歴史閑話休題徒然に

古代史シリーズを月に3~4回連載していますが、飛鳥時代の推古天皇あたりからスタートして、奈良時代の終盤にさしかかっています。次回には、平安時代の幕開きを担った桓武Photo_3 天皇(山部王)が登場する予定です。

 

平安京への遷都が794年、その10年前に長岡京への遷都が実行されていますので、平城京時代は僅か70年余りで終わることになります。

 

この時代区分は、奈良時代すなわち平城京時代から明確になるわけですが、長岡京は未完成のままでしたから「長岡時代」とは呼ばれず、奈良時代の終焉期と位置づけられます。

 

飛鳥時代は宮城地が天皇によって変遷することが多かったのですが、天智天皇(と弘文天皇)は近江京を都としました。平城京につながる中国式の都城となったのは藤原京ですが、その建物の資材の多くは平城京建設に用いられます。

 

平安時代は、鎌倉に幕府が開かれるまでと位置づけられますが、天皇の住まいするところということであれば、明治初年まで続いていることになります。もっとも南朝が正統であるなら、一時吉野に都が遷都されていたことにはなりますが。

 

時代区分で不思議なのは「安土桃山時代」です。武家政権の時代区分は、幕府の置かれたところという位置づけで、鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代と呼ばれますが、安土桃山時代、ことに「桃山」とは?

 

安土はほぼ全国支配に近づいた信長が居城としたところですので、時代の名前になってもおかしくはありませんが、桃山城はありません。桃山時代とは豊臣秀吉政権の時代であるわけですが、その居城は大坂であり京都・伏見です。

 

よって「織豊時代」と呼ぶのが最も正確なところと言えますが、では一体『桃山』とは何でしょうか。実は、桃山は江戸時代に入ってから名付けられました。すなわち、伏見城の跡地に桃の木を植えたことにより、その地が桃山と呼ばれたそうです。

 

ちなみに大坂城といえば秀吉がすぐに連想されますが、秀吉は関白になるとすぐに京都の聚楽第に移り政務を執りますし、秀次に関白を譲ってからは伏見を居城としていますから、大坂にて政務を執った期間は極めて短いのです。

 

また鎌倉時代がいつ始まったのかということも、何度か変わってきています。私たちの頃までは、「イイクニ作ろう」ということで1192年と覚えさせられましたが、最近は1185年説(または1183年説)が有力になっています。

 

そういえば、鎌倉時代初代将軍源頼朝の肖像画も、かつて教科書に載っていたのはどうも足利直義(尊氏の弟)らしいというのが定説です。

 

歴史は時代の変遷と共に、また新たな史料発見とともに変化しています。つい最近では、教科書に聖徳太子とは記述せずに厩戸皇子とすると決まりかけ、反対が多くて元に戻すというようなこともありました。

 

おそらく今後も、そういったことがいくつも起こってくることでしょう。ただ、少なくともその時代の為政者の都合で変えられることのないように、願いたいものです。

ついに天武天皇の皇統が途絶えた

770年、和風年号では神護景雲4年、古代最後の女帝・称徳天皇が崩御されました。それとともに、天武天皇の直系はここで途絶えることになりました。そして、天智天皇系の天皇が復活し、今に至る皇統が引き継がれていくことになります。

 

称徳天皇の後継者をどうするかは前回のコラムにも書きましたが、色々な暗闘があったようです。その過程の中で、多くの親王や王が粛清されたり暗殺されたり、不審な病死を遂げたりしてしまい、結果として直系嫡流の後継者が途絶えてしまいました。

 

そこで、白羽の矢が立ったのが白壁王でした。白壁王の父親は志貴皇子、すなわち天智天皇の息子ですから、王は天智の孫に当たります。皇位継承の暗闘に巻き込まれるのを怖れた王は、酒浸りの日々を過ごされたようで、それで生き残られたとも。

 

しかし62歳の白壁王がすんなり後継と認められたわけではなく、息子である他戸(おさべ)王が称徳天皇の甥、すなわち称徳の異母妹である井上(いがみともいのうえとも)内親王Photo の子であったこと。その内親王が白壁王の妃だということによるものでした。

 

すなわち他戸王は女系ではありましたが、天武系最後の親王ということになり、即位した光仁天皇の皇太子となり、井上内親王も皇后となりました。

 

ところが2年後、大変な事件が起こります。その皇后が呪詛を企て反逆の罪に問われ、皇后の座を追われたのです。次いで他戸親王も皇太子を廃されました。これらは密告によるモノですが、暗闘はまだまだ続いていたわけです。

 

さらに光仁天皇の姉(同母)の薨去に際し、やはり井上(元)内親王が呪詛したとされ、母子は幽閉され、やがて2年後の同日に共に急死してしまいます。これもまた、仕組まれた暗殺劇でしょうか。

 

いずれにしても、天武の皇統はこれで完全に断絶してしまいます。となると、仕掛けたのはどちら側か、誰かということも自ずと浮き彫りになってきます(と断定して佳いかどうかは別として)。

 

では『犯人』は!?

 

結果として「利益」を得た者は誰か? 他戸親王に変わって皇太子に任命された王、そしてその擁立を図った者、ということになるでしょうか。

 

奈良時代も残り20年足らず、どのように展開していくのでしょうか。

生涯独身の女性天皇ついに崩御

藤原仲麻呂の乱は、図らずも孝謙上皇の権力の強さを証明するものとなり、淳仁天皇は廃位されて、764年上皇が天皇位に復帰されることになりました。これが称徳天皇です。

 

古代史を彩った女帝の歴史も称徳天皇で終焉を迎え、この後江戸時代初期に即位された明正天皇(第109代)までおよそ850年間、女性天皇は立てられることがありませんでした。

 

その称徳天皇のお気に入りとなり権力の座についたのが、弓削道鏡であり、仲麻呂の乱平定に功績のあった吉備真備でした。この年、道鏡はついに太政大臣禅師に昇ります。この時道鏡は既に64歳だったと言われています。

 

さらに766年にはついに「法王」の位に昇り、弟を始め一族も高い位を与えられます。当然Photo のことですが、藤原氏を始め朝廷貴族からの反発も次第に強くなっていきます。しかし、称徳天皇の信頼は圧倒的で、表立っての行動はなかなかできませんでした。

 

そしてついに769年、宇佐神宮の神託事件が起こります。「道鏡が皇位に就くべし」との信託でしたが、どうもこれは天皇におもねった神官どもの策謀だったかもしれません。

 

ただ、自身に子がなかった独身の天皇は、一説には父親の聖武上皇から「次代の皇位は自らの思い通りに決めて良い」と伝えられていたと言い、もしかしたら道鏡に譲位する意思を持っておられたのかも知れません。この辺りの記録は一切ありませんので、ただ想像するばかりです。

 

思い通りにされたい天皇でしたが、神託を確かめて確実なものにするために、宇佐神宮に使者を送ります。使者に選ばれたのは側近の和気広虫であり、実際にはその弟の和気清麻呂が九州に赴きます。

 

清麻呂は神託が偽物であると天皇に報告し、怒り心頭に発した天皇は姉弟を流罪にしてしまいます。しかし、これで道鏡を皇位に就けることはできなくなります。やがて天皇は病が重くなり、比例して道鏡側の権力が落ち、太政官側の巻き返しが始まりました。

 

称徳天皇は770年に崩御されましたが、病の祈祷などが宮中内外でなされた記録がないと言われており、治療もほとんどされずに放置状態だったとも言われます。後継天皇について遺言されたとも言われますが、もしあったとしても無視されたようです。

 

白壁王を皇位に就けよという遺詔が読み上げられますが、これはどうも太政官側の藤原永手や吉備真備が工作したもののようです。もっとも真備は別の皇族を推していたとも言われていますが、真備も既に高齢(75歳)でした。

 

そして白壁王が即位します、これが光仁天皇(第49代)です。

孝謙上皇の逆襲と藤原仲麻呂の乱

頂点に上り詰め、恵美押勝の名までいただいた藤原仲麻呂でしたが、太政大臣(太師)になった同じ年760年に光明皇太后が逝去されると、次第にその権勢に陰りが見えてきます。

 

孝謙上皇が弓削道鏡を信任し始めたことに焦りを感じた仲麻呂は、淳仁天皇に上皇を諫めるようにけしかけますが、これが逆効果を生みます。激怒した上皇は、天皇の権限を制限するとともに、実質的に返り咲きを図りました。

 

焦燥した仲麻呂は自分の兵権を活用して多くの兵を都に集め、天皇やその兄弟(親王)たちと共謀し政権の奪還を目指しますが、後難を恐れた一人が上皇側に密告します。仲麻呂側と上皇側との間で、孝謙発動のための鈴印争奪戦が激烈になります。

 

上皇は、仲麻呂の官位を剥奪、全財産の没収を宣言しますが、仲麻呂はいち早く平城京を脱出し、近江国を目指して北上しました。上皇は70歳の吉備真備(仲麻呂の政敵)を政権中枢に復帰させ、追悼軍の指揮を任せます。

 

瀬田の橋を先行して焼かれた仲麻呂は致し方なく、琵琶湖の西岸を北上しますが、氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立しますが、愛発関を固めた上皇軍を破ることができず、南へPhoto 引き返します。

 

そして再び今度は船で愛発関を目指しますが撃退され、湖岸の三尾で妻子一族ともに斬られて敗北してしまい、塩焼王も誅されます。これが世に言う「藤原仲麻呂の乱」です。

 

淳仁天皇も廃位されてしまい、淡路国に流され(淡路廃帝)、やがて逃亡を謀って捕まり病死したと伝えられていますが、どうも殺されたようです。正式に天皇として認められ、淳仁の名が贈られたのは明治天皇の代になってからでした。

 
そしていよいよ孝謙上皇は、再び天皇の位に戻り(重祚)称徳天皇となられます。いわゆる天武系天皇の最後となるわけです。

通説・官製歴史を否定することから始めるか

今日の歴史コラムは、いつもの古代史(現在は奈良時代の後期)を離れて、最近思っていることや考えていることをちょっとストレートに。

 
普段は古代史と並行して、戦国史の辺りと幕末史の辺りの本を読んでいます。色々な意見や諸説をくまなく読むことは、自分の中で確たる意見・意思を持つためにも必要なことかなと考えていますので。

 

それにしても、様々な説があるものです。たかだか150年ほど前の幕末史ですら、通説と呼ばれているものと、その他の異説とがそれこそ百花繚乱にあるということに気づきます。史料の読み方によっても違うし、どの史料を採用するかで大きく変わります。

 

史料が多く存在している幕末でもそうなのですから、史料が少ない、しかもホンモノなのかどうかも判断しにくい中世から古代となると、正直言ってどの説を信じようかと迷ってしまいます。

 

通常なら通説と言われる、いわゆる「講座派」という学説に準拠して考えていくのでしょうが、マルクス学派的な見方にも一理を感じることもあります。さらには異説の方が、核心を突いていそうな感じがすることも。

 

例えば、井沢(元彦)さんのように、日本の通説には特に「宗教」という視点が欠けているから、そちらの方からもアプローチしなければということにも大いに賛成です。かといって、井沢説を全面支持する気もありません。

 

そんな中で明治維新がもうすぐ150年を迎えます。明治維新というと、維新の三傑と呼ばれている西郷隆盛、大久保利通、そして木戸孝允を中心としたいわゆる「薩長」の志士たちの活躍、あるいは坂本龍馬に注目が集まります。

 

しかしながら、「維新」とは何でしょうか?教科書的にはほぼ無血革命的に明治新政府が打ち立てられて、薩長土肥志士出身の若者たちが、日本の近代化を推進していったと。だが、そこにはなんだかウソがいっぱいあるように思えたのです。

 

映画「鞍馬天狗」の世界のように、勤王の志士たちが「エエもの」で、新撰組や幕府側が悪者といったことはホントだろうか。

 

勤王の志士というけれど、蛤御門の戦いの際に、長州藩は御所に向かって大砲をぶちかましたのではなかったか。あるいは、公家衆であっても自分たちの主義主張と違えば、テロPhoto で抹殺していたのではないか。

 

暗殺・テロなどはとんでもない非道のことだと教科書には書いてあるが、幕末のテロをやってのけたのは、もちろん新撰組や幕府見廻組もやってはいたが、大半は勤王の志士などとうそぶいていた連中の仕業ではないか。

 

その思想的裏付けになっていたのは、全てではないが、吉田松陰の思想ではないのか。松陰の思想が志士たちに引き継がれ、彼らが明治新政府を打ち立て、そして世界に冠たる日本の近代化を推し進めていった。

 

この通説というか、官製歴史ってなんだかおかしくないか。そんな疑問をもって、様々な両側の本を読んでいて、ますます分からなくなってきているというのが、正直なところです。ただ、教科書に載っている官製歴史は間違っている、との結論に近づいています。

 

たとえば幕末の王政復古というのは、どこの時代に復古するという戦略だったのか。第一天皇親政が行われたのは、日本の歴史の中で、天武天皇と後醍醐天皇くらいではないか?しかも後者はたった2年間。

 

明治新政府を立てようとした彼らは、一体何を目指していたのか。もっともっと学び考えることが多そうだなぁ。脳力開発的に、まず通説を否定するところから始めて見るか。これからもよろしく。

藤原仲麻呂と孝謙上皇・道鏡との権力闘争

孝謙天皇が譲位され、後を継がれた淳仁天皇は、皇太子時代は大炊王と称されておりました。舎人親王のお子様ですから、天武天皇の孫になります。

 

問題は大炊王が、ずっと藤原仲麻呂と強く結びついておられたことでした。仲麻呂の長男が病死した後、その未亡人を娶られ、しかも仲麻呂邸にずっと住んでおられました。言い方は悪いですが、仲麻呂の操り人形的な存在でした。

 

とにかく仲麻呂の言いなりであり、例えば官名を唐風に改めたり、新羅遠征(実現しませんでしたが)を認めたり、さらには銅銭鋳造を認め兵の徴集も許しています。仲麻呂の権力はますます大きくなり、同じ藤原氏の中でも他家とは大きな格差がついていきます。

 
ついに仲麻呂は太政大臣(大師)に任じられますが、そんな中で光明皇太后が逝去されます。これがある意味、最大権勢の陰りのきっかけになったのかも知れません。そして次第Photo に孝謙上皇の存在が大きくなっていきます。

 
上皇との間を取り持っていた、正室を失ったことも痛手であったようです。上皇の元で看病禅師となった弓削道鏡が、寵愛を受けて勢力を伸ばし始めました。焦った仲麻呂は、息子たちや娘婿を立て続けに参議に任じますが、これがまた周囲の反感を買います。

 
さらには淳仁天皇にけしかけ、上皇を誹謗するような意見を奏上させますが、これが上皇の怒りを買います。結果、天皇の大権はほとんど取り上げられてしまい、上皇・道鏡側に権力基盤が移動してしまいます。

 
後世に言われるように、上皇と道鏡の間に男女の関係があったかどうかは分かりません。それをいうなら、仲麻呂との間はどうだったかという、低レベルの言い争いになってしまうでしょう。どちらもなかったとは断定できない、というところでしょうか。

 
そして仲麻呂は軍の掌握を意図しますが、これは上皇側に先手を打たれてしまい、ついに平城京から脱出して兵を挙げます。藤原仲麻呂の乱の始まりです。

「女帝の逆襲」が始まる前夜

藤原仲麻呂、一言で言い表せば「えげつない」男であったようです。それだけの力を備えていたことも事実ですし、光明皇后の甥であり信頼されているという立場を、最大限に利用して大臣(左右大臣)と同等の権力を手に入れます。

 

さらに聖武天皇が譲位し、孝謙天皇が即位すると、女帝は母である光明皇太后に頭が上がらず、皇太后の傘の下で仲麻呂の権勢はさらに強まります。

 

聖武上皇は遺言で、女帝の皇太子に道祖(ふなど)王を立てるよう指示し立太子はしたものの、仲麻呂の策略で廃され、仲麻呂の邸宅に居候していた大炊(おおい)王が皇太子となります。後に淳仁天皇として即位される方です。

 
それに強く反発したのが、橘諸兄の息子であった橘奈良麻呂でした。反対勢力と密議を繰り返しチャンスを待っていましたが、裏切り・密告により一斉に捕縛されてしまいます。このPhoto あたり、奈良麻呂も脇が甘かったと言えます。

 
しかし、当初は皇太后が仲介に入り、孝謙女帝も「死一等を減ず」として流罪にするよう勧告したのですが、仲麻呂はそれを無視してついに謀反に加担した一統を獄死させてしまうのです。一説には杖で打ちのめし、撲死させたと言われています。

 
こうして政敵を一網打尽にした仲麻呂は、名実ともに中央政庁のトップに立ちます。そして女帝に譲位を促し、淳仁天皇が即位します。さらには「恵美押勝」という姓名をいただき、得意は絶頂です。

 
しかし、この状況が仲麻呂のてっぺんであり、ここから一気に滑り落ちることになるとは、彼自身も予期していなかったでしょう。淳仁天皇は傀儡ともいえる存在で、ほぼ全ての実権を仲麻呂は握りました。だがそこに、油断があったのでしょう。

 
その発信源は譲位した女帝でした。まさに「女帝の逆襲」が始まったのです。

お飾り天皇と『光明=仲麻呂』体制

藤原不比等の孫、藤原鎌足の曾孫である藤原仲麻呂は、奈良時代に入る少し前に生まれ、時代の後半に歴史から消えているので、まさに「奈良時代のど真ん中」を生きたと言えます。

 

叔母である光明皇后に可愛がられ、聖武天皇と皇后の間に生まれた阿倍内親王(皇太子)が孝謙天皇として即位する(749年)と、参議であった仲麻呂は一気に大納言に昇進しPhoto ます。

 

その以前の参議・式部卿時代、政敵であった橘諸兄の側近たちを次々に配置転換あるいは免職し、諸兄の力を削いでいきます。式部卿はそういう人事権を握れる役職でしたが、その力の裏にとくに皇后の後押しがあったと考えざるを得ません。

 

諸兄は光明皇后とは異父兄妹ではありましたし、皇后は「県犬養(橘)」意識も持っていましたが、それ以上に「藤原」意識を持たれていたようです。また、諸兄はやり手であり、ある意味やりすぎたのかもしれません。

 

また、聖武天皇の第二皇子であった安積親王が恭仁京で急死していますが、これも仲麻呂の指金ではないかと疑われています。安積親王は皇后の実子ではありませんが、皇位継承候補でした。

 

そして大納言として朝堂中枢に座ると同時に、皇后の「役所」である紫微中台の令(長官)を兼務することになります。これをもって『光明=仲麻呂』体制が確立し、孝謙天皇が全面的にそれを後押しします。ある意味天皇はお飾り的存在だったかも。

 

そしてついに左大臣諸兄が「舌禍」事件で失脚し、右大臣藤原豊成(仲麻呂の兄)に対しては、紫微内相に就いて実質的には上位に立ちました。

 

その仲麻呂の前に立ちふさがったのが、諸兄の子である橘奈良麻呂でした。次回コラムはその二人の全面対決のところからです。

稀代の怪物・藤原仲麻呂の登場

奈良時代は「血塗られた時代」とも言われています。直前の天武・持統時代にも、有間皇子や大津皇子らの事件があり、聖武時代には長屋王が葬られました。

 

他にも天皇に即位できる資格を有する皇子や王が、何人か不審な死を遂げています。あるいは重臣の中にも、対立する重臣(ズバリ藤原氏)によって抹殺された例があります。

 

そしてまた、ここに一人の権力者が登場します。その名は藤原仲麻呂、藤原南家の武智麻呂の次男として誕生します。

 

武智麻呂たち四兄弟が相次いで天然痘で病死した際には、まだ30歳ちょっとで、聡明鋭敏Photo さは評価されていたものの、官位はまだ従五位下であり、政権を担う橘諸兄とは大きな差がありました。

 

しかし順調に階位を上げていき、743年に37歳で参議に昇任、つまり公卿の一員になりました。この頃から諸兄との対立を深めていったようですが、叔母である光明皇后の信任を得たことが大きな要素でした。

 

もっとも諸兄も皇后とは異父兄妹であり、どちらが「皇后を得る」かという権力闘争が強まったともいえます。そして結局、軍配は年若い仲麻呂に上がります。

 

749年に孝謙天皇が即位すると、仲麻呂は一気に大納言に上り、次いで、皇后のために設けられた紫微中台の長官に抜擢されます。

 

この役職はいわゆる令外官であり、中央朝廷である太政官とは別組織ながら、同じあるいはそれ以上の権力を持っていました。

 

755年に諸兄が左大臣を辞任し、ついに朝堂を追われてしまいます。右大臣は仲麻呂の兄である藤原豊成ですが、仲麻呂はこの兄の追い落としを謀ります。

 
そして756年に聖武太政天皇が崩御されると、政局は大きく動いていきます。

大仏建立の裏側で政権抗争が激化する

母も正妻も藤原不比等の子であるという、文字通り「藤原の子」であった聖武天皇の心の変化について、前回のコラムでお話ししました。

 

それは、永く引き離されて会うことのなかった母・宮子との再会が、大きなきっかけでした。精神の病に幽閉されていたらしい宮子と、天皇が出会ったのは実は光明皇后の邸であり、そこは不比等から譲られたものだったそうです。

 

すなわち、この邂逅を演出したのはどうも皇后であるように思われます。そういえば、皇后は聖武天皇の放浪ともいえる遷都行幸にずっと寄り添い、しかもその間大仏建立という大事業の意思決定に、背中を押されたようです。

 

天皇以上に「藤原の子」であった光明皇后も、またそこからの脱皮を図られたようです。不比等の娘であること以上に、橘三千代の子であることを意識し始めたのかも知れないということでした。

 

そんな中で大仏の製作が始まり、そこに膨大な費用と労役が投じられます。それに対するPhoto_2 庶民の怨嗟の声も上がったようですが、天皇は大仏の法力によって平和と安寧を実現したいという、強い思いを持たれていたようです。

 

しかし、大仏開眼の時には天皇はすでに譲位をされていました。開眼法要は752年の春、その3年前に皇太子である阿倍内親王に皇位を譲られたのです。

 
阿倍内親王あらため孝謙天皇は御年31歳、20歳で立太子されましたが、史上初の女性皇太子でした。ですが、それが故に生涯独身でなければならないという運命を背負うことになられたのです。

 
一方で、天武天皇直系の男系はここで途絶えることになりました。

 
さて、大仏開眼の裏側では、朝堂の権力者が入れ替わり始めていました。藤原4兄弟が天然痘で倒れた後で権力を握ったのは、橘三千代の子であり光明皇后の異母兄だった橘諸兄でした。

 
吉備真備や僧玄昉たちが周囲を固め、諸兄政権は盤石のように思えましたが、老いが彼らを政治の中心から去ることを命じます。それに代わって再び台頭してきたのが藤原氏、なかんずく南家の藤原仲麻呂でした。

 
仲麻呂は不比等の子であった武智麻呂の次男、叔母に当たる光明皇后に取り入り、その基盤を利用することで一気に地位を高めていきます。

 
そしてついに、諸兄政権を倒して朝堂のトップに躍り出てくるのです。次回はその仲麻呂の盛衰を中心に。

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