桜田門外の変はどう影響していくのか

井伊直弼が白昼堂々テロ集団に殺された桜田門外の変、「犯人」は水戸藩脱藩浪人17名と薩摩藩士1名の18人。彼らは現場等で死亡したほか、捕らえられて投獄されたもの多数です。

 

変の直後は、例えば水戸藩でも関係者の処分を実施しています。薩摩藩でも、悪影響がないかとかなり気を遣ったようです。

 

ところが明治新政府は、例えば唯一の薩摩藩士であった有村に対して正五位を追贈したりしています。これはどういう意味なのでしょうか。

 

また、襲撃者すなわちテロリスト全員が靖国神社に合祀されています。ではこの変で死亡した彦根藩主、あるいはその後の政変で失脚・打ち首にされた長野主膳などは?

 

私が靖国神社を散歩はしても、参拝は絶対にしないのは、このあたりの片手落ちというかテロリスト賛美が気にくわないからです。

 

維新の時代に亡くなった人々を平等に祀るのであれば、どうみても恣意的に区別するようなことはおかしいとしか思えません。

 

彦根藩もある意味では被害者でした。幕閣の事なかれ主義で、直弼は病死とされ「事業継承」も認められますが、大幅に減封(35万石から25万石)されてしまいます。

 

これによって、明治に入って伯爵にしか叙位されなかったと恨み節が出ますが、これはいささか誤解によるもののようです。

 

ともかく、彦根藩自身も変後の収拾に終われ、しかも幕府の事なかれ主義や世論に迎合してしまいます。とくに安政の大獄の関係者逮捕に豪腕を振るった長野主膳は、悲劇的な最期を迎えます。

 

確かに、主膳の行動は非難されてもやむを得ない面もありますが、職務に忠実だったことや彼は彼の主義に基づいて信念を持って行動したと考えれば、一方的非難は当たらないでしょう。

 

蛇足ですが、彦根市と水戸市が「和解」したのは、変からなんと100年以上も経った1968年だということを耳にしています。

 

こういう例は、例えば萩市や下関市と会津若松市の関係とか、いくつかあるようですが、現代人の感覚には合わないなどとおっしゃるのは、薩長史観に馴らされた故ではないかと思う次第です。

 

いずれにしても、このテロ事件以来特に京都における「(勤王の)志士」と名乗る、輩たちの跋扈が激しさを増していきます。彼らが「勤王」であったとはとても思えません。

 

単独での、あるいは徒党を組んだテロ事件が頻発し、京都は暗黒の都と化します。とくに、安政の大獄での体制側と名指しされた、あるいは疑われた人たちは戦々恐々だったことでしょう。Photo

 

実際にテロの対象は、そういった人たちに集中します。一方で水戸藩は藩内抗争と分裂が続き、過激派は天狗党と称して京都に上ろうとしますが逆に追討を受けて崩壊、多くが惨殺されてしまいます。

 

こうして水戸藩は維新の主役の座から脱落、一方の彦根藩は、戊辰の役の中で官軍に鞍替えするという逆転劇を演じます。歴史の変転、その背景や結果を私たちは正確に見つめたいものです。

<反論・薩長史観> 正史はテロを称賛するのか!?

井伊直弼と言えば安政の大獄と、それにつづく桜田門外の変が頭に浮かびます。朝廷の勅許も得ずにアメリカとの通商条約を結んだ、とんでもない男だと。

 

しかし、勅許も得ずに条約を結ぶことには反対していたとも言われています。これは彦根藩の成り立ちを考えればうなずけることで、そもそも彦根藩は京都に近く朝廷を守る役割を与えられていました。

 

大老と言っても非常の職であり、幕閣は老中の合議制がとられていましたので、直弼の意見がストレートに通っていたわけではありません。堀田正睦などの意見が主流だったとも言われています。

 

それが大老だったということで、朝廷を無視した条約締結の責任を押しつけられ、あげくにテロの標的にされたわけですから、直弼にとってはとんだとばっちりといえましょう。

 

当時の世界情勢、日本を取り巻く列強の動き、そして現実に当時の清国がどういうことになっていたかを正確にとらえれば、攘夷などもってのほかで、開国や通商を開始することは時代の必然でした。

 

京都で奔走した志士の中にも開明的な人物はいたわけで、越前候(松平慶永)の命を受けていた橋本左内などは、その代表格で開国を唱えていたといわれています。

 

そして安政の大獄の引き金になったのは、前回も書きましたように「戊午の密勅」です。幕府の頭越しに水戸藩に下され、その写しが全国の有力大名に配られたのですから、直弼が怒るのも無理はないのです。

 

密勅を下したのは孝明天皇ですが、実際にそうなるように仕向け焚きつけたのは攘夷急進派の公家たちです。それらの過激派公家に火をつけ回ったのが志士と呼ばれる連中です。

 

これは筋目からいえば、大いなるルール違反です。ですから幕府側が水戸藩に密勅を差し出すように命じ、朝廷に対し抗議をしたことも当然のことでしょう。

 

しかし攘夷派の公家たちや志士たちは全く聞く耳を持たず、そのルール自体が不当であると言い出す始末。法律違反のことは咎めずに、抗議をした行政側(幕府)が責められる、これぞ不当そのものです。

 

一方の当事者である水戸藩は、これを機会に内部対立が顕著になります。すなわち、勅書を幕府に差し出そうとする一派と、それに反対する一派の対立です。ついには流血騒ぎになってしまいます。

 

これが激派と鎮派の抗争であり、激派の藩士が脱藩してついに直弼暗殺に向かうわけです。なお、密勅そのものは混乱の中で幕府に差し出されることなく水戸に残ったそうです。

 

安政の大獄では、何よりもこの密勅に関わったとされる関係者の処罰が行われます。水戸藩家老が切腹の他、密勅を受け取り運んだ藩士たちが死罪とされたほか、前藩主斉昭も国許での永蟄居を言い渡されます。Photo

 

これに我慢ならぬ水戸藩の一部激派は、脱藩して浪士となり次々に江戸に向かいます。そして江戸在府の薩摩藩士とも合流して、直弼へのテロを計画していくわけです。

 

ただ、薩摩藩士の多くは途中で脱落し、有村治左衛門一人が参加します。残る17名は水戸浪士で、安政7年(1860年)33日、珍しく雪の降りしきる江戸城桜田門外でテロが実行されます。

 

内容はともかく、直弼が「悪者」という薩長史観にはとても賛同などできません。白昼堂々の暗殺、テロなど、どう間違っても肯定できるものではありません。

 

これが明治維新への大きな分岐点になったとは、どんな顔でいえるのでしょうか。

井伊直弼は割を食ったのか

吉田松陰が安政の大獄で死罪になったことが、久坂玄瑞を過激に走らせる結果になったということを、前回のブログでは書きました。

 

玄瑞のみならず、「(勤王の)志士」と言われる類の人間たちが急激に増えてくるのもこの頃で、天誅という言葉に恐怖する時代に突入していきます。

 

ただ、松陰を初めとして安政の大獄で処罰された人たちは、まだ「倒幕」という思想までには至っていないというのが通説で伝えるところです。今の幕政ではいかん、というところでしょうか。

 

そんな中で起こったのが桜田門外の変でした。その犠牲者、井伊直弼は事件の2年前に大老に就任しています。将軍継嗣問題と修好通商条約締結問題、直弼はこの難題の解決に当たります。

 

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前者の方では、直弼を大老に推した「南紀派」と言われる、どちらかと言えば幕府の穏健・守旧派の意をくんで、紀州家の慶福(後の家茂)を13代家定の世子と決めます。

 

この当時慶福はまだ12歳、世の中が内外事情ともに大揺れになろうという時期ですから、年上(21歳)で英明の声の高い一橋慶喜を推す「一橋派」を押しのけての決定でした。

 

当然一橋派の大名たちは異を唱えますが、これを直弼は様々な理由で処分します。これらも安政の大獄につながる処分であったわけです。

 

そのことが恨みを買い、一方的に弾圧されたと解釈した水戸藩浪士たちが、テロをめざすわけです。その大きな引き金になったのが、「戊午の密勅」と言われる事件でした。

 

これは勅許を得ない条約調印に腹を立てた孝明天皇が、水戸藩に下した密勅でした。朝廷が大名に直接命令を下すなど前代未聞、全く初めてのことであり、幕府にとっては言語道断のことでした。

 

直弼は、これを水戸藩とりもなおさず徳川斉昭の策謀だとして、徹底弾圧を決意したと言われます。となれば、安政の大獄は為政者である幕府から見れば当然の処罰であり、それを逆恨みされた直弼は不運としかいいようがありません。

 

桜田門外の変をして、幕府の権威が下降線をたどりやがて終末にいたる契機になったことは確かですが、それをもって「だらしない幕府(悪)を退け、新しい政府(正)を建てる機会を作った」快挙である、などという暴論はいただけません。

 

ましてや個人的な恨みを直弼にぶつけ、白昼堂々とテロに至ったこの事件をして、輝かしい志士たちの壮挙であったなどとする明治新政府の評価など、全く残念なことです。

 

井伊直弼でなくても、他の大名が幕閣の代表であっても、程度の違いこそあれ同じような処置を講じたのではないかと思います。確かに直弼は、京都滞在の長野主膳などを通じて情報を集め、徹底的な弾圧と思える処置をとったことは確かです。

 

死罪になった中には橋本左内のように、非常に開明的で、むしろ幕府を中心とした新たな強い政府づくりを指向していた英才もいたわけですし、それらを十把一絡げで反逆者としたことには弁解の余地はありません。

 

それでも真昼のテロルは決して許されるものではないでしょう。それをも正当化するような薩長史観、これをそのままにしておいて良いでしょうか。

 

殺されて当然、そんな評価で直弼をみることはどうなのかと感じます。ただ、時代の流れに押されて不平等なままの通商条約を締結したこと、これについては失策です。後の世に大きな主題を残すことになったことは、否定しませんが。

<反論薩長史観> テロリスト・久坂玄瑞

理想の教育、あるいは教育施設として多くの人が見学に訪れる松下村塾ですが、その実態がどんなものであったかはこれまで書いてきたとおりです。

 

 

松陰の刑死後、さらには久坂らが禁門の変で敗れて自害したあと、しばらくの期間をおいて再び長州藩が復権していく中で「神格化」が始まりました。

 

 

そして維新直後の木戸孝允、さらには伊藤博文や井上馨などによって、松陰先生という虚々実々の偶像として松陰神社に祀られ、松下村塾もまた理想の教育施設として確立していきます。

 

 

ある人は、松陰は典型的なアジテーター(扇動家)だと決めつけ、また塾自体もテロリストの養成学校に近い位置づけだと言われています。そこまでは言い過ぎにしても、近い存在ではなかったでしょうか。

 

 

もちろん、松陰に学んだすべての門下生がそうだったわけではありませんし、またみんなが明治新政府の顕官になったわけでもありません。ただ、目立った存在の門下生が多かったのは事実です。

 

 

その意味では松陰の理想とする考え方、あるいは行動の跡を継いだ存在として久坂玄瑞と、高杉晋作の二人にスポットを当ててみようと思います。

 

 

一昨年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」、その前半の『ヒーロー』として久坂がクローズアップされていましたが、余りに美化されていて私などは見るに堪えない思いでした。

 

 

久坂玄瑞は藩医久坂家に生まれ、兄の死で当主となって医者の道を歩み始めますが、やがて松陰を知ることになります。何度か書面での論争を通じて、「思考より実践」であることを学び、ついに門下生となります。

 

 

松陰は玄瑞を長州第一の俊才であると認め、双璧と言われた高杉晋作と競わせて才能を開花させるようとしたと伝えられています。

 

 

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さらに自分の妹である文(ふみ)を、玄瑞に嫁がせて義兄弟になったわけです。それをみても、大いに玄瑞の実践力(行動力)に期待するところがあったのでしょう。

 

 

しかし、松陰が計画した「間部老中暗殺」には真っ向から反対します。期待していた義弟から反対されたものですから、松陰は憤慨し論破を試みますが、玄瑞は次第に距離を置き始めます。

 

 

やがて松陰は再び獄につながれ、さらに江戸送りになってしまい、さらには安政の大獄での斬刑死となっていったのは、前回書いたとおりです。

 

 

これがかえって玄瑞の心に火を点けたようです。師の思いを真っ直ぐに貫いていきたいと考えたのでしょうか、それは「テロリスト」の心をも引き継いだことになるのかも知れません。

 

 

大河ドラマはその辺りのことを余りにきれいに描きすぎていました。実際の玄瑞は、藩内抗争に火を点け反対派・長井雅楽の失脚に成功、藩論を一気に尊皇攘夷に持っていきます。

 

 

その結果、京都・朝廷の権力争いに敗れたことへの盛り返しを図り、それが禁門の変につながっていきます。

 

 

禁門の変、蛤御門の変とも呼ばれるこの事件、教科書にはオブラートに包んだ記述で済ませていますが、要するに「勤王」公家を利用して孝明天皇をないがしろにした長州藩が失脚を恨み、朝廷に向かって暴動を起こしたものです。

 

 

実際に御所に大砲をぶっ放すことまでやっています、どんな弁解があるのでしょうか。

松下村塾門下生は「乱民」とされていた

確か昨日のニュース報道ですが、近い将来歴史の教科書から吉田松陰や坂本龍馬が、消えるかも知れないという案が出されているとのこと。出したのは、「高大連携歴史教育研究会」というところだそうです。

 

まだ正式な答申や諮問の段階ではありませんが、研究会の案は影響力もあるそうです。

 

要するに人名を含めて暗記する言葉が多く、本来の歴史教育にはマイナスになっているということで大幅に減らす案を作ったのだとか。他には武田信玄や上杉謙信、クレオパトラやガリレオ・ガリレイなども。

 

昨年でしたか、聖徳太子の名前も削除されるということで論議を呼び、削除は撤回されたようですが、確かに現在の歴史の勉強(試験)は年号や事件、人名などをなぞって覚えることが必須になっています。

 

私は歴史の流れの中で、自然に人名や事件名を記憶していったものですが、「歴史が苦手、嫌いだ」という裏には、確かにそういうこともあるようです。

 

すでに高知からは龍馬消滅に「反対の声」が上がっていますが、山口からも松陰を残せという叫びが起こりそうです。アベさんの地元ですから、松陰は残りそうですけどね。

 

さてそれはそれとして、安政の大獄で伝馬町の牢につながれた松陰ですが、取り調べはだんだんと厳しくなっていきます。厳しくなるのと比例して、松陰の気持ちはピュアになっていったと考えられます。

 

それでもまだ、死罪になるとは考えていなかったようです。一説には、取り調べ役人も重罪ではあれ死罪には相当しないと上申したのが、井伊大老が「死罪」に変えさせたとされていますが、それはどうでしょうか。

 

その真偽はともかくとして、安政6年(1859年)の1027伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処されました。享年30歳、安政の大獄では最後の処刑だったと言われています。

 

松陰門下の四天王の内、入江九一は間部老中暗殺計画にも賛同していましたが、他の3人、久坂玄瑞、高杉晋作そして吉田稔麿は反対していました。

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久坂は松陰がまだ萩にいる間に、松陰の妹・文と結婚し義弟になっていましたが、それでも老中の暗殺には強く反対します。しかし、その志を尊び、継ぐ決意を固めます。

 

江戸にいた高杉は、獄中の松陰を見舞ったりしていましたが、心配した家族によって藩命を受けて萩に戻る途中で、師の刑死を耳にしました。

 

入江もまた地元での逼塞を余儀なくされますが、実は松下村塾の他の門下生たちも、萩城下や地元の村においては「村八分」の扱いを受けたと伝えられています。

 

入江の弟で維新政府では逓信大臣などを務めた野村靖もやはり門下生でしたが、回顧録の中で門下生たちが「乱民」とされたと書いています。

 

その状況は、刑死後もほとぼり冷めることなくしばらく続きます。そこには禁門の変と、急先鋒になった久坂の存在も見え隠れします。

 

そこで話をここからは、久坂玄瑞そして高杉晋作に的を絞っていくことにしましょう。

<反論薩長史観> 松陰はまさに狂気の実践者

このブログコラムを書くに当たって色々な本を読みました。反薩長史観とは言え、薩長史観の本も何冊か目を通しました。もっともそちらは、一般的な本や教科書を読んでもいいわけですが。

 

もちろん、私以上に「反」の立場を先鋭にされたものもありました。そこまで言うのか、という感じもしましたが頷けるところも少なくありませんでした。

 

その中で共通した吉田松陰の評価は、時代に先んじていたとか標準的な考え方からは突出していたというこので、多くはそれを「狂気」と表現していました。いや、松陰自身が自分を狂気だと認識していたようです。

 

ですから、長州藩(当時は藩とは呼ばなかったそうですが便宜上)の幹部も、松陰の扱いには困り、再び野山獄につなぐしかなかったのです。

 

もっとも藩の幹部も時代の流れの中で右に行ったり左に寄ったりと、藩論が定まるところがなかったようです。それによっても、松陰の扱いが変わったことも否めません。

 

松陰自身は早晩釈放されると考えていたようです。なぜなら「間部老中暗殺」は単なる紙上のプランであり、実行もしていなければ未遂にも至らないものだったのですから。

 

しかも藩主の毛利敬親(当時は慶親)は松陰を高く買っており、松陰自身もその信頼を信じていたように思えます。しかし、藩主は後に「そうせい候」と呼ばれたように、臣下の決定には逆らいません。

 

結局、松陰はなすすべもなく江戸送りになります、もちろん罪人としてです。しかし、前回も書きましたようにここにいたっても、松陰は「大した罪にはならない」と信じていました。この辺りも狂気のなす技に思えます。

 

そんなわけで、松陰自身の松下村塾での教育は短い期間に終わりましたが、そこで学んだいわゆる門下生は数え方にもよりますが、8090名前後だったと言われています。

 

そして中には、その松陰の「狂気」を受け容れ、自らも狂気となって突き進んだ門下生もいたわけです。義弟でもあった久坂玄瑞、その盟友であった高杉晋作、後に池田屋事件で死亡する吉田稔麿など。

 

以上の3人に、禁門の変で敗死した入江九一を加えて「(松下村塾の)四天王」と呼ばれていました。いずれも明治維新を見ることなく死んでいます。畳の上で死んだ高杉は幸せだったのかも。

 

明治の元勲となった伊藤博文や井上毅なども、一時期は高杉たちと英公使館(建築中)焼き討ちに参加したり、あるいは天誅(暗殺)にも手を染めています。

 

なお「明治の三傑」の一人、木戸孝允(桂小五郎)は松下村塾の門下生ではありませんが、藩校である明倫館時代に松陰から教えを受けており、終生門人の礼をとり続けています。

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さて、安政の大獄の取り調べで、松陰は自らの正義と誠実を信じて「うっかり」老中暗殺計画についてしゃべってしまいます。至誠は通じる、それは仲間内だけの論理に過ぎないのに。

 

取り調べの姿勢も変わっていったことを、松陰自身も感じますが時すでに遅し。松陰は逆に、持論をとうとうと述べたと言われています。これでは重刑もやむを得ません。

 

それでもまさか死罪(打ち首)になるとは、当初は考えていなかったようです。門人たちへの手紙でもそれが伺えますが、それは叶わぬ望みであると気付いていきます。

 

『諸君、狂いたまえ!』、まさに松陰は自らの言葉を実践した人であったわけです。

<反論薩長史観> 松陰はあまりに子供っぽかった

吉田松陰といえば松下村塾が思い浮かびます。山口県萩市の松陰神社の一角に、当時のままの姿で保存されているのですが、実際に松陰がここで子弟を直接教えたのは僅かな期間です。

 

松下村塾は、萩城下の松本村にあったのでこう名付けられたのですが、創始者は松陰ではなく松陰の叔父(父百合之介の弟)であった玉木文之進です。

 

松下村塾は身分の隔てなく塾生を受け入れていて、松陰自身もそこで学んだ時期がありました。ただ、松陰の時代を見ても主流はやはり士分の者で、四民平等という発想はなかったようです。

 

松陰自身が塾頭を務めたのは、密航の罪で投獄されていた野山獄を出て、再び獄に戻るまでの1年数ヶ月に過ぎません。塾舎は出獄後に子弟が増えたために、新たに立て直されています(現存する建物)。

 

野山獄時代の松陰は、一つの学問や思想にはこだわらず、広い視野で投獄されていた人たちに講義を行ったり、あるいは彼らからの話にしっかり耳を傾けていました。

 

それが故に、松下村塾に戻ってからも多くの子弟が集まったわけですが、松陰の思想や発言は次第に過激になっていったようです。

 

やがてそれに気付いた周囲から松陰は危険視されるようになり、子弟の親の中には塾に通うことを禁じることも増えてきたといわれます。

 

熟成筆頭とも言われた高杉晋作もその一人であり、父親の画策で江戸に行かされますが、江戸より松陰を諫める手紙を送っています。

 

さて、私塾の中で過激思想を唱えるようになると、しかも幕府の重臣(具体的には老中間部詮勝)を暗殺すべきと公言するようになると、毛利家重臣たちも捨て置けず再投獄に至るわけです。

 

何しろ開けっぴろげで、誰彼なしに自身の考えを披露して回るものですから大変です。当然に幕府の耳に入ってしまうことを恐れ、再投獄もやむを得ないことでした。

 

そしてついに安政の大獄に至るわけです。Photo

 

もっとも、毛利家重臣も松陰自身も大罪という認識などはなかったようです。実際幕府側も、密航のことは済んだことと不問に付していましたし、単に梅田雲浜との関連だけの尋問でした。

 

梅田雲浜は小浜藩士の家に生まれ、藩主への批判で版籍を剥奪された後、京都で攘夷運動の先頭に立っていました。松陰は萩にやってきた雲浜と僅かに顔を合わせただけで、当然京都での活動などはなかったわけで、取り調べが終われば釈放されて当然でした。

 

ところが、何と松陰自身が墓穴を掘ってしまうのです。あろうことか、間部老中暗殺(未遂)のことをしゃべってしまったのです。

 

松陰にすれば「至誠は常に通じる」という思いだったのでしょう、しかも未遂でしたから。密航事件の時もこちらから自首して、誠意を持って答えたので釈放されたとも思いがあったのでしょう。

 

しかし、何とも甘い判断でした。次第に取り調べはきつくなっていきます。松陰自身も「しまった」と感じたことでしょう。しかし止まることはできません、益々強く自分の考えを主張してしまいます。

 

どうみても子供じみている、私の目にはそのように映ります。

松陰が密航で処刑されなかったのは幸か不幸か

吉田松陰の密航事件をもう少し追ってみましょう。この事件を「下田踏海(とうかい)」とも呼ぶようですね。嘉永7年(1854年)のことです。

 

この時ペリーは2度目の来航で、すでに神奈川・横浜村で日米和親条約を結び(33日)、艦隊は下田に移動したところでした。

 

そして325日夜、最初の密航を試みますが、この時には波が高く断念しました。翌々日、たまたま浜辺を歩いていた米書記官に出会い、乗船を望む趣旨を書いた「投夷書」を手渡しました。その夜再度決行したわけです。

 

ところで、松陰が密航を決意したのは、師であった佐久間象山の後押しがあったからだといわれています。それは前回のペリー来航の折で、松陰自身もその目で黒船を見聞します。

 

象山はともすれば血気にはやろうとする松陰に対し、「西洋列強に学ぶべし」と諭したと言われます。これをストレートに受取り、そのためには西洋に渡り学ぶことが一番だと決意するわけです。

 

前回も書きましたように、ペリーがいったん日本を離れた後でしたので、松陰は長崎に急ぎプチャーチンロシア軍艦を掴まえようとしますが、一歩遅れてしまいました。

 

江戸に戻った松陰でしたが、今度はペリー艦隊を掴まえようと下田に向かったわけです。思いつきで行動するとまでは言いませんが、それがどんな結果を招くかまでの考えに至らなかったのでしょうか。他のことが見えなくなる性格であったのかも知れません。

 

327日、松陰は同行する金子重之輔と共に小舟をこぎ出します。細かいことは申しませんが、この小舟は海岸につないであったものですから、窃盗の罪も犯しています。そんな意識はなかったでしょうが。

 

旗艦ポーハタン号では色んなやりとりがあったでしょうが、ペリーには面会ができたと思われます。その日に書記官に手渡しておいた「投夷書」の効果があったのかも知れません。

 

しかし、ペリーは松陰たちの留学の望み(密航)を拒否します。

 

日本人が許可なく国外に渡航することを禁ずるという幕府の法を、遵守するという建前でした。おそらく、せっかく条約が結べたのに、ややこしい問題は起こしたくないというのが本音だったでしょう。Photo_2

 

密航することの見込がないことを悟った松陰たちは、艦隊のボートで浜まで送り返されます。彼らの乗ってきた小舟は、船に係留できなかったために流されていました。

 

いかにもアキラメがよすぎる感がありますが、ほとんど言葉通じない、コミュニケーションがとれない中ではどうしようもなかったのでしょう。

 

乗ってきた小舟が流されて、おそらく浜に打ち上げられているでしょう。その中には身分が明らかになる物や、師の象山からもらった激励の書がそのままでした。迂闊ですよね、どうにもなりません。

 

松陰はすぐにことが露呈すると判断し、「むしろ自首して自分たちの気概を日本中の志士たちに知らしめよう」としたと言いますが、負け犬の遠吠えあるいは取り繕いのようです。

 

それでも死刑(打ち首)にならなかったのは、ペリーの方から幕府に対し寛大な処置を望んだからだと言われていますが、果たして事実だったのでしょうか。

 

ここで打ち首になっておれば、歴史にイフは禁物ですが、日本の歴史は変わっていたのでしょうか。

松陰神社(東京)は明治初年にはまだなかった

吉田松陰その2です。先ずは神社の話。

 

松陰を祀る松陰神社は、地元の萩の他に東京世田谷区にもあります。世田谷区若林にある松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前停留所から北に歩いて34分のところにあります。

 

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途中は商店街になっており、左に折れるとすぐ世田谷区役所があります。この神社は、安政の大獄から4年ほど経った頃、処刑された松陰の亡骸を遷して(改葬)安置したところです。

 

これを実行したのは高杉晋作や伊藤博文等と伝えられていますが、この神社一帯は元毛利家藩主の別邸があったところです。しかしながら神社が創建されたのは明治15年ですから、明治初年からはちょっと間がありすぎませんか。

 

神社創建までは、どうも簡素な墓碑しかなかったようです。なお蛇足になりますが、松陰神社と谷をはさんで豪徳寺があります、皮肉にもこちらは井伊直弼の菩提寺となっています。

 

それはともかくとして、ここでは教育者(明治維新の人材を育てた教育家)としての吉田松陰が祀られているわけですが、もし本当にそうであれば明治初年の頃に祀られていても然るべきと思うところです。

 

それが10数年経ってようやくというところに、松陰の複雑性があるのだと考えざるを得ません。つまり単なる教育者、明治新政府の中核を担う人材を育てただけでない「特殊性」を観るべきでしょう。

 

あるいはまた、松陰を祭り上げた新政府の長州人たちが幕末に犯した悪行を、隠蔽するための必要として神社として昇華したともいえるのではないでしょうか。

 

確かに松陰自身は、例えば「天誅」などという殺人はやっていません。だが、松陰の教えを受けた人たちはやっています。戦争におけるそれはともかく、伊藤博文もまた殺人を犯した一人でした。

 

久坂玄瑞や高杉晋作たちは、伊藤も井上(馨)も含めて、イギリス公使館の焼き討ちなどという愚行もやらかしていますし、久坂は禁門の変で御所に向けて大砲をぶっ放してもいます。

 

では松陰は全く罪を犯していませんか、否ですね。最大の罪は密航未遂、密航は当時の国法違反の最たるものです。

 

すでにこのブログでも触れた、ペリーの2回目来航時、1854年の出来事です。

 

実はその前年1853年にも、松陰は密航を企てています。長崎に来航したロシアのプチャーチンの船に乗り込もうと、江戸から長崎に急ぎましたが、一歩遅く出港した後だったのです。

 

それで今度は、再来航したペリー艦隊に目をつけます。まさか地元の船頭に頼むことはできませんから、行動を共にした金子重輔とともに自ら小舟を漕いで艦隊に近付きます。

 

何とか旗艦・ポーハタン号に乗り込むことには成功しますが、密航は認められませんでした。条約締結を目前にして、幕府側と揉め事は起こしたくないというペリーの意思も働いていたのでしょう。

 

艦隊から追い返され、計画に失敗した松陰は下田の奉行所に自首して、金子と共に捕縛されます。本来なら死罪も免れないところですが、死一等を減じて長州に戻され、獄につながれることになります。

 

この密航の罪は、安政の大獄で逮捕される理由にはなっていません。また、アメリカに留学し、アメリカの技術を盗み、アメリカを倒すためというのが密航の理由だという人もありますが、そこまで果たして深く考えていたのか、それにしては余りに稚拙な計画と実行であったと感じます。

吉田松陰は高潔な教育者だったのか?

明治維新と聞くと、多くの方が吉田松陰の名を頭に浮かべるでしょう。ちなみに、地元山口県では決して呼び捨てにはせず、必ず「松陰先生」と呼ぶそうですね。

 

それだけ名高い松陰ですが、では何をされた方ですか?と尋ねますと、(地元の方は別としても)ハッキリとは分からないというのが本当のところではありませんか。

 

松陰と言えば松下村塾ですが、この塾も松陰が作ったものではありませんし、実際に松陰が直接ここで教えたのはホンの数年に過ぎません。

 

実際に何度か松下村塾を訪れたことはありますが、「えっ、これが!?」と驚かれる人が多いくらいの、小さなみすぼらしい建物です。小屋といった方がふさわしいかも知れません。

 

もちろん、ハードウェアが小さく貧弱であっても、そこから幕末・明治の時代に活躍した人材を輩出したことは事実です。伊藤博文、山県有朋、井上馨などなどいくらでも名前が挙がります。Photo

 

では松陰という人物は「高潔な高人格の教育者」であったのか、というとそれはどうなのでしょう。確かに教科書では優れた教育者として書かれ、時代を彩る人材が学んだことも事実です。

 

だからといって、松陰が素晴らしい人間であったと短絡するのはいかがなものでしょう。

 

また、幕府とくに井伊直弼政権の方針や政策を批判し、安政の大獄で検挙されて挙げ句に刑死する。それは幕府や井伊直弼が悪くて、松陰先生のような逸材を殺したことはけしからん、という教え方がされてきました。

 

私もそのように考えていました。小学生の頃に読んだ「日本の歴史」にもそう書いてありましたから、疑うことを知らない少年は「松陰先生は素晴らしい」、「そんな先生を処刑した井伊大老はどんな悪い奴だ」と。

 

しかし、吉田松陰は、間違いなく処刑されるべくして処刑されたのです。

 

こう書くと、多くの方からブーイングを食らうかも知れませんが、事実を曲げるわけにはいきません。実際のところ、長州毛利家でも、松陰のことは持て余していましたし、二度も獄に入れることになりますし、処刑されてからもしばらくは「厄介者」だったのです。

 

今はそんなことは、松下村塾を尋ねても投獄された事実だけを紹介しているだけで、そのこともまた松陰が偉大な教育者であったことにつながることとされています。

 

繰り返しますが、松陰の元に集まって人たちの多くが、幕末や明治の時代の中心になったことは事実として認めます。だからといって、松陰が傑出した教育者であり、まさに新たな時代を切り開く先駆的な逸材だったということには、大いに異論があります。

 

強いて言えば、教育者と言うよりも煽動家=アジテーター=と読んだ方がふさわしいと思うわけです。松陰を先生として祭り上げ、聖人の如く崇めることにしたのは、明治新政府を担った長州人たちです。

 

彼らが明治新政府の中心にいなければ、「歴史はねじ曲げられなかった」し、「松陰はあくまで反政府主義者でトンデモ人間だった」という事実が語られたことでしょう。

 

薩長史観と言うより、ここでは長州史観ということになるのかも知れませんが、では次回からは事実・史実を客観的に眺めていくことにしましょう。

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