脳力開発は人間学であり行動科学です(206・最終回)

その昔、脳力開発の提唱者・城野宏先生は、敵対する立場のどちらもが同じことを記していたら(主張していたら)、「確定的事実」として捉えてもよいと言われていました。当時(30年以上前)は東西冷戦の時代、アメリカとソ連の発表はたいていいつも異なっていました。

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 その中で時には、ほとんどイコールな内容で出来事を伝える報道がありました。こういう場合、もちろん他の立場の報道も確認した上ですが、確定的事実として判断の材料にしていました。一方からの情報だけで判断すると、間違いをおこす恐れが大きいわけです。

 
 とくに注意すべきは報道などのマスコミ情報です。マスコミは注目される部分を強調して扱います、TVは視聴率を上げないといけませんし、新聞や雑誌などは買ってもらわねばなりませんから。ですから、観る方がしっかりと情報判断をしなければなりません。

 
 私が時々書いている歴史ブログでも、薩長史観への反論というか違った目で見た私感を書いています。事実をしっかり見て、できるだけ公平な感覚で書いてはいますが、それでも「反」となると感情の偏りがついつい出てしまうモノで、反省してしまいます。
 

城野先生だったら、ここはどう観られただろうかなどと考えてしまうところです。どうしても私自身の感覚、あるいは思想・哲学が背景にありますので、そこを切り捨てるわけにはいかないのが人間の面白いところかも知れません。

 
 こんなところで、このシリーズの締めくくりといたします。感謝。

脳力開発は人間学であり行動科学です(205)

よく「真田三代」と言いますが、正に『謀将』の系譜で、昌幸を挟んでその父・幸隆、そして昌幸の次男・信繁(幸村)の三代を指します。幸隆は武田信玄に仕え、信玄が信濃に領土を拡大していく際に大きな役割を果たしています。Photo

 
 信繁は、関ヶ原の戦い後は昌幸と共に高野山に近い、九度山に流されて逼塞生活を送りますが、昌幸死後の厳しい監視の中を抜け出して大坂城に入り、夏の陣・冬の陣で活躍します。とくに夏の陣での「真田丸」の戦いは、徳川軍の肝を冷やさせました。(写真は真田ミュージアム)

 
 真田というとこの親子が有名ですが、私は昌幸の長男である信之を高く評価します。二人とは袂を分かって家康に臣従し、享年93才まで長生きして、明治維新までつづく真田家(当初は沼田、維新の時には松代が本拠)を築いた功績者です。

 
 
戦国時代は、講話などで取り上げる「人材の宝庫」と言っていい時代です。3人の天下人や、猛将、謀将そして智将などなど話題に事欠きません。やはり、時代が大きく変わったということもあるでしょう。時代の変化に彼らがどう動いたか、興味津々です。

 
 時代の大きな変化というと、戦国の次には明治維新を上げることができます。時代が現代に近いだけに記録も多く残っており、また歴史書や歴史文学にも多く取り上げられています。しかし、すべてが確定的事実かどうかはよく吟味せねばなりません。


 明治維新にしても、新政府の中心に連なった薩長土肥、とくに薩摩・長州中心の歴史観(薩長史観)になったことは否めません。例えば会津藩や新撰組などは「敵」としての扱いですから、公平な視点でかかれているのかどうか、双方の言い分を確かめる必要があります。

脳力開発は人間学であり行動科学です(204)

家康が天下を取って江戸に幕府を開くと、本多正信は側近筆頭として幕政を主導します。ツーと言えばカーと言いますが、この君臣は文字通り水魚の交わりと言えたようです。もっとも、腹芸もできたらしく、家康に物言えた存在だったようです。

 
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年に秀忠が2代将軍につくと、その顧問格として年寄(後の老中)として権勢を奮います。家康が大御所として駿府におり、二重権力構造になっていて、正信はお目付役としての役割を果たしていたと思われます。言わば煙たい存在だったのでしょう。

 
 後ろ指を指される立場にいただけに、正信は我欲を抑えます。そのため、いくら勧められても加増を辞退し、相模国玉縄(鎌倉付近)1万石、晩年にやっと22千石だったそうです。家康が亡くなって程なく、後を追うように亡くなります。

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 本多正信が謀将というべき存在なら、それを上回る謀将は真田昌幸でしょう。関ヶ原に向かう徳川本軍を率いた秀忠を、上田城攻城戦に釘付けにしてしまい、ついに肝心の合戦に間に合わなくした戦いは有名です。その時の秀忠軍参謀役が正信です。(右は第二次上田合戦布陣図)

 
 この時の秀忠軍(徳川本軍)は38千とも言われますが、これに対して真田軍はたったの2千人でした。徹底した籠城策と奇襲作戦で大軍を翻弄し、秀忠はついに攻略をあきらめます。この間正信は、攻撃をやめ関ヶ原に向かうよう進言したと伝えられています。

 
 これが第二次上田合戦でしたが、第一次上田合戦はその15年前、相手は家康でした。詳細は省きますが、この時も徳川軍7千に対して真田軍は2千足らず。家康は2割近い死傷者を出して切歯扼腕します。昌幸はさらに秀吉に臣従し、信繁(幸村)を人質に送ります。

脳力開発は人間学であり行動科学です(203)

家康は名将と言うより、謀将と呼ぶ方がいいというと、家康ファンには総スカンでしょうね。とくに日本の経営者は、とくに大手企業の経営者には家康ファンが多いそうですから。しかし「狸親父」と呼ばれることもまた、脳力開発的には上々です。

 
 謀将と言えば、前に書いた真田安房守昌幸などはその代表です。中国には紀元前の昔から謀将が輩出していますが、例えばよく知られているのは越王勾践に使えた范蠡(はんれい)。呉王夫差を滅ぼすため、美女西施を贈ったのは有名です。

 
 西施は色事で呉王夫差を骨抜きにするのではなく、「男らしくあれ」とか「覇王らしくあれ」と励まし、夫差はそれに応えようとして戦に明け暮れ、あるいは豪華荘厳な王宮や庭園を築Photo_2 きます。そのために重税や労役を課したために、怨嗟の的になります。

 
 それは范蠡の謀略だったと言われています。
越王勾践と呉王夫差の争いは、日本でも(勾践の)臥薪嘗胆の事例として有名ですから、聞かれたこともあるでしょう。勾践の軍師が范蠡だとすると、家康にとっての「范蠡」は、本多正信(弥八郎)ということになるでしょうか。

 
 本多佐渡守正信は途中一度家康に叛旗を翻し(三河一向一揆)、一揆終息後三河を出て10数年間諸国を回ってから、再び舞い戻り家康に仕えます。秀吉の死の前後から側近となり、いわゆる参謀として家康になくてはならない存在となります。正に君臣一体です。

 
 正信は家康の行った謀の企画・実行者です。家康が謀将と呼ばれることがないのは、そういう陰の仕事を正信が担っていたからでしょう。京都の本願寺が西と東に分かれているのも、実は正信の献策であったと言われていますが、どうなのでしょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(202)

秀吉に勝ったというので、家康とはすごい武将だ、さすが「東海一の弓取り」だと絶賛するわけです。これで秀吉は家康に遠慮せざるを得なくなり、必然的に家康の発言力も高まって、やがて天下を取る布石になったというのです。

 
 まぁ、ここまでおべっかを使うとあきれてものも言えませんが、江戸(徳川幕府)時代はこれが「常識」になっていたわけです。結局秀吉は家康との衝突を回避して、信雄を孤立させて単独講和を結ばせ、名分を失った家康は岡崎に戻っていった。これが小牧の役の結末です。

 
 大局的に見れば、戦争に勝ったのは秀吉で、家康は単に局地的な戦い(戦闘)に勝利したに過ぎません。その後秀吉は家康のご機嫌取りをして、最後は母親を「人質」にしてまで家康の上洛を促したと。これなどは確定的事実の見方違いで、笑止千万です。

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 家康が「海道一の弓取り」と言われるのは、その生涯の戦いで常に勝利してきたから、あるいは「野戦の名手」と称されたのもそうなのでしょうが、実のところこれまた伝説の世界です。確定的事実から言えば、とてもそんな名将とは言えないのです。

 
 例えば、信長と連合軍で浅井・朝倉軍と戦った姉川の戦い、苦戦する信長軍を救ったのは家康(徳川軍)だと江戸時代の史書にはあります。そして関ヶ原の戦いや大坂の陣での圧勝。

 
 だが、三方原では武田信玄にぼろ負けし、信州上田城では兵数ではるかに少ない真田昌幸に二度も惨敗しています。関ヶ原でも、実質東軍の半数の軍だった西軍にかなり押し込まれています(最近は少し違う説も出てきているようですが)。

 
 しかし最終的に勝者となり、260年の平和な江戸時代の礎を築いたことは紛れもない事実です。だからこそ神格化され(事実神様=東照大権現になりました)て、戦についても神様扱いになったわけです。(写真は三方原後の自身を描いた「しかみ像」)

脳力開発は人間学であり行動科学です(201)

信長の部下だった秀吉と、同盟者だった家康、各々立場が違いますので本能寺の変・清洲会議後の動きも大きく異なります。畿内周辺を固め、着々と信長後継者の地歩を固める秀吉をよそに、家康は信長が遺した東の領土、信濃・甲斐に触手を伸ばしていきます。

 
 この時点ではお互いに衝突を避けて、それぞれの動きに専念しています。それが衝突の事態になったのが、いわゆる小牧・長久手の戦いです。もっともこれは「小牧の役」が正しい表現で、長久手合戦はその中の局地的な戦いに過ぎません。

 
 この長久手合戦がピックアップされ、家康の代表的な戦とされるのは、実は江戸時代に入ってからです。要するに「家康神話」であって、大権現様を神格化するためのものだったのでしょう。現実に長久手合戦はその後の大勢には、ほとんど影響なしでした。

 
 小牧の役は、秀吉からないがしろにされた信長の息子、信雄(のぶかつ)が家康を誘って叛旗を翻したことから始まりました。この信雄、いわゆるボンボンで実力はないに等しかったのですが、大義名分はいくらかありましたので、家康がバックアップに回ったわけです。

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 家康は小牧山に陣をかまえ、秀吉はやや遅れて大軍をその前面に当たる楽田(がくでん)に展開します。戦いはほとんど膠着状態で、局地的な小競り合い以外はのんびりしたものでした。そこで秀吉軍に参加している池田恒興が「中入れ」を提案します。(写真は楽田城址)

 
 これは、家康が大軍で小牧山に出向いて陣しているのだから、今のうちに本拠地である岡崎を襲おうというものです。秀吉は当初反対します(実は秀吉も乗り気だったという説もあります)が、結局2万数千の別働隊が動き出し、それを追った家康軍が長久手で捕捉し、これに圧勝して恒興父子などが戦死した合戦です。

脳力開発は人間学であり行動科学です(200)

江戸時代に書かれた中で最も著名なのは、儒学者・小瀬甫庵による『太閤記』でしょう。賤ヶ岳の戦いもこの中に書かれていますが、それによると佐久間盛政が勝家の指示を無視して、深く入り込みすぎたために戻ってきた秀吉軍に急襲されたと。Photo

 
 つまり敗因は一に盛政にありということなのですが、もっと大きな要因が前田利家の戦線離脱、つまり明らかな裏切りであったことは間違いありません。ではなぜ小瀬甫庵はそれを裏切りだとは書かなかったか。いや、実は「書けなかった」のです。

 
 実は当時の小瀬甫庵は加賀前田家に使えていて、家族で世話になっていたのです。まさか主家の悪口は書けませんから、事の全てを盛政の若気の至りのせいにしたのです。こんな風に、歴史を学ぶ時には周囲の状況も頭に入れておかねば、確定的事実にたどり着けないのです。
 

さて家康です。織徳(しょくとく=織田徳川)同盟と言われるように、桶狭間からしばらくしてより家康は信長と深い同盟関係にありました。信長にとっては、美濃を攻めてさらに京に上るためには、東方面の安心安全を確保するのに家康の存在が必要でした。

 
 当初は対等に近い関係を結んだと思われ、家康の嫡男・信康に信長は娘(五徳)を嫁がせます。しかし徐々に信長の力が大きくなっていき、完全に対等とは言えなくなっていったでしょう。しかし「律儀な人」と言われた家康は、しっかりと同盟を維持します。

 
 本能寺の変勃発の際に堺に滞在していた家康は、帰路を明智勢や土匪の妨害を受けますが、辛うじて伊賀越えをして伊勢に抜け、海路を三河に戻ります。すぐに攻撃体制を整えますが、その時には早くも秀吉の山崎での勝利が伝わってきます。

脳力開発は人間学であり行動科学です(199)

山崎の戦いで光秀を破った秀吉は、この後「信長の後継者」としての意識を強くしていたようです。そのための根回しを緻密に行って、清洲会議に臨みます。この辺り、戦略を明確にして戦術を組み立てる、まさに脳力開発の目指すところです。

 
 清洲会議を主宰したのは柴田勝家ですが、勝家は対光秀戦でもはるかに遅れをとり、また会議に向けても信孝を後継者にという目標は持ちますが、根回しを行った形跡は余り見られません。目前の対抗馬・信雄に対してすらやっていません。

 
 秀吉は信長の嫡孫・三法師を担ぎ出し、山崎にも参加した宿老の丹羽長秀の賛同を得、池田恒興(信長の乳兄弟)を領土という餌で味方につけ(たらしい)、そして3才の三法師にもおもちゃやお菓子でてなずけていきます。これまた会議前に趨勢は決していました。Photo

 
 清洲(清須とも)会議は、信長の後継については、まさに秀吉の事前根回しでの圧勝に終わるわけです。勝家は辛うじて、自分が推していた信孝を三法師の後見とすることで、一矢を報います。また、会議の後「お市の方」を妻として挽回を図ります。

 
 また、秀吉の領地であった長浜・北近江を自領に加えますが、この地の戦略性を余り重視しなかったようです。ここには甥の柴田勝豊を守将として入れますが、勝豊は勝家が重用する佐久間盛政とは微妙な対立関係にありました。

 
 長浜は畿内への入口で、琵琶湖を経て京都に向かう拠点になります。冬場は雪に覆われる越前は大軍を動かせませんが、長浜は雪も少なく、しかも信孝の居城・岐阜や安土にも近いのです。むしろ盛政を入れるか、勝家自身がせめて冬場だけでも入るべきだったでしょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(198)

秀吉軍は約2万数千人と言われ、6日の昼前後から一昼夜かけて居城の姫路に、全軍が帰還します。速く走るために武具などは打ち捨てて行ったとも。それにしても、6070kmからの狭い街道を、本軍が一気に駆け抜けたというのは空前絶後でしょう。

 
 途中の飲み水やおむすびの手配は、黒田官兵衛の指示であったとも言いますが、走りながら食べ飲みしたものと思います。秀吉自身は騎馬ですが、途中で居眠りして落馬することがあったとか、一部途中は船を使って沿岸海路を移動したようです。

 
 7日中には全軍が姫路城に到着、城内の金銀、米穀や武具などを全て分け与え、早くも9日には出陣して明石、兵庫、尼崎、摂津富田を経て、13日には山崎の合戦場に光秀に先んじて陣を張ります。この時には織田信孝らも合流、4万の大軍になっていました。

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 秀吉と光秀が激突した山崎の戦いは、「天下分け目の天王山」とも言われていますが、天王山の争奪戦は全体の趨勢にはほとんど影響はありませんでした。現在の天王山には碑が残り、そこからは淀川河原に広がる合戦場を見渡すことができます。

 
 戦いの勝敗は、本能寺からたった11日目の613日に秀吉が、3万数千の大軍を山崎に展開したところでついていたと言っても、過言ではありません。対する光秀軍は1万数千、数も勢いも秀吉側がはるかに勝っていたわけです。

 
 全軍を山崎に集結できた秀吉に対し、居城の坂本城や洛中、安土城に兵を割かねばならなかった光秀との違いもあります。何よりも繰り返しになりますが、前代未聞の速さで大返しを行った、その知恵と行動に脱帽というところでしょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(197)

光秀の天下が11日で潰えたのは、光秀が無能であったからでは決してありません。むしろ有能すぎたが故に、必要な手を完璧に網羅しようとし、時間をかけてしまったのです。いや、通常ならそれでも佳かったのですが、相手が常人ではなかったのです。

 
 そう、秀吉が中国・備中高松の陣から、決戦の場となった山崎まで戻ってくるのが余りに早すぎたのです。常識では考えられない迅速さがどうして実現できたのか、アドバイザーたる黒田官兵衛のサポートも含めて見ていくことにしましょう。Photo_2

 
 62日未明の本能寺の変、その報せは翌日深夜、秀吉の元にもたらされます。一節には光秀が毛利氏にむけて送った密使を捕縛したといい、いずれにしても水も漏らさぬ包囲網に情報が引っかかってきたということは確かなことのようです。

 
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信長斃れる」の報せに秀吉は驚愕し卒倒したようですが、傍にいた黒田官兵衛は主君信長の仇を討つよう、強く励ましたと言われています。官兵衛の頭の中には、すでに「大返し」の筋書きができていたのかも知れません。しかし実行するのは秀吉です。

 
 正気に返った秀吉は官兵衛に毛利との早急な講和を指示、すでに毛利方の安国寺恵瓊と根回しを進めていたこともあり、条件を緩和(割譲領土の減)して講和に成功します。備中高松城主・清水宗治は、水上に船を浮かべて切腹しますが、これが64日です。

 
 翌5日、秀吉軍は撤退の準備を始めます。慌ただしく撤退しては怪しまれるということで、逸る心を抑えて準備を整え、近くの別の城(沼城)に移ります。6日に毛利側に面した水攻めの堰(土手)を切って水を流し、一気に姫路城を目指すのです。その行程約70km

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