松陰神社(東京)は明治初年にはまだなかった

吉田松陰その2です。先ずは神社の話。

 

松陰を祀る松陰神社は、地元の萩の他に東京世田谷区にもあります。世田谷区若林にある松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前停留所から北に歩いて34分のところにあります。

 

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途中は商店街になっており、左に折れるとすぐ世田谷区役所があります。この神社は、安政の大獄から4年ほど経った頃、処刑された松陰の亡骸を遷して(改葬)安置したところです。

 

これを実行したのは高杉晋作や伊藤博文等と伝えられていますが、この神社一帯は元毛利家藩主の別邸があったところです。しかしながら神社が創建されたのは明治15年ですから、明治初年からはちょっと間がありすぎませんか。

 

神社創建までは、どうも簡素な墓碑しかなかったようです。なお蛇足になりますが、松陰神社と谷をはさんで豪徳寺があります、皮肉にもこちらは井伊直弼の菩提寺となっています。

 

それはともかくとして、ここでは教育者(明治維新の人材を育てた教育家)としての吉田松陰が祀られているわけですが、もし本当にそうであれば明治初年の頃に祀られていても然るべきと思うところです。

 

それが10数年経ってようやくというところに、松陰の複雑性があるのだと考えざるを得ません。つまり単なる教育者、明治新政府の中核を担う人材を育てただけでない「特殊性」を観るべきでしょう。

 

あるいはまた、松陰を祭り上げた新政府の長州人たちが幕末に犯した悪行を、隠蔽するための必要として神社として昇華したともいえるのではないでしょうか。

 

確かに松陰自身は、例えば「天誅」などという殺人はやっていません。だが、松陰の教えを受けた人たちはやっています。戦争におけるそれはともかく、伊藤博文もまた殺人を犯した一人でした。

 

久坂玄瑞や高杉晋作たちは、伊藤も井上(馨)も含めて、イギリス公使館の焼き討ちなどという愚行もやらかしていますし、久坂は禁門の変で御所に向けて大砲をぶっ放してもいます。

 

では松陰は全く罪を犯していませんか、否ですね。最大の罪は密航未遂、密航は当時の国法違反の最たるものです。

 

すでにこのブログでも触れた、ペリーの2回目来航時、1854年の出来事です。

 

実はその前年1853年にも、松陰は密航を企てています。長崎に来航したロシアのプチャーチンの船に乗り込もうと、江戸から長崎に急ぎましたが、一歩遅く出港した後だったのです。

 

それで今度は、再来航したペリー艦隊に目をつけます。まさか地元の船頭に頼むことはできませんから、行動を共にした金子重輔とともに自ら小舟を漕いで艦隊に近付きます。

 

何とか旗艦・ポーハタン号に乗り込むことには成功しますが、密航は認められませんでした。条約締結を目前にして、幕府側と揉め事は起こしたくないというペリーの意思も働いていたのでしょう。

 

艦隊から追い返され、計画に失敗した松陰は下田の奉行所に自首して、金子と共に捕縛されます。本来なら死罪も免れないところですが、死一等を減じて長州に戻され、獄につながれることになります。

 

この密航の罪は、安政の大獄で逮捕される理由にはなっていません。また、アメリカに留学し、アメリカの技術を盗み、アメリカを倒すためというのが密航の理由だという人もありますが、そこまで果たして深く考えていたのか、それにしては余りに稚拙な計画と実行であったと感じます。

吉田松陰は高潔な教育者だったのか?

明治維新と聞くと、多くの方が吉田松陰の名を頭に浮かべるでしょう。ちなみに、地元山口県では決して呼び捨てにはせず、必ず「松陰先生」と呼ぶそうですね。

 

それだけ名高い松陰ですが、では何をされた方ですか?と尋ねますと、(地元の方は別としても)ハッキリとは分からないというのが本当のところではありませんか。

 

松陰と言えば松下村塾ですが、この塾も松陰が作ったものではありませんし、実際に松陰が直接ここで教えたのはホンの数年に過ぎません。

 

実際に何度か松下村塾を訪れたことはありますが、「えっ、これが!?」と驚かれる人が多いくらいの、小さなみすぼらしい建物です。小屋といった方がふさわしいかも知れません。

 

もちろん、ハードウェアが小さく貧弱であっても、そこから幕末・明治の時代に活躍した人材を輩出したことは事実です。伊藤博文、山県有朋、井上馨などなどいくらでも名前が挙がります。Photo

 

では松陰という人物は「高潔な高人格の教育者」であったのか、というとそれはどうなのでしょう。確かに教科書では優れた教育者として書かれ、時代を彩る人材が学んだことも事実です。

 

だからといって、松陰が素晴らしい人間であったと短絡するのはいかがなものでしょう。

 

また、幕府とくに井伊直弼政権の方針や政策を批判し、安政の大獄で検挙されて挙げ句に刑死する。それは幕府や井伊直弼が悪くて、松陰先生のような逸材を殺したことはけしからん、という教え方がされてきました。

 

私もそのように考えていました。小学生の頃に読んだ「日本の歴史」にもそう書いてありましたから、疑うことを知らない少年は「松陰先生は素晴らしい」、「そんな先生を処刑した井伊大老はどんな悪い奴だ」と。

 

しかし、吉田松陰は、間違いなく処刑されるべくして処刑されたのです。

 

こう書くと、多くの方からブーイングを食らうかも知れませんが、事実を曲げるわけにはいきません。実際のところ、長州毛利家でも、松陰のことは持て余していましたし、二度も獄に入れることになりますし、処刑されてからもしばらくは「厄介者」だったのです。

 

今はそんなことは、松下村塾を尋ねても投獄された事実だけを紹介しているだけで、そのこともまた松陰が偉大な教育者であったことにつながることとされています。

 

繰り返しますが、松陰の元に集まって人たちの多くが、幕末や明治の時代の中心になったことは事実として認めます。だからといって、松陰が傑出した教育者であり、まさに新たな時代を切り開く先駆的な逸材だったということには、大いに異論があります。

 

強いて言えば、教育者と言うよりも煽動家=アジテーター=と読んだ方がふさわしいと思うわけです。松陰を先生として祭り上げ、聖人の如く崇めることにしたのは、明治新政府を担った長州人たちです。

 

彼らが明治新政府の中心にいなければ、「歴史はねじ曲げられなかった」し、「松陰はあくまで反政府主義者でトンデモ人間だった」という事実が語られたことでしょう。

 

薩長史観と言うより、ここでは長州史観ということになるのかも知れませんが、では次回からは事実・史実を客観的に眺めていくことにしましょう。

孝明天皇は和親条約には反対しなかった

二度目のペリー来航により、アメリカの間に日米和親条約が結ばれます。この時に日本側の実質的な交渉代表だった林大学頭(復斎)のことを前回書きました。

 

復斎は決してペリーの恫喝に屈することはなく、むしろ正論を堂々と主張して、むしろアメリカ側を圧倒していたのです。しかも、当面の目的が捕鯨船を主体としたアメリカ船への食料や水の補給であることを見抜いていました。

 

つまり通商は「あわよくば」という要求であったわけで、復斎は時期尚早をタテにしてこれをはねつけます。どこがこれまでの教科書にあるような、弱腰外交だったのでしょう。

 

しかも、もう一つ重要なポイントがあります。この和親条約について、京都の朝廷側もほとんどクレーム・いちゃもんはつけていないのです。

 

当時の天皇は第121代の孝明天皇ですが、天皇は大の異国(人)嫌いであったことは間違いありませんが、でもこの条約に対しては反対をしていません。(写真は孝明天皇陵)Photo

 

確かに天皇は開国に反対されています。幕府に対してペリー来航以前の段階で、「海外防備を厳重にせよ」という勅令を出されましたが、当時の幕府はこれをほとんど無視して特に手立てはせず、それに対しても特別おとがめがあったわけでもありません。

 

ではなぜ、天皇・朝廷側は(日米)和親条約には反対をしなかったのでしょうか。

 

江戸時代の日本を支配していた思想は何だったでしょうか。それは朱子学を土台とする「中華思想」です。つまり、日本が世界の中心という発想であり、国を鎖していたこともその延長にありました。

 

ではここで開国する意味は?

 

和親条約の条文を読めば分かります。つまり、日本を頼ってくる異国船(と船員)に、食料や水を「分け与えてやる」ということです。つまり施しを与えるという姿勢なわけです。

 

分かりますね、この条約は「上から目線」であるわけで、日本の国体はちゃんと守られているのですから、しかも開いた港は京都からはるかに離れた下田と函館ですし。

 

薩長史観に毒されたこれまでの歴史書・教科書では、違うことが書いてありませんでしたか。いや、実は特に書いてはなかったはずです。しかし、「反対しなかった」とも書いてありません。林復斎のような骨のある幕臣がいたとも書いていませんでした。

 

問題は次に結ばれる日米修好通商条約です。これに、孝明天皇や朝廷側が猛反対したことは事実でありますが、当然ながら対等(実は不平等でしたが)に通商することに難色だったわけです。何しろ、「施し」とは異なるわけですから。

 

ところが薩長史観の教えは、最初から腰の砕けた軟弱な幕府が・・・となっているわけです。しかも、異国に対する知識も、先進的な発想もないままにというのです。

 

でもどうみても、当時外国に対する情報をいちばん持ち得ていたのは幕府側ですし、後手に回ったところは否めないまでも、薩長側だったらうまくやっていたなどという論理は成り立ちません。

 

そしてここに、吉田松陰というトンデモ人間が登場してくるのです。

ペリーの恫喝外交に負けなかった林大学頭

さて再び半年後に現れたペリー艦隊のお話です。今度は6隻で浦賀沖にやってきましたが、その内外輪蒸気船は3隻でした。さらに日を置いて、もう3隻が江戸湾に現れます。

 

将軍の交代などでバタバタしていた幕府ですが、それなりに再来航への準備はしていました。前回書いた台場づくりの他にも、洋式帆船の製造を浦賀造船所で完成していましたし、オランダに軍艦を発注しています。

 

また、その他にもジョン万次郎を招いてアメリカ事情を語らせています。しかしまさか半年で、しかも9隻もの艦隊で現れるとは思わなかったでしょうから、前回よりも大慌てでした。

 

一方市民の側は、2度目ともなれば馴れてしまったのか、小舟を出しての見物や物売りまで現れたそうです。また幕府も、横浜(当時は寂しい海辺の寒村だったようです)に応接所をつくり、艦隊員を接待しています。

 

そんな中でアメリカ側との交渉が始まっています。私たちが学んだ教科書の歴史によれば、アメリカ側の強硬な要求に押されて、あるいは江戸湾深く侵攻するような脅しもあって、幕府は屈辱的な条約を結ばざるを得なかったと書かれています。

 

しかし実際にはそうではなかったことが、多数の文書・史料で確認ができます。

 

ここに一人の人物が登場します。林復斎、儒学者・林家の本家大学頭家を継いだ俊才です。しかも、アメリカを初めとする外国事情にも明るい人材でした。

 

横浜村での応接掛に登用された林は、漢文での応対だったようですが、アメリカのことをよく研究しており、ペリーの居丈高な外交姿勢をかえって批判したくらいです。

 

アメリカ側は、捕鯨船の寄港と食料や水、薪炭などの補給を求め、そのためにいくつかの港の開港、さらにその上に通商交易を求めて来ていました。

 

林は前二つについては妥当だとします。これは当時の国際状況から避けられない、やむを得ないとの判断によります。とくに、アヘン戦争等による清国の状況をよく研究していたようです。

 

アメリカの要求の本音もつかんでいたと推察され、ペリーをキチッと理詰めで論破していたことが、史料(『墨夷応接録』など)からも読み取れます。Photo_2

 

とくに国内情勢に鑑みて、通商についてはまだ時期尚早であると、断固として拒絶しています。

 

そうなるとペリーも無理押しはできません。急務である、開港と補給の保証を取ることが最大の急務であったからです。

 

こうして結ばれたのが日米和親条約(神奈川条約)、後に明治新政府が言うように、また教科書に書かれ続けてこられたような、弱腰外交では決してなかったのです。

 

条約締結はその年(1854年)の33日、さらに細かい部分については下田で追加条約が結ばれます。

 

この条約によって、日本は下田と箱館(函館)の2港を開港し、いわゆる「鎖国」の体制は終焉を迎えることになります。

 

役目を終えたペリー艦隊は、6月の始めに下田を出て琉球に向かっています。なお、浦賀沖に停泊中に密航を企てたのが、かの吉田松陰でした。松陰についてはまた後日。

幕府の弱みを巧みに突いたペリー外交

ペリー艦隊、すなわち黒船の江戸湾来航の続きです。

 

嘉永6年(1853年)の来航に際して、幕府が相当うろたえたことは事実です。また、ペリー艦隊側にも「恫喝すればアメリカに有利な交渉になるだろう」という見方があったようです。

 

しかしペリーには、例えば要求が容れられなければ武力を行使してもよいというような、権限は与えられていませんでした。ですから、湾内で放った大砲も空砲でした。

 

空砲の中には「アメリカ独立記念日の礼砲」もあったようです。いずれにしても市民が驚いたのは最初だけで、すぐに馴れてしまったようですし、武士たちも含めて野次馬の数だけ増えていったようです。

 

オランダからの情報でアメリカ艦隊がやって来ることを知っていた、さらにはこれまでも長崎を含め各地に、各国の艦船が「開港を求め」てやってきていましたので、幕府の対応が後手に回っていた、あるいはほとんど用意ができていなかったことは確かです。

 

しかし、それをもって幕府がダメ政府であって、例えば薩長ならばという議論は的外れです。当時は日本中が幕府以下の対応しかできなかったはずで、明治維新の結果からの遡りは偏った見方です。

 

幕府(浦賀奉行)は結局、フィルモア大統領の親書を久里浜に上陸したペリーから受け取ります。ペリーは返答を求めますが、将軍・家慶が病床であることも理由に1年の猶予を求めます。

 

これも「先延ばし策にすぎない」と言ってしまうと身も蓋もないわけで、致し方無しと同情的に見るのが適当かと思います。

 

また、筆頭老中であった阿部正弘は従来の幕閣や旗本・御家人だけでなく、外様大名にも意見を求めます。これがきっかけで外様雄藩の口出しが始まり、彼らが意識を高めたことによって幕府の基板が揺らぐきっかけになったと言います。

 

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しかし、それは結果から無理矢理当てはめた暴論でしょう。我々は結果を知っていますから、類推や推測を都合のいいように合わせられますし、おそらく明治新政府も都合よく歴史を仕上げていったのです。

 

少なくとも、阿部老中にはそのような推測も意識もなかったわけで、より多くの意見を採り入れていきたいという期待があったはずです。また、島津斉彬など進歩的な外様大名も少なくなったのですから。

 

実際に、斉彬などは開国にも積極的であったと思われますし、幕府内の旗本官僚にも進歩的な意見を持つ者が少なからずいました。

 

また、東京湾沿いに台場の建設を計画しますが、実現したのは品川沖に造営された11箇所の台場に過ぎなかったようです。

 

そして、悪い時には悪いことが重なるもので、将軍家慶が逝去してしまいます。後を継いだ13代将軍家定も病弱で、正常な意思決定ができたのかどうか記録を見る限りでは、無理だったのかと思われます。

 

しかも、ペリー艦隊は1年後という約束(口頭)にも関わらず、半年も経たない嘉永71161954年)に再び浦賀沖にやってきます。おそらく将軍の死と交代という情報を得て、そのどさくさにという意識がアメリカ側にあったのでしょう。

 

鎖国状態うんぬんだからではなく、今につながる「日本(人)の外交下手」が現れたように思います。少なくとも家康時代にはあったはずの外交意識が、当時は希薄になったいたことは認めざるを得ません。

 

だからといって、、それは幕府が『悪』だという結論には結びつかないはずです。

泰平の眠りを覚ました黒船は2隻だった?

さて、ペリー来航についてです。どの歴史の教科書にも出ている事実です。

 

時は185378(嘉永663日)、浦賀沖にあらわれた「黒船」を見た日本人はこれを、『泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず』と狂歌に詠いました。

 

しかし実際には4隻のうち蒸気船は2隻で、他の2隻は帆船でした。ただ帆船とはいえども、当時の日本の船に比べるとはるかに大きなものでしたから、浦賀に来た日本人がびっくりしたのも当然です。

 

とくにペリーの乗った旗艦であるサスケハナ号、2450トンの外輪蒸気船で黒塗りでしたから、巨大な要塞のように見えたかもしれません。

 

前回も書きましたが、幕府はアメリカの艦隊がやって来ることはオランダからの情報で知っていました。また、アヘン戦争の成り行きについても知っていましたから、外国船討ち払い令は早々と撤回しています。

 

ペリー艦隊は上海から出航して琉球(王国)に寄港し、まず琉球国王に開国を要求したようですが柔らかに拒否されています。

 

その後まず黒潮に乗って小笠原に現れ、領有宣言をしたりしていますが(後に無効とされました)、再び琉球に戻った上で浦賀に向かいます。

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アメリカの目的は日本の開国ですが、それは太平洋に展開していた自国捕鯨船への補給が主目的でした。捕鯨船は帆船が中心でしたが、積み込める食料等には限りがあります。

 

また蒸気船も積み込める石炭量は限られています。当時はまだ太平洋を横断する量を積めなかったと言われています。とくに捕鯨によって鯨油を獲り、それをたくさん積み込むには寄港補給する港が不可欠です。

 

それが日本に目を付けた最大の理由です。当初は通商のことはまず二の次で、石炭や食料等を補給できる港を日本に求めることが第一でした。

 

また、浦賀入港もあくまで江戸幕府にアメリカ大統領・フィルモアの親書を手渡すことが任務でしたので、この時には親書を幕府高官に手渡すと江戸湾を後にしています。

 

もっとも、大砲(空砲)をぶっ放したり、周囲の測量をしたりと、我が物顔にふるまったようではありますが。

 

さて、これに対する幕府の対応です。当初は浦賀奉行所の与力が相手をしていますが、下っ端では話にならないということで親書を渡されず、後に奉行が受け取りました。

 

この時の幕府老中筆頭が阿部正弘(備中福山阿部家)でしたが、彼は決して海外情勢に暗くはなく、盟友であった薩摩の島津斉彬とともに、開明的な考えを持っていました。

 

しかし、幕閣の理解を得る時間も必要でしたし、当時の12代将軍徳川家慶は病床にありました。そこでアメリカへの回答に1年の猶予を申し出、ペリーもこれを了承して来航から10日後の718日、浦賀を離れます。

 

ところが家慶も間もなく逝去してしまい、13代将軍に家定が就きますが、家定も病弱で重要な意思決定ができるかどうか危ぶまれていました。

 

そこで阿部老中は外様大名(雄藩)にも意見を求めることにしたわけですが、これがある意味では幕府の命を縮める結果になったのも事実です。

 

いずれにしても幕閣だけでは決められないということを露呈してしまったわけで、この黒船来航がきっかけで時代が大きく動いた。つまり明治維新が始まったと言われるゆえんです。

「鎖国」していたから非開明的だったという大ウソ

鎖国と言われています、国を鎖すこととされていることはご存じの通り。これが江戸幕府の「(家康以来の)祖法」であり、次々に出された鎖国令が江戸時代を支配し続けたとある。

 

このことは教科書などにも書いてあるのですが、二重に間違いです。何よりもまず、江戸時代には「鎖国」という言葉が少なくとも1800年代に入るまでなかったのです。来日したドイツ人医者が日本について書いた本を、訳した際に造語したと言われています。

 

ですから、当然のことに江戸初期に「鎖国」令が順を追って出されたというのは誤りです。それらはキリスト教の禁令だとか、ポルトガル船の入港禁止といった命令でした。

 

また、「祖法」であるというのも間違いで、家康はむしろ交易を拡げようとしたのではないですか。アダムスやヨーステンを顧問にして外国事情を学んだ事実もあり、ヤン・ヨーステンは「八重洲」の地名にもなりました。

 

家康は幕府が外国貿易を独占することを目指したようで、そのために各大名が大型船を建造したり、独自に外国と交易することを制限したのです。ただ、時代が下る中で、時の老中などの幕閣が「家康以来の祖法」としていったことは確かです。

 

しかし、幕府が国を鎖したと断定してしまうことは明らかに間違いです。少なくとも、長崎においてオランダや清国との交易は続いていましたし、対馬藩を窓口に朝鮮との交易が続き、あるいは琉球王国を介しての貿易も存在していました。(写真は長崎・出島)Photo

 

ですから明治新政府が、鎖国を国法として国を鎖した頑迷な幕府を、開明的な新政府が打倒したのだと声高に叫んだのは、明らかに間違いだと言えるでしょう。

 

第一に、当初「攘夷」を叫んでいたのは長州を中心とした志士と言われる武闘派であり、その説に踊らされていた攘夷派の公家であったわけです。

 

そもそもこの志士と名付けられた輩たちが、やったことはなんでしょうか。とくに禁門の変に至るまでの志士たちは、どうみても暗殺テロ集団あるいはテロリストにしか見えません。

 

後に「勤王の志士」などと名付けられているのは、誠に笑止千万です。鞍馬天狗の活躍などは、映画やお芝居の中だけでいいのです。それをやたらと持ち上げたり、靖国神社に祀るというのはいかがなものでしょう。

 

むしろ志士というテロリストたちが京の都を跋扈していた頃、本当に開明的であったのは江戸幕府ではなかったでしょうか。

 

当初は「外国船打払令」を出したりしていますが、10数年でその間違いに気付き、薪炭や水・食料を求めてやって来る外国船には、最低限の望むものを与えるよう指示しています。

 

少なくとも、ペリーが来航した頃には「外国船打払令」など存在していませんでした。また、鎖国をしていた幕府は国際情報に疎く、ペリーの来航も寝耳に水であったというのも明らかなまちがいです。

 

すでにペリー来航のはるか前から、日本近海には外国船が度々姿を見せており、港や浜辺の町に近寄ってきた例も多数見られます。また、オランダ情報でペリーがやって来ることも知っていました。

 

情報を得ていながら、事前の対応策が後手に回ったなど不十分であったことは確かです。しかし、それにしても「薩長より頑迷であった、遅れていた」という事実は全くないのです。

 

では次回はペリーの来航に絞ってみましょう。

「薩長史観」に正面から斬り込んでみる

前回の歴史ブログに、次回から反「薩長史観」について述べていきたいと書いたところ、何人かの方から面白そうだ、あるいは期待しているというご意見をいただきました。
 

何しろ史料にまともに当たったこともないという素人の駄文なので、とても期待に応えられそうもありませんが、感情に流されることなく書き連ねていくことにします。
 

それはおかしいぞとか、そういう意見には賛成しかねるということがありましたら、どうぞご遠慮なく反駁を加えるなりしていただければ幸いです。
 

さて、薩長史観ということですが、これは明治維新をめぐる人物像や現象事件について、明治新政府の中心であった薩摩・長州が、自分たちを『正当化する』ために作り上げた歴史観のことを指します。
 

とまぁ、断定的にいってしまうのはどうも落ち着かないのですが、最初に私が疑問を感じたのは靖国神社についてです。靖国神社の問題をあれこれ語る気はありませんが、私の疑問はそこに「賊軍の兵士」が祀られていないという事実でした。
 

当時私が好んで読んでいたのは、越後長岡藩(江戸時代には藩とは呼ばれず、越後長岡牧野家というべきところですが、一般的な呼び方に従い藩と呼びます)の軍事総督、河井継之助についての書物でした。Photo_2 (写真は長岡市の河井継之助記念館入り口)
 

長岡藩は戊辰の役の一つである北越戦争で山県有朋率いる官軍と戦い、緒戦を勝利するものの城を落とされ、さらに奪回作戦を挙行して成功するものの、結局落城し町を焼かれます。
 

つまり長岡藩は賊軍とされるのですが、なぜ彼らは賊軍と呼ばれたのか。その呼び方が官軍に対比するものであったとして、そこには官軍=善(正義)、賊軍=悪という理由付けがなされますが、では何をもってその善悪が定められたのか。
 

さらには、同じ戦争(内乱)で亡くなった兵士でも、官軍の兵士は靖国神社に祀られ、賊軍の兵士は祀られていないという事実を見て、どちらも同じ日本人ではないのか、「国のために戦った」ことに善悪がつけられるのかということでした。
 

当時の私は靖国神社の成り立ちも性格もよく分かっていなかったので、単純にそう思っただけでした。つまり官軍(その主体は薩長軍)は愛国者であり、対抗した長岡や会津の兵士は非愛国者なのか。
 

何だかおかしい。おかしいはずです、靖国神社の最初は官軍兵士(のみ)を愛国者として祀るためであったから。その後のことはまたいつか触れるかも知れませんが、本題ではありませんので省きます。
 

いずれにしてもこのおかしさ、不可思議さはどこからきているのだろう。それが「薩長史観」というものだと気付いたのは、ずいぶん後のことでしたが、その視点から見るとおかしなことが山積しているのです。


では、いくつかある中で「薩長史観」が隠してしまった史実をいくつか羅列(ほんの一例です)してみます。


その一はペリーの来航、譲歩に譲歩を重ねた幕府は腰抜けで無能なので、進歩的な薩長に滅ぼされたのが当然であった。いったいどこにそんな史実が記録されているのか?

 

その二は大河ドラマにも準主役で出てきた久坂玄瑞(長州藩士)、禁門の変を起こし御所に攻め入ろうとしたこの男がどうして英雄か。そしてその師である吉田松陰は、いわば煽動者でありテロリストの師ではなかったのか。
 

その三、西郷隆盛は武装集団を江戸に送り幕府側の藩邸を襲撃、また市中においても略奪や殺戮を繰り返させた。そしてあくまで武力倒幕を実行しようとしたが、平和的解決を意図した勝海舟ら幕閣によってその邪魔をされた。
 

挙げているときりがありません、次回からは各論に入っていくことにしましょう。

明治維新は角度を変えて見た方がいい

歴史に学ぶということから書き始めた「VANちゃんの歴史ブログ」、古代から年代順に、どちらかというと歴代天皇に寄り添って書いてきました。

 

このままずっとそのままで進めてもいいのですが、少し書きたいこともあって、中世史・平安時代の藤原氏による摂関政治に入ったところで一時中断、一気に明治維新前後に飛んでみることにします。

 

元々脳力開発講座の「歴史講話・歴史に学ぶ人間学」では、戦国時代や中国の三国志時代と共に明治維新を取り上げることが多かったのですが、最近になって明治維新は角度を変えて見た方がいいのではと気付いたのです。

 

脳力開発では常に、両面からモノを見ること(両面思考)や、色んな角度から眺めること(多角度思考)を推奨していますから、歴史もまた例外ではありません。

 

それに歴史ほど、為政者によって一方的角度から書かれることが多いことも事実です。となれば、違った角度から眺め分析を試みることも無駄ではないと思うのです。

 

例えば戦国時代でいえば石田三成という存在、秀吉亡き後の天下を得んとして、関ヶ原の戦いで「無謀にも」徳川家康に挑み敗れ去った武将であり、傲慢で不公平な政治を行ったとされていますが、それは本当か?といったこと。

 

同様に明治維新では、古くさい体質・旧弊を引きずっていた無能な幕府を、開明的な維新の担い手たちが打ち倒して近代国家を築いたとする、教科書的味方は果たして真実なのか。

 

そういったことを、私なりの観点で見直してみようというわけです。これまでにも、このブログの中で一部触れてきたことがありますが、じっくり落ち着いて時代背景も再考しながら見つめ直します。

 

というのも、この明治維新という歴史の転換点が現代の日本あるいは日本人の、ある意味で原点になっているからです。

 

もっともその割には、学校における歴史教育においてこれほど「いい加減に」扱われている時代も少ないでしょう。というよりも、最も重要な時代であるのにも関わらず通り一遍の、それも駆け足授業で済ませているという感が否めません。

 

折りしも来年は「明治」と改元されて150年の節目を迎えます。

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私は歴史家とか歴史学者といった者でもなく、ただ単に一介の市井人に過ぎません。ただ、モノの見方について先述のように少しばかり脳力開発的に、両面思考や多角度思考を怠らないというだけに過ぎません。

 

ですから、当然のように誤った見方をすることもあるでしょうし、史料に基づいた(とされている)定説・通説を無視した記述もすることでしょう。

 

まぁそれも一つの見方かなと寛容の心でお許しをいただき、さらりと読み流していただければとお願いするところです。

 

いったい何回くらい続くのか、それも分かっていません。何しろ思いつくままに書くのですから。ただ一つ、人間にフォーカスして書くということは私自身の信念です。

 

週に1回くらいの頻度ですが、この歴史ブログに引き続きお付き合いをいただければ幸いです。

陽成天皇は本当に暴君だったのでしょうか

応天門の変(866年)から10年、27歳になられていた清和天皇は突然譲位されます。2年半後にはまた突然に出家され、その後水尾の地で苦行生活に入られます。

 

嵯峨水尾(みずのお)は、愛宕山の南麓に位置する山間の静寂の地です。東の八瀬大原と並んで、古代より出家・隠棲の地とされていました。

 

清和天皇は「水尾帝」と呼ばれたほどこの地を愛し、最期の地として意識されていたようです。現在は「柚の里」として知られていますが、これは時代を下って14世紀に花園天皇が柚を植えられたことから始まったそうです。Photo_2

 

譲位後4年、清和上皇は洛東の円覚寺で崩御されますが、遺骨は遺言によって水尾山寺に葬られ、山陵もこの地にあります。交通不便な地ではありますが、私も学生時代に一度足を伸ばしたことがあります。

 

さて、清和天皇のあとを継がれたのは第一皇子である9歳の、貞明(さだあきら)親王=57代陽成天皇でした。母は藤原高子(たかいこ)、最大権力者藤原基経の同母妹になります。

 

この高子さん、あくまで噂の域を出ませんが、入内前にはとある皇孫と恋愛関係にあったとか、それが在原業平でした。

 

また兄である基経との確執というか、どうも折り合いが良くなかったらしく、また陽成天皇の所業がよろしくないということもあって、ぎくしゃく関係が続きます。天皇自身も、青年に成長されると共に、摂政である基経との関係が悪化します。

 

ついに基経は政務を放棄し出仕しなくなります。陽成天皇に自分の娘を入内させようとしたのを、高子に拒否されたのも原因と言われています。

 

やがて大事件が勃発します。それは宮中における殺人事件で、被害者は源益(みなもとのまさる)で、陽成の乳兄弟でした。

 

直接手を下したのか否かは不明ですが、陽成天皇が何らかの関わりを持っていたことは確実らしく、基経は強く退位を迫ります。

 

結局、陽成は退位を余儀なくされ、高子もその地位から蹴落とされてしまいます。通説では陽成の暴力的な性格や言動が要因と言われていますが、要は宮廷における権力争いでしょう。

 

なお、陽成天皇の子女も臣籍降下で源姓となりますが、そういった状況もあって「陽成源氏」を名乗らず「清和源氏」を称したとも伝えられています。

さて次の天皇には、「けんか両成敗」というわけではありませんが、2代続いて幼い天皇が即位したことへの反動もあって、55歳の時康親王が58代光孝天皇として即位します。

 

時康親王は、3代前の仁明天皇の第三皇子です。これによって、皇統は少し移動してしまうことになるのです。何故なら、陽成天皇には実弟の貞保親王がおられましたが、結局皇太子には就かれませんでした。

 

これも基経と高子との兄妹対立の結果と言えましょう。

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