。諸外国もあくまで慶喜側を窓口にしていたのだった。

 

格好を付けて「王政復古」を宣言したものの、どうにも動けない朝廷側は右往左往していたのだ。何よりおカネがない、何をやるにも先立つものがない。そこで慶喜に辞官納地を命じようとしたのだった。

慶喜の大政奉還は逆転満塁ホームラン

一気に歴史の歯車を進める、慶応3年まで、西暦でいえば1867年になる。つまり「明治維新(とやら)150年」のわずか1年前ということになる。

 

1014日(旧暦)に大きな政治的事件があった、言うまでもなく大政奉還だ。二条城で、徳川慶喜が京都在住の諸藩士(重臣)を集め大政奉還を諮問し、その後明治天皇に奏上したということで、正式勅許は翌15日だ。Photo

 

大政奉還に至る経緯はいろんなところに書かれているのでここでは触れないが、土佐藩からの建白・勧奨があったことは事実のようだ。ただしそれが坂本龍馬からの意見具申から始まった、というのは甚だ疑問だ。

 

もちろん大政奉還が龍馬のオリジナル意見でないことは自明の事実だが、土佐藩内で実力を持っていた後藤象二郎が、どれだけ龍馬から意見を聞いたか、あるいは受け容れたかについてはどんなものだろう。

 

この土佐藩の建白を、薩摩藩(西郷、大久保)が当初承認したわけだが、おそらく慶喜が受けるわけはないだろうと考えていたのだろうか。とすれば、なんとも慶喜を見くびったものだ。

 

とくに西郷がどのような政権構想を抱いていたのか、それについては遺されたものがほとんどないので想像するしかないのだが、おそらく慶喜の半分もまともなものではなかったように思われる。

 

私は慶喜という人物は好きでないし、彼がもっと毅然として事に当たっていたら越後(長岡)や会津の悲劇はなかったのではないかと思うので、甚だ遺憾な行動を続けたと思っている。

 

しかしそのことを差し引いても、当時の日本で最も第一級情報をたくさん持ち、世界レベルでの将来展望持ち得ていたのは、慶喜であり彼のブレインであったはずだ。

 

西郷など、勝海舟に一度面会して「世界に目を開いた」とも言われているが、これは私の想像だが、西郷が目を見開いたのは海舟が論じた「幕府はダメだ」ということではなかったか。

 

百歩譲っても、薩摩藩の世界への窓はイギリス(の恫喝外交)であり、フランスへの対抗ということで伝えられる情報ルートでは、グローバルな物の見方ができたとは思えない。

 

そして、西郷も大久保も朝廷内の黒幕であった岩倉(具視)に振り回されるのだ。その意味では、岩倉は非常に興味ある人物には違いないが、なぜ「500円札になったのか」その理由が分からない。

 

岩倉は一度失脚している、というより天誅の嵐におびえて逼塞しただけだ。その当時は孝明天皇の公武合体主義に追随していたわけだが、長州過激派から恫喝されると尻尾を巻いて逃げ出している。

 

それがのこのこと戻ってきたらと思ったら、公武合体主義を取り下げてしまい、討幕論に傾いていく。それが故に孝明天皇の「病死」に関して、疑惑を抱かれる存在になったのも自業自得だろう。

 

確かなことは、孝明天皇の死が歴史の回転を一気に逆回転にしたことだろう。そこに岩倉が介在したかどうかは知ったことではないが、何らかの関わりがあったと想像することはたやすい、それまでの人物だったということだが。

 

その岩倉は王政復古を企画して暗躍し、偽勅を作成して行動を起こそうとした、その刹那に慶喜の大政奉還に機先を制された訳だ。ある意味痛快なことだった。

イギリス・薩摩・長州の三角密貿易

武器(大砲や小銃など)や蒸気軍船の購入を薩摩藩が行い、その代金を長州藩は米によって支払ったということを前週は書いた。ある意味の物々交換に見えるが、しかしこれは正確ではない。

 

それは当然ながら武器や船の代金を受け取ったのは誰かということだ。言うまでもなくそれがグラバー商会であることは間違いない。さらにいうならば、その後ろにいるイギリスという国だった。

 

つまり三角交易だった。この時期、幕府は諸外国つまり英仏米蘭に対して、幕府以外に武器や船を売ることを制限しようとしている。そしてイギリス以外の三国は、この取り決めをほぼ守っていた。

 

だがイギリスは違っていた。薩摩とのパイプを太くしていた上に、下関での交易の重要性を見ていたのだろう。しかし表だっては長州藩には近づけない、そこで薩摩藩だ。Photo_3

 

ちなみに、薩摩藩は生麦事件の報復攻撃でイギリス海軍と戦っている。開戦当初は優勢だったが、イギリス軍艦が備えていたアームストロング砲に砲台は壊滅、鹿児島の町も焼かれた。

 

これによって薩摩藩は「開国」に目覚めた、と通説は言う。それは大いに間違っている、島津斉彬はその生存中ひと言も「攘夷」とは言っていない。むしろ近代化を急いで力をつけた上で開国し、欧米と肩を並べようとした。

 

後を継いで実質的に薩摩の君主となった島津久光も、考え方としては兄である斉彬を引き継いでいる。つまり、薩摩は長州藩とは違い、攘夷の発想でイギリスと戦ったわけではない。

 

だから本来、薩摩と長州は相容れないはずなのだ。しかし、そこにイギリスが介在することで絵に描いたような三角形になってしまう。その三角形が実際の形になったのが、武器・軍船の三角貿易だと言える。

 

長州藩にはカネ(現ナマ)がなかった。四境戦争の賠償金を、攘夷を命じた幕府に押しつけたものの、内部抗争で疲弊していたし、禁門の変や第一次長州征伐での戦費も膨大だったからだ。

 

なお、幕府は確かに朝廷に押し切られて攘夷を命じたが、あくまで「相手から発砲された場合」にだけ、対抗して発砲するようにと命じていた。それを勝手に破ったのは長州藩で、ぼろ負けして、責任を転嫁した。

 

薩摩藩もまた、イギリスから賠償請求されたが、この賠償金は幕府に借りて支払った。ただし、借りた金は結局返さなかったのだから、長州藩と同じ穴のムジナだろう。

 

さて、カネのない長州藩は米で支払おうとしたがイギリスは拒否する。米は貿易禁止品に指定されていたので、日本国内では銀への交換ができない。本国等では米を食さないから、大量にもらっても困る。

 

そこで薩摩藩だ。土地が痩せていて米不足に悩んでいたわけだから、渡りに船だった。琉球での密貿易(すでに公になっていたが)や、奄美等でのサトウキビ砂糖の搾取で稼いだカネを使ったわけだ。

 

こうして手に入れた武器で、長州藩は幕府側と戦うことになる。相手も同じ日本人だ。イギリスは中国(清国)ではアヘンで人民を苦しめたが、日本では密貿易の武器で殺し合いをさせたことになる。

 

その長州藩の軍制の整備と武器近代化を推進したのが大村益次郎だった。日本人同士の殺し合いを主導した人物が、銅像としてそそり立っているところ、それが靖国神社だ。

亀山社中の「社中」ってなんや?

清酒「薩長同盟」という純米吟醸酒が発売されたらしい。まだお目にかかってはいないが、何でも鹿児島産の山田錦を使い、山口市の酒造蔵が仕上げたということだ。

 

明治維新150年を記念してのものだというが、両方の大学農学部もからんでいるそうだ。これから芋焼酎も造るとのことで、こちらは鹿児島のサツマイモに山口の酒米による麹を使う。

 

このニュースを聞いて思い出したのは、薩長両藩が盟約を交わした直後、長州が米を薩摩に送ったということだ。もちろんこれは史実だが、それは長州藩が購入した軍船と新式銃の代金としてだ。

 

これが第二次長州征伐の前夜です。すなわち、もしこの盟約が成立しなかったと仮定すると、長州藩は武器や船を(外国から)購入することができなかったので、勝利はおぼつかなかった可能性が高い。

 

そこで武器や蒸気船(ユニオン号)の購入は薩摩藩が代わりに行い、その代金を薩摩藩で不足がちだった米によって支払うという約束がなされた。その仲介と運搬、業務代行を行ったのが坂本龍馬だ。

 

世に言うところの亀山社中だが、この実態も定かではない。神戸海軍操練所の閉鎖後、仲間と共に薩摩藩の庇護下に入っていた龍馬は、長崎での活動を始めていたがその地が亀山というところだった。

 

社中とは何なのか、お茶の仲間や音楽仲間などの集まりで時々使われるのを見るが、要は仲間内といったところだろう。社中を「会社」とか「商社」などと誤った解釈をし、亀山社中を日本初の商社などいうのは大間違いだ。

 

第一そのようなキチンとした組織ではなかった。とくに規約なども決まっていなかった、緩いつながりの中で各人が動いていたらしい。何より中心となるべき龍馬自身が、長崎に落ち着いてはいなかった。

 

しかしながら事実として、薩摩藩が代わりに手配し仕入れた小銃と軍艦を長州に「納品」したのが龍馬であり、亀山社中のメンバーであった。もっとも、船の所属をどうするかで揉めたらしいが。

 

そこで素朴な疑問だが、そもそも龍馬や亀山社中に「輸入(代行)業務)などができたのか? 裏の薩摩の影があるとは言え、龍馬は一介の浪人・土佐藩脱藩者に過ぎない。

 

考えられるのはもっと大きな力が介在したのだろうということ。これは常識的に考えてもそうだろう。ではそれは誰であり、何であろうか。有力な説ではグラバー(商会)であり、マセソン商会であるということだ。Photo

 

グラバー園は世界文化遺産に登録され、長崎を訪れる観光客のほとんどが足を向ける観光地だが、幕末という時代には、そこは「武器商人・死の商人」のフランチャイズ、あるいはより大きな商社の代理店だった。

 

龍馬にしたところで、グラバーの力なくしては何もできなかったのではないか。そのグラバーのバックグラウンドはジャーディン・マセソン商会、さらにその背景にはイギリスすなわち大英帝国があったはずだ。

 

そしてこの頃から、幕府とくに江戸の政権にはフランスがアプローチをしている。当時のフランスは第二帝政、つまりナポレオン三世の時代だ。英仏の利害が日本でぶつかり合う?

 

そこまでの類推は私のような素人には難しいが、すでに中国(清朝)では列強の利害対立が激しくなっていた。この辺りのアプローチは、薩長史観教育ではさらりと流されている、なぜだろう。

薩長同盟の中身を検分してみると

<薩長史観へのアンチテーゼ>

薩長同盟とやらについて。前回も書いたように、正式な文書が取り交わされたのかどうかも不明だし、薩長同盟という名称も、後から名付けられたものに過ぎない。しかし、学校の歴史教育ではそのように教えている。

 

内容から言えば、同盟と言うよりは「盟約」、あるいはせいぜい約束事くらいの感じではなかっただろうか。それでも朝敵とされ、追い詰められていた当時の長州藩にとっては、何よりも心強かったに違いない。

 

正式な交換文書は(現在)存在していないわけで、木戸寛治(桂小五郎、後の木戸孝允)が記憶のままに筆記したものに、坂本龍馬が保証する旨の裏書きサイン(写真)をしたものが、伝わってきている。

 

それを引用してみよう。

一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事


上の文書のどこに「倒幕」、あるいは「討幕」ということが書かれているのか。京都へ(薩摩藩の)兵を2千人送るとは書いてあるが、それをもって幕府軍、会津藩や新撰組と一戦交えるとは書いていない。Photo

 

戦いと相成り候時」とはあるが、幕府と名指しをしていない。話し合いの中でそういう想定もでたかも知れないが、軍事同盟だというなら相手を明示しておかねばならないだろう。

 

要するに、第二次長州征伐が始まれば薩摩が京都(と大坂)に兵を出して、その動きを牽制する。その上で、幕府軍が撤退したら朝廷に対し、長州に対する冤罪や朝敵認定の取消について尽力する、といった内容だ。

 

結果として薩摩藩は第二次長州征伐には出兵せず、長州藩が勝利を得るのだが、勝因は幕府軍が各藩の寄せ集めで士気も低く、自滅自壊したといったところ。

 

この中に「橋会桑」とあるのは、一橋慶喜、会津藩と桑名藩のことである。禁門の変では薩摩藩と連携していたのだが、ここに至って離れ始めたというわけだ。

 

史料によれば、薩摩藩も藩全体の意思(島津久光の意思)はこの時点ではまだ「佐幕」であり、討幕の意思を鮮明に持ち始めていたのは西郷くらいではなかったかと、推察されるのだ。

薩長同盟とやらは倒幕軍事同盟ではない


薩長同盟とやら
について書こうと思う。

 

その前に前回書いた高杉晋作と、薩摩の西郷隆盛とは出会ったことがあるだろうか。残された史料や評論などを読む限りにおいては否であるようだ。

 

薩長同盟とやらが締結されたと言われるのが慶応2年の1月(旧暦)で、その年6月の第二次長州征伐(四境戦争)では、高杉は海軍総督として指揮を執っている。ただし西郷の薩摩藩はこの戦いに出兵していない。

 

薩長同盟とやらの締結前に西郷は下関に立ち寄り桂と会うことになっていたが、西郷は素通りして京都に直行してしまっている。よって、西郷は高杉と会うことがなかったはずだ(と思っていた)。

 

ところが、最近発見された資料によると、どうも第一次長州征伐の後で二人は対談?しているらしい、場所は下関の対帆楼という料亭だという。ここで、長州藩の「降伏」条件を確認したようだ。

 

その際に、今後のことを高杉と西郷が話し合った可能性がなかったとは言えない。もしかしたら、後の薩長同盟とやらにつながるようなことが、話題に上ったとしても不思議ではないわけだ。

 

だが高杉は慶応2年の夏頃には労咳の症状が重くなり、下関にて療養生活に入ったようで翌年春に死去している。高杉が薩摩とのつながりを重視したことは確かだが、結局その中に参加することはなかったようだ。

 

さて、ここまで何度も薩長同盟「とやら」と書いてきた。イメージ的には軍事同盟なので、条文を書いた書面を取り交わしたように思えるが、いわゆる書類はなかったようだ。

 

双方の主役すなわち交渉役は、長州が木戸寛治(桂小五郎)そして薩摩は西郷吉之助(隆盛)だった。桂は拗ねていたらしい、西郷が下関を素通りして面会をすっぽかしたせいでもあり、弱みを見せたくなったのだろう。Photo

 

しかし薩摩にも薩摩のメンツがある。それを周旋したのが坂本龍馬だと言われる。だが、その裏にはイギリスの影がチラチラしている。

 

その表の主役は駐日英国公使のパークスであるはずだ。パークスは何度か高杉と会い、薩摩との盟約をそそのかしたはずで、その話は高杉から桂に伝えられていることは間違いない。

 

さらに裏の主役は政商(死の商人ともいう)であるグラバーで、そのグラバーを出先に据えるマゼソン商会と言えるだろう。後のグラバーの手先として動いたのが龍馬だ。本人にその感覚があったかどうかは別だが。

 

そして正式に交わされた、互いに署名をした書類などはなかったが、桂が覚え書きとして口頭で交わした約定を書面にし、それに裏書きで署名したのが龍馬だ。つまりこれで間違いないと、龍馬が保証したのだ。

 

これをもって「倒幕」に向けて、長州と薩摩がタッグを組んで動き始めたと正史=薩長史観は主張するが、そんな簡単なものではなかった。第一、この盟約が「薩長同盟」などと呼ばれることは少なくとも当時はなかった。

 

その上に条文をどう読んでも、幕府を討伐するための軍事同盟だなどとはとても読めないのだ。ウソだと思う方は、龍馬が保証署名した条文を読んでみるがいい、どこに「幕府を討つ」と書いてあるのか。ではまた次に。

晋作はいわゆるやんちゃ坊主

<反・薩長史観>

『おもしろき こともなき世を おもしろく』は、高杉晋作の辞世の句とされている。晩年の高杉を看病し、その死を看取った野村望東尼が、「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われています。

 

これが慶応3年(1867年)春のことだが、その少し前から労咳(肺結核)に冒されていたという。27歳の死であったが、まさに幕末の世を一気に駆け抜けた生涯であった。

 

この高杉を顕彰したのは明治新政府、とりわけ長州閥の面々でなかでも伊藤博文が熱心であった。

 

高杉は松下村塾に通ったが、塾生の中では最も高い身分であったと言われる。過激な思想を持つ松陰を師とすることには父親が猛反対であり、何度か引き離されている。

 

高杉自身も松陰のあまりの過激な発言を制することもあり、やや距離を置いていたようではあるが、安政の大獄による処刑には衝撃を受け、次第に松陰の思想に傾倒していくようになったようだ。

 

だが、禁門の変に突入していった久坂玄瑞とは一線を画し、一時は藩政からは自ら身を引いて逼塞している。だが、時代が高杉を必要とするようになる。

 

関門海峡における攘夷の実行に対し、4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠などを行った後の和議交渉で、高杉は全権の役を担っている。

 

上海への渡航体験で見聞したことが買われたわけだが、その態度は交渉相手のひんしゅくを買ったのではないかと思われる。もっとも強い態度が、逆に効果をもたらしたとも評されている。

 

たとえば、イギリスが「彦島租借」を持ち出した際には、日本の歴史を披瀝して煙に巻いたとか威風堂々と反論した結果、租借を免れたとも言われるが、これが史実かどうかはハッキリ言って分からない。Photo

 

この明確に分からない(事実でない)ことが、薩長史観の中では「高杉の手柄」として主張されていること自体がまやかしといえるのではないか。

 

他にも、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ちした事件にも高杉は参加しているが、これは上海密航留学の後である。渡航体験で「正しい認識を得ていた」などと、どうして言えるのか?

 

第一次長州征伐のおりには、「功山寺の挙兵」を実行して結果として藩政を握ることになるが、確かに行動の人であろうとは言える。だが、奇兵隊の創設、初代総督は確かに高杉だが、すぐに手放さざるを得なくなっている。

 

功山寺挙兵でも、奇兵隊は最後にやっと動いたのであり、危ういところでの挙兵成功だった。

 

第二次長州征伐では、幕府海軍を撃退したり小倉城攻撃を成功しているが、これも当初から幕府側の志気が上がっていなかったことや、将軍家茂の死去による組織壊滅によるところが大きい。

 

また、幕府側から薩摩すなわち西郷が外れていたことが「勝利」につながったであろう。しかし、結局高杉は西郷と出会うことなくこの世を去る。西郷は高杉の「功績」など、知らなかったのではないか?