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VAN研(ヴァンガード経営研究所)

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「維新」という言葉の胡散臭さに物申す

明治「維新」という言葉がいつ頃から使われ出したのか、これについても実は諸説がある。明治10年前後の文書に記載があるとも言われるが、大正デモクラシーの頃、あるいは昭和に入ってすぐくらいとも。

 

少なくとも、幕末にこの言葉が使われたということはない。「御一新」というような言葉は使われていたようだが、勤王の志士と呼ばれたテロリストたちが維新という言葉を使った記録は皆無のようだ。

 

そもそも維新という言葉はうさんくさい臭いがする。それを名乗る中央政党や地方政党があるが、とくに前者の方はつかみどころがない。支持が広がらないのもさもありなんだ。

 

とくに忘れてはならないのは「昭和維新」とやらだろう。かれら、すなわち軍部や右翼たちが何をやって、どういう結果を招いたかを思い浮かべてみるがいい。

 

テロを多として次々に反対派や重臣を暗殺したことも、また天皇の名を語り利用したことも、何だか幕末の薩長どもの動きに通じるところがある。もしかしたら、それを真似していたのかも知れない。

 

維新という名に酔いしれて、その表面事象だけを自分たちに都合良く脚色し、理由付けしてやっていたとしか思えない。その結果がどうなったのかは、ここに書き連ねるまでもないだろう。

 

そんな明治「維新」を150年記念とか称して、改めて絶賛しようというのか、とんでもない話だ。いや、もう各地でいろんなイベントが始まっている。先日訪れた土佐高知でも、様々な幟や看板が林立していた。

 

江戸幕府(徳川政権)や幕藩体制、あるいは幕政が良かったなどという積もりはない。そろそろ時代に合わなくなってきた事は認めざるを得ないし、世界の流れからいえば変わるべきところではあった。

 

だが、幕政の進んだ部分まで全面否定することはなかったし、活用すべきことは活用すべきであった。それを無視して、がむしゃらに討幕に走ったのはいかがなものか。

 

こうしたことが、薩長史観をベースにしている歴史教育が全く無視して、あたかも幕末の志士と言われる連中が維新という意識を持ち、それが西欧を追いかけていく新しい体制を作り得たとするのは言語道断だ。Photo

 

その代わりに200数十年の平和という、世界にも稀な江戸時代そのものを否定してしまい、あまつさえ幕末の徳川官僚たちの世界観や外交努力まで全否定しているのは許せない。

 

一方、最後の将軍慶喜も策を弄しすぎた感がある。おそらくこちら側から積極的に動くことで、主導権を握ろうと考えたのであろう。確かに、当時の朝廷側には外交も内政もできるテクノラートがほとんどいなかった。

 

自ら大政を奉還して、右往左往する朝廷側から妥協を引き出し、再び新政権のリーダーになろうとしたのであろうが、逆にその自信満々が故にスキが生まれたようにも思える。

 

討幕側は一発逆転の秘策に出た。大政奉還と同じタイミングで出そうとした王政復古の勅(もちろん偽勅)は失敗したが、慶喜の主導権を渡さない状況で新たな勅「王政復古の大号令」を出したのだ。

 

これも偽勅に類するものだろうことは論を待たない、と私は思っている。

坂本龍馬と司馬さんの「竜馬」とは違う存在だ

土佐の高知に来ている。前回来たのが5年前の2013年2月だったから、5年ぶりの訪問ということになる。一昨夜は夜遅くに着いたので、そのままホテルに直行した。

 

高知と言えば坂本龍馬である。いや、歴史的には山内容堂や後藤象二郎、乾(板垣)退助の方が重要な役割をしたと思うのだが、やはり龍馬に注目が集まる。

 

今年は明治維新150年ということで、高知もまた龍馬を中心としたイベントが始まっているようだ。今回は時間がなくて記念館などにも行けないが、町の雰囲気は感じられる。

 

龍馬に注目が集まるのは、司馬遼太郎さんの影響が大きいのだろう。経営者のみならず、若い人にも司馬遼太郎さんの『竜馬が行く』を愛読書とする人が少なくない。

 

だがしかし、ホンモノは龍馬であり「竜馬」ではない。竜馬はあくまで、司馬さんが小説の中で作り出した主人公である。Photo

 

しかし、小説の中の竜馬のようにホンモノの龍馬も同様のことをやったのだと、思っている人も少なくないはずだ。

 

竜馬は英雄であり、歴史の中の傑物である。歴史を動かしたと言ってもいい、明治維新は竜馬が企画し多くの人たちが実行した、というようにもとられている。

 

完全に否定しようとは思わないけれど、とくに土佐の高知ではそういう話をしてはいけないのかも知れないけれど、フィクションはあくまでフィクションだ。

 

確かに、坂本龍馬は当時としてはかなり先進的な意識や世界観を持つに至ったが、現実にそれほど大きな役割を果たしたとは思えない。

 

薩長同盟(とやら)の立会人ではあったが、それ以上でも以下でもない。ましてや、日本最初の商社を経営して世界に乗り出そうとしていた、などというのは司馬さんの創作である。

 

もちろん若くして暗殺されてしまったので、天寿を全うしていたらもしかして小説に描かれたような夢を、実現していったのかも知れない。

 

だがそれはあくまで歴史のイフであって、事実ではない。さりとて、維新史に全く影響を与えていないとも言えないはずだ。龍馬は間違いなくコーディネーターであった。

 

いや、コーディネーターを目指していたのではないか。あらゆる考え方を取り入れて、そこから新たな組み合わせを創案し、提示していく能力はあったのだと思う。

 

だが、明治の初めしばらくは坂本龍馬は全く無名の存在だった。明治の中頃になって、ようやく「姿を現した」のだ。それは、時の政府にとって必要だったからではないか。

 

そういう背景を理解した上で、龍馬が生きた時代を振り返ってみることが必要だと思う。

西郷の「敬天愛人」性を否定する

前週は薩長同盟(と呼ばれているもの)について、諸説を引っ張り出してみた。そこに関わったのが、薩摩側が西郷と小松(帯刀)、長州が桂小五郎(木戸寛一)、そして坂本龍馬や中岡慎太郎が絡んでいたようだ。

 

だが実際のところは、つまり「確定的な事実」という部分はやや霞んで見えない。上のような人物が見え隠れしていることは事実のようだが、密約の部分もいささか不透明だということを書いた。

 

何しろ、龍馬が裏書きしたという桂(木戸)の「覚え」(書き取り)しかないわけで、正式に取り交わした書面はない。しかもその内容は、まだ「倒幕」までには及んでいない。

 

しかし、この後西郷は次第に倒幕にシフトしていく。というよりも、周囲の誰よりも倒幕意識を強めると共に、実際行動を重ねていく。

 

私は、決して西郷の功績を否定する気は無いが、さりとて明治維新の最大功労者として手放しで評価することには否定的だ。少なくとも、偉人であるとか英雄であるとか、さらには清廉高潔な人であったとかにはダメ出ししたい。

 

ましてや「敬天愛人」を理念として行動した、などとはとてもとても。

 

西郷の「敬天愛人」性を否定する3つのことを上げていこう。一つは、慶喜が大政奉還した後の小御所会議で、幕府側を「短刀一本でどうにでもなる」と恫喝したこと。あれは本気だったと思う。

 

第二は、幕府側に先に引き金を引かせるために江戸で騒動を起こさせたこと。乱暴狼藉、略奪を命じたのは西郷であることは明白だが、しかもその首謀者を後に「薩摩とは無関係」と処刑したこと。

 

そして第三に、奥羽越列藩同盟に対する東軍の卑劣な軍事行動に対し、全くそれを止める行動をとらなかったということ。西郷自身は庄内藩を攻めたが、恭順を勧めて戦いを収めているのだが。Photo

 

なぜ、それを長岡藩や二本松藩、会津藩に対しても行わなかったのか。方面担当が違っていたといってしまえばそれまでなのだが、つまりは教科書歴史が言うほど、彼には力がなかったのではないか。

 

いずれにしても以上の3つで、私は西郷の評価を下げてしまう。もっと言えば、佐賀の乱でなぜに江藤新平を助けなかったのか。江藤ほど新政府内で清廉潔白な人物はいなかったのにだ。

 

さらには西南戦争、なぜに兵を挙げたのか。しかも、稚拙な戦略と戦術で多くの若者を死地に追いやった。以上を上げてみてなお、西郷を超一級人物として評価しうるのか。龍馬暗殺の黒幕説もあるが、これは疑問だ。

 

返す返すも残念なのは、小松清廉(帯刀)=写真=の若すぎる死だろう、35歳だった。小松であれば、西郷や大久保を十分にコントロールし得たであろうし、島津久光をもっと上手に活用したと思えるのだ。

 

まぁ、死んだ子の年を数えてもしょうが無いし、歴史のイフを繰り言してもしかたがない。

 

では、そろそろ西郷の卑劣な倒幕戦術にメスを入れていくことにしよう。

西郷の陰謀に引っかかった江戸幕府

私は、江戸時代末から明治初期における変革を、何もかも否定しようというのではない。ただ、『明治維新』とかと名付けて異常に持ち上げるのはどうかと、疑問を投げかけているわけだ。

 

明治の変革が正しくて、その以前の江戸幕府のやり方は全て間違っていて、あのままでは欧米列強の侵略を受けて大変なことになっていた。だから明治維新は正しいことだった、という論には与しないと言っている。

 

もちろん、幕府のやっていたことが正しかったなどとは言わないし、あのまま進んでは問題が噴出したであろうということには異論はない。しかし対応能力(を持つ幕僚がいたという事実)があったことは確かだ。

 

実際のところ、明治新政府はそのスタートに際して実務官僚がほとんどいなくて、かつての幕府官僚・役人を雇わざるを得なかった。そして、彼らが現場の実務をうまくこなしたことで、維新とやらを実現したのだ。

 

その功績のほとんどは、維新とやらを推進したらしい薩長アンド土肥の藩士たちのものとされたが、事実誰がやったかということはキチッと伝えるべきであろう。

 

もっとも、為政者によって歴史がねじ曲げられることは慶応から明治の歴史に始まったことではない。古代もそうだったし、中世も近代もそうであった。例えば徳川家康がそうだった。

 

家康の事績は確かに群を抜いていたが、東照神君をあがめ奉るための「歴史」も多々あった。例えば、織田徳川連合軍が、浅井朝倉連合軍を破った姉川の戦いもその一つだ。

 

歴史にはこうある。織田軍は向かい合った浅井軍に攻め込まれ、先鋒から中軍さらに奥まで攻め込まれて危機的状況だった。それを見た徳川軍が朝倉軍と戦いながら、一部を割いて浅井軍を攻め切り崩して織田軍を救った。

 

確かに、織田軍が浅井軍に押し込まれたことはあったが、切り崩されたことは事実ではない。結局、これは家康の戦を素晴らしいものだった、さすがに神君であると言いたかったのであろう。

 

歴史は繰り返される。幕末の薩長軍も、結果としては幕府軍を鳥羽伏見の戦いで打ち破り、江戸まで攻め込んだことは事実だとしても、これは幕府軍の拙攻や指揮系統の乱れ、何より総大将の慶喜の責任であった。

 

鳥羽伏見の戦いそのものも、圧倒的に幕府軍の方が数は多かった。装備の近代化が薩長軍より遅れていたことは事実だとしても、全体としては(数を含めて)決して劣るものではなかった。

 

その戦いの火を付けたのは西郷隆盛だ。薩長軍は、どうしても幕府軍に先に大砲や鉄砲を撃たせたかった。それを朝廷すなわち天皇への発砲とすることで、大義名分を作りたかったのだ。Photo_3

 

そこで西郷は、遠く離れた江戸の街で騒乱を起こした。騒乱というが、内実は乱暴狼藉、略奪だった。騒動を起こした連中は薩摩藩邸に逃げ込んだ。そこで業を煮やした庄内藩(江戸市中取締役)が薩摩藩邸を攻撃した。

 

西郷はその報せを聞いて「やった!」と叫んだことだろう。指を鳴らしたかも知れない。名分はできた、あとは相手に先に撃たせればさらに良い。その仕掛けに、幕府軍は見事に引っかかってしまった。

 

許せないのは、その乱暴狼藉を起こした連中を、西郷は生かすことなく抹殺したことだ。彼らは使い捨ての道具に過ぎなかったのだ。そんな西郷に「敬天愛人」はふさわしくないと思うのだが、いかが。

西郷隆盛は「敬天愛人」ではなかった

昨日は、とある倫理法人会のモーニングセミナーで「歴史から学ぶ」というテーマの講話を、聴く機会に恵まれた。ここにも、私と同じ考え方をされる方がいるのだと思うと嬉しかった。

 

語られた内容については、いくつか異論を呈したいところもあったがそれはそれ、いずれにしても「正しい歴史」を学ぶことの大切さという観点は共通であった。

 

いずれにしても、かねてから私は「歴史は人間(の行動)が創る」と、いつのセミナーや講演でも申し上げてきた。あくまで行動の結果としての歴史を学ぶことであって、作られた歴史ではない。

 

つまり、時の為政者によって作り上げられた(都合良くねじ曲げられた)歴史ではない、ということだ。それは真実ではないのだから、学ぶ価値はないとまではいわないが、異論にも耳を傾けるべきであろう。

 

そんなわけで、私自身もこのブログのコラムで、明治維新と言われる「官製歴史」について異論を書き連ねているわけだ。150年経ってようやく、様々な異論が出て問題提起がなされていることはいいことだと思う。

 

例えば大河ドラマで今年は西郷隆盛が主人公だが、その描き方が今後どういう形になっていくのかについては、甚だ心配をしているわけだ。

 

というのも、いつの頃からか大河ドラマの「質」が下がったように思えるからだ。視聴率が20%前後だと言われるから、単純計算で2500万人が観ていることになる。その多くは歴史と大河ドラマの区別がつかない。

 

大河ドラマで描かれている世界が、「歴史(史実)そのものだ」と思ってもらっては困るのだ。かなり以前は、それでもドラマとしての『質』が高かったので安心していたのだが、ここのところはひどすぎる。

 

特にひどかったのは、何作か前の「花燃ゆ」だった。それこそ、時の総理大臣の心を忖度したとしか思えない内容であった。第一、あの作品の主人公はいったい誰だったのだろう?

 

それはともかくとして、いよいよ西郷が幕末史の表に登場してくる。彼の座右の銘とされるのは「敬天愛人」だが、この中の「天」とは天の下すなわち日本世界だとかではなく、尊敬していた島津斉彬だと言われる。Photo

 

文字通り「天を敬い、人を愛す」人間であれば、幕末に西郷がやったこととは大いに矛盾する。天を敬うのであれば、あの時代なら天皇(のお考え)を敬うことであるはずだが、彼にとっての天皇は「玉(ぎょく)」だった。

 

孝明天皇の真意は親幕であり、公武合体であったことは前回のコラムに書いたが、間違いなく朝敵長州を討伐することを望まれていた。が、西郷はそれを徹底しなかったし、第2回征伐には薩摩藩を出兵させなかった。

 

人を愛すの方についていえば、彼自身は尊皇攘夷の『人斬り』はやらなかったが、反対派に容赦なかったことはいうまでもない。田中(人斬り)新兵衛や中村半次郎(後の桐野利秋)が、西郷の代わりを実行した。

 

鳥羽伏見の開戦において、幕府側から「まず撃たせる」ことを意図して行ったのは、江戸での乱暴狼藉だった。平和な江戸で争乱を起こし、幕府側が感情的に立ち上がらざるを得ないようにもっていった。

 

だがその実際の首謀者は、事が終わると抹殺されている、指示したのは西郷だ。己の手を血まみれにはしなかったが、彼によって血まみれになったのはだれだったろうか? いよいよ踏み込んで語ろうか。

孝明天皇は夷狄嫌いだが親幕だった

長州征伐(征討)は2回行われた。1回目が禁門の変後の元治元年(1864年)で、2回目が翌年から慶応2年(1866年)にかけてだが、この時点で長州藩は「朝敵」であったことを忘れてはならない。

 

明治「維新150年」が語られる際に、明治新政府の中核を担ったのが薩摩と長州の藩士たちだったということで、過去に朝敵だったことはあまり表立っては語られない。だが事実は事実なのだ。

 

もちろん、王政復古の大号令から倒幕の勅命が下される段階で、朝敵であることが取り消されたのも事実であるが、過去に朝敵であった事実が消え去るわけではない。

 

しかも長州の息のかかった公家たちを時には脅し、孝明天皇のあずかり知らぬところで偽勅を出させもしたし、禁門の変では御所に向けて大砲や鉄砲を撃ち込んだ。

 

だからこそ、孝明天皇は長州を決して許そうとはされなかった。確かに天皇は「夷狄嫌い」ではあったし、幕府に対し攘夷を命じられたが、それはこちらから戦争を仕掛けるものではなかった。

 

しかし長州は自ら発砲し、四国艦隊の報復(下関戦争)を招いた。しかも、その講和の中では全てを幕府の責任であるとして、賠償金を幕府が払う羽目になった。この講和時に担ぎ出されたのが高杉晋作だった。

 

なお、この時イギリスが彦島の租借を要求し、高杉が断固としてこれをはねつけたとされているが、どうもそういう事実はなかったようだ。高杉の名声を高めようとする、後世の作り事らしい。

 

さて孝明天皇だが、天皇は一貫して幕府擁護すなわち公武一和(合体)を望まれていた。だからこそ異母妹である和宮の降嫁を実現されたのだ、決して幕府側の横暴に屈したのではない。

 

禁門の変後に徐々に幕府側から距離を置き始めた薩摩にとって、天皇のこういう意思は非常に邪魔だったに違いない。しかし、当面は従う振りをしておかねばならない。その薩摩の前線にいたのが西郷隆盛だった。

 

西郷は、この時点で長州を潰してはならぬと感じたのではないだろうか。彼自身も、少なくとも禁門の変までは倒幕の意思は持っていなかったと推察される。だからこそ、会津藩と歩調を合わせた。Photo_3

 

それによって京都における主導権を確保しようとしたのだろうが、それを行うには兵の数が少なすぎた。圧倒的な兵力を持っていたのは会津藩であり、藩主松平容保の弟である松平定敬の桑名藩だった。

 

しかも孝明天皇は容保を心から信頼されていた。病弱だった容保は、それでもその御心に叶おうと藩士を叱咤激励し、藩士たちもそれに応えた。

 

だが、会津藩は京都で主導権を握るにはあまりに豊かではなく、人材に恵まれなかった。いや、人材はいたが彼らを活かす風土になかった。豊かでないことは兵備に表われる、次第に薩長と大きな差がついてくるのだった。

 

長州第1次征伐を実際に前線で指揮したのは西郷だった。そして第2次征伐では薩摩は兵を出さなかった。寄せ集めの幕府軍は一部の戦闘では勝利したが、各所で打ち破られた。

 

その敗戦つづく中で、14代将軍家茂が大坂で病死する。後継と目されていた慶喜は徳川宗家は継承するが、将軍職にはなかなか就かない。歴史の傾斜が始まったのが、この第2次長州征伐だったと言える。

俗論長州をひっくり返した男

歴史の歯車を一気に回していこうと思う。2度の流罪(最初の流罪は緊急避難的だったようだ)から、再び政治の前線に戻った西郷吉之助は、まずは禁門の変で名を挙げる。

 

このとき薩摩は会津と手を握るわけだが、急進的な長州を警戒したというのが真相だろう。結局長州は「朝敵」となり、過激派の公家たちを伴って京を追われる(七卿落ち)。

 

久坂玄瑞は自害、桂小五郎は辛うじて出石に逃れる。京の都はつかの間の平和を取り戻すが、禁門の変による火災で街は大きな被害を受ける。金払いのよかった長州が去り、京の色町はしばし活気がなくなる。

 

間もなく第一次長州征伐が行われるが、長州は三家老の首を差し出したくらいで、減封もなく中途半端な幕切れであった。そのような幕切れを演出したのは、実は西郷であった。

 

その後しばらく長州は急進派が鳴りを潜めるが、その実は反転攻勢に向かって着々と準備が進んでいた。これを武備恭順と呼んだようだが、朝敵を完膚なきまで懲らしめることなく終わったことが、幕府側の失策だった。

 

実はこのとき幕府側も一枚岩ではなかった。第一に江戸の老中を中心とした政府と、京都の前線政府の溝が大きかった。後者を主導したのは徳川慶喜だが、優柔不断であったと言われる。

 

政治推進の裏付けとなる「武」については会津と桑名が中心になっていた。会津藩主の松平容保と、桑名藩主の松平定敬は実の兄弟だった。長州を厳罰にと主張する両者に対し、慶喜は煮え切らぬ態度だった。

 

そこにこれまた他人任せの傾向の強い松平慶永(春嶽)が、責任転嫁をするばかりで自らは泥をかぶらない。結局のところ、「一会桑(いっかいそう)政権」と言われても機能不全であった。

 

それをみて西郷は徐々に距離を置き始める。もっとも、この時代薩摩はまだ「倒幕」に舵を切ってはいない。西郷自身はそろそろ見切りをつけ始めていたようだが、大久保一蔵(利通)はそこまでには至らない。

 

さらには薩摩には、良識派と言われる小松帯刀が島津久光の側近として重い存在であった。だが、この辺りから西郷の独断専行が目立つようになる。結果としてはその動きに、薩摩全体が引きずられるようになる。

 

そして長州にも一人の風雲児が現れる、高杉晋作だ。

 

高杉は松陰門下に名を連ねてはいたが、決して松陰の超急進思想に引きずられてはいなかった。その辺りは久坂玄瑞とは違っていた。下関での外国船砲撃にも、京都への出兵にも冷ややかな目を向けていた。Photo

 

保守派(俗論派)が藩政を握った間は鳴りを潜めていた、投獄されていた時期もある。それがついに鎌首をもたげたのは、第二次長州征伐が始まった頃だ。

 

高杉もまたある時期はテロリストの一員であったが、情勢分析には極めて現実的だった。しかし、やるべき時にはやるという強い意志を持っていた。たった80名で戦いに踏み切った、功山寺の挙兵だ。

 

これにより長州藩は再び過激派が実権を握った。幕府憎し、会津・桑名憎しである。ここに、桂小五郎が呼び戻された。西郷はそういった状況をしっかりと見つめていたようだ、イギリスとの接近もこの頃からだ。

明治新政府・「志士」たちのドタバタ

日曜日ごとに放映されるNHKの大河ドラマ、そのテーマあるいは主人公は戦国時代と並んで、幕末・明治維新と呼ばれている時代が多い。

 

そういえば最初の大河ドラマは「花の生涯」で、主人公は井伊直弼だった。そして今年は西郷隆盛が主人公である「西郷(せご)どん」である。

 

私も歴史的な小説やドラマは好きなので、大河ドラマは毎年見ている。今年も遠征で見られない時には録画をしておいて、続けて見ている。原作の林真理子は好きではないが、個人の好みはどうでもいい。

 

話は西郷が江戸(薩摩藩上屋敷)に赴任した頃まで進んでいる。つまり、ペリーが2度の来航をした頃だと考えれば良い。江戸の町も幕府も上に下への大騒ぎになっている、というのが教科書で教えられたことだった。

 

かの上喜煎の歌、すなわち「たった四杯で夜も寝られず」も真実ではない。第一、アメリカはじめ外国の船が初めて江戸湾に入ってきたということすら史実ではない。

 

すでにペリー以前に日本にはたくさんの外国船がやってきている。「鎖国」をしていたわけではない、鎖国令なるものがなかったことも明白である。すでにペリー以前に「外国船打払令」などは廃止されている。Photo

 

また、外国船に薪や水、食料などを供給することも、幕府はとっくに認めている。その中に石炭は入っていないが、これはまだその頃には蒸気船がやってきていなかったからで、ペリー艦隊の蒸気船もたったの2隻だった。

 

確かにモクモクと煙を上げる蒸気船に最初はびっくりした浦賀や、江戸の市民もすぐに馴れてしまった。見物に押し寄せることもあったが、それは現代人でもやっていることだ。

 

幕府もその頃には多くの情報を得ていたので、「江戸に向かって上陸する」ことについては、慌てて断りをいれたがさほど狼狽えたわけではない。

 

確かに時間稼ぎはしたが、ペリーが再びやってきても幕府の官僚たちは堂々と対応している。その主張には、ペリーですら要求を縮小せざるを得なかったくらいだ。

 

ところが歴史の教科書には、そういう史実はほとんど書かれていない。いかにねじ曲げられているか、それは明白だ。つまり『江戸幕府はだらしない、けしからん。古い陋習や封建観念で凝り固まっていた。』というわけだ。

 

それを打破したのが薩長の先進的な考え、思想を持った「志士」たちであった。そういう彼らが作った明治新政府は素晴らしい、しかも江戸城を無血開城に導いた広い心を持っていたと。

 

ではその明治新政府とやらが何をやったか、江戸(以前の)文化の破壊活動だった。廃仏毀釈などはその典型といえる。いや、あれは「神仏分離」を命じただけで、神官や庶民が勝手にやったのだと。

 

急激な欧化政策の究極は鹿鳴館だ。ついこの間まで「攘夷」をとなえていた連中が、一気に西洋かぶれとなって、夜な夜な踊り狂うわけだ。おそらく、そこに参加した西洋の人たちは、なんと愚かな国民だと思っただろう。

 

書きたいことはもっともっとあるが、今回の紙も尽きた。西郷どんにアプローチする前に、もう少し寄り道するとしようか。

建国記念の日ということに思いを馳せて

今日は建国記念の日(「建国記念日」ではない)、日本書記によるとカムヤマトイワレビコノミコトが大和の橿原の宮で即位したとされる。カムヤマトイワレビコノミコトは神武天皇のことだそうだ。

 

明治時代には紀元節として建国を祝う祝日であった。戦後廃止され、やがて祝日として復活した頃私は中学生だったが、周囲の空気は「軍国主義の復活につながる」という声が多かった。Photo

 

私もその意見に与していた。日の丸・君が代も素直に受け容れないという考えを持つ、ひねくれた少年だった。

 

大学時代はノンポリ学生だったが、左翼的な意見に共感して時には反戦デモに参加し、「米帝打倒!」「自民党政権打倒!」を叫んでいた。

 

しかし考え方というのは変化してくるものだ、それは正しい歴史を学んだからかもしれない。もしかしたら最も左寄りに行く先に、ぐるりと回って最も右寄りの考えがあったのかも。

 

日本を愛する青年(ナショナリストだと言われた)になったのだと、自分では思っていた。当時の仲間たちは「転向だ」と私を非難した。

 

今は身近な人たちからも「右翼的だ」と言われている。当たってないとは言わない。国を愛し、日の丸・君が代を素直に受け容れ、建国記念の日も祝える。

 

でもそれはごく自然なことではないか。オリンピックで日の丸が揚がり、君が代が流れたらホロッと涙がこぼれる。しかし戦争につながるような動きには、懸念を持っている。

 

憲法9条は素晴らしいと思う、確かに時代に合わせて変える必要はあると思うが、少なくともその理念と歴史的ベースは守ってもらいたい。

 

ナショナリスト=右翼ではないし、皆が改憲ではない。国を愛し、国を護らなければという気持ちの強さや、心の方向、あるいはどういう手段に依るのかということではないのだろうか。私でいえば護憲であり、それ故に改憲をも支持する。

 

さて建国の日である。確かに神武天皇は神話の中の天皇だが、間違いなくそれに類する史実が古代に存在したのだと思う。

 

神話の中の建国であっても、私はそれを素直に祝う。その時代にまだ「日本」とも呼ばれていなかったのだろうけど、間違いなく古代の日本人が国を造ったのだ。

 

日本書紀が、どういう背景で編纂されたのかということはここでは問題にしない。何らかの意図があったのだとしても、確かに神話として創られた「古代人による裏付け事実」があったのだと、私は信じているのだ。

 

そして私もその古代人から、ずっとつながっているのに違いない。神話の中の荒唐無稽なことをと、おっしゃる方に問いかけたい。では、あなたにとっての国(日本)とは何か、日本という国はいつできたのか?と。

反薩長史観・尊皇でなかった勤王の志士

明治維新からちょうど今年で150年になるという。そこで、なんだかお祝いムードを高めて景気を浮揚させようというまではそうかなですませるが、ついでに憲法の改正も一気にというわけにはいかないだろう。

 

第一に、明治維新という言葉自体が使われ始めたのは、明治の時代もかなり進んだ頃らしい。明確な答えは知るよしもないが、少なくとも150年前にはなかった言葉だ。

 

当時は維新という言葉も使われていなくて、一部では「御一新」と称されていたらしい。ところが新しいことというが、ハッキリ言って何か新しいものやことが打ち出されたのかというと、甚だ疑問である。

 

明治初期に行われた一連の政治改革などを指すらしいが、それらが果たして改革だと言えるのか。またそのスタートとなったのは大政奉還だというなら、明治維新ではなく「慶応維新」というべきではないか。

 

おそらく明治維新という言葉を唱え、流行らしていったのは薩長政府とりわけ長州人たちらしいと推察されるのだが、これがやがて「昭和維新」につながって、第二次大戦における敗戦に結びついていく。

 

昭和維新が叫ばれた最初は、どうも「5.15事件」そして「2.26事件」の頃らしいが、どうにも血のにおいがしていけない。早い話が卑劣なテロだ。

 

そんなわずか80年くらい前のことを、日本人はもう忘れてしまったのか。維新を名乗る政党もあちこちにあるようだが、歴史を知る人には不気味な響きではないだろうか。

 

さてテロの話であり、テロリストたる久坂玄瑞の話である。

 

まぁとにかく、井伊直弼暗殺後の徳川幕府は弱体化が進んでいく。もっとも、幕府の官僚たちが弱々しく、また世界情勢に無知であったわけではない。

 

少なくとも、当時の朝廷の公家どもや、長州を中心とした過激派(そう、勤王の志士よりはこの方がふさわしい)たちの誰よりも、有能で世界情勢にも通じていたのは幕府の官僚たちだった。

 

この事実はもっと教科書にも載せるべきだと思う。その代表は小栗上野介忠順であり、今に残る横須賀の造船所は彼の企画によってスタートしたものだ。Photo

 

勝海舟も加えてもいいが、彼の場合は幕府の足を引っ張る言動の方が多かったように思われる。それでも世界情勢に詳しかったわけは、彼が幕府にいたからだろう。

 

そのたあまたの精鋭官僚たちが幕府を実際に動かしていたのだが、それにくらべると久坂玄瑞などは数段も数十段も落ちる。人間の質も比べるまでもない、何しろテロリストだ。

 

人格とか品格という言葉があるが、久坂をはじめとする長州人たちのそれは全くひどいものだ。何しろ殺戮は平気だし、脅迫もお手の物だ。脅迫された公家たちが天皇に背いて、偽の勅を乱発していた。

 

だが彼らは「尊皇」を標榜していた。これが真っ赤な嘘であったことは言うまでもない。尊皇なら、偽勅をこしらえたり、それを利用して自分の行動を正当化するようなことはしない。

 

孝明天皇は確かに「毛唐(異国人)嫌い」ではあったが、彼らと戦争しろとは言われていない。彼らに国を危うくさせられてはならないというお気持ちだったし、第一に幕府への政治委任をやめるとは言われなかった。

 

むしろ、京都守護職であった会津候・松平容保を心から信頼しておられた。久坂らの行動は、そういう御心を裏切るものだ、楯突くものだと断定してよい。

 

その証拠を、次回は見ていこう。

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