江戸の女は強し

江戸城無血開城、先日の『西郷どん』は相変わらず「美しく」描くものだなと嘆息。

 

勝海舟が「江戸を火の海にする」計画もしていたことなどは、おくびにも出さない感じでした。それはまぁ、しょうがないんだろうなぁ。

 

確か、以前の『慶喜』ではそういうこともちゃんと描いていたようだったと記憶しているが。新門辰五郎の娘が、慶喜の側室だったしね。そんなことはひと言も無し。

 

無血開城後に西郷と慶喜が会う、これも史実の外の演出だな、やりすぎ。その方がドラマとしては面白いってことで。

 

その前に天璋院(篤姫)さんに会う設定だが、これも史実外。天璋院が西郷に嘆願書を送ったことは事実だが、面会まではねぇ。「徳川の女」として生きる決意はにじみ出ていたが。

 

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そういえば和宮(静寛院宮)さんは出てこないねぇ、かつての婚約者だった有栖川宮に書状も送っているわけだけど。

 

江戸城開城には、この二人の女性の存在も欠かせなかったと思うのだが、ハヤシマリコは片方は無視してしまう気なのかな。原作を読んでないので分からんけど。

 

天璋院さんは、その後薩摩藩が生活費の面倒を見ようとするのを断るんだよな。あくまで徳川の女性として生きようとする、慶喜なんかよりもはるかに性根が据わっている。

 

和宮さんは若くして亡くなるんだけど、かつて江戸城内では火花を散らしたこともある天璋院さんとは、それなりに交流があったらしい。危機感の共有ってのは大事だね。

 

次回は彰義隊の戦い、そしてどうも長岡藩の戦も出てくるらしい。西郷の弟が北越戦争で戦死するんだが、まさかガトリング砲で撃たれる設定などにはしてねぇだろうな。

 

最後の場面で大村益次郎が登場するが、ミスキャストだな。容赦なくアームストロング砲を打ち込む大村は、もっと冷酷な雰囲気だったはずで、正蔵ではイメージ違い。

 

そんな大村が、靖国神社とやらの参道に高々と立っているというのがねぇ、どうみても冷酷無残な殺戮者なんだが、靖国では英雄なのか?

 

より犠牲を少なくして終わらせることができた、などと曰う御仁がいたが、同じ言葉を確かトルーマンから聞いたんだっけね。

 

その内トルーマンの銅像も置いたらどうだ。「過ちは二度とさせませんから」とか記して。

 

さて、今日まではまだ暖かい秋だそうだが、雨の後には気温が下がってくるようだ。一雨毎に寒さがやってくる、紅葉も少しずつ始まってきたようだ。

 

体調管理にはくれぐれもご留意あれ。

海舟と西郷の会談は「美談」に仕上げられた

前週は「江戸の三舟」のことに触れたが、勝海舟が最初に駿府の西郷の元に派遣しようとしたのは、高橋泥舟だったらしい。しかし泥舟は慶喜の元を離れられないということで、山岡鉄舟を推薦したらしい。

 

鉄舟と面談した海舟は、すぐに人物を見抜いたようだ。高潔な人格と、何よりもその胆力に惚れたようだ。その胆力に西郷もすぐに魅了されたと見てよいだろう。

 

西郷は山岡を追ってすぐに江戸に向かい、歴史上有名な海舟との会談ということになる。もちろん二人だけで会談し、二人だけで「停戦」を決めたわけではない。西郷にそんな決定権があったとも思えない。

 

東海道を進んできた討幕軍の、実質的なリーダーであったわけだが、西郷は「下参謀」という役職に過ぎない。中山道を進んで来た別の侵攻部隊への権限はない。

 

だから、とりあえずの停戦(江戸城総攻撃の中止)は決めたものの、その後のことについては京都の新政府中枢の意見を聞かなければならない。西郷は江戸から京都への往復を強いられる。

 

しかも、新政府軍の力(兵数)だけでは100万都市・江戸の治安を守ることは、実質上不可能だったはずだ。だからこそ、停戦したのだということの方が正しいのではないか。

 

実際に、海舟は万が一の場合も含めていくつかの手を既に打っていた。これなどは、海舟が戦略家であったことの傍証にもなるだろうが、例えば「江戸の町を火の海にする」こともできると西郷を脅かしたのではないだろうか。Katutosaigo

 

海舟と新門辰五郎とは非常に親しい。辰五郎は江戸の火消しを束ねるリーダーでもある。海舟は江戸湾の幕府艦船などを使って江戸市民を避難させ(房総に送り届ける?)、本気で江戸の町に火を付ける気だった。

 

もしそうなったら混乱するのは討幕軍の方であることは明白だ。西郷はそれを察して、総攻撃の中止を約束したのであろう。この辺りの駆け引きと腹の探り合いが面白いところだ。

 

戦略家は戦略を明確にするだけではない、その戦略がうまくいくように戦術の組み立てをしっかりとやっておく。全てを海舟が指揮してやったことだとは思わない、大久保一翁も当然噛んでいることだと思う。

 

例えば小栗忠順を解任し、江戸から追っ払ったこともそうだろうし、海舟自らが幕府(すでにないが)の陸軍総裁に任じられている。近藤勇をはじめとする新撰組も、甲府に向かわせ江戸から離している。

 

新門辰五郎には寛永寺周辺の警戒をさせているし、いざという時には間違いなく火を付ける準備をさせていたはずだ。配下の人間はおそらく新政府軍をしのいでおり、財力も豊富だった。

 

そういった背景を無視して(軽んじて)、海舟と西郷の会談を「美談」に仕上げていったのは、明治新政府の歴史認識づくりだったのだろう。歴史認識の歪曲、為政者の思い通りに作り替えることはどの時代にも見られる。

 

新政府とやらがそれを主導したことは論を待たない。そういったことに目をつぶって、明治以降の歴史の表だけを眺めていては、本質は見えない。会津や長岡での戦いの意味も軽視してしまうだろう。

 

ではさらに話を進めていくことにしよう。

勝海舟と山岡鉄舟の方が西郷よりも数段上

明治維新の最大のエポックとして取り上げられる江戸城の無血開城、確かに上野寛永寺に陣取った彰義隊の抵抗はあったものの、確かに徳川幕府の本拠・江戸城は開城され、江戸の町は戦いに巻き込まれなかった。

 

経過を追ってみよう。鳥羽伏見の戦いで薩摩中心の新政府軍に錦旗が掲げられ、朝敵になったことに驚愕した徳川慶喜は、リベンジに燃える幕府軍兵士を大坂城に置き去りにして海路江戸に逃げ帰った。

 

そして強行に戦いを主張する主戦派(例えば松平容保や小栗忠順など)を排して、全権を勝安房(海舟)と大久保忠寬(一翁)に委任して、自らは寛永寺に退いて謹慎する。

 

勝は新政府軍を破る方法を知っていたと思う。小栗もまた、陸軍精鋭をもって挑めば勝てるはずと踏んでいた。確かにこの時期、幕府の海軍陸軍ともに国内では最強であったに違いない。

 

フランスが幕府を後押ししていたことが、イギリスとの対抗・対立という側面から、違った形の内戦すなわち外国の覇権争いに巻き込まれる危機をはらんでいたと見る向きもある。歴史のイフだから、想像は自由だが。

 

勝機はあったと思われるが、慶喜は恭順謹慎を決めて、後始末を勝に託した形になった。天璋院(13代将軍家定御台所・薩摩出身)も、勝には信頼を置いていたようだ。

 

勝は、駿府に滞在している西郷の元に使者を送る。使者に選ばれたのが山岡鉄太郎(鉄舟)であった。山岡は西郷を知らなかったので、案内役に薩摩藩士益満休之助を同行させる。

 

この益満休之助は、例の赤報隊などが江戸の町を蹂躙した際に陰の仕掛け人となっていた男で、薩摩藩邸焼き討ち事件後に勝が自分の屋敷にかくまっていたらしい。まさかこの日のためではなかったのだろうが。

 

山岡は益満の案内で、駿府に進出していた大総督府の西郷を訪れる。この時の西郷の役割は下参謀、実質的に新政府の江戸討伐軍を指揮できる立場であった。これが慶応439日、江戸城進撃6日前だった。Photo

 

西郷は、というより江戸討伐軍は「慶喜の首」を求めていた。西郷がその急先鋒であったことも間違いない。よって、山岡に示した江戸城総攻撃の回避条件7か条はかなり厳しい内容だった。

 

とくに第1条の「慶喜の身柄を備前藩に預ける」ということは、幕臣(この時点では旧幕臣になっているが)の山岡には、到底受け容れられるものではなかったはずだ。山岡は強行に撤回を求め、西郷は当然に拒否する。

 

先日の『西郷どん』では、山岡が腹を切ろうとする演出がされていたが、それはなかっただろうと想像する。山岡鉄舟という人物はそれほど胆力の無い人間ではなかったはずだ。死んでは使者の役を果たせないからだ。

 

腹切りを格好の良い、武士らしい振る舞いだと描きたい浅はかさには反吐が出る。男である山岡の方が、西郷を圧倒したのだと思う。結局西郷は、第1条を棚上げにすると言わざるを得なくなる。

 

山岡は急ぎ江戸に戻り、その後を追うように西郷も急行する。そして維新史に必ず登場する、勝と西郷の会談場面だが、もちろん2人だけで会談したわけではない。お互いの幕僚たちも同席していたに違いない。

 

これも想像だが、勝は西郷を脅迫したに違いない。上述したようにその気になれば圧倒的に幕府軍の方が勝っているのだ、後は決断するかだけなのだし、勝は「江戸の火の海にする」準備もしていたはずだ。

西郷は「戦いの鬼」となっていたのか

NHKの大河ドラマ「西郷どん」は、いよいよ鳥羽伏見の戦いが始まり、江戸城無血開城まで秒読みの段階に入ったようだ。江戸での乱暴狼藉も、「西郷が指示した」ことだと描かれていた。

 

弟の信吾(後の従道)が兄・吉之助に「鬼だ」と詰め寄る場面があったが、そういう事実があったか否かはどうでもいいが、確かにこの時期の西郷は「戦の鬼」になっていたようだ。戦が起こらねばならないと考えていた。

 

だからこそ、江戸での赤報隊を軸にした乱暴狼藉を命じ、それに対して江戸幕府軍が報復することを期待していたわけだ。まさに期待通りになって、西郷はほくそ笑んだわけだろう。

 

戦いの鬼と化していた西郷は、東海道を進む東征軍(官軍とは呼びたくないのであしからず)の参謀として上京することになる。この間に彦根藩が東征軍側につく、泉下の直弼はどう思っただろうか。

 

そんなわけで、東征軍は彦根には向かわず東海道を真っ直ぐに桑名に向かう。桑名藩は、慶喜とともに行動している松平定敬が領主だが、主君不在の中(正確には藩主を追放するのだ)で降伏を決める。

 

何しろ定敬の実父である尾張藩の徳川慶勝はとっくに朝廷側だし、慶勝の名で反抗する者を処刑したという。尾張藩といえば御三家ではないかと思うのだが、流れにうまく乗ったのだろう。

 

ただ桑名藩主の定敬(この時点では前藩主というべきか)は、江戸から北回りで日本海に出て越後に廻る。そこに藩の飛び地(6万石)である柏崎領があったからだ。

 

長岡藩に桑名そして会津(小千谷や小出など越後国の中に飛び地が多かった)が加わった北越戦争の話は、後日に改めて書いてみようと思うので、まずは江戸に焦点を合わせ直すことにしよう。

 

さて、江戸に戻った慶喜は謹慎生活に入る。江戸城を出て上野寛永寺内の大慈院だが、あくまでも朝敵の汚名を回避したかったのであろう。

 

当時の江戸城には二人の女性がいた。一人は13代将軍家定の御台所であった天璋院と、14代将軍家茂の御台所であった静寛院宮(和宮)である。一方は薩摩出身であり、もう一方は皇族である。Photo

 

当然ながら慶喜は二人の存在に期待したであろうと思われる。ただ、天璋院は「慶喜嫌い」であったと伝えられる。実際にどうだったかは分からないが、勝海舟が後にそう言っているし、仲を取り持ったとも言われている。

 

海舟からの働きかけがあったのかどうか(多分あったのだろう)、二人の女性はそれぞれ「慶喜赦免」の書状を書いて送った。だが、それはほとんど無視されたようだ。

 

家茂と和宮の婚姻を積極的に推進し公武合体の強化を目指したのは、当時の岩倉具視だったが、その岩倉は豹変していた。一方天璋院は、浅からぬ縁がある西郷隆盛に働きかける。しかし西郷は情だけでは動かない。

 

慶喜を討つという目的を全うすることを、西郷は強く意識していたに違いない。たとえ、最も恩のある島津斉彬の娘(養女)である天璋院(篤姫)であっても、私情は挟めないと思っていたのだろう。

 

そこで勝海舟である。だが、本当に海舟と西郷の二人が「江戸城無血開城」をなしえたのか、それだけの権限を持っていたのか、そこは大いに疑問を持っている。そこはよく知らないとだけ記しておこう。

表象だけの維新賛美はどんなものか

閑話休題。

 

台風21号の被害が次々に明らかになってきている。私が小学生の頃、大阪を襲った第2室戸台風という大嵐があったが、それに匹敵するような激しさだったとも。

 

歴史上も大嵐の記録はいくつもあるが、教科書にも載っているものと言えば、鎌倉時代の元寇だろうか。正確には第1回目が文永の役、2回目が弘安の役だな。

 

この時、いわゆる「神風」が吹いて元軍を打ち破ることができた、と私も歴史の授業で習ったわけだ。へぇ、神風なのかぁと思ったもの、それも2回も。Photo



元軍(元と高麗の連合軍)は、地上戦でも日本がこれまでに経験したことのない集団戦で優位に戦いを進めていたようだ。

 

ただ馬は最低数しか輸送できないので、得意の騎馬戦には持ち込めず、しかも戦いの後は沖合の船に戻ることを繰り返していた。

 

そしてある夜、船に引き上げた際に暴風を受けて多くの軍船が沈み、残った船も逃げてしまったのだという。

 
そんな偶然があるのだなぁと思ったくらいだった。事象だけを見ると確かにその通りだったかも知れない。日本は非常にラッキーだったのだと。でもそれは表象だけだった。

 
元の遠征軍は負けた、非常に多数の犠牲者も出したとは言え、そのほとんどは元の本軍・蒙古軍ではない、高麗軍であり南宋軍であった。

 
それが証拠に、この後も元の軍は大陸を縦横無尽に駆け回って、大きな帝国を作り維持していった。それを表面的なことがらだけで見ていてはいけない。

 
明治維新とやらもそうだ。「明治」というが、出来事とくに戦いの多くは慶応年間に起こっていた。大政奉還から王政復古の大号令は慶応3年。

 
それを受けての戊辰戦争は慶応4年の1月に始まったし、長岡藩をめぐる北越戦争もその4月に起きている。何がどういう背景で起こり、そしてどうなったかをしっかり見つめたい。

 
単なる維新賛美は願い下げだ。

戦国随一の名軍師の子孫だったが

徳川慶喜についても私感を書いてみる。その前に鳥羽伏見の戦いだ。

 

幕末の戊辰の戦い、鳥羽伏見の戦いから後の慶喜の行動だけを見ていると、この人は果たして将軍の器だったのだろうかと首をかしげたくなる。

 

大坂から京都に向かった幕府軍は、そもそも討幕軍(薩摩を中心とした部隊)と正面戦になると考えていたのか。朝廷(新政府と呼んで良いかはやや疑問)に物申すだけの目的だったのか。

 

それでも、朝廷側よりも多い人数であったことは事実だし、おそらくそれほど大きな戦いにはならず都に入れると踏んでいたのではないかと推察する。

 

装備(兵の武器)の差がいろんな本に書かれているが、確かに小銃や大砲の類は若干劣っていたことは否めない。さりとて、薩摩軍がそれほど優秀な武器を揃えていたという事実はない。少なくとも差は僅かだったようだ。

 

大きな差があったのは、目的意識とさらに大きな問題点は将校の質と量だったと言える。つまり、前線指揮官の目的意識と、現場指揮官(中隊長や小隊長クラス)の質量が、圧倒的に負けていたのではないか。

 

先に述べたように、上京部隊の指揮官はあくまで京の都に入って、有力な兵力を背景に慶喜の意思(書状)を朝廷に届け、要求を呑ませることにあった。

 

もちろん、前線部隊は戦闘準備もしっかり整えていたことであろう。しかし、例えば斥候を出して相手の配備・展開状況をしっかりと確認していたであろうか。まさか、自分たちが進軍すれば、相手は道を譲るとでも考えたか。

 

前線部隊を率いていた指揮官は若年寄の竹中重固であった。部隊は密集隊形で進軍していったようだが、結果としてこれが大きな誤りであった。散開して(コの字形に)待ち構えている薩摩軍の真ん中に入り込んだのだった。

 

まさしく飛んで火に入る夏の虫、相手の3倍の兵力があったとしてもこれではひとたまりも無い。最初の一個中隊が撃破され、その後から突っ込んだ中隊も同じ憂き目に遭っている。

 

ちなみに竹中重固は、戦国随一の軍師と称された竹中半兵衛の子孫であるのだが。しかも兵をおいて前線の兵を置いたままで敗走するというていたらくであった。

 

なお、幕府軍の進軍のきっかけとなったのは、前回までに書いた江戸における薩摩藩が操った暴徒の乱暴狼藉であり、当初朝廷側もこの戦いは「薩摩と徳川との私闘」として傍観していたようだ。Photo

 

しかし、ここで黒幕の岩倉具視が倒幕とともに「錦の御旗」を強行に要求する。そしてついに錦旗が登場するのである。もっともこの錦旗は、長州の品川弥二郎が西陣の業者に作らせた間に合わせだったという。

 

それでもこの錦旗の影響は絶大だった。2日目の戦いは幕軍が数にものをいわせてやや押し気味だったのが、錦旗の登場で離脱する藩が続出、慶喜自身も朝敵になったことに大きな衝撃を受けた。

 

慶喜は水戸藩の出身(徳川斉昭の八男)、当然ながら幼少時より尊皇教育を受けてきた。朝廷に逆らうこと、逆賊になることなどとんでもないことだった。この時点で勝敗の行方は決したのだった。

西郷が待ち望んだ江戸藩邸襲撃

徳川慶喜が大政奉還を申し出ると同じタイミングで出された討幕の密勅(実は偽勅)、その先兵として西郷隆盛の命により、江戸に送り込まれたのが薩摩藩士の益満休之助と伊牟田尚平であった。

 

すでに江戸三田の薩摩藩邸には相楽総三が、尊皇攘夷の浪士や不逞の輩を数多く(一説には500人とも)集めていた。益満と伊牟田が司令塔となって江戸市中での組織的な乱暴狼藉、放火、略奪、暴行が開始された。

 

大政奉還の直後に討幕の実行延期の沙汰書がなされ、討幕の密勅は事実上取り消されのだが、その報せが江戸に届いたのはずっと後だったし、走り出した過激な動きは止めようがない。

 

しかも乱暴狼藉や略奪、強姦の類は実行部隊の「実益」なので、いかんともしがたかった。幕府よりと目された商家への押し込みにはまだ理由が明確だったが、その内に見境がなくなる。

 

幕府も手をこまぬいていたわけではない。主力部隊は京都に出向いていたので、慌てて陣容を整えたが、その主力となったのが庄内藩であり、幕府傘下の新徴組であった。

 

取り締まりは強化されたが狼藉部隊は神出鬼没、しかしその内に「基地」が三田の薩摩藩邸であることが明白になってきた。藩邸というのはいわば治外法権だから、幕府といえども簡単には手を出せない。Photo

 

しかし証拠は明らかであり、凶行はエスカレートしている。その範囲は江戸市中のみならず、周辺にも広がり集団も大規模になっていく。その連中も皆、薩摩藩邸に逃げ込むのだ。

 

逃げ込むところを捕まえようとしたのだがうまくいかないし、藩邸に逃げ込まれてはどうしようもない。逆に、新徴組の屯所や庄内藩の屯所が銃撃され死者が出るに及んで、ついに堪忍袋の緒が切れた。

 

ついに薩摩藩邸に出向き、浪士や狼藉者の武装解除と引き渡しを通告したが、藩邸の留守役がこれを拒否。それを契機に庄内藩兵が一気になだれ込み、銃撃を行いさらに火をつける。

 

何しろ多勢に無勢で薩摩藩邸は全焼し、一部は逃亡に成功したが、150人以上の浪士が殺されるか捕縛された。これが世に言う「薩摩藩邸焼き討ち事件」である、時は慶応3年の暮れ。

 

西郷はこの報せを、今か今かと待っていたという。つまり相手から「手を出させた」わけで、戦いへの名分ができたことになる。しかも、江戸から知らせを受けた大坂の幕軍はいきり立ち、討薩ムードが高まっていく。

 

こうなると慶喜や老中たちもこれを抑えきれない。抑えつけようものなら、逆にキレられてしまう感じだったようだ。慶喜たちも意志を固める、そして年が明けて慶応4年冬、ついに京都への進軍を開始したのだ。

 

西郷のもくろみが成功したわけだ。しかし、そのために江戸市中の罪もない人がどれだけひどい目に遭ったか、正に手段を選ばずという姿勢が見えてしまう。

 

しかもなお後日談がある。それは江戸の狼藉部隊を率いた相楽総三のことだ。いかに西郷が非情の男であったか、それを追ってみることにしよう。

 

今日はここらでよかろうかい(と「西郷どん」風に)。

あまりにお粗末な「西郷どん」の筋書き

22日夜のNHK大河ドラマ「西郷どん」を見た。ちょうど、禁門の変を巡っての動きであったが、見ての感想はあまりに西郷を美化して描きすぎだなということだった。

 

まぁ、小説をさらにドラマ化したものだから目くじらを立てる必要はないが、それにしてもここまで「持ち上げる」というのはいかがなものかなぁ。

 

史実であるところの、薩摩の高崎正風(佐太郎)が会津の秋月悌二郎に接触し、長州藩の追い落としについて合意を取り付けたことには全く触れられていない。薩会同盟とも言われるが、これは無視されている。

 

これがあったからこそ、西郷に率いられた薩摩軍は蛤御門を守って劣勢に立っていた会津を救援に駆けつけたのだし、大将(来島又兵衛)を討たれた徴集兵に投降を呼びかけたなど、笑止千万なことだ。Photo

 

長州兵たちは明らかに御所に向けて大砲や鉄砲をぶっ放したのであり、この瞬間「朝敵」に成り下がったわけだから、それを赦すなどということがあるはずもない。現場指揮者がやったら、それは越権行為だろう。

 

この時期、西郷はまだまだ「重要人物」ではありえなかったし、前回も書いたように薩摩の中でもまだ「浮いた」存在であった。

 

実際、この禁門の変で勲一等は高崎佐太郎であったし、かれは京都留守居役という重要職に就いている。しかも高崎の方がむしろ戦を否定する立場を貫いた。薩摩の実権者である島津久光の意を介して動いているはずだ。

 

とくに高崎は、幕府に対しての戦事(武力討幕あるいは倒幕)にはずっと否定的であり、そのために西郷と対立したために結果としては失脚する。よって、当初は新政府に出仕していない。

 

おそらくこのドラマの中では、長州兵の投降を赦さず皆殺しを命じた徳川慶喜の存在を浮き上がらせ、西郷との人間愛の差を際立たせる筋書きであろう。

 

次第に西郷が、慶喜との考え方の差を浮き彫りにしていき、やがて幕府を倒す方向へと舵を切る、そのきっかけの一つとして活用するのだろう。

 

そんな私の感じ方が合っているのだとしたら、ひどく底の浅いドラマだなぁと言いたくなる。もっとも原作を読んでいないので、林真理子の底も浅いのかどうかは知るところではないのだが。

 

さて、いよいよ京都では西郷と大久保の独走が始まっていくわけだ。もちろん仕掛け人がいる、それが岩倉具視だ。色分けするとすれば「謀略の人」であろう。まずはこの3人が手を結ぶことになる。

 

前回までに述べた王政復古の大号令、そして小御所会議の主役は岩倉だ。大久保はそれを表から支え、西郷が裏から支えたことになろう。何しろ「短刀一本」の御仁だから。

 

ついに慶喜は追い込まれる。しかし、まだ足りない、そこで西郷が手を打つことになる。それが幕府のお膝元である江戸市中を混乱に陥れることに他ならない。

 

混乱させることが目的ではない。堪忍袋の緒が切れた幕府あるいは親幕藩のどこかに、引き金をひかせることが目的なのだ。それに引っかかったのが庄内藩だった。

幕末薩摩のキーマンは小松帯刀だった

歴史の教科書ほどいい加減なものはない、と断言できるほど私は研究者でも物知りでもないが、それにしても随所に間違い記述、あるいは一方的見解による記述が目立つことは事実だろう。

 

ヘンな言い方になるかも知れないが、それならばいっそ隣国のような「国家的偏見」に基づいた記述の方が、筋が通っていると思ってしまう。事実を曲げるということに関しては同床異夢だろうが。

 

幕府の崩壊が進行する幕末という時期のスタートを、ペリーの来航に基点をおくことに何の疑問を感じない記述から始まって、薩長が偉い、幕府がアホやといった根本的な考え方は誤っている。

 

遡って恐縮だが、江戸幕府は一度も「鎖国法」などは制定していないし、幅広く解釈すれば江戸開府以来一度も鎖国をしていない。限られた枠の中ではあるが、外国との交易も続いていた。

 

鎖国は祖法ではない証拠に、家康は盛んに交易を進めていたわけだし、ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスを側近としていたではないか。キリスト教の布教は禁じたが、国を閉ざしてはいない。

 

名実ともに開国をしたのは間違いなく江戸幕府という政権であったし、そのあとでも薩長、とりわけ長州藩は攘夷を標榜し実行までやっていたではないか。その賠償金まで幕府に払わせ、あとは頬被りだった。

 

昔私が学んだ頃の教科書には、ペリーが日本に初めてやってきたアメリカ人(の外交使節)だと書いてあったが、もちろんこれは誤りである。その以前からオランダ国旗を掲げて、長崎に入港してきてもいた。

 

江戸の市民はびっくり仰天して恐れおののいたともあったが、それは江戸湾深くに進入した最初だけで、あとは極めて平静そのものだったことは、いくつもの文献に書かれているとおりだ。

 

話を進めよう、教科書には書かれていない事実のことだ。

 

小御所会議が殆ど空中分解してしまったことで、西郷たち(大久保と岩倉など)は焦った。徳川慶喜への辞官納地、とくに納地命令が直ちに実行されなければ、カネのない朝廷政府は瓦解してしまうのだから。

 

しかし、薩摩藩全体が西郷たちの思うとおりに動く状況ではなかった。いや、むしろこの時期は西郷たちの思惑とは異なる考え方の方が主流だったと思える。国父の島津久光自身がそうであったようだ。Photo

 

この後も久光と西郷たちは対立を深めていくことになるのだが、すでにこの頃から溝は深くなっていきつつあったらしい。その狭間で調整役を担っていたのが、家老の小松帯刀だった。

 

帯刀の存在を忘れて、幕末の薩摩を語ることはできない。いやむしろ、もっと中心に帯刀をおいて論じるべきではないのかと思うほどだ。身分が違う、帯刀と西郷や大久保とでは月とすっぽんだと言って良い。

 

藩主や国父に直接もの申せるのは帯刀であって、西郷たちではない。岩倉は久光にもの申せる立場だが、久光は国元に帰ってしまっている。よってこれまた帯刀を介するしかない状況だった。

 

だから、西郷は全く別の次元での行動を開始したのだ。もし万が一のことがあっても、薩摩藩とは無関係であると弁明できるところで暗闘を開始したのだった。

西郷の汚点その1は教科書には載らない

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大河ドラマの『西郷(せご)どん』は、いよいよ場面が幕末の京都すなわち「維新」とやらのまっただ中に展開していくようです。そんな中で、私が『西郷の汚点』としている部分がどう描かれるか、興味津々です。

 

おそらくさらりと流していくのでしょう、あるいはことさらに必要悪だったことを強調するのでしょうか。原作者(林真理子)の思想信条からいうと、後者に近いのかも知れませんが。

 

その、私が言うところの西郷の汚点とは次の二つです。

1) 暴力をもって江戸の街を混乱させ、さらにその首謀者を冷酷に切って捨てたこと

2) 西南戦争であたら若い命を無駄に死なせたこと、その以前に江藤新平を見捨てたこと

2)の方についてはまた別の機会に譲るとして、どちらにしても敬天愛人などということを標榜している人物とはとても思えません。


さて、小御所会議は殆どなにも決められないまま、いや正確には決めたことは決めたけれども、実効性は乏しいままに空中分解してしまいます。首謀者たる岩倉具視は、おそらくかなり弱気になっていたことでしょう。

 

それを励まし、奮い立たせたのが西郷吉之助であり大久保一蔵であったと推察されます。それこそ「短刀一本で片がつく」という、西郷の考え方がここから実際に実行されていくのです。

 

ところが、教科書で教えられる維新史では、そこのところは殆ど触れられていません。教科書では、王政復古の大号令が機能して幕府の実権は停止し、新政府が機能し始めたとあります。

 

それに抵抗した幕府側が、鳥羽伏見の戦いを起点とした戊辰の役なるものに突入し、新政府軍は勝利を重ねていって維新を成功させたと。

 

事実はどうだったか、小御所会議では徳川慶喜に辞官納地を命ずるというところまでは提起されましたが、議定とくに諸侯の反対で完全に骨抜きにされてしまい、辞官納地を迫るには戦うしかないところに至ったのです。Photo

 

つまりこの時点で、初めて「討幕(倒幕)」ということが現実味を帯びてくるわけです。世の中の大勢は、この時点では決して倒幕ではなく、朝廷内の急先鋒岩倉にしてもまだ弱気であったのです。

 

島津藩つまり島津久光は元来が親幕であり、朝廷の意向は大事に奉るが決して幕府を倒そうなどとは思っていなかったはずです。むしろ西郷や大久保の動きを、苦々しく見ていたことでしょう。

 

第一、幕府は大政奉還を行ったのですから、政権は朝廷に戻っているのであり、倒幕する大義名分などどこにもないわけですから。だから西郷は、ここで秘策を繰り出さざるを得なくなってしまいます。


それは、旧幕府側を挑発することでした。これは「けんか」の発想です。相手の方から先に手を出させて、それを名分にして戦いの渦の中に引き込んでいく。やくざまがいといっても言い過ぎではないでしょう。


西郷は江戸にいた益満休之助伊牟田尚平に命じ、相楽総三たちあぶれ者の浪士たちを集めて、江戸の街中で凶悪犯罪を行わせたのです。殺人、放火、押し込み掠奪、強姦など、幕末史の汚点というべきものです。

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