大仙陵はホントに仁徳天皇陵なのか?

国連教育科学文化機関(ユネスコ)諮問機関のイコモスが、世界文化遺産に「百舌鳥(もず)・古市古墳群」(大阪府)を登録するよう勧告したという、嬉しいニュースが入ってきた。

来月には、間違いなく登録が決定されるだろう。この古墳群には大小49の古墳があるそうで、それらは4世紀後半から100年前後の天皇(正確には大王=おおきみ)や、豪族の墳墓であるはずだ。

私は大学卒業までは大阪や神戸に住んでいたので、この古墳群には小学校の遠足で来たこともあり、歴史を学んでいた学生時代にも何度か訪れたことがある。

この内最も著名な古墳(前方後円墳)は、墳丘の長さが525m、紺としての最大長が840mもある大仙陵で、説明書きには「世界最大」とされている。古墳の周りをぐるりと1周すると3キロ近くある。

ところでこの墳墓の主、すなわち埋葬されているとされているのは仁徳天皇(第16代)である。私が小学校時代に習った教科書には「仁徳天皇陵」と、明確に記してあった。
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それがいつしか大仙陵と呼ばれるようになり、「伝仁徳天皇陵」と表現されることもあった。要するに、仁徳天皇陵かどうかは不明・不確定であるということで、仁徳陵ではないという説も根強い。

こんな、世界最大とも言われる墳墓の主が分からない、確定されていないとはどういうことだと思われる人も多いはずだ。ところが、今回の世界文化遺産登録に当たっては「仁徳天皇陵」と明記されている。

それでいいのだろうかと、私などは思ってしまう。もちろん私自身は仁徳天皇陵に間違いないはずだと考えているし、そうであるという資料(史料)も少なくない。でも、実際には不確定なのだ。

墳墓が作られたのは5世紀頃なので、現在のように整備保存されていたわけではない(管理はされていた)ので、江戸時代には内部の一部が露出していて盗掘の跡もあったらしい。

仁徳天皇陵に比定しているのは、他ならぬ宮内庁である。天皇のお墓だからそういうことになるのだろうか、宮内庁はこの墳墓の精密な学術調査を2018年まで許していなかった。

これは大仙陵に限ったことではない。古市古墳群野中で最大の誉田山(こんだやま)古墳も応神天皇陵と比定されているが、こちらも未調査だったため不確定である。その他全国には同様な墳墓が多数ある。

どうして宮内庁は(墳墓墳丘内部の)学術調査を許さなかったのか、そのことを記した本もあるが、私はまだ読んではいない。しかし、天皇の墓だからという理由だけでは、理由にならないのではないか。

仕方がないので、墳墓墳丘の外部あるいは周辺の調査のみがされていた。また天皇陵(らしき古墳)の周辺に点在する、陪塚(ばいづか)すなわち近親者や従者の墓はどうなのだろうか。

学術調査を求める声が大きくなり、世界文化遺産登録の申請を行うことからなのか、ようやく1年くらいに前に調査が許可された。まだ、その端緒についたばかりで大きな発表は成されていない。

調査が進めばきっと今まで知られていなかったことや不確定だった事柄が、一気に判明する可能性が大きい。もしかしたら仁徳陵である可能性が高まったのだろうか。

何しろ「倭の五王」が一体どの天皇なのかについても、完全には明らかにされておらず諸説あるくらいなのだから。私などは、今後の調査に大いに期待したいところだ。少なくとも閉鎖的な宮内庁ではあってほしくない。

江戸の武士道が幕府を滅ぼした

新大関貴景勝が誕生した、平成最後の大関昇進となる、おめでたいことだ。伝達の使者への口上に「武士道精神」が使われたことで、にわかに「武士道」への関心が高まっているようだ。

私などは、「武士道精神」よりもその後に続いた「感謝と思いやり」の方に耳が傾いたのだが。まぁ、考えてみれば感謝と思いやりもまた、武士道の具体的なカタチ・表れではあろうね。

武士道と聞くと、皆さんは何を連想されるだろうか。佐賀鍋島家の山本常朝が著した『葉隠』だろうか、それとも新渡戸稲造の『武士道』だろうか。私は上杉謙信を思い浮かべた。Photo_3

もっとも、謙信の生きた時代である戦国の世には、まだカタチとしてのハッキリした武士道の定義はなかったらしい。武士道の心(精神)や姿勢自体は鎌倉時代からあったようなのだが、明確になったのは江戸時代だ。

江戸時代と言っても前半はまだ戦国のスタイルを残していたわけで、よって謙信もまた当時の武士の心を体現していたのだろう。義を重んじる姿勢、常に先頭に立って戦う勇の精神が謙信の特長であった。

また、戦国から江戸初期の頃の武士は「主君を代える」ことに躊躇はなかった。最終的に家康に仕え、家康から絶大な信頼を得て幕府成立に大きな力を発揮した、藤堂高虎を見れば分かるとおりだ。

その時代の武士道が変化してきたのは、家康が儒学とくに朱子学を重視したせいだろう。その集大成は5代将軍の徳川綱吉であり、このころから醸成された武士道が今に伝わるものになったのだと推測している。

もっとも、綱吉の少し後の時代に書かれた山本常朝の『葉隠』だが、そこには藩政批判も書かれていたので鍋島家中では広がらなかったらしい(禁書だったという話も伝わる)。

さて、朱子学的武士道は「忠孝」重視、とくに主君への忠義が第一だ。その以前の「忠孝」ではむしろ「孝義」の方が重んじられていたらしい。

それが反対になったのは、綱吉の将軍時代だ。日本的朱子学と言われる所以で、何よりも主君への忠義が重んじられるようになったわけだ。だからこそ、赤穂浪士達は評価され、切腹という名誉の死を与えられたのだ。

それを決定したのが綱吉であることを、無視してはならないだろう。ところが幕末には、この「忠義」という考え方が幕府の崩壊に繋がったことは皮肉なことだ。幕府の基本哲学が、幕府自身を滅ぼしたわけだ。

つまり、忠義の対象たる主君を突き詰めていけば、日本では「天皇」に行き着くことになるわけだから。しかも幕末のそういう哲学のベースになったのは水戸学、すなわち徳川光圀を源とする「大日本史」の思想哲学だ。

黄門様も、まさか自分が推奨した考え方が結果的に「徳川」(幕府)を滅ぼすとは考えてもいなかっただろう。しかも、最後の将軍徳川慶喜は水戸家の出であった。

貴景勝の口上の話から、かなり話題が飛び抜けてしまったが、新大関にはますます精進してがんばってほしい。こうなったら、ぜひ「新年号」で最初の横綱を目指してもらいたいものだ。

脳力開発講座のまとめは歴史講義

今年の脳力開発講座が、今月神戸の第1回講座から始まりました。来月は東京でスタート、新たに開講する福岡は少し遅れて6月から始まります。

 

基本的なプログラムはこれまでの2年間と大きくは変わりませんが、少しずつではありますが新しい試みも加えて(ということは何かを削って)います。

 

まとめの講話について、それぞれ1回はゲストの方をお招きすることを考えているわけですが、後は従来通り私の歴史講話で締めくくります。

 

今回の神戸講座では、定番の織田信長の話でした。これは、脳力開発の提唱者である城野宏先生が、セミナーの中で繰り返しやられた内容でしたから。

 

もちろん、城野先生と同じストーリーではありません。私は私なりに信長を学び、自分の足で足跡を辿り(例えば桶狭間など)、そしてそれを脳力開発に当てはめてお話しします。

 

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歴史の事実は一つですが、その時その人(つまり信長)がどのように考えて行動したかということは、私の想像の産物です。

 

普遍性で、すなわちその条件の中なら人はどう動くかには共通性がある、というところから心を推し量り、そこに信長という特殊性(個性)を加えていくのです。

 

その意味では、信長は普遍性を越えたところに多くの個性があったとも言えるわけで、そこに加えるのは実は「私の個性(特殊性)」なのかも知れません。

 

『信長公記』(太田牛一)をベースにしながら、たくさんの信長研究家の分析を参考にしながら、というよりはそれらに私なりの是非を加えて、皆さんにお話しします。

 

オリジナルを加えているとすれば、そこに「戦略と戦術」という形での盛り付けを工夫していることでしょうか。

 

次回の東京(4月19日)でも、まとめの講義では信長を取り上げます。

梅原猛さんから学んだこと

今日が成人の日と言われても、昭和世代にはちょっと馴染みが薄い。私の時代は1月15日で固定されていた、とはいえ当時の私の感覚では単なる休みの一つだったのだろう。

 

成人式にも出なかった。当時は大阪府高槻市に現住所があり、そこでの式案内をもらった記憶があるが、出席してはいない。神戸の下宿で一人飲みしていたかも知れない。

 

ちょっと世の中に拗ねていた時代だったが、とりわけ反抗的というわけでもなかった。当時流行った「ノンポリ」に近かったのだろうが、日本の歴史(通史)に背を向け始めていた。

 

私が歴史に興味を持ったのは、高校3年生の時の担任が日本史の先生だったからであり、先生が歴史を学ぶ面白さを教えてくれたからだ。

 

歴史とは人間が作ったもの、人間が行動した結果の積み重ねということを教えていただいた。だが、人間が作ったということの、また別の意味をまだ考えてはいなかった。

 

つまり、歴史は確かに人間が行動した結果の積み重ねではあるけれど、為政者や権力者Photo によって脚色、あるいは作り替えがあったものという意識は薄かった。

 

それを覆してくれたきっかけは、梅原猛さんの『隠された十字架』を呼んだからだった。聖徳太子についての通史的な理解をぶち壊された、古代史のイメージが変わった。

 

いや、古代史だけでなくどの時代にも「作られた歴史」があったことを感じた。それまでは、通史の史書ばかりを読んでいた。もちろん講座派とマルクス学派の違いは感じていたが。

 

梅原先生の著書は、その他にも何冊か読んだが、正直私にはかなり難解で理解を超えたものが多かった。それでも古代史を別の視点で見るきっかけになった。

 

どういう意志を持って書かれた歴史なのか、事実を見極めるのは困難ではあるが、事実があること確かなのだ。ベールを外しながら、自分なりに理解することを心がけてきた。

 

昨年は「明治維新150年」だったし、大河ドラマでは西郷隆盛が主人公として描かれたが、私自身は常に維新史に疑問を投げかけて、敗者の目からも見るように心がけた。

 

それによって、今の為政者あるいは権力者が、維新史の中から何をピックアップし、これからどうしていきたいかが私なりに感じられたようだ。

 

その意味で梅原先生には大いに感謝したい。その梅原先生が亡くなられた。合掌。

なぜ元号なのかを知るべきだ

今年も残り3週間、相変わらず巷には『平成最後の』が溢れている。平成という元号が使われるのも、残すところ140日余りになり、新元号がどうなるのか憶測記事もネット上などに散見される。

 

いつ発表されるかの議論も出ており、政府は1ヶ月くらい前を考えているようだが、反対意見、すなわち新天皇が即位の後に発表するようにという声も少なくない。

 

平成の場合には、昭和天皇が崩御されてほとんど間をおかずに発表されたのだが、生前退位の場合はどうするのか、新憲法・新皇室典範の下では前例がないので、そういった議論も巻き起こるのだろう。Photo

 

今の法律では一人の天皇に一つの元号と定められているわけだが、歴史的に見ればそれはほとんど例外的なことだったわけで、それこそ災害や大きな出来事のたびに改元された例が多い。

 

勝手に想像するのは甚だ失礼だろうが、古代いや近世の事例に照らし合わせても、東日本大震災や今年の大水害発生に合わせて瑞祥年号に代えられたのではないだろうか。

 

今年は明治維新150年ということだが、明治天皇の御代は「元号は明治(だけ)だった」と思っている人が多いが、それは正確ではない。

 

しかも慶応に改元されたのは孝明天皇の御代である。孝明天皇が崩御されたのは慶応2年で、新天皇が即位された際にはすぐには改元されなかったのだ。

 

だから、もしかしたら明治天皇ではなくて慶応天皇だったかも知れないし、明治維新ではなく慶応維新と歴史の教科書に記されたかも知れない。新政府樹立という大きな節目なので、改元されたわけだろう。

 

あるいはまた、孝明天皇の御代の元号は「孝明」ではない、「元治」である。元号が諡号とされるようになったのは、明治天皇からだ。それまでの諡号は、元号とは同じではなかった。

 

つまり今盛んに論議されている、検討されている元号は、皇紀2600数十年(神話の時代を含めて)の歴史の中では、全く新しいテーマなのだと言ってよい。

 

日本人なら、こういう歴史の流れを知っておいてほしいと思うが、おそらく現代の歴史あるいは公民と言われる学校教育では、一部を除いてはやられていないのだろう。

 

そういう意味では、歴史教育がないがしろにされていると言っても過言ではないだろう。元号の持つ意味、そして諡号(来年の場合は生前退位なのでまだ先のことになるが)の持つ意味を、知るべきだと思うのだがいかが。

 

元号廃止という意見も少なくない、その方が合理的だという意見に私も反対ではない。しかし、廃止するべきではない。なぜなら、日本人はこれまで元号の元で歴史を刻んできたのだから。

 

元号の意味するところ、その元号がなぜ制定されたのかまでを含めて歴史なのだ。それをいい加減に、あるいはないがしろにすべきではない。「維新」とやらから150年、その前後の歴史を正しく知ることと含めて。

歴史は面白いという視点を大切に

「歴史に学べ」とか「歴史に学ぶことはいいことだ」と、言われるエラい人が少なくない。感じるのは、うがった見方かも知れないが『上から目線』だ。

 

そのようなことを書かれている評論などもたくさんある、1冊の本にされているのも見かける。私も何冊かを手に取って読んだ。共感する部分もあったが、時には反発も感じた。

 
もちろん、私も歴史から学ぶことは大事だと思っている。これから未来に向けての示唆にもなるとも、現在の迷いを解決する手段の一つだと考えてもいる。

 
歴史は「人」が作ったというか、人が行動することによって生まれたものだから、学ぶ価値は大いにある。その時の環境・条件の中で、誰がどう動いたかを知ることは有意義だろう。

 
全く同じ環境・条件であることはないにしても、似たような環境・条件は自分の目の前に現れることがある。その時の参考にはなるはずだ。

 
つまり私の思う「歴史に学ぶ」とは、人間の行動を学ぶことに尽きるわけで、人間(学)を学ぶということに他ならない。

 
上から目線の方々が言うところの「歴史に学ぶ」ことについて考えてみると、二つの問題がある。

 
一つ目は、学ぶ対象が歴史に名を残す人物、さらにいえば時代を作った英傑と呼ばれている人物から学べと言っていることだ。

 
もちろん、無名の人は歴史に名を残さないので、学びようがないということもある。だが、そういう英傑だけを取り上げていいのか。まぁ、中には「失敗に学ぶ」視点もあるようだが。

 
戦国時代でいえば3人の天下人、幕末で言えば3英傑といったところか。それもいいのだが、表の部分だけを取り上げて良いのかということも感じる。Ct0o6gb0_400x400

 
すなわち二つ目の問題、果たしてその歴史は正しいのかということである。歴史はその時の為政者たちによって、都合のいいように歪められているということだ。

 
そこのところをしっかり見ておかないと、誤った認識をしてしまう。脳力開発で学ぶところの両面思考、あるいは多角度思考が大切だ。

 
私も自分のセミナー・脳力開発講座で歴史の人物を取り上げて講義をするが、その視点だけは忘れないようにしている。

 
よって、様々な角度の本を読んで自分なりの考えをまとめている。最近も織田信長に関する、つまり桶狭間の戦いを中心とした「否定的な」内容の本を読んだ。

 
それによっていくつか修正が必要と感じたポイントもある。しかしそれは部分であって、全体を左右するものではないとも思った。

 
明治維新と呼ばれる歴史についても、両方の見解を記した本をたくさん読んできた。ネット情報も数多く拝見した。これからもそうしていくつもりだ。

 
100%正しくということは不可能だろうが、少しでも『真実』に近づけることを目指そう。それには、確定的事実は何かをしっかりととらえることだろう。

 
感情的な思い入れや、無条件の絶賛だけは避けようとも思う。ハッキリ言えることは、「歴史は面白い」ということだ。

靖国大祭の日は会津陥落・降伏の日

小さい頃、「鞍馬天狗」が好きだった。大佛次郎さんの小説そのものは呼んだことはなく、嵐寛寿郎主演の映画や大瀬康一主演のテレビドラマで見ていた。

 

その鞍馬天狗が新撰組と戦い、「キンノウのシシ」を助けるのを痛快だと喝采を送っていた。小学生の頃だ、それもまた当然だったろう。

 

月形半平太も見ていた、テレビでは鶴田浩二が演じていたのだったかな。これにもまたかっこいい!と声援を送った、敵はやはり新撰組だ。

 

後に歴史を勉強していたら、土佐藩の志士・武市半平太の名前が出てきたので、この人がモデルだったのかと勘違いしていたこともあった。もちろん、全く無関係だ。

 

いずれにしても、幼少の私の中では悪者が新撰組であり徳川幕府であって、正義の味方は勤王の志士であり、それを助ける鞍馬天狗や月形半平太だったのだ。

 

まさか薩長新政府の流れをくむ時の政権が、そういう番組を後援していたのではないだろうけど、子供の心を洗脳してしまうのはいとも簡単なことだと嘆息する。

 

何しろ無批判に、上記のように理解していたわけだ。幼少の頃どころか、つい30年くらい前まではまだ本気で徳川幕府が悪で、それを倒した明治新政府が善だと理解していた。

 

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それを覆すきっかけとなったのが、河井継之助という存在だった。新聞連載は1960年代後半だが、私が文庫本で読んだのはそれから20年も後だった。

 

河井継之助という幕末の英傑を、私はその後様々な本を求めて読みあさった。そして、もしかしたら西郷や大久保、あるいは勝海舟や福沢諭吉よりすごいヤツだと感じた。

 

その余波として、幕末の官軍といわれる薩長を中心として討幕軍、その彼らがやったことは一体何だ、と怒りが巻き起こってきた。

 

特に会津、そして長岡に対して。庄内はなぜか崩壊を免れたが。それを思った時、今一度違った角度で幕末史を見直さなければと思ったわけだ。

 

そして何度か書いたが、私は靖国神社には詣らない。そこには会津や長岡など、いわゆる『賊軍』と称される兵士たちの霊は祀られていないからだ。

 

死んだら敵も味方もない、平等だという日本人「本来の心」のない靖国神社には、散歩には歩いても決してお参りはしないだろう。

 

知っていますか?靖国神社の大祭の日(9/22)というのは、会津鶴ヶ城陥落・降伏その日だということを。あるいは鳥羽伏見の戦い当日(1/3)も大祭の日。

 

そして彰義隊に対し、その最初の大砲(アームストロング砲)を撃つよう命じた大村益次郎の像が、歩く人を見下げるようなところには行きたくないと思うのが本音だ。

「おはぎといも」が歴史をねじ曲げた

「おはぎといも」、何のことかお分かりでしょうか?

 

今正に明治維新150年、大がかりなイベントこそ余り伝わっては来ませんが、地域によってはかなり盛大に祝っているところもあるようです。そう、お「はぎ」と「いも」のところなどでは。

 

おはぎは萩藩、すなわち防長州毛利家であり、いもとは薩摩島津家です。このはぎといもとが、明治維新というすごいことをやってのけたと、歴史の教科書にもハッキリと記してあります。

 

徳川幕府、徳川宗家はこの「はぎといも」に負けたことになるわけですが、歴史の事実を見ていけばどちらに「理」があるのか意見は分かれますが、私は『教科書通り』ではないだろうと感じています。

 

徳川慶喜が大政を奉還したのは事実であるわけですし、慶喜の目的が奈辺にあったかは別として、大政奉還時点で「討幕」の密勅を用意していたものの、それが偽勅であったことも明らかな事実です。

 

朝廷の反幕派公家たちや「はぎといも」の中の一部、例えば西郷や大久保、木戸たちは焦ったでしょうね。慶喜の巻き返しに遭うことは容易に想像できたでしょう。

 

しかも慶喜の目指していたものは、有力公家や大名による合議制であり、それは後に五箇条の御誓文につながる、「万機公論に決すべし」につながることなのですから。

 

慶喜はその合議政体をリードする立場、名称としては「統領」あるいは「議長」あたりを意思していたと思われます。孝明天皇も崩御前にはどうやらそういう形、あるいは慶喜そのものを支持していたようです。

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ところが実際の歴史は、異なる形で進みました。まさに、逆転サヨナラホームランと言えばかっこいいですが、どちらかと言えば「だまし討ち」でした。そして見事に、慶喜が期待していた「はしご」を外してしまいました。

 

それが「王政復古の大号令」なるもの。明治天皇の勅ではありますが、その御年齢から推察するに、天皇自ら勅の内容を考えられたとは思えません。まさに、討幕を意図する側のクーデターだったわけです。

 

しかし、教科書にはクーデターだとは記されません。なぜなら形だけでも実権を握った側による「仕掛け」なのですから。ここで慶喜が毅然として腹をくくれば、とは歴史のイフにしか過ぎませんね。

 

しかし、これで一巻の終わりとはいかなかったわけで、慶喜は辞官納地に全く応じなかったわけですし、しかも在日諸外国は幕府に外交権がなおあることを認めています。

 

そこで、討幕側は「血を見なければ収まらない」ということで、鳥羽伏見の戦いを仕掛けていき、幕軍はその挑発にむざむざと乗ってしまった。それが維新と言われるクーデターの真相ではないか。

 

といったことを、なぜ歴史教育として教えないのか。答は簡単明瞭、「はぎといも」が政権を奪取したからだ。政権側が、事実とは異なる歴史をねつ造することは、ほとんど全ての国がやっていることだ。

 

その血祭りの直接犠牲になったのが、越後長岡であり、二本松や会津であり、そして蝦夷共和国だった。事実が語られなければ、それらの犠牲者は永遠に浮かばれまい。

全軍を置き去りにした将軍

繰り返しになるが今一度書いておきたい。

 

幕末期における政治家の中で、最も外交的センスを持ち、国力を増大していくことにも意欲を見せ、そしてそれをなし得る力と裏付けを持っていたのは徳川慶喜であった。

 

確かに個人としては有能な人材が在野に、例えば討幕側にもいたことは間違いないが、人材、いわゆるテクノラートの数でも幕府は他を圧倒していたことは間違いない。

 

事実、新政府がスタートしてもそこには人材らしい人材がおらず、結局は旧幕府人を多く採用せざるを得なかった。彼らは、大半がいわゆる「ノンキャリ」として新政府の現場仕事を支えていったのだった。

 

そんな幕府であり慶喜であったが、薩長軍側(まだ長州軍は少なかった)に錦旗が翻ることで、形勢は一気に逆転してしまった。その錦旗が、例え間に合わせで大急ぎに作ったものであったとしてもだ。Photo

 

幕府軍の京都侵攻で一時はびびった朝廷だったが、とくに黒幕と言えた岩倉具視を励まし続けたのは、どうも大久保一蔵(利通)らしい。励ますと言うより、尻を叩き続けたのだろう。

 

いずれにしても錦旗が翻ることで、慶喜は大坂城から一歩も出ることがなかった。京都侵攻軍も、淀藩、津藩はじめいくつかの藩が新政府側に寝返り、せっかくの幕府陸軍もなす統べなく大坂に引き上げざるを得なかった。

 

しかし彼らはなおも意気軒昂であったらしい。なにしろ、まだ数の上では十分に優勢なのだから。しかも、優勢な海軍を持っているし、海軍リーダーである榎本武揚も好戦派に属する。

 

慶喜も、彼らの突き上げには「分かった」と言わねばならなかった。翌日再度の進軍を命じたのは、まさに時の勢いだったのだろう。しかし、慶喜の腹は決まっていた、朝敵になるわけにはいかないと。

 

その方法が余りにもまずかったと言うべきか、稚拙であったというのか、それとも慶喜とは所詮そういう程度の器であったというのか。

 

なんと、将兵の多くを置き去りにしたまま軍艦で夜陰に紛れて大坂を逃げ出すのだ。館長である榎本でさえ、地上に上がっていて留守の間だったという。

 

慶喜が同行を命じたのは、老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の4名だけであった。会津藩と桑名藩は、進軍部隊の中核であり多数であったが、その将兵はすべて取り残された。

 

彼らは、主君である将軍には逆らえなかったわけだ。例えそれが理不尽なことだと分かっていても、抗する訳にはいかなかったのだろう、同情の余地はある。それだけに慶喜の罪は重い。しかも江戸に戻ってからがさらに酷い。

 

松平容保松平定敬兄弟は、江戸城への登城すら許されなかったのだ。一体何のために将軍に従い、大切な藩士たちを置き去りにしたのか。

 

藩士にしても藩主の罪を責めるわけにはいかない。会津藩軍事総督の神保長輝(修理)は、藩内抗戦派からの責めを一身に受けて自害に追い込まれる。会津の悲劇はもう始まっていたのだった。

西郷に使い捨てにされた相楽総三と赤報隊

赤報隊と聞くと、31年前に起こった朝日新聞社阪神支局を襲ったテロ事件を思い出す。あの事件も卑劣極まりないものだったが、犯人は未だに捕まらないまま公訴時効を過ぎてしまった。Photo

 

さて犯人(たち)が名乗っていた赤報隊とは、幕末に結成された尊皇攘夷過激派集団が名乗った名前だ。結成は慶応4年、彼ら自身は草莽の士だと言っていたが、間違いなくテロ集団に違いない。

 

その名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられたようだが、結成の後押しをしたのは西郷隆盛と岩倉具視らしい。隊長は相楽総三、下総の郷士の子として江戸で生まれたそうだ。まだ20代の後半。

 

この赤報隊が結成される以前に、相楽は江戸の薩摩藩邸(三田)を根拠地として、藩邸に集まった不逞の輩と共に江戸市中での乱暴狼藉を繰り返すことになる。相楽はそうした浪士隊の総裁を名乗っていたようだ。

 

おそらく藩邸にいた藩士も、何らかの形で騒乱の中に加わってきたのだろうが、いずれにしても堂々と薩摩藩邸に出入りを繰り返すのだから、「知りません」では済まされない。

 

もちろん、西郷からの指令での動きであるから、いずれ何かことが起こることは予測していたはずだ。というよりも、西郷はそれ(報せ)を今か今かと待っていたに違いない。

 

ついに庄内藩を中軸とした幕府側が藩邸を襲撃し、浪士どもを斬り捨て、あるいは捕縛したことは前回も触れたとおりだ。すなわち大半がこの時に命を失うか、あるいは散り散りに逃げた。

 

この事件が導火線になって、戊辰戦争の最初の戦い、鳥羽伏見の戦いが始まるのだが、それについては次回以降に書いていくことにしよう。

 

問題は京都に逃げ帰った相楽たちの行く末のことだ。相楽を隊長に赤報隊が結成され、東山道軍いわゆる「官軍」の先鋒隊として江戸を目指すことになる。

 

相楽たち赤報隊は、新政府の許可を得て各地で「年貢半減」を宣伝して進軍する。これが各地の民衆の支持を得たことは当然だろう。しかしあくまで口約束で、裏付ける新政府の文書などは発行されていない。

 

第一に、カネのない(江戸に向かう軍費用さえ乏しかった)新政府に、全く財政的裏付けのない年貢半減など、明らかにまやかしの宣伝に過ぎなかった。

 

新政府は密かに年貢半減の「(空)手形」を取消し、これは赤報隊が勝手にやったことだとし、ついには「偽官軍」であると触れて廻った。つまり、相楽たちははしごを外されたわけだ。

 

これに対して西郷がかばい立てに動いた形跡は全くない、見殺しにしたわけだ。用が終わったから不要になった、使い捨てだといった方がいいだろう。相楽総三は信州で敗戦し、下諏訪で処刑された。

 

実際のところ、相楽たちは官軍を名乗りながら行軍の途中で略奪を繰り返していたし、「官軍の捨て駒にされた悲劇の主人公」といった綺麗事ではない部分が多い。

 

昭和に入って相楽たちの名誉が回復されたそうだが、そのことが冒頭の昭和末期のテロ事件に糸がつながっていたのだとしたら、何をか言わんやである。