文徳天皇もまた悲劇の主だったのか

今上明仁天皇の退位問題が話題になった頃、では摂政をおいてはどうかという意見も一部にはありました。現行皇室典範にも規定が明示されていますが、天皇陛下が希望されていないことで、いつしか話は消えたようです。

 

我が国最初の摂政は、推古天皇御代の厩戸皇子(聖徳太子)だと教科書にも書かれていますが、当時の法律(律令の前身)には摂政の規定はなく、正式な役職ではなかったと思われます。

 

もちろん、厩戸皇子が推古天皇を摂政(天皇に代わって政務を執る)されたことは事実かと思われます。またその後も中大兄皇子や草壁皇子が、摂政たる地位におられたと推定されます。但しその後も令の規定に定められてはいなかったようです。

 

さて、平安の世も進み850年、仁明天皇の譲位により道康親王が即位されます。第55代の文徳天皇です。23歳での即位、母は藤原冬嗣の娘であり藤原良房の妹に当たる順子でした。

 

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即位に先立って第四皇子、惟仁親王が誕生(母は良房の娘明子)し、即位後時を経ずして立太子しました。天皇は第一皇子の惟喬親王を愛され皇太子に望まれていましたが、良房の強い意思を押しのける力はありませんでした。

 

また、天皇は病弱でもありましたので、太政大臣であった良房が朝堂を支配し、実質的に摂政の役割を果たしていたようです。

 

史料の一部には、これをもって良房が「摂政に任命された」とありますが、まだ令の規定に摂政(あるいは関白)の職名はなく、実際に摂政に任じられたのは次代の藤原基経であったと見られます。

 

いずれにしても、実際権力を振るったのは良房であり、文徳天皇は自分の意思を通すこともままならず、悶々とした日々を過ごされたのではないでしょうか。「天皇は政務を見ない」傾向は、この時から強まったとも言われます。

 

そして文徳天皇は最後の意思である譲位を試みますが、良房の圧力はこれを許さず、急な病に崩御されてしまいます(暗殺説もあります)。

 

史上諡に「徳」のついた天皇には、何かしら悲劇の陰があるという方もおられるようですが、もしかしたら文徳天皇もその例にもれなかったのかも知れません。

承和の変が起こったが死亡者はなかった

天皇史上唯一の散骨を願われ実行された淳和天皇譲位後は、正良(まさら)親王が継がれました。第54代の仁明(にんみょう)天皇です。もちろん、淳和は上皇として残られますが、この時期には嵯峨上皇もご健在でした。

 

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その嵯峨上皇の意向もあって、皇太子には淳和の嫡子である恒貞親王が就かれます。親王の母は嵯峨上皇の皇女でもありました。親王はその後も度々皇太子の地位にあることを辞退されたそうですが、上皇が許されなかったようです。


 
親王は礼節に優れ、周囲からも大変慕われた方であったようです。しかし、結局恒貞親王は皇位に就かれることはありませんでした。840年にまず淳和上皇が崩御され、その2年後に嵯峨上皇も亡くなられます。


 
その直後に起こったのが承和の変です。この事件は、平安時代における藤原氏(北家)の他氏排斥事件の最初とも言われています。その余波を食らって、恒貞親王も廃太子されてしまうのです。


 
この時期急速に台頭してきたのが、藤原冬嗣の次男であった良房です。良房は檀林皇太后(嵯峨皇后であった橘嘉智子)の信任を得て、一気に朝堂のトップに躍り出ます。


 
また、妹である順子が仁明天皇の中宮となり皇子(道康親王)を産みます。さらに、良房の正室は源潔姫(きよひめ)、実は嵯峨上皇の皇女(臣籍降下)でした。なお、天皇の娘が臣下に嫁いだのもこの良房が最初でした。


 
そんな状況でしたから、恒貞親王の取り巻きにとっては由々しき状況に映ったことは想像に難くありません。親王自身は皇太子という地位に執着もなかったでしょうが、臣下にとっては大問題です。


 
そこを檀林皇太后と良房に突かれたことが、承和の変に発展するのです。良房はこれを利用し、伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(はやなり)を逮捕します。逸勢は檀林皇太后とは従姉弟同士でした。


 
2人の企て(親王を東国へ遷す)を相談され、密告したのは阿保親王だと言われます。阿保親王は平城上皇の息子であり、伊勢物語の主人公で知られる在原業平の父です。


 
当初は首謀者二人だけを流罪にすることで決着が図られそうでしたが、良房は皇太后とともに天皇を動かし、さらに東宮臣下を捕らえると共に、ついに廃太子の詔が出されます。新しい皇太子は、言うまでもなく道康親王です。


 
これによって、(大)伴氏と橘氏、その他古き豪族たちは力を失い、相対的に藤原氏の力が一気に大きくなっていきます。


 
ただ、結果に見られるように「死刑」が廃止されていましたので、奈良時代のような残忍な結末にはなりませんでした。また恒貞親王は、この後も40年余り生きられ、病死ではありましたが寿命を全うされたのは幸いなことでした。

薄倖の淳和天皇がただ一つ貫いた意志

嵯峨天皇から譲位されたのは、異母弟に当たる大伴親王、桓武天皇の第七皇子に当たる第53代の淳和天皇でした。

 

この淳和天皇、歴代の天皇の中で唯一のことをやられました。もっとも、天皇自らやったのではなく、薨去後に行われるよう「遺言」を遺されておりました。

 

その遺言は、自分の死後に葬儀を行うことや山稜を築くことをしてはならないということでした。そして山上から散骨してほしいとのことだったのです。その願いは叶えられました。

 

この時点で異母兄である嵯峨上皇はご健在でしたが、おそらくその遺言を聞いて驚愕されたことでしょう。火葬は既に持統天皇に始まり、豪勢な葬儀を回避することはなされていましたが、散骨とは前代未聞です。

 

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嵯峨上皇は反対されたことでしょう。しかし、淳和天皇は意志を貫き通しました。その骨は、大原野の高い山から撒かれたそうです。なお、これ以降は散骨を希望された天皇も、実施された天皇もありません。(写真は後世に作られた淳和天皇塚)

 

なぜ、天皇はそのようなことを希望されたのでしょうか。強大であった嵯峨天皇(上皇)、個性の強かった平城天皇(上皇)を見ていたこと、その狭間で様々な葛藤があったのではないかと推察されます。

 

この時期、嵯峨上皇の后であった檀林皇太后(橘嘉智子)は健在、また藤原冬嗣の次男であり政権中枢を狙う藤原良房は外戚の地位を目指していました。

 

よって、淳和天皇は自分の息子を皇太子に就けることを憚り、嵯峨上皇の息子である正良親王(のちの仁明天皇)を皇太子にしました。しかも長子であられた恒世親王は若くしてなくなります。

 

きっと、儚い世を嘆かれたことでしょうし、ある意味線の細い天皇であられたのだと推察されます。そして病に倒れ、仁明天皇に後を譲った直後に薨去されました。

 

付け加えれば、天皇のもう一人のお子である恒貞親王は仁明天皇の皇太子とされますが、承和の変を契機に廃太子されてしまいました。

 

一見穏やかに見える淳和朝も、そこは政争渦巻く歴史であったことが分かります。

空海、そして同時代人の藤原冬嗣

嵯峨天皇は書にも優れ、空海や橘逸勢とともに「三筆」と讃えられています。これはとくに大内裏の九つの門について、その門額を書き直すことになり、自らも含めてこの3人で3つずつ分担して書かれたようです。

 

さて、その空海は弘法大師の名でよく知られています。昨年が高野山の開山1200年に当たっていて、私も時間を見つけて上って参りました。あいにくの雨天でしたが、多くの人で賑わっていました。

 

生まれは讃岐国多度郡と伝えられていますから、多分現在の善通寺市辺りだと思います。14歳で平城京に上り、大学寮などで学んだようですが、それに飽き足らなかったようです。

 

20歳前には深山での修行を試みはじめますが、804年(30歳頃)に唐に亘る頃までの足跡は不明のことが多いようです。なぜ遣唐船のメンバーに選ばれたのかも、正確なところは分からない(真言宗内での伝承はありますが)ようです。

 

唐の都長安に入るまでも船が遭難寸前になったり、とんでもないところに漂着したりでかなり苦労されました。そして2年の修行の後に帰国されます。時に平城天皇の御代でしたが、しばらく太宰府に留め置かれ、嵯峨天皇即位の年に平安京に入りました。

 

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そして816年に修行の場としての高野山が与えられ、現在に至る仏都が形づくられていきます。しかし空海自身は、都にいた時間の方が長かったようです。入滅は835年、61歳と伝えられています。

 

なお「弘法大師」と諡名されたのは、921年醍醐天皇によってです。空海については様々な伝承、伝説が数多く伝えられているほか、多数の伝記や小説も書かれています。ことわざにも「弘法も筆の誤り」とか、「弘法は筆を選ばず」というのもありますね。

 

文人の代表が空海なら、政治家の代表として藤原冬嗣を取り上げましょう。空海とはほぼ同時代を生きたことになりますが、こちらも嵯峨天皇の即位と共に中央政界に名を上げていきます。

 

薬子の変によって、仲成・薬子の藤原式家が没落、これに変わって北家の冬嗣が他の藤原氏を押さえて筆頭にのし上がります。ただ、薬子を悪女として描いている史書「日本後紀」は冬嗣の編纂命令によるものですから、どこまで真実かは不透明です。

 

また同時代に式家の藤原緒嗣もいましたが、官位はほぼ同程度でしたが、天皇からの信頼度など全てに置いて冬嗣が勝っていたようです。力とは裏腹に、人間力の優れた人物であったようにも思われます。

嵯峨天皇と檀林皇后はおしどり夫婦?

第52代の嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子であり、平城天皇とは同母の兄弟になります。いったんは、平城上皇の子・高岳親王を皇太子に立てます。

 

しかし、復位を目指した上皇の反乱(薬子の変)を鎮めて後、高岳親王を廃太子します。これは自然の成り行きであったでしょうが、さりとて自分の子を皇太子とするを憚られたのか、異母弟である大伴親王を立てます。

 

この天皇の時代は、薬子の変以降は表面的に大きな事件も起こらず平穏な状況が続きます。しかし、裏側では皇位継承を巡るうごめきがあり、藤原氏とくに北家の台頭が次第に著しくなり、対立構造があらわになっていく時期でもあります。

 

ただ、嵯峨天皇の時代に「死刑廃止」が法(弘仁格)として定められ、この後保元の乱に至る間の300数10年間は、確かに死刑が執行されることはありませんでした。

 

一方では、そういう「穢れ」の仕事は貴族がやるべきことではないという考えが広がり、その裏仕事を支えるべく武士という階級が存在を大きくしていくのです。

 

さて嵯峨天皇にも増して存在感が大きかったのは、檀林皇后と諡された天皇の后、橘嘉智子でした。聖武天皇の時代、政敵であった藤原仲麻呂に敗れ葬られた橘奈良麻呂の孫に当たります。

 

天皇との仲も睦まじく、2男5女をもうけられます。長子である正良親王は後の仁明天皇となりますが、絶世の美女であったとも伝えられています。存命中は大きな権力を持ち、皇位継承にも介入して政争を巻き起こしたと伝えられます。

 

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仏教にも深く帰依し、日本最初の禅院・檀林寺を創建します。壮大な寺院だったと伝えられていますが、後に廃寺となり、現在はその地(嵯峨野)に天龍寺が建てられています。檀林寺も後に造られますが、直接的なつながりはないそうです。

 

この皇后(皇太后)は死に当たって、自分の遺体を鳥獣へ与えるために路傍に放置するように命じ、その腐敗していく姿を大衆にも見せ、絵にも描かせたそうです。

 

一方、嵯峨天皇はというと多くの妻妾をもたれ、お子様の数は49名とも伝えられています。これが財政を圧迫したために、多くの子女は「源姓」を与えられて臣籍降下しています。嵯峨源氏と伝わる人たちですが、やはり政争に巻き込まれた人物もありました。

 

そして大伴皇子(淳和天皇)に譲位し、正良親王が皇太子となります。これにも、皇后の意志が強く働いたことでしょう。そして、藤原冬嗣をはじめ藤原北家の力が少しずつ大きくなっていくのです。

薬子は本当に悪女だったんだろうか

桓武天皇の後を継いだ平城天皇は、在位わずか3年で退位され、「憧れの都」平城京に移られます。この時、上皇の腹心としてついて行ったのが藤原仲成、薬子の兄妹です。

 

日本三大悪女というと、北条政子、日野富子、淀殿が上げられます(書物によって違いあり)が、この薬子も負けず劣らずの存在だったといわれています。

 

しかし考えてみると、上記の三大悪女といわれている三人ですが、本当に悪女だったんだろうかというとやや疑問が残ります。

 

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北条政子は、夫である頼朝の女好きに辟易していて、例えば愛称の隠れ家を襲わせて壊してしまったとか、有力御家人を滅ぼす裏側で糸を引いていたとか言われますが、少なくとも後者については必要不可欠なことだとも思われます。

 

日野富子は応仁の乱の火付け役であり、乱の起こっている中でも蓄財に精励し、あろうことか東西両軍に戦争資金を貸し付けて利息を取ることまでやっています。しかしこれも、息子可愛さのための資金作りだと言えるわけです。

 

淀殿などは、神君家康を持ち上げるために貶められたとしか思えません。豊臣家(の天下)を必死に守ろうとした女傑であることは疑いのないところです。

 

ということで薬子を見ていきますと、平城天皇の皇太子(安殿親王)時代に不倫の中になり、桓武天皇によっていったん引き裂かれたものの、桓武の死により再び尚侍としてそばに仕えるようになります。(写真はロマンコミックス人物日本の女性史より)

 

平城天皇の寵愛を受けて政治に介入したとありますが、実際の政治を動かしたのは兄である仲成であったでしょう。薬子はそばから口を出し、寝物語に囁いたくらいのことではないかと想像されます。

 

いずれにしても、兄妹が周囲より恨みを買ったことは事実です。旧都に移った上皇は、譲位ししたことを早まったと後悔したのか挽回策に出ますが、弟である嵯峨天皇とその周辺には予想された事態でした。

 

すでに手は打たれており、上皇は薬子とともに逃亡を図りますが阻止され、上皇は剃髪して仏門に入り、薬子は服毒自殺をします。その少し前に仲成は射殺されていました。

 

これが「薬子の変」と言われる事件ですが、これにより藤原式家の凋落が顕著になり、やがて北家の力が伸張していきます。薬子を希代の悪女としたのは、もしかしたら北家・藤原氏の企みだったのかも知れません。

 

真実は闇の中ですが。

平城天皇を牛耳ったのは悪女だった

桓武天皇崩御のあと、第一皇子である安殿皇太子が天皇として即位されました、第51代の平城天皇です。母は藤原乙牟漏、祖父は藤原良継(式家)です。

 

ちなみに、第一皇子が阿保親王ですから、天皇は伊勢物語の主人公とされる在原業平の祖父ということになります。

 

父の桓武天皇とは余りそりが合わなかったと伝えられ、またその素行にも問題があったと言われています。皇太子時代に藤原百川の娘・帯子を娶りますが、宮女(高級女官)の母であった藤原薬子と懇ろになってしまいます。

 

まさに皇室醜聞(スキャンダル)とも言える事件で、桓武天皇は薬子を宮中から追放してしまいます。なおこの薬子は藤原種継の娘であり、すでに5人の子を持つ人妻でした。他にも不倫があったと伝えられる「悪女」と称されています。

 

ところが桓武が崩御すると、平城天皇は薬子を元の宮中女官に戻し、あろうことか公然と寵愛することになります。薬子の夫(藤原縄主)は太宰府へ左遷されてしまいます。

 

そこに食い込んできたのが薬子の兄、藤原仲成(種継の長男)でした。つまり兄妹して、平城朝に政治介入してくることになったわけです。

 

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この仲成、よほど悪名高き人物であったらしく、朝廷内での評判は散々でしたが、兄妹揃って平城天皇の覚え良き時代には誰も反抗することができなかったようです。どちらも相当な傍若無人ぶりだったと推測されるところです。

 

ところが権勢も長くは続きません。平城天皇は即位当初は意欲に燃えていたようですが、兄妹に政治を任せてしまうとやる気を失い、元々病弱であったこともあって早々と弟・神野親王に譲位してしまいます。809年、第52代の嵯峨天皇です。

 

その冬には平城上皇は旧都・平城京に移り住みます。形成を失いかけた仲成・薬子兄妹もこれについて旧都に移り、二重政治の様相を現し始めます。皮肉なことに、譲位後の上皇は体調が回復し、ますますお元気になられたようです。

 

翌年挽回を図った上皇側は、平城旧都への遷都の詔を出しますが、嵯峨天皇は機先を制して上皇側への制圧を強めていきます。これが世に言う薬子の変、まさに事件の後ろに悪女ありを絵に描いたような事件でした。

死ぬまで怨霊に悩まされ続けた桓武天皇

前週は坂上田村麻呂について書きました。ところで歴史の教科書などには、田村麻呂が最初の征夷大将軍だと書いてありますが、実際にはその前任として大伴弟麻呂が任命されたことが資料に記されています。

 

田村麻呂はその時の副将軍だというのが史実ですが、その時にも高齢であった弟麻呂に代わって10万軍の指揮を執っていたようです。そして大将軍時代の功績により、征夷大将軍は部門の最高司令官という位置づけになったようです。

 

さて、話は桓武天皇に戻りますが、この天皇が怨霊に悩まされ続けたことは史料に明らかです。平城京を捨てて長岡京に移る最大要因は、井上皇后とその子他戸親王(皇太子)の怨霊でした。

 

もちろんそればかりではなく、歴代の政権中枢にあった為政者によって排斥された多くの犠牲者は、当然に怨霊として天皇や為政者とくに藤原氏を悩ましていたことでしょう。

 

有間皇子、大津皇子、長屋王、橘奈良麻呂、もしかしたら高市皇子もそうなのかも知れません。その辺りのことは史料には記されていません、だからといって「なかった」とは言えません。

 

そして史料に現れる最初の怨霊は、桓武の実弟である早良親王です。自身の子である安殿親王を皇太子にしたい親心が、桓武の心を狂わせたのでしょうか。藤原種継暗殺事件の黒幕として、早良を廃太子し、親王は憤死してしまいます。

 

その後に桓武を襲った次々の不幸、皇太子の病、疫病や自然災害、それらは怨霊のせいであるとされ、とくに早良廃太子を「崇道天皇」として追称し、墓も立派に築きます。今も京都には、崇道天皇を祀る崇道神社が存在します。

 

病に倒れた後には、暗殺事件に関わった人たちを元の位に復したりしていますが、これもまた怨霊鎮めの呪法の一つだったのでしょう。

 

しかしその甲斐なく、延暦25年(806年)に崩御されます。享年70歳。
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なお、桓武天皇というと、空海や最澄を唐に派遣したことでも知られていますが、二人が仏教界に新風を巻き起こすのは、天皇死後のことになります。また宗教には詳しくない私には、とてもこの二人の高僧は語れません。

 
いよいよ安殿親王が後を継いで、51代天皇として即位されます、御年32歳。この天皇、皇太子時代からちょっと「不良青少年」だったとも思われ、また諡名にあるように、平城旧都に思いを強くしていたことが知られています。

 

それらのことが、短い在位期間(わずか3年)にも現れているようです。

坂上田村麻呂は心温かな武人貴族だった

蝦夷(えみし)征討の歴史は古く、日本書紀にもその記述があります。もっともその記述は、果たして史実かどうかは疑問視されているようです。さらに5世紀の後半の、雄略天皇(倭王武)による征討が宋書の中にあります。

 

ですから、古くから中央(ヤマト)に対して反抗する部族があったことが推定され、その内関東から北の部族を蝦夷と呼んでいたようです。ただ、反抗するといっても、それは中央から東北への進出に伴う小競り合いから始まったのではないでしょうか。

 

すなわち、アメリカの西部開拓史ではないですが、辺境(いわゆる「柵」)が北へ北へと延びていくことによって、有り体に言えば「侵略」が進むにつれて反抗も激しくなったかとも思うわけです。

 

つまり蝦夷側からすれば、大和朝廷の方が侵略者であり、平和を脅かす存在ではなかったのかとも考えられるわけです。歴史は常に勝者の側から書かれますので、さもありなんということになってしまうのでしょう。

 

それはともかく、蝦夷征討は奈良時代に入って本格化し、桓武朝に入ると蝦夷に阿弖流為(アテルイ)という英雄族長が現れます。この阿弖流為の元で組織的な抵抗が繰り返され、朝廷軍は789年に大敗してしまいます。

 

ここに登場したのが坂上田村麻呂です。平安遷都から3年後に彼は征夷大将軍に任命されますが、この時39歳の男盛りでした。その前年には征東副将軍の一人でしたが、中心的な役割だったのでしょう。

 
実際の戦闘は801年に入ってからでしたが、翌年にはアテルイは田村麻呂に降伏し、モレ(母礼)とともに京の都に送られます。田村麻呂は二人の助命を願い出ますが、朝廷はこれを退けます。

 
そのため、蝦夷の英雄アテルイはモレと共に斬刑に処せられますが、武人としての田村麻呂はおそらく涙を流したことでしょう。
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田村麻呂が創建(本願)したと伝えられる清水寺には、平安遷都1200年に当たる1994年に「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」が建立されています。(写真は清水寺)

 
なお、蝦夷征討は財政の困難から804年に中断され、田村麻呂はそのまま将軍位を保ったと言われています。しかし、前回も触れましたが彼は武人(貴族)ではありましたが、武士ではありません。

 
その後は朝廷内で位を上げ、桓武、平城,嵯峨の三天皇に仕えて大納言にまでなっています。記録によれば身長が5尺8寸とも伝えられています、ざっと176cmですから、当時としてはかなり大柄だったのでしょう。

 
54歳で亡くなりますが、その後も偉大な武人、大将軍として語り継がれる存在でしたし、また東北・蝦夷地の人々にも慕われていたと伝えられています。アテルイ達の助命嘆願も含め心温かい人物だったと思われます。

藤原政権が次第に色濃くなってきた

藤原種継暗殺事件、早良親王の廃太子とその憤死事件。暗雲が立ちこめた長岡京を諦めた桓武天皇は、長岡の東北に当たる山城国葛野郡・愛宕郡に新たな京を定め、平安京と名付けられた都に遷ります(794年)。

 

早良親王や、その以前に廃され謎の死を遂げた井上皇后と他戸親王の怨霊に悩まされたためと言われますが、さらには天災や疫病の蔓延が再遷都の引き金になったのでしょう。

 

もっとも、平安京に遷ってもなお怨霊の跋扈、鴨川の氾濫などには悩まされ続けたらしく、天皇自身や皇太子(安殿親王)も時に病に悩まれたようです。

 

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この時期の朝廷では、次第に藤原氏の勢力が再び大きくなり始めており、長岡京で暗殺された種継や遷都の前に亡くなった百川と良継、百川の息子の緒嗣らを排出した式家が力を持っていました。

 

桓武天皇の皇后であった藤原乙牟漏は良継の娘であり、安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)の母となります。しかし、平安京遷都前に亡くなられます。

 

また、夫人であった藤原旅子は大伴親王(後の淳和天皇)の母ですが、父親は百川です。こちらも平安遷都までに逝去、相次ぐ悲事は早良親王の祟りとされたようです。

 
かくの如く桓武朝ではまだ藤原式家の優勢が続きますが、その力の源は奈良朝で先祖の不比等がやったが如く、自分の娘を天皇(あるいは皇太子)に嫁がせ、生まれた子の外祖父となることでした。

 
他の藤原家やそれ以外の豪族も、もちろん同じ狙いを持って天皇や親王に娘を嫁がせますが、皇后や夫人になれたのはほとんどが藤原氏です。この後藤原家が王朝を牛耳っていくのが、平安朝の中期まで続きます。

 
実際には明治時代に至るまで(もしかしたら今上天皇のご成婚まで?)、この「伝統」はずっと引き継がれていきました。良かれ悪しかれ、日本の歴史はこうして作られていったと言うことなのでしょう。

 
さて桓武朝と言えば蝦夷征伐、その中心となって活躍した坂上田村麻呂の名前が出てきますが、田村麻呂は後の歴史における武士とは異なる存在です。武門の公家という位置づけになるわけですが、次回はその辺りに焦点を当てましょう。

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