脳力開発講座のまとめは歴史講義

今年の脳力開発講座が、今月神戸の第1回講座から始まりました。来月は東京でスタート、新たに開講する福岡は少し遅れて6月から始まります。

 

基本的なプログラムはこれまでの2年間と大きくは変わりませんが、少しずつではありますが新しい試みも加えて(ということは何かを削って)います。

 

まとめの講話について、それぞれ1回はゲストの方をお招きすることを考えているわけですが、後は従来通り私の歴史講話で締めくくります。

 

今回の神戸講座では、定番の織田信長の話でした。これは、脳力開発の提唱者である城野宏先生が、セミナーの中で繰り返しやられた内容でしたから。

 

もちろん、城野先生と同じストーリーではありません。私は私なりに信長を学び、自分の足で足跡を辿り(例えば桶狭間など)、そしてそれを脳力開発に当てはめてお話しします。

 

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歴史の事実は一つですが、その時その人(つまり信長)がどのように考えて行動したかということは、私の想像の産物です。

 

普遍性で、すなわちその条件の中なら人はどう動くかには共通性がある、というところから心を推し量り、そこに信長という特殊性(個性)を加えていくのです。

 

その意味では、信長は普遍性を越えたところに多くの個性があったとも言えるわけで、そこに加えるのは実は「私の個性(特殊性)」なのかも知れません。

 

『信長公記』(太田牛一)をベースにしながら、たくさんの信長研究家の分析を参考にしながら、というよりはそれらに私なりの是非を加えて、皆さんにお話しします。

 

オリジナルを加えているとすれば、そこに「戦略と戦術」という形での盛り付けを工夫していることでしょうか。

 

次回の東京(4月19日)でも、まとめの講義では信長を取り上げます。

梅原猛さんから学んだこと

今日が成人の日と言われても、昭和世代にはちょっと馴染みが薄い。私の時代は1月15日で固定されていた、とはいえ当時の私の感覚では単なる休みの一つだったのだろう。

 

成人式にも出なかった。当時は大阪府高槻市に現住所があり、そこでの式案内をもらった記憶があるが、出席してはいない。神戸の下宿で一人飲みしていたかも知れない。

 

ちょっと世の中に拗ねていた時代だったが、とりわけ反抗的というわけでもなかった。当時流行った「ノンポリ」に近かったのだろうが、日本の歴史(通史)に背を向け始めていた。

 

私が歴史に興味を持ったのは、高校3年生の時の担任が日本史の先生だったからであり、先生が歴史を学ぶ面白さを教えてくれたからだ。

 

歴史とは人間が作ったもの、人間が行動した結果の積み重ねということを教えていただいた。だが、人間が作ったということの、また別の意味をまだ考えてはいなかった。

 

つまり、歴史は確かに人間が行動した結果の積み重ねではあるけれど、為政者や権力者Photo によって脚色、あるいは作り替えがあったものという意識は薄かった。

 

それを覆してくれたきっかけは、梅原猛さんの『隠された十字架』を呼んだからだった。聖徳太子についての通史的な理解をぶち壊された、古代史のイメージが変わった。

 

いや、古代史だけでなくどの時代にも「作られた歴史」があったことを感じた。それまでは、通史の史書ばかりを読んでいた。もちろん講座派とマルクス学派の違いは感じていたが。

 

梅原先生の著書は、その他にも何冊か読んだが、正直私にはかなり難解で理解を超えたものが多かった。それでも古代史を別の視点で見るきっかけになった。

 

どういう意志を持って書かれた歴史なのか、事実を見極めるのは困難ではあるが、事実があること確かなのだ。ベールを外しながら、自分なりに理解することを心がけてきた。

 

昨年は「明治維新150年」だったし、大河ドラマでは西郷隆盛が主人公として描かれたが、私自身は常に維新史に疑問を投げかけて、敗者の目からも見るように心がけた。

 

それによって、今の為政者あるいは権力者が、維新史の中から何をピックアップし、これからどうしていきたいかが私なりに感じられたようだ。

 

その意味で梅原先生には大いに感謝したい。その梅原先生が亡くなられた。合掌。

なぜ元号なのかを知るべきだ

今年も残り3週間、相変わらず巷には『平成最後の』が溢れている。平成という元号が使われるのも、残すところ140日余りになり、新元号がどうなるのか憶測記事もネット上などに散見される。

 

いつ発表されるかの議論も出ており、政府は1ヶ月くらい前を考えているようだが、反対意見、すなわち新天皇が即位の後に発表するようにという声も少なくない。

 

平成の場合には、昭和天皇が崩御されてほとんど間をおかずに発表されたのだが、生前退位の場合はどうするのか、新憲法・新皇室典範の下では前例がないので、そういった議論も巻き起こるのだろう。Photo

 

今の法律では一人の天皇に一つの元号と定められているわけだが、歴史的に見ればそれはほとんど例外的なことだったわけで、それこそ災害や大きな出来事のたびに改元された例が多い。

 

勝手に想像するのは甚だ失礼だろうが、古代いや近世の事例に照らし合わせても、東日本大震災や今年の大水害発生に合わせて瑞祥年号に代えられたのではないだろうか。

 

今年は明治維新150年ということだが、明治天皇の御代は「元号は明治(だけ)だった」と思っている人が多いが、それは正確ではない。

 

しかも慶応に改元されたのは孝明天皇の御代である。孝明天皇が崩御されたのは慶応2年で、新天皇が即位された際にはすぐには改元されなかったのだ。

 

だから、もしかしたら明治天皇ではなくて慶応天皇だったかも知れないし、明治維新ではなく慶応維新と歴史の教科書に記されたかも知れない。新政府樹立という大きな節目なので、改元されたわけだろう。

 

あるいはまた、孝明天皇の御代の元号は「孝明」ではない、「元治」である。元号が諡号とされるようになったのは、明治天皇からだ。それまでの諡号は、元号とは同じではなかった。

 

つまり今盛んに論議されている、検討されている元号は、皇紀2600数十年(神話の時代を含めて)の歴史の中では、全く新しいテーマなのだと言ってよい。

 

日本人なら、こういう歴史の流れを知っておいてほしいと思うが、おそらく現代の歴史あるいは公民と言われる学校教育では、一部を除いてはやられていないのだろう。

 

そういう意味では、歴史教育がないがしろにされていると言っても過言ではないだろう。元号の持つ意味、そして諡号(来年の場合は生前退位なのでまだ先のことになるが)の持つ意味を、知るべきだと思うのだがいかが。

 

元号廃止という意見も少なくない、その方が合理的だという意見に私も反対ではない。しかし、廃止するべきではない。なぜなら、日本人はこれまで元号の元で歴史を刻んできたのだから。

 

元号の意味するところ、その元号がなぜ制定されたのかまでを含めて歴史なのだ。それをいい加減に、あるいはないがしろにすべきではない。「維新」とやらから150年、その前後の歴史を正しく知ることと含めて。

歴史は面白いという視点を大切に

「歴史に学べ」とか「歴史に学ぶことはいいことだ」と、言われるエラい人が少なくない。感じるのは、うがった見方かも知れないが『上から目線』だ。

 

そのようなことを書かれている評論などもたくさんある、1冊の本にされているのも見かける。私も何冊かを手に取って読んだ。共感する部分もあったが、時には反発も感じた。

 
もちろん、私も歴史から学ぶことは大事だと思っている。これから未来に向けての示唆にもなるとも、現在の迷いを解決する手段の一つだと考えてもいる。

 
歴史は「人」が作ったというか、人が行動することによって生まれたものだから、学ぶ価値は大いにある。その時の環境・条件の中で、誰がどう動いたかを知ることは有意義だろう。

 
全く同じ環境・条件であることはないにしても、似たような環境・条件は自分の目の前に現れることがある。その時の参考にはなるはずだ。

 
つまり私の思う「歴史に学ぶ」とは、人間の行動を学ぶことに尽きるわけで、人間(学)を学ぶということに他ならない。

 
上から目線の方々が言うところの「歴史に学ぶ」ことについて考えてみると、二つの問題がある。

 
一つ目は、学ぶ対象が歴史に名を残す人物、さらにいえば時代を作った英傑と呼ばれている人物から学べと言っていることだ。

 
もちろん、無名の人は歴史に名を残さないので、学びようがないということもある。だが、そういう英傑だけを取り上げていいのか。まぁ、中には「失敗に学ぶ」視点もあるようだが。

 
戦国時代でいえば3人の天下人、幕末で言えば3英傑といったところか。それもいいのだが、表の部分だけを取り上げて良いのかということも感じる。Ct0o6gb0_400x400

 
すなわち二つ目の問題、果たしてその歴史は正しいのかということである。歴史はその時の為政者たちによって、都合のいいように歪められているということだ。

 
そこのところをしっかり見ておかないと、誤った認識をしてしまう。脳力開発で学ぶところの両面思考、あるいは多角度思考が大切だ。

 
私も自分のセミナー・脳力開発講座で歴史の人物を取り上げて講義をするが、その視点だけは忘れないようにしている。

 
よって、様々な角度の本を読んで自分なりの考えをまとめている。最近も織田信長に関する、つまり桶狭間の戦いを中心とした「否定的な」内容の本を読んだ。

 
それによっていくつか修正が必要と感じたポイントもある。しかしそれは部分であって、全体を左右するものではないとも思った。

 
明治維新と呼ばれる歴史についても、両方の見解を記した本をたくさん読んできた。ネット情報も数多く拝見した。これからもそうしていくつもりだ。

 
100%正しくということは不可能だろうが、少しでも『真実』に近づけることを目指そう。それには、確定的事実は何かをしっかりととらえることだろう。

 
感情的な思い入れや、無条件の絶賛だけは避けようとも思う。ハッキリ言えることは、「歴史は面白い」ということだ。

靖国大祭の日は会津陥落・降伏の日

小さい頃、「鞍馬天狗」が好きだった。大佛次郎さんの小説そのものは呼んだことはなく、嵐寛寿郎主演の映画や大瀬康一主演のテレビドラマで見ていた。

 

その鞍馬天狗が新撰組と戦い、「キンノウのシシ」を助けるのを痛快だと喝采を送っていた。小学生の頃だ、それもまた当然だったろう。

 

月形半平太も見ていた、テレビでは鶴田浩二が演じていたのだったかな。これにもまたかっこいい!と声援を送った、敵はやはり新撰組だ。

 

後に歴史を勉強していたら、土佐藩の志士・武市半平太の名前が出てきたので、この人がモデルだったのかと勘違いしていたこともあった。もちろん、全く無関係だ。

 

いずれにしても、幼少の私の中では悪者が新撰組であり徳川幕府であって、正義の味方は勤王の志士であり、それを助ける鞍馬天狗や月形半平太だったのだ。

 

まさか薩長新政府の流れをくむ時の政権が、そういう番組を後援していたのではないだろうけど、子供の心を洗脳してしまうのはいとも簡単なことだと嘆息する。

 

何しろ無批判に、上記のように理解していたわけだ。幼少の頃どころか、つい30年くらい前まではまだ本気で徳川幕府が悪で、それを倒した明治新政府が善だと理解していた。

 

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それを覆すきっかけとなったのが、河井継之助という存在だった。新聞連載は1960年代後半だが、私が文庫本で読んだのはそれから20年も後だった。

 

河井継之助という幕末の英傑を、私はその後様々な本を求めて読みあさった。そして、もしかしたら西郷や大久保、あるいは勝海舟や福沢諭吉よりすごいヤツだと感じた。

 

その余波として、幕末の官軍といわれる薩長を中心として討幕軍、その彼らがやったことは一体何だ、と怒りが巻き起こってきた。

 

特に会津、そして長岡に対して。庄内はなぜか崩壊を免れたが。それを思った時、今一度違った角度で幕末史を見直さなければと思ったわけだ。

 

そして何度か書いたが、私は靖国神社には詣らない。そこには会津や長岡など、いわゆる『賊軍』と称される兵士たちの霊は祀られていないからだ。

 

死んだら敵も味方もない、平等だという日本人「本来の心」のない靖国神社には、散歩には歩いても決してお参りはしないだろう。

 

知っていますか?靖国神社の大祭の日(9/22)というのは、会津鶴ヶ城陥落・降伏その日だということを。あるいは鳥羽伏見の戦い当日(1/3)も大祭の日。

 

そして彰義隊に対し、その最初の大砲(アームストロング砲)を撃つよう命じた大村益次郎の像が、歩く人を見下げるようなところには行きたくないと思うのが本音だ。

「おはぎといも」が歴史をねじ曲げた

「おはぎといも」、何のことかお分かりでしょうか?

 

今正に明治維新150年、大がかりなイベントこそ余り伝わっては来ませんが、地域によってはかなり盛大に祝っているところもあるようです。そう、お「はぎ」と「いも」のところなどでは。

 

おはぎは萩藩、すなわち防長州毛利家であり、いもとは薩摩島津家です。このはぎといもとが、明治維新というすごいことをやってのけたと、歴史の教科書にもハッキリと記してあります。

 

徳川幕府、徳川宗家はこの「はぎといも」に負けたことになるわけですが、歴史の事実を見ていけばどちらに「理」があるのか意見は分かれますが、私は『教科書通り』ではないだろうと感じています。

 

徳川慶喜が大政を奉還したのは事実であるわけですし、慶喜の目的が奈辺にあったかは別として、大政奉還時点で「討幕」の密勅を用意していたものの、それが偽勅であったことも明らかな事実です。

 

朝廷の反幕派公家たちや「はぎといも」の中の一部、例えば西郷や大久保、木戸たちは焦ったでしょうね。慶喜の巻き返しに遭うことは容易に想像できたでしょう。

 

しかも慶喜の目指していたものは、有力公家や大名による合議制であり、それは後に五箇条の御誓文につながる、「万機公論に決すべし」につながることなのですから。

 

慶喜はその合議政体をリードする立場、名称としては「統領」あるいは「議長」あたりを意思していたと思われます。孝明天皇も崩御前にはどうやらそういう形、あるいは慶喜そのものを支持していたようです。

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ところが実際の歴史は、異なる形で進みました。まさに、逆転サヨナラホームランと言えばかっこいいですが、どちらかと言えば「だまし討ち」でした。そして見事に、慶喜が期待していた「はしご」を外してしまいました。

 

それが「王政復古の大号令」なるもの。明治天皇の勅ではありますが、その御年齢から推察するに、天皇自ら勅の内容を考えられたとは思えません。まさに、討幕を意図する側のクーデターだったわけです。

 

しかし、教科書にはクーデターだとは記されません。なぜなら形だけでも実権を握った側による「仕掛け」なのですから。ここで慶喜が毅然として腹をくくれば、とは歴史のイフにしか過ぎませんね。

 

しかし、これで一巻の終わりとはいかなかったわけで、慶喜は辞官納地に全く応じなかったわけですし、しかも在日諸外国は幕府に外交権がなおあることを認めています。

 

そこで、討幕側は「血を見なければ収まらない」ということで、鳥羽伏見の戦いを仕掛けていき、幕軍はその挑発にむざむざと乗ってしまった。それが維新と言われるクーデターの真相ではないか。

 

といったことを、なぜ歴史教育として教えないのか。答は簡単明瞭、「はぎといも」が政権を奪取したからだ。政権側が、事実とは異なる歴史をねつ造することは、ほとんど全ての国がやっていることだ。

 

その血祭りの直接犠牲になったのが、越後長岡であり、二本松や会津であり、そして蝦夷共和国だった。事実が語られなければ、それらの犠牲者は永遠に浮かばれまい。

全軍を置き去りにした将軍

繰り返しになるが今一度書いておきたい。

 

幕末期における政治家の中で、最も外交的センスを持ち、国力を増大していくことにも意欲を見せ、そしてそれをなし得る力と裏付けを持っていたのは徳川慶喜であった。

 

確かに個人としては有能な人材が在野に、例えば討幕側にもいたことは間違いないが、人材、いわゆるテクノラートの数でも幕府は他を圧倒していたことは間違いない。

 

事実、新政府がスタートしてもそこには人材らしい人材がおらず、結局は旧幕府人を多く採用せざるを得なかった。彼らは、大半がいわゆる「ノンキャリ」として新政府の現場仕事を支えていったのだった。

 

そんな幕府であり慶喜であったが、薩長軍側(まだ長州軍は少なかった)に錦旗が翻ることで、形勢は一気に逆転してしまった。その錦旗が、例え間に合わせで大急ぎに作ったものであったとしてもだ。Photo

 

幕府軍の京都侵攻で一時はびびった朝廷だったが、とくに黒幕と言えた岩倉具視を励まし続けたのは、どうも大久保一蔵(利通)らしい。励ますと言うより、尻を叩き続けたのだろう。

 

いずれにしても錦旗が翻ることで、慶喜は大坂城から一歩も出ることがなかった。京都侵攻軍も、淀藩、津藩はじめいくつかの藩が新政府側に寝返り、せっかくの幕府陸軍もなす統べなく大坂に引き上げざるを得なかった。

 

しかし彼らはなおも意気軒昂であったらしい。なにしろ、まだ数の上では十分に優勢なのだから。しかも、優勢な海軍を持っているし、海軍リーダーである榎本武揚も好戦派に属する。

 

慶喜も、彼らの突き上げには「分かった」と言わねばならなかった。翌日再度の進軍を命じたのは、まさに時の勢いだったのだろう。しかし、慶喜の腹は決まっていた、朝敵になるわけにはいかないと。

 

その方法が余りにもまずかったと言うべきか、稚拙であったというのか、それとも慶喜とは所詮そういう程度の器であったというのか。

 

なんと、将兵の多くを置き去りにしたまま軍艦で夜陰に紛れて大坂を逃げ出すのだ。館長である榎本でさえ、地上に上がっていて留守の間だったという。

 

慶喜が同行を命じたのは、老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の4名だけであった。会津藩と桑名藩は、進軍部隊の中核であり多数であったが、その将兵はすべて取り残された。

 

彼らは、主君である将軍には逆らえなかったわけだ。例えそれが理不尽なことだと分かっていても、抗する訳にはいかなかったのだろう、同情の余地はある。それだけに慶喜の罪は重い。しかも江戸に戻ってからがさらに酷い。

 

松平容保松平定敬兄弟は、江戸城への登城すら許されなかったのだ。一体何のために将軍に従い、大切な藩士たちを置き去りにしたのか。

 

藩士にしても藩主の罪を責めるわけにはいかない。会津藩軍事総督の神保長輝(修理)は、藩内抗戦派からの責めを一身に受けて自害に追い込まれる。会津の悲劇はもう始まっていたのだった。

西郷に使い捨てにされた相楽総三と赤報隊

赤報隊と聞くと、31年前に起こった朝日新聞社阪神支局を襲ったテロ事件を思い出す。あの事件も卑劣極まりないものだったが、犯人は未だに捕まらないまま公訴時効を過ぎてしまった。Photo

 

さて犯人(たち)が名乗っていた赤報隊とは、幕末に結成された尊皇攘夷過激派集団が名乗った名前だ。結成は慶応4年、彼ら自身は草莽の士だと言っていたが、間違いなくテロ集団に違いない。

 

その名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられたようだが、結成の後押しをしたのは西郷隆盛と岩倉具視らしい。隊長は相楽総三、下総の郷士の子として江戸で生まれたそうだ。まだ20代の後半。

 

この赤報隊が結成される以前に、相楽は江戸の薩摩藩邸(三田)を根拠地として、藩邸に集まった不逞の輩と共に江戸市中での乱暴狼藉を繰り返すことになる。相楽はそうした浪士隊の総裁を名乗っていたようだ。

 

おそらく藩邸にいた藩士も、何らかの形で騒乱の中に加わってきたのだろうが、いずれにしても堂々と薩摩藩邸に出入りを繰り返すのだから、「知りません」では済まされない。

 

もちろん、西郷からの指令での動きであるから、いずれ何かことが起こることは予測していたはずだ。というよりも、西郷はそれ(報せ)を今か今かと待っていたに違いない。

 

ついに庄内藩を中軸とした幕府側が藩邸を襲撃し、浪士どもを斬り捨て、あるいは捕縛したことは前回も触れたとおりだ。すなわち大半がこの時に命を失うか、あるいは散り散りに逃げた。

 

この事件が導火線になって、戊辰戦争の最初の戦い、鳥羽伏見の戦いが始まるのだが、それについては次回以降に書いていくことにしよう。

 

問題は京都に逃げ帰った相楽たちの行く末のことだ。相楽を隊長に赤報隊が結成され、東山道軍いわゆる「官軍」の先鋒隊として江戸を目指すことになる。

 

相楽たち赤報隊は、新政府の許可を得て各地で「年貢半減」を宣伝して進軍する。これが各地の民衆の支持を得たことは当然だろう。しかしあくまで口約束で、裏付ける新政府の文書などは発行されていない。

 

第一に、カネのない(江戸に向かう軍費用さえ乏しかった)新政府に、全く財政的裏付けのない年貢半減など、明らかにまやかしの宣伝に過ぎなかった。

 

新政府は密かに年貢半減の「(空)手形」を取消し、これは赤報隊が勝手にやったことだとし、ついには「偽官軍」であると触れて廻った。つまり、相楽たちははしごを外されたわけだ。

 

これに対して西郷がかばい立てに動いた形跡は全くない、見殺しにしたわけだ。用が終わったから不要になった、使い捨てだといった方がいいだろう。相楽総三は信州で敗戦し、下諏訪で処刑された。

 

実際のところ、相楽たちは官軍を名乗りながら行軍の途中で略奪を繰り返していたし、「官軍の捨て駒にされた悲劇の主人公」といった綺麗事ではない部分が多い。

 

昭和に入って相楽たちの名誉が回復されたそうだが、そのことが冒頭の昭和末期のテロ事件に糸がつながっていたのだとしたら、何をか言わんやである。

大政奉還から王政復古までの隙間

教科書的にいうと、一連の流れはこのようになっています。

 

徳川慶喜は、土佐藩の山内容堂の進言を容れて大政奉還を決意し、朝廷に申し入れて認められた。これによって、家康以来260余年続いた徳川幕府は政権を朝廷に返上した。

 

次いで、朝廷は薩摩藩など雄藩の支持を得て王政復古の大号令を発し、これによって文字通り幕府は終わりを告げることになった。

 

私も含めてみんなこの「歴史」を信じて疑わず、徳川(幕府)から新政権(朝廷)への移行がスムースに行われたものと認識していたわけです。

 

それならばなぜ、その後の鳥羽伏見の戦いから会津戦争、五稜郭の戦いに至る「戊辰戦争」が起こったのか。戊辰戦争と言うが、鳥羽伏見の戦い自体は確かに戊辰の年だが、その年で終わったのではない。

 

そもそも政権移行と言うが、政治には内政と外交とがある。一体誰が内政を担い、誰が外交を担当していたのか。内政はともかく外交には相手国があるのだが、それらの国は新政権を承認していたのか?

 

とにかく疑問だらけだ、というよりきれい事(ハッキリ言えばウソ)で固めたが故に、つじつまの合わないことばかりなのだ。それを『正史』として学ばされたのでは、迷惑極まりないではないか。

 

正しい歴史を学べと言っている政治家、学者、評論家などなどがたくさんいるのだが、こんな間違った歴史を学んでも何にもならない。

 

もしかして学校での歴史の勉強がいつも、幕末維新で終わってそのあとはさらりと流してきたのは、正しい歴史を覆い隠すが故のことなのか? そもそも多くの教師が、正しい歴史を知っているとは言いがたい。

 

さて大政奉還も事実だし、王政復古の(大)号令も史実には違いない。それを否定しようとは思わないが、その二つの出来事の間には何があったのだろうか。Photo_3

 

何よりハッキリしていることは、大政奉還のあとでも政権運営能力を持っていたのは徳川幕府であったこと。慶喜と彼を取り巻く幕僚たち、江戸の官僚たちであった事実だ。

 

朝廷の公家どもにはそんな能力など、ホンのかけらもない。彼がやれたことは、ああでもないこうでもないと無味乾燥な意見を述べるか、有職故実をさぐってみて「分からない」という結論に至るだけのことだ。

 

あとは、偽物の勅や綸旨をねつ造すること、声の大きな力の強そうな人間の意見に相乗りしていくことくらいであった。その人間の一人が岩倉具視という怪物だった。その岩倉を薩摩の西郷や大久保がバックアップしていた。

 

大政奉還をしても慶喜はまだ実権を握っていた。政治テクノラートは自分の側にしかいなかったのだし、とくに外交権は朝廷からも確かに委任されていた。諸外国もあくまで慶喜側を窓口にしていたのだった。

 

格好を付けて「王政復古」を宣言したものの、どうにも動けない朝廷側は右往左往していたのだ。何よりおカネがない、何をやるにも先立つものがない。そこで慶喜に辞官納地を命じようとしたのだった。

慶喜の大政奉還は逆転満塁ホームラン

一気に歴史の歯車を進める、慶応3年まで、西暦でいえば1867年になる。つまり「明治維新(とやら)150年」のわずか1年前ということになる。

 

1014日(旧暦)に大きな政治的事件があった、言うまでもなく大政奉還だ。二条城で、徳川慶喜が京都在住の諸藩士(重臣)を集め大政奉還を諮問し、その後明治天皇に奏上したということで、正式勅許は翌15日だ。Photo

 

大政奉還に至る経緯はいろんなところに書かれているのでここでは触れないが、土佐藩からの建白・勧奨があったことは事実のようだ。ただしそれが坂本龍馬からの意見具申から始まった、というのは甚だ疑問だ。

 

もちろん大政奉還が龍馬のオリジナル意見でないことは自明の事実だが、土佐藩内で実力を持っていた後藤象二郎が、どれだけ龍馬から意見を聞いたか、あるいは受け容れたかについてはどんなものだろう。

 

この土佐藩の建白を、薩摩藩(西郷、大久保)が当初承認したわけだが、おそらく慶喜が受けるわけはないだろうと考えていたのだろうか。とすれば、なんとも慶喜を見くびったものだ。

 

とくに西郷がどのような政権構想を抱いていたのか、それについては遺されたものがほとんどないので想像するしかないのだが、おそらく慶喜の半分もまともなものではなかったように思われる。

 

私は慶喜という人物は好きでないし、彼がもっと毅然として事に当たっていたら越後(長岡)や会津の悲劇はなかったのではないかと思うので、甚だ遺憾な行動を続けたと思っている。

 

しかしそのことを差し引いても、当時の日本で最も第一級情報をたくさん持ち、世界レベルでの将来展望持ち得ていたのは、慶喜であり彼のブレインであったはずだ。

 

西郷など、勝海舟に一度面会して「世界に目を開いた」とも言われているが、これは私の想像だが、西郷が目を見開いたのは海舟が論じた「幕府はダメだ」ということではなかったか。

 

百歩譲っても、薩摩藩の世界への窓はイギリス(の恫喝外交)であり、フランスへの対抗ということで伝えられる情報ルートでは、グローバルな物の見方ができたとは思えない。

 

そして、西郷も大久保も朝廷内の黒幕であった岩倉(具視)に振り回されるのだ。その意味では、岩倉は非常に興味ある人物には違いないが、なぜ「500円札になったのか」その理由が分からない。

 

岩倉は一度失脚している、というより天誅の嵐におびえて逼塞しただけだ。その当時は孝明天皇の公武合体主義に追随していたわけだが、長州過激派から恫喝されると尻尾を巻いて逃げ出している。

 

それがのこのこと戻ってきたらと思ったら、公武合体主義を取り下げてしまい、討幕論に傾いていく。それが故に孝明天皇の「病死」に関して、疑惑を抱かれる存在になったのも自業自得だろう。

 

確かなことは、孝明天皇の死が歴史の回転を一気に逆回転にしたことだろう。そこに岩倉が介在したかどうかは知ったことではないが、何らかの関わりがあったと想像することはたやすい、それまでの人物だったということだが。

 

その岩倉は王政復古を企画して暗躍し、偽勅を作成して行動を起こそうとした、その刹那に慶喜の大政奉還に機先を制された訳だ。ある意味痛快なことだった。