大仏建立の裏側で政権抗争が激化する

母も正妻も藤原不比等の子であるという、文字通り「藤原の子」であった聖武天皇の心の変化について、前回のコラムでお話ししました。

 

それは、永く引き離されて会うことのなかった母・宮子との再会が、大きなきっかけでした。精神の病に幽閉されていたらしい宮子と、天皇が出会ったのは実は光明皇后の邸であり、そこは不比等から譲られたものだったそうです。

 

すなわち、この邂逅を演出したのはどうも皇后であるように思われます。そういえば、皇后は聖武天皇の放浪ともいえる遷都行幸にずっと寄り添い、しかもその間大仏建立という大事業の意思決定に、背中を押されたようです。

 

天皇以上に「藤原の子」であった光明皇后も、またそこからの脱皮を図られたようです。不比等の娘であること以上に、橘三千代の子であることを意識し始めたのかも知れないということでした。

 

そんな中で大仏の製作が始まり、そこに膨大な費用と労役が投じられます。それに対するPhoto_2 庶民の怨嗟の声も上がったようですが、天皇は大仏の法力によって平和と安寧を実現したいという、強い思いを持たれていたようです。

 

しかし、大仏開眼の時には天皇はすでに譲位をされていました。開眼法要は752年の春、その3年前に皇太子である阿倍内親王に皇位を譲られたのです。

 
阿倍内親王あらため孝謙天皇は御年31歳、20歳で立太子されましたが、史上初の女性皇太子でした。ですが、それが故に生涯独身でなければならないという運命を背負うことになられたのです。

 
一方で、天武天皇直系の男系はここで途絶えることになりました。

 
さて、大仏開眼の裏側では、朝堂の権力者が入れ替わり始めていました。藤原4兄弟が天然痘で倒れた後で権力を握ったのは、橘三千代の子であり光明皇后の異母兄だった橘諸兄でした。

 
吉備真備や僧玄昉たちが周囲を固め、諸兄政権は盤石のように思えましたが、老いが彼らを政治の中心から去ることを命じます。それに代わって再び台頭してきたのが藤原氏、なかんずく南家の藤原仲麻呂でした。

 
仲麻呂は不比等の子であった武智麻呂の次男、叔母に当たる光明皇后に取り入り、その基盤を利用することで一気に地位を高めていきます。

 
そしてついに、諸兄政権を倒して朝堂のトップに躍り出てくるのです。次回はその仲麻呂の盛衰を中心に。

光明皇后は橘三千代の娘なり

繰り返しになりますが、聖武天皇は「藤原の子」でありました。母である宮子は、藤原不比等の娘であり、皇后である光明子もやはり不比等の娘です。当時は母方の邸宅で幼少年時代をすごしますから、聖武(首皇子)も藤原邸でお育ちになられたのでしょう。

 

しかし変化が起こり始めます。そのきっかけの一つは、長屋王事件であり、それからしばらくして起こった不比等の4人の子の病死(天然痘)でしょう。

 

天皇は、長屋王が何ゆえに嵌められて失脚し、自死されたのかを薄々知っておられたでしょうし、その裏に藤原4兄弟の存在を意識されていたでしょう。

 

端的に言えば、藤原氏によって死に至った長屋王の祟り、すなわち怨霊です。この時代にはまだ怨霊という考えがなかったというのが通説ですが、そんなはずはないという考えも多く、私も同感です。

 

天皇は長屋王や、その他藤原氏によって失脚した人たちの怨霊に、おびえられたのではないでしょうか。そういう怨霊のはびこる平城京を捨てて、東国を御幸され、恭仁京や紫香楽の宮に遷都されたのもうなづけるところです。

 
さて、もっと大きな出来事が起こります。

 
母である宮子は、皇子をお産みになられた後どうもご病気に罹られたようです。その病はおそらく鬱病の類ではないかといわれていますが、皇子からも天皇からも離され幽閉されていたと思われます。

 
それが、橘諸兄政権の顧問格であった僧玄昉の治療で、病が平癒したようなのです。そしPhoto_2て、ある屋敷で天皇との「偶然の」再会を果たすのです。

 
そこはかつての不比等の邸宅、当時は光明皇后に譲られて皇后邸となっていました。ということは、その筋書きを演出されたのは光明皇后ご自身であったと考えるのが妥当です。

 
どうして!?という疑問がわきます。皇后こそ「藤原の子」ではないのか。藤原にとって隠さねばならない皇太后(宮子)を、夫である聖武に引き合わせる、それって、、、

 
この時、光明皇后も「藤原の子」であることから抜け出されたのではないか、そうとしか考えられません。確かに父は不比等ですが、では皇后の母は?

 
皇后の母は県犬養(橘朝臣)三千代、そう橘諸兄の母でもあります。一説には不比等に寝取られたとも伝わりますが、その母の思いを受け継がれたのではないか、とも考えられるところです。

 
藤原氏が行ってきた謀略を眼のあたりにしてきた皇后が、その祟りあるいは怨霊におびえると同時に、母の思い(藤原への復讐?)を感じたというのは、うがちすぎでしょうか。

藤原の子から抜け出そうとした聖武天皇

さて、聖武天皇です。通説によると、体も心もややひ弱であられたらしく、とくに遷都を繰り返された頃から政務を顧みない状況が続いたとも。

 
聖武天皇(幼名は首皇子)は「藤原の子」と、異名されました。父は文武天皇(天武天皇の孫で草壁皇子の子)ですが、母は藤原宮子、すなわち不比等の娘です。

 
故あって、母親とは分け隔てられて育たれたようですが、幼い頃は藤原一族の庇護のもとにありました。母・宮子はどうやら、気鬱(ノイローゼ)症状があったようで、天皇は母の愛を受けることなく過ごされました。

 
そして、后にはやはり不比等の娘である光明子(幼名安宿媛)が皇太子時代に選ばれ、729年に皇族以外では初めての皇后となります。以後は藤原氏の娘が皇后になるという先例にもなるわけですが、光明皇后自身も「藤原の娘(藤三娘)」意識を持たれていたと推察Photo されます。

 
天然痘の猛威から3年後の740年から、聖武天皇の彷徨遷都が繰り返されるのですが、それは心の弱さの故かも知れませんが、もしかしたら「藤原の子」から脱却するための彷徨であったのかもしれません。

 
政は橘諸兄が中心になり、滞りなく進められています。「諸兄政府」に反対して反乱を起こした藤原広嗣はすぐに成敗されてしまいます。

 
都を転々とされる間に、全国に国分寺と国分尼寺を建てる詔が出され、その集大成として大仏建立が具体化していきます。そして天皇は、この大事業に民間の力を活用しようとされています。

 
その中心人物が僧行基です。その死後「行基菩薩」としてあがめられたこの人物、元は朝廷から弾圧された民間宗教集団のリーダーです。その行基を大仏建立の責任者に抜擢した聖武天皇、その底流に「反骨の精神」があったと私は想像するのです。

 
その大仏殿、天皇は紫香楽宮周辺に創りたかったようですが、様々な事件、例えば森林火災などが起こり、最終的に東大寺が創建されます。この火災、どうやら藤原氏の暗躍ではないかと思われるのですが。

戦国時代の女は決して弱くなかった

今年のNHK大河ドラマは「おんな城主 直虎」ですね。主人公である井伊直虎は、戦国時代後半に生まれ、波乱の生涯を送った女性であり、タイトルにある通り井伊谷の女城主となったようだ。

ようだ、というのはドラマが始まる寸前の12月に、「実は直虎は女性ではなく、別人の男性であった」という史料が見つかり、通説を否定する見解がなされたからだ。

もっとも、この資料がどこまで信用できるものであるのかはまだ確認されておらず、今後どPhoto_2 ういう展開になっていくのかは全く不透明だ。

いずれにしてもドラマは年始から始まった。歴史に興味を持っている私だが、実のところこの女城主のことは知らなかった。戦国武将で「徳川四天王」として名を馳せた、井伊直政のことは知っているが、その養母(義母)である存在は知らかったのだ。

女城主と言えば、やはり戦国武将の立花宗茂の妻である立花誾千代のことだけしか、頭にはなかったので、大河ドラマで取り上げられると聞いた時には「なおとら、WHO?」という感覚だった。

それから色々な本に目を通して、一応の知識を得たわけではあるが、ドラマでは展開が早くて何とも佳く分からない。もちろん、史実とドラマとでは細かなことが違うし、脚色されたところもあるからやむを得ない。

これからどういう流れになっていくのかもよく分からないが、戦国時代の女性が男に好いように利用された「弱い存在」だったという先入観念は、否定されそうで嬉しい。

実際に、この時代の女性は確かにたくましい。登場人物の一人である今川義元の母親だって、相当の女傑である。寿桂尼と呼ばれたこの女性は、京の中御門家出身だが、今川氏親に嫁ぎ、氏親、さらに長男の氏輝亡き後の今川家を背負っていた。

義元を還俗させて、後継者争いを勝ち抜かせた手腕は男顔負けでもある。次郎法師として出家していた直虎が還俗する頃に、尼は亡くなっているが、もしかしたら何らかの接点があったとしたら面白い。(22日放映の録画を見たらもう会われていますね)

さてさて、これからのドラマの成り行きに注目していくか。まずは、遠征中で見られなかった日曜日の録画に目を通そう。

聖武天皇彷徨の末に変化の兆し

聖武天皇時代の大きな事件は、前回お話ししたように天然痘の大流行で、政治の中枢にいた藤原不比等の4人の息子「藤原四兄弟」が同じ年に相次いで病死します。

これに代わって朝堂の中心に躍り出てきたのが橘諸兄です、この時すでに53歳。皇族(敏達天皇5世孫)でしたが、臣籍降下して橘姓となります。母が県犬養橘美千代で、不比等に再嫁していて光明子(皇后)の母でもあります。

諸兄は下道(吉備)真備を登用、学僧である玄昉とともに政権運営に当たります。これが737年から翌738年ごろのことです。これに不満を持ったのが、藤原式家・宇合の息子である藤原広嗣でした。

当時広嗣は大宰少弐に左遷されていて、諸兄政権に不満を募らせていました。そして740年の秋、ついに1万の兵を率いて九州で反乱を起こすのでした。しかし追討軍に敗走し、松浦で追捕され処刑されてしまいます。
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ところがこの反乱の最中に、聖武天皇は突然遷都を決意し、伊勢に行幸後そのまま恭仁宮(平城京から木津川を越えたところ・現在の加茂付近)に留まってしまいました。実はここは諸兄の本拠地でもありました。

大極殿も移されてきますが、天皇は突然造営を中止させて紫香楽宮(信楽)に移転、さらに744年難波宮に遷都、そして745年に平城京に戻るのです。この彷徨が何を意味していたのかは類推するしかありませんが、不安定な精神状態であったことは確かでしょう。

一時は紫香楽宮付近に大仏殿を造ることも考えられたようですが、結局元の平城京に大仏建立を目指すことになります。この間に、息子であった安殿(あて)親王が突然亡くなります。

この死は病死(脚気)となっていますが、藤原氏による毒殺の噂もあって、真偽のほどは不明です。親王は光明皇后の実子ではなく、そのために排除されたのではないかという疑いがあるわけです。

こうして後継ぎをうしなった天皇は、初の女性皇太子になっていた(738年)阿倍内親王への譲位を考え始めるとともに、大仏建立に心血を注ぐことになるわけです。ただ、どうもこの頃から気持ちの変化が始まったように思われます。

すなわち、「藤原の子」からの脱却です。それについては次の機会に。

長屋王の怨霊が混乱の元であったかも

聖武天皇の即位から13年、長屋王の変から8年、737年に世の中をひっくり返すような出来事が起こりました。長屋王亡き後、朝堂を牛耳っていたのは藤原不比等が遺した4兄弟、武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)でしたが、この4人が相次いで病死するのです。

原因は天然痘でした。元々日本には天然痘はありませんから、おそらく中国大陸から朝鮮半島を経て九州にもたらされ、それが一気に西日本に広がって、平城京を襲ったものと思われますが、中央政府のトップの半数以上がなくなるという猛威でした。当然政権はガタガタになります。

聖武天皇は震え上がったことでしょう。当時は病の原因もほとんどわかっていませんでしたから、天然痘の猛威ももちろんですが、何よりもその裏に「祟り」があるのではと思われたことでしょう。つまりは怨霊の仕業だと。誰の怨霊?

もちろん長屋王です。その自死に対して天皇自身は手を下されてはいないでしょうが、変の原因の根元には自分の存在があることは、感じておられたに違いありません。おそらく「自分に天皇としての徳がないからこの疫病が流行った」、そして長屋王の怨霊がよりひどい状況をもたらせていると。

前者については、自ら仏弟子となって徳を高めるとともに、仏の功徳を世に広めるために何ができるかを考えられたことでしょう。そこで全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を出Images されます。そしてその中心になるべき存在として、大仏建立を発意されたのでしょう。

一方長屋王の怨霊に対しては、どうされたのでしょう。残念ながら、何をどうされたのかについては記録が残されてはいません。これをもって、この時代はまだ(平安期に見られるような)怨霊思想はなかったという歴史学者がおられるようですが、バカじゃなかろうかと思います。あったに違いない、私の結論です。

後世の、例えば早良親王に対するような、あるいは菅原道真に対するような対応・対処が、宮中で秘かになされたと考えるのが当然だと思いますよ。

光明皇后が施薬院や悲田院をつくり、そこで活動をされたことも、あるいはそこにつながることではないかと。とくに皇后は藤原氏の出であり、亡くなった4兄弟は異母兄たちですから、余計に強い思いを感じられたことでしょう。必死であったというと、大げさすぎるでしょうか。

ところで朝堂、政治の中心は藤原4家の柱がいなくなったことで、橘諸兄がその任に当たりました。諸兄は橘三千代と先夫(美努王)との子で葛城王と呼ばれていましたが、臣籍降下して橘姓に。三千代は藤原不比等と再婚し、その子が光明子ですから皇后と諸兄は義キョウダイ(異父兄妹)になるわけです。

ところが、このあたりから聖武天皇の混迷が始まるのです。

聖武天皇と藤原不比等の子たち

おはようございます。2017年のお正月はいかが過ごされましたでしょうか。さて「歴史」ブログですが、今年も歴史を彩る人物を通して、その時代を眺めていきます。古代史からスタートして、ようやく奈良時代の半ばになりましたが、時には違う時代が混じることもあるかも知れません。

では時代は奈良時代、第45代聖武天皇の話から始めることにします。聖武天皇は天武天皇の孫に当たる文武天皇と、藤原不比等の娘である藤原宮子との間に生まれ、首皇子と呼ばれておりました。祖母である元明天皇からすぐに皇位を継いだのではなく、間に叔母である元正天皇をはさんでの即位でした。

即位されたのは724年、御年24歳でした。当初は長屋王(天武天皇の孫・高市皇子の子)を筆頭とする、皇親勢力が脇を固めていましたが、5年後の長屋王の変を契機に不比等のPhoto 4人の子が朝堂を支配することになりました。長屋王一族の自死の裏に藤原氏の暗躍があった、といわれる所以です。

それはともかくとして、藤原氏は4つの家(北家、南家、式家、京家)からそれぞれ公卿を出して実権を握っていきます。それまでは一家から公卿になるのは一人という、暗黙の決めごとがあったのですが、藤原氏は4つの家に分かれることで強引に朝堂の独占を目指したといえます。

しかも、聖武天皇の后として光明子(不比等の娘・母は県犬養橘三千代)を立て(結婚は即位の前ですが)、皇后立后を実現します。臣下の娘が皇后になるのも、もちろん初めてのことです。また、藤原4家もそれぞれ夫人を後宮に送り込んでいます。

そういう状況の中ですので、若き聖武天皇もおそらくご自身が「藤原の子」であることを意識され、光明皇后や伯叔父である藤原4兄弟に全面依存する気持ちであったであると推測されます。ところが順調に見えた「藤原政権」でしたが、一気に崩壊するのです。天皇即位から13年、長屋王の変から8年経った時(737年)でした。

それが天然痘の大流行、どうも朝鮮半島から九州・太宰府を通して平城京にもたらされたようです。これによって、あろうことか藤原4兄弟が相次いで頓死し、朝堂の多くの役人も罹病し死に至りました。ここから、天皇にも大きな変化が生まれてくるのです。

このひとりごとには天皇を書くことも多い

昨日は天皇誕生日、83歳になられたということですが、いつまでもお元気でいて下さいと願わざるを得ません。先日あるセミナーで、今の天皇(本来は陛下を付けるべきですが)は何代目ですか?と聞いてみましたが、一人も正解が言えませんでした。戦前の教育であれば、初代神武天皇から現代まで、すべて暗唱できた人も多かったのでしょうけど。

今上陛下は125代目ですね、もっともこの中には本来入るべき数名の天皇が数えられてはいません。現在の皇統はいわゆる「北朝系」のはずですが、南北朝時代に即位されていたPhoto 北朝の天皇はこの中に数えられていません。南朝の天皇が連綿と数えられていますが、これは三種の神器の有無によるものなのでしょう。

また、明治以前には数えられていなかった天皇が明治の代に追加されています。そのお1人はこのコラムでも以前書いた大友皇子、すなわち弘文天皇です。また、おそらくこの後に触れることになるであろ淳仁天皇(大炊王)も、その名は明治になって贈られました。

今後も歴史の人物を追って書いていく中で、当然に代々の天皇にも触れていくことになるでしょう。なぜなら、どんな時代にも天皇が中心にいらっしゃいました。政治には関わらずという伝統と仕組みが、特に平安時代以降には強くなっていきますが、たとえそうであっても常に天皇が世の中心でしたから。

天皇を描いていく中で、時には失礼な表現もあろうかと思います。先日も、今上陛下の発言された「生前譲位」という言葉を「(生前)退位」というマスコミ表現で書いてしまい、心ある方からチェックが入りました。もっとも、退位という言葉自体は歴史の中で正当に使われていますので、これからも書くことでしょう。

また、本来なら天皇のことを書くのであれば、敬語であるべきことも承知しています。しかし、このコラムはあくまで歴史の中の人物を、その行動で追いかけているだけですので、あえて敬語は使いません。しかし薨去だとかいうような、特別の表現は用いて参ります。

では、次回からいよいよ奈良朝の輝き時代、すなわち聖武天皇と光明皇后、そしてそれを取り巻く人たちの話に進めて参ります。

聖武天皇いよいよ歴史の中心に

今上天皇陛下のご譲位についての論議が終盤を迎えています。皇室典範の改定ではなく、特例法の制定で落ち着きそうな雰囲気ですが、そうなると憲法の規定(天皇の地位と皇室典範の規定)との整合性が、問題になりそうですね。

ところで、生前譲位ということについては、奈良時代以降は(江戸時代までは)当たり前になっていきましたが、その最初は飛鳥時代の皇極天皇に求められます。以降、持統天皇を始め、元明、元正、そして聖武天皇も生前譲位をされています。こう見てくると、女性天皇による生前譲位が目立つのですが、「つなぎの天皇」とイメージをもたれる要因になっているのでしょう。

しかし、これまでも私感を書いてきましたが、この時代の女性天皇は決して「つなぎ」だけではなかったと思われます。持統天皇は、天武天皇の皇后であった時から政治の中枢にいらっしゃいましたし、太上天皇として譲位後も大きな影響力をお持ちでした。

元明天皇は、息子であった文武天皇が若くして亡くなられた後、孫の聖武天皇が成長されるまでという感じがありますが、実際にはすんなり譲位するのではなく、いったん娘(聖武かPhoto ら言えば叔母)を挟みました。おそらく当時の政権トップであった藤原不比等の構想とは、違っていたのではないかと思われますが、それを押し通す力がありました。

そしてようやく、元正天皇から聖武天皇への譲位が行われたのです。しかし、そこにはもう不比等の姿はなく、政権の中心は長屋王(長屋親王)であり、皇親勢力であったようです。長屋王の変は、そういう中でおこったわけです。

「藤原氏の陰謀」という説も有力です、確かに無実の罪らしい雰囲気はありますが、要するに権力闘争の敗北者であったのでしょう。足をすくわれる要因があった、ということなのではないでしょうか。これによって不比等の四人の息子が表舞台に出てきますが、そううまくいかないのが歴史の不可思議です。

さて聖武天皇といえば奈良の大仏開眼、あるいは遷都を繰り返した落ち着かないイメージが強いのですが、また母親は不比等の娘・藤原宮子、皇后もその異母妹の光明子というように、「藤原の子」という目で見られるのですが、果たしてどうだったのでしょう。次回よりその辺りをいて参りましょう。

得意絶頂の長屋王陰謀に散る

長屋王の変、729年の出来事ですが、この事件にも謎が多く諸説がたくさんあります。日本人というのは、謎解きの好きな民族なんだなと思わせるところです。でも、意外と単純な事件だったんじゃないかと思うわけです。

歴史家、あるいは歴史学者と言われる人たちの場合は史料、すなわち裏付けがないといけないわけですが、私のような素人にはそんなものは不要で、要するにこうじゃないかと勘で推測すればいいのです。常識的に考えていけばいいわけですからね。

そこで当時の状況を見れば、724年の聖武天皇の即位に続いて長屋王は朝堂のトップ、左大臣に任じられます。藤原氏は不比等が720年に没し、その4人の兄弟たちはまだ若く、長屋王に対抗していくには力不足でした。しかし、徐々に力を付け職位も上っていきます。

しかしまだ長屋王の力は強く、皇親勢力が政権を担っているわけです。何しろ長屋王は天武天皇の孫(天武の長男・高市皇子の子)であり、妻は元明天皇の娘であり元正天皇の同Photo 母妹である吉備内親王。その2人の息子たちは、いずれも皇太子になれる資格を有しています。もちろん政治能力も一流だったのでしょう。

しかし、人間は絶頂になると危機に気が付かぬものです。それに対して足元を固め、腹心たちを育てておればいいのですが、長屋王もおそらくそれを怠っていたのではないかと推察されます。よほど自分の力に自信を持っていたのでしょう、だから足元をすくわれる結果に陥ったのです。

727年聖武天皇と光明子(藤原不比等の娘、母は橘三千代)の間に、基王が誕生しすぐに皇太子に指名しますが、翌年満1歳を待たない間に病死します。聖武と光明子の嘆きはいかばかりだったのでしょう。そこに付け入ったのが藤原一族、と考えるのが常識的感覚ではないですか。

729年に入ると密告が届きます。「基王の死は長屋王の呪詛(左道)のせいだ」というのです。なぜ、時間が経ったこのタイミングでというところにも、仕組まれた出来事のような気がします。当然聖武は激怒します、当然ですがまともな精神状態ではなかったはず。その意を汲んで藤原4兄弟がすぐに行動します。

長屋王の屋敷はすぐに多くの兵で取り囲まれ、訊問使が訪れますが、その直後に長屋王や吉備内親王、その息子たちは首をつって自裁するのです。余りに速やか過ぎて、誰かがシナリオを書いて実行した、そう感じませんか。

誰が事件の後に最大の利益を得たか。言うまでもありませんね。

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