坂上田村麻呂は心温かな武人貴族だった

蝦夷(えみし)征討の歴史は古く、日本書紀にもその記述があります。もっともその記述は、果たして史実かどうかは疑問視されているようです。さらに5世紀の後半の、雄略天皇(倭王武)による征討が宋書の中にあります。

 

ですから、古くから中央(ヤマト)に対して反抗する部族があったことが推定され、その内関東から北の部族を蝦夷と呼んでいたようです。ただ、反抗するといっても、それは中央から東北への進出に伴う小競り合いから始まったのではないでしょうか。

 

すなわち、アメリカの西部開拓史ではないですが、辺境(いわゆる「柵」)が北へ北へと延びていくことによって、有り体に言えば「侵略」が進むにつれて反抗も激しくなったかとも思うわけです。

 

つまり蝦夷側からすれば、大和朝廷の方が侵略者であり、平和を脅かす存在ではなかったのかとも考えられるわけです。歴史は常に勝者の側から書かれますので、さもありなんということになってしまうのでしょう。

 

それはともかく、蝦夷征討は奈良時代に入って本格化し、桓武朝に入ると蝦夷に阿弖流為(アテルイ)という英雄族長が現れます。この阿弖流為の元で組織的な抵抗が繰り返され、朝廷軍は789年に大敗してしまいます。

 

ここに登場したのが坂上田村麻呂です。平安遷都から3年後に彼は征夷大将軍に任命されますが、この時39歳の男盛りでした。その前年には征東副将軍の一人でしたが、中心的な役割だったのでしょう。

 
実際の戦闘は801年に入ってからでしたが、翌年にはアテルイは田村麻呂に降伏し、モレ(母礼)とともに京の都に送られます。田村麻呂は二人の助命を願い出ますが、朝廷はこれを退けます。

 
そのため、蝦夷の英雄アテルイはモレと共に斬刑に処せられますが、武人としての田村麻呂はおそらく涙を流したことでしょう。
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田村麻呂が創建(本願)したと伝えられる清水寺には、平安遷都1200年に当たる1994年に「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」が建立されています。(写真は清水寺)

 
なお、蝦夷征討は財政の困難から804年に中断され、田村麻呂はそのまま将軍位を保ったと言われています。しかし、前回も触れましたが彼は武人(貴族)ではありましたが、武士ではありません。

 
その後は朝廷内で位を上げ、桓武、平城,嵯峨の三天皇に仕えて大納言にまでなっています。記録によれば身長が5尺8寸とも伝えられています、ざっと176cmですから、当時としてはかなり大柄だったのでしょう。

 
54歳で亡くなりますが、その後も偉大な武人、大将軍として語り継がれる存在でしたし、また東北・蝦夷地の人々にも慕われていたと伝えられています。アテルイ達の助命嘆願も含め心温かい人物だったと思われます。

藤原政権が次第に色濃くなってきた

藤原種継暗殺事件、早良親王の廃太子とその憤死事件。暗雲が立ちこめた長岡京を諦めた桓武天皇は、長岡の東北に当たる山城国葛野郡・愛宕郡に新たな京を定め、平安京と名付けられた都に遷ります(794年)。

 

早良親王や、その以前に廃され謎の死を遂げた井上皇后と他戸親王の怨霊に悩まされたためと言われますが、さらには天災や疫病の蔓延が再遷都の引き金になったのでしょう。

 

もっとも、平安京に遷ってもなお怨霊の跋扈、鴨川の氾濫などには悩まされ続けたらしく、天皇自身や皇太子(安殿親王)も時に病に悩まれたようです。

 

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この時期の朝廷では、次第に藤原氏の勢力が再び大きくなり始めており、長岡京で暗殺された種継や遷都の前に亡くなった百川と良継、百川の息子の緒嗣らを排出した式家が力を持っていました。

 

桓武天皇の皇后であった藤原乙牟漏は良継の娘であり、安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)の母となります。しかし、平安京遷都前に亡くなられます。

 

また、夫人であった藤原旅子は大伴親王(後の淳和天皇)の母ですが、父親は百川です。こちらも平安遷都までに逝去、相次ぐ悲事は早良親王の祟りとされたようです。

 
かくの如く桓武朝ではまだ藤原式家の優勢が続きますが、その力の源は奈良朝で先祖の不比等がやったが如く、自分の娘を天皇(あるいは皇太子)に嫁がせ、生まれた子の外祖父となることでした。

 
他の藤原家やそれ以外の豪族も、もちろん同じ狙いを持って天皇や親王に娘を嫁がせますが、皇后や夫人になれたのはほとんどが藤原氏です。この後藤原家が王朝を牛耳っていくのが、平安朝の中期まで続きます。

 
実際には明治時代に至るまで(もしかしたら今上天皇のご成婚まで?)、この「伝統」はずっと引き継がれていきました。良かれ悪しかれ、日本の歴史はこうして作られていったと言うことなのでしょう。

 
さて桓武朝と言えば蝦夷征伐、その中心となって活躍した坂上田村麻呂の名前が出てきますが、田村麻呂は後の歴史における武士とは異なる存在です。武門の公家という位置づけになるわけですが、次回はその辺りに焦点を当てましょう。

平安京は平安な都ではなかった?

早良親王は桓武天皇の同母弟であり、11歳で僧籍に入られましたが、天皇の即位と時期を合わせて還俗されたものです。皇太子に就かれたのも本人のご意思ではなかったと思われますが、天皇の長子であった安殿親王はまだ幼少でしたので、おそらく中継ぎを期待されていたのでしょう。
 

そこに、「藤原種継暗殺事件」が勃発します。たまたま連座した官人の中に、東宮に仕える者が多かったこともあって、連座という濡れ衣を着せられたモノと思われます。もちろん皇太子の地位は剥奪され、乙訓寺に幽閉されてしまいます。
 

親王は無実を訴え、抗議の絶食を敢行しますが、天皇も側近たちも貸す耳を持ちませんでした。淡路国への配流が決まりますが、親王は絶食を続け道中で逝去されました。しかし、死骸はそのまま淡路の配所に送られてしまいます。Photo_2
 

ところが、その直後から桓武天皇の周りに様々な出来事が起こります。皇太子に立てられてすぐの安殿親王が病に冒されたのを皮切りに、天皇の后が次々に亡くなり、さらに実母である高野新笠までもが病死してしまいます。
 

ちまたにも疫病が流行し、都も洪水に襲われたりします。天皇は震え上がります、これは早良廃太子の祟り、怨霊の仕業に違いないと。すぐに何度も鎮魂の儀式を行いますが、怨霊の跋扈を止めるには至らず、ついに亡骸を大和国に戻し「崇道天皇」という諡を追贈します。

 
平安京の鬼門に位置する高野村(現在の左京区上高野)には、崇道神社が建立されます。この早良親王の怨霊が、史料に初めて出てくる怨霊だといわれていますが、これまで見てきましたように古代から怨霊という発想はあり、記録に残らないまでも「怨霊の仕業」とは多くの人が感じていました。
 

そして794年、都は新たに造営された平安京に遷ります。ここから世は「平安時代」に入りますが、京の都は明治天皇が東京に遷られるまで都として存在しておりました。また、中には正式の遷都勅令が出ていないので現在も首都は京都だという方もおられますが、これはちょっと無理がありそうです。
 

ところがその名とは違い、平安の都も当初は不安渦巻く、また疫病や自然災害にも何度か見舞われる状況でした。また蝦夷の平定のために大軍を送ったりしたため、風当たりも強かったようです。蝦夷征伐で名を上げたのは坂上田村麻呂でしたが、財政困難もあり、805年には中断を余儀なくされました。
 

そんな中で、いよいよ藤原氏が再び力を伸ばしていきます。また天皇は、最澄や空海といった仏教界の新星を保護したことでも知られており、まさに新しい都の新しい動きが始まりました。

種継暗殺事件で早良親王は怨霊となる

今週のブログは、1週空いてしまった「歴史と人間ひとりごと」からスタートです。

 

桓武天皇は平城京からの遷都を決意されますが、なぜ飛鳥や奈良(平城)を捨てて、それまでほとんどゆかりのない山城国を選ばれたのかは、諸説様々です。詳しいことは書物に当たっていただくこととして、まず選ばれたのは長岡の地でした。

 

長岡京は、現在の地名で言えば長岡京市から向日市、そして京都市西京区に亘る広大な都で、遷都が宣言されたのは784年です。続日本紀によれば、長岡(乙訓)の地が選ばれたのは、水運がキーポイントだったようです。

 
確かに近くで淀川が木津川等を合流して大阪湾に流れていく拠点地勢で、狭隘な谷間を抜けていく平城京の大和川に比べると、物流には非常に便利です。ただ、その分水害の危険性も大きく、結局そのことが平安京への遷都につながります。Photo

 
そしてこの遷都、造営の中心になったのは藤原種継でした。藤原式家の出身、宇合の孫ですから藤原不比等の曾孫に当たります。光仁天皇時代に順調に出世し、桓武即位と共に一気に昇進が加速します。

 
長岡京造営使に任命された種継でしたが、遷都から間もない翌年785年の秋、造営の監督中に日本の矢がその身を貫きます。世に言う「種継射殺事件」です。首謀者として大伴氏や紀氏、佐伯氏などが捕縛されます。

 
すでに死亡していた、歌人としても名高い大伴家持まで生前の官籍を剥奪され、庶人に落とされてしまいます。死者にむち打つという感じですが、これによって古代の名族・大伴氏や紀氏は第一線から退かされてしまいます。

 
この後も、藤原氏による他氏の排斥が続くのですが、それはまた次回以降に。

 
さて種継の暗殺事件は、これにとどまりませんでした。捕縛された中に、皇太子(弟)である早良親王に使える東宮の官吏が多くいたのです。親王は当時35歳、高僧から還俗して皇太子にされたことは、親王の本意ではなかったとも言われています。

 
しかしそうであったことが悲劇を呼んだわけです。ついに、暗殺事件に連座していることを疑われ、皇太子を廃され乙訓寺に幽閉されてしまいます。もちろん、早良は無実を訴えますが、桓武の耳には入りません。

 
早良は抗議の絶食を始め、淡路国に配流される途中で憤死してしまいます。その場所は現在の守口市(高瀬)付近と伝えられています。しかし、亡骸はそのまま淡路に送られてしまいます。

 
そしてついに、早良は怨霊となるのです。

桓武天皇は怨霊はびこる平城京を捨てる

今上陛下が日韓共同開催のサッカーW杯を前に、桓武天皇のご生母のことに触れ、韓国とのゆかりを感じると発言されました。これは六国史の一つである「続日本紀」に、ご生母が百済の武寧王の子孫であると記述されていることによるものです。

 

前回も書きましたが、そのことからみると皇位を継ぐことはほとんど考えられなかった山部王でしたが、聖武天皇のみならず、天武天皇の血を引く王がいなくなってしまったことで、光仁天皇の皇太子に立てられました。

 

そのつながりを、関裕二氏などは中臣鎌足に求め、実は鎌足は百済の王族として倭の国に人質として送られた余豊璋であったとし、不比等によって再興された藤原家が、縁につながる山部王を推戴したと見ています。

 

その真偽を論じることは私にはできませんが、藤原百川(式家)が積極的に擁立を策したことは事実です。

 

また、奈良時代が天武天皇系での皇位継承だったのに対して、光仁天皇そして桓武天皇に至って天智天皇系に戻ったというのは、いささか短絡かなと思います。それを言うなら、持統天皇は天智の娘であり、元明天皇も同じ、元正天皇は孫に当たります。

 

私は持統天皇の時代にすでに天智系の皇統に戻っていて、持統はその血脈をずっと伝えていくことを望み、称徳天皇でそれが途切れたことで、より純粋な天智皇統に戻されたというところではないかと、推察しています。

 

さて、山部王は光仁天皇の譲位を受けて781年に44歳で即位されます。皇太子には同母弟である、早良親王を立てます。親王はこの時出家され(親王禅師)ていて、ご本人は望まないまま還俗されたようです。Photo

 

これは桓武天皇の子である安殿(あて)親王=後の平城天皇=が、まだ幼少であったことによるものでした。すでにこれまでにも幼少の親王を皇太子とする例は、軽皇子=文武天皇や首皇子=聖武天皇でありましたが、慎重を期されたのでしょうか。おそらく、桓武擁立への風当たりもあったのだと思われます。

 

なお、安殿親王のご生母は藤原乙牟漏(おとむろ)で、彼女は藤原百川の兄・良継の娘です。百川の娘(旅子)も山部王時代の桓武に嫁いでいます。

 

平安京遷都に先立つ10年前の784年に、桓武天皇は長岡への遷都を決意されます。平城京からの遷都は、古来仏教勢力(南都大寺)を嫌ったためだとか言われますが、一番の要因は、血塗られた奈良時代の歴史によるものかと思われます。

 

天皇の皇位継承に当たっても、光仁天皇の井上皇后やその息である他戸親王を犠牲にしています。不破内親王=井上内親王の同母妹=事件もありました(淡路に配流された後生死不明)。
★写真は不破内親王ゆかりと言われる千葉県の松虫寺

 

その他諸々の怨霊がはびこっている平城京、一刻も早くそこから遠ざかりたかったというのが真相ではないでしょうか。それを裏付ける史料はありませんが、古代人の深層心理には常に怨霊があることを忘れてはならいないでしょう。

桓武天皇即位の裏側に何があったか

学校時代の歴史勉強で、おそらく多くの方が年号を覚えることに四苦八苦されたことでしょう。平城京遷都は、「ナント(南都)完成平城京」で710年、そして平安京は「ナクヨ(鳴くよ)ウグイス平安京」で794年と覚えましたね。

 

平安遷都を実行されたのは第50代の桓武天皇、しかし平安遷都は順調に行われたのではありませんし、奈良時代の最後まで「血塗られた時代」でもありました。

 

第一に、桓武天皇即位も決して順調、平穏に行われたわけではありませんでした。前回までに書きましたように、光仁天皇の皇后であり聖武天皇の第一皇女(称徳天皇の異母姉)であった井上内親王、その子で一時皇太子であった他戸親王の怪死事件がありました。

 
他戸親王が廃太子されたことで、山部親王が繰り上がったことになるのですが、ご生母の高野新笠は百済系渡来人の出身(和氏)ということで、出自からいうと皇太子になれる可能性は元来ほぼゼロであったと言われています。(後にご生母のルーツは百済の王族出身とされます)

 
山部親王自身も官僚としての立身を目指しておられたようでありますが、その朝廷の中で実力者であった、藤原百川の目に止まったということなのでしょう。百川は藤原式家、宇合の子ですから藤原不比等の孫となります。Photo_2

 
前述の井上皇后・他戸皇太子の事件にも、裏側にはこの百川が暗躍していたというのが定説になっています。光仁天皇の絶大な信頼の元で台頭していくわけですが、もし光仁の後を他戸親王が継いだ場合はどうなるのかを見通していたのでしょう。

 
そして思惑通りに山部親王が立太子されますが、百川自身は親王の即位を見ることなく亡くなります。その娘二人が親王に嫁ぎ、桓武の後の平城天皇がお生まれになります。

 
70歳を超えられた光仁天皇は、781年に譲位され桓武天皇が即位されますが、実は皇太子であった間に大病をされています。同じ頃天皇もご病気であったり、天変地異が相次いだので、人々は「井上皇后の怨霊」のせいではないかと怖れたそうです。

 
こうして紆余曲折がありましたが、桓武天皇は奈良時代最後の天皇として即位されることになりました。

再び藤原氏が台頭を始める奈良末期

さて、古代最後の女帝・称徳天皇亡き後、光仁天皇が62歳で即位されたことは前回のブログに書きましたが、そこには藤原氏の「陰謀」が隠されていたようです。

 

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この時代の藤原氏は仲麻呂の乱で南家が衰えましたが、他の家は挽回を策しており、中でも北家の藤原永手が次第に台頭してきました。称徳・道鏡政権時代も公卿の筆頭として、じっとチャンスをうかがっていたようです。(写真は光仁天皇陵)

 
しかもバランス感覚に優れた政治家だったようで、北家の繁栄のみならず他の藤原家の主要メンバーも起用するなど、敵を作らないことにも努めていました。これが、いざという時の中央突破に力を発揮します。

 
すなわち、称徳天皇が崩御された際に遺言あるいは類する書面は残されませんでしたので、長老たる吉備真備を中心に合議の上で道鏡を排除し、後継天皇を「遺勅」の形をとって決めることになります。

 
その際に、真備たちは別の後継者を考え、それで合議がまとまったとして話を進めていきますが、肝心の書面を永手らが書き換えたというのです。真偽のほどは分かりませんが、それによって白壁王が即位し、真備らもとくに反論をしていません。

 

いずれにしても光仁天皇はすでに高齢でしたから、次の天皇への中継ぎと誰もが考えていたということで、強いて争うことはなかったものと思われます。

 
しかしその後の裏側では、血なまぐさい動きや事件があったことは、前回も書いたとおりです。その犠牲になったのが、井上皇后でありその子の他戸(おさべ)親王でした。ただ、親王が廃太子後も母皇后と共に平常の都にいたというのは、まだ後継争いに決着がついていなかったことを想像させます。

 
その後の陰謀で母子が都外に遷され、さらに同日に死亡するという事態に至りましたが、この他にも陰惨な事件がいくつか起こりました。後ろで糸を操っていたのは藤原氏であることは定説化されていますが、その中心は式家の藤原百川だと言われています。

 
次回はいよいよ後の桓武天皇、山部王とこの百川とを取り上げてみましょう。

歴史閑話休題徒然に

古代史シリーズを月に3~4回連載していますが、飛鳥時代の推古天皇あたりからスタートして、奈良時代の終盤にさしかかっています。次回には、平安時代の幕開きを担った桓武Photo_3 天皇(山部王)が登場する予定です。

 

平安京への遷都が794年、その10年前に長岡京への遷都が実行されていますので、平城京時代は僅か70年余りで終わることになります。

 

この時代区分は、奈良時代すなわち平城京時代から明確になるわけですが、長岡京は未完成のままでしたから「長岡時代」とは呼ばれず、奈良時代の終焉期と位置づけられます。

 

飛鳥時代は宮城地が天皇によって変遷することが多かったのですが、天智天皇(と弘文天皇)は近江京を都としました。平城京につながる中国式の都城となったのは藤原京ですが、その建物の資材の多くは平城京建設に用いられます。

 

平安時代は、鎌倉に幕府が開かれるまでと位置づけられますが、天皇の住まいするところということであれば、明治初年まで続いていることになります。もっとも南朝が正統であるなら、一時吉野に都が遷都されていたことにはなりますが。

 

時代区分で不思議なのは「安土桃山時代」です。武家政権の時代区分は、幕府の置かれたところという位置づけで、鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代と呼ばれますが、安土桃山時代、ことに「桃山」とは?

 

安土はほぼ全国支配に近づいた信長が居城としたところですので、時代の名前になってもおかしくはありませんが、桃山城はありません。桃山時代とは豊臣秀吉政権の時代であるわけですが、その居城は大坂であり京都・伏見です。

 

よって「織豊時代」と呼ぶのが最も正確なところと言えますが、では一体『桃山』とは何でしょうか。実は、桃山は江戸時代に入ってから名付けられました。すなわち、伏見城の跡地に桃の木を植えたことにより、その地が桃山と呼ばれたそうです。

 

ちなみに大坂城といえば秀吉がすぐに連想されますが、秀吉は関白になるとすぐに京都の聚楽第に移り政務を執りますし、秀次に関白を譲ってからは伏見を居城としていますから、大坂にて政務を執った期間は極めて短いのです。

 

また鎌倉時代がいつ始まったのかということも、何度か変わってきています。私たちの頃までは、「イイクニ作ろう」ということで1192年と覚えさせられましたが、最近は1185年説(または1183年説)が有力になっています。

 

そういえば、鎌倉時代初代将軍源頼朝の肖像画も、かつて教科書に載っていたのはどうも足利直義(尊氏の弟)らしいというのが定説です。

 

歴史は時代の変遷と共に、また新たな史料発見とともに変化しています。つい最近では、教科書に聖徳太子とは記述せずに厩戸皇子とすると決まりかけ、反対が多くて元に戻すというようなこともありました。

 

おそらく今後も、そういったことがいくつも起こってくることでしょう。ただ、少なくともその時代の為政者の都合で変えられることのないように、願いたいものです。

ついに天武天皇の皇統が途絶えた

770年、和風年号では神護景雲4年、古代最後の女帝・称徳天皇が崩御されました。それとともに、天武天皇の直系はここで途絶えることになりました。そして、天智天皇系の天皇が復活し、今に至る皇統が引き継がれていくことになります。

 

称徳天皇の後継者をどうするかは前回のコラムにも書きましたが、色々な暗闘があったようです。その過程の中で、多くの親王や王が粛清されたり暗殺されたり、不審な病死を遂げたりしてしまい、結果として直系嫡流の後継者が途絶えてしまいました。

 

そこで、白羽の矢が立ったのが白壁王でした。白壁王の父親は志貴皇子、すなわち天智天皇の息子ですから、王は天智の孫に当たります。皇位継承の暗闘に巻き込まれるのを怖れた王は、酒浸りの日々を過ごされたようで、それで生き残られたとも。

 

しかし62歳の白壁王がすんなり後継と認められたわけではなく、息子である他戸(おさべ)王が称徳天皇の甥、すなわち称徳の異母妹である井上(いがみともいのうえとも)内親王Photo の子であったこと。その内親王が白壁王の妃だということによるものでした。

 

すなわち他戸王は女系ではありましたが、天武系最後の親王ということになり、即位した光仁天皇の皇太子となり、井上内親王も皇后となりました。

 

ところが2年後、大変な事件が起こります。その皇后が呪詛を企て反逆の罪に問われ、皇后の座を追われたのです。次いで他戸親王も皇太子を廃されました。これらは密告によるモノですが、暗闘はまだまだ続いていたわけです。

 

さらに光仁天皇の姉(同母)の薨去に際し、やはり井上(元)内親王が呪詛したとされ、母子は幽閉され、やがて2年後の同日に共に急死してしまいます。これもまた、仕組まれた暗殺劇でしょうか。

 

いずれにしても、天武の皇統はこれで完全に断絶してしまいます。となると、仕掛けたのはどちら側か、誰かということも自ずと浮き彫りになってきます(と断定して佳いかどうかは別として)。

 

では『犯人』は!?

 

結果として「利益」を得た者は誰か? 他戸親王に変わって皇太子に任命された王、そしてその擁立を図った者、ということになるでしょうか。

 

奈良時代も残り20年足らず、どのように展開していくのでしょうか。

生涯独身の女性天皇ついに崩御

藤原仲麻呂の乱は、図らずも孝謙上皇の権力の強さを証明するものとなり、淳仁天皇は廃位されて、764年上皇が天皇位に復帰されることになりました。これが称徳天皇です。

 

古代史を彩った女帝の歴史も称徳天皇で終焉を迎え、この後江戸時代初期に即位された明正天皇(第109代)までおよそ850年間、女性天皇は立てられることがありませんでした。

 

その称徳天皇のお気に入りとなり権力の座についたのが、弓削道鏡であり、仲麻呂の乱平定に功績のあった吉備真備でした。この年、道鏡はついに太政大臣禅師に昇ります。この時道鏡は既に64歳だったと言われています。

 

さらに766年にはついに「法王」の位に昇り、弟を始め一族も高い位を与えられます。当然Photo のことですが、藤原氏を始め朝廷貴族からの反発も次第に強くなっていきます。しかし、称徳天皇の信頼は圧倒的で、表立っての行動はなかなかできませんでした。

 

そしてついに769年、宇佐神宮の神託事件が起こります。「道鏡が皇位に就くべし」との信託でしたが、どうもこれは天皇におもねった神官どもの策謀だったかもしれません。

 

ただ、自身に子がなかった独身の天皇は、一説には父親の聖武上皇から「次代の皇位は自らの思い通りに決めて良い」と伝えられていたと言い、もしかしたら道鏡に譲位する意思を持っておられたのかも知れません。この辺りの記録は一切ありませんので、ただ想像するばかりです。

 

思い通りにされたい天皇でしたが、神託を確かめて確実なものにするために、宇佐神宮に使者を送ります。使者に選ばれたのは側近の和気広虫であり、実際にはその弟の和気清麻呂が九州に赴きます。

 

清麻呂は神託が偽物であると天皇に報告し、怒り心頭に発した天皇は姉弟を流罪にしてしまいます。しかし、これで道鏡を皇位に就けることはできなくなります。やがて天皇は病が重くなり、比例して道鏡側の権力が落ち、太政官側の巻き返しが始まりました。

 

称徳天皇は770年に崩御されましたが、病の祈祷などが宮中内外でなされた記録がないと言われており、治療もほとんどされずに放置状態だったとも言われます。後継天皇について遺言されたとも言われますが、もしあったとしても無視されたようです。

 

白壁王を皇位に就けよという遺詔が読み上げられますが、これはどうも太政官側の藤原永手や吉備真備が工作したもののようです。もっとも真備は別の皇族を推していたとも言われていますが、真備も既に高齢(75歳)でした。

 

そして白壁王が即位します、これが光仁天皇(第49代)です。

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