脳力開発は人間学であり行動科学です(199)

山崎の戦いで光秀を破った秀吉は、この後「信長の後継者」としての意識を強くしていたようです。そのための根回しを緻密に行って、清洲会議に臨みます。この辺り、戦略を明確にして戦術を組み立てる、まさに脳力開発の目指すところです。

 
 清洲会議を主宰したのは柴田勝家ですが、勝家は対光秀戦でもはるかに遅れをとり、また会議に向けても信孝を後継者にという目標は持ちますが、根回しを行った形跡は余り見られません。目前の対抗馬・信雄に対してすらやっていません。

 
 秀吉は信長の嫡孫・三法師を担ぎ出し、山崎にも参加した宿老の丹羽長秀の賛同を得、池田恒興(信長の乳兄弟)を領土という餌で味方につけ(たらしい)、そして3才の三法師にもおもちゃやお菓子でてなずけていきます。これまた会議前に趨勢は決していました。Photo

 
 清洲(清須とも)会議は、信長の後継については、まさに秀吉の事前根回しでの圧勝に終わるわけです。勝家は辛うじて、自分が推していた信孝を三法師の後見とすることで、一矢を報います。また、会議の後「お市の方」を妻として挽回を図ります。

 
 また、秀吉の領地であった長浜・北近江を自領に加えますが、この地の戦略性を余り重視しなかったようです。ここには甥の柴田勝豊を守将として入れますが、勝豊は勝家が重用する佐久間盛政とは微妙な対立関係にありました。

 
 長浜は畿内への入口で、琵琶湖を経て京都に向かう拠点になります。冬場は雪に覆われる越前は大軍を動かせませんが、長浜は雪も少なく、しかも信孝の居城・岐阜や安土にも近いのです。むしろ盛政を入れるか、勝家自身がせめて冬場だけでも入るべきだったでしょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(198)

秀吉軍は約2万数千人と言われ、6日の昼前後から一昼夜かけて居城の姫路に、全軍が帰還します。速く走るために武具などは打ち捨てて行ったとも。それにしても、6070kmからの狭い街道を、本軍が一気に駆け抜けたというのは空前絶後でしょう。

 
 途中の飲み水やおむすびの手配は、黒田官兵衛の指示であったとも言いますが、走りながら食べ飲みしたものと思います。秀吉自身は騎馬ですが、途中で居眠りして落馬することがあったとか、一部途中は船を使って沿岸海路を移動したようです。

 
 7日中には全軍が姫路城に到着、城内の金銀、米穀や武具などを全て分け与え、早くも9日には出陣して明石、兵庫、尼崎、摂津富田を経て、13日には山崎の合戦場に光秀に先んじて陣を張ります。この時には織田信孝らも合流、4万の大軍になっていました。

 Photo
 秀吉と光秀が激突した山崎の戦いは、「天下分け目の天王山」とも言われていますが、天王山の争奪戦は全体の趨勢にはほとんど影響はありませんでした。現在の天王山には碑が残り、そこからは淀川河原に広がる合戦場を見渡すことができます。

 
 戦いの勝敗は、本能寺からたった11日目の613日に秀吉が、3万数千の大軍を山崎に展開したところでついていたと言っても、過言ではありません。対する光秀軍は1万数千、数も勢いも秀吉側がはるかに勝っていたわけです。

 
 全軍を山崎に集結できた秀吉に対し、居城の坂本城や洛中、安土城に兵を割かねばならなかった光秀との違いもあります。何よりも繰り返しになりますが、前代未聞の速さで大返しを行った、その知恵と行動に脱帽というところでしょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(197)

光秀の天下が11日で潰えたのは、光秀が無能であったからでは決してありません。むしろ有能すぎたが故に、必要な手を完璧に網羅しようとし、時間をかけてしまったのです。いや、通常ならそれでも佳かったのですが、相手が常人ではなかったのです。

 
 そう、秀吉が中国・備中高松の陣から、決戦の場となった山崎まで戻ってくるのが余りに早すぎたのです。常識では考えられない迅速さがどうして実現できたのか、アドバイザーたる黒田官兵衛のサポートも含めて見ていくことにしましょう。Photo_2

 
 62日未明の本能寺の変、その報せは翌日深夜、秀吉の元にもたらされます。一節には光秀が毛利氏にむけて送った密使を捕縛したといい、いずれにしても水も漏らさぬ包囲網に情報が引っかかってきたということは確かなことのようです。

 
 「
信長斃れる」の報せに秀吉は驚愕し卒倒したようですが、傍にいた黒田官兵衛は主君信長の仇を討つよう、強く励ましたと言われています。官兵衛の頭の中には、すでに「大返し」の筋書きができていたのかも知れません。しかし実行するのは秀吉です。

 
 正気に返った秀吉は官兵衛に毛利との早急な講和を指示、すでに毛利方の安国寺恵瓊と根回しを進めていたこともあり、条件を緩和(割譲領土の減)して講和に成功します。備中高松城主・清水宗治は、水上に船を浮かべて切腹しますが、これが64日です。

 
 翌5日、秀吉軍は撤退の準備を始めます。慌ただしく撤退しては怪しまれるということで、逸る心を抑えて準備を整え、近くの別の城(沼城)に移ります。6日に毛利側に面した水攻めの堰(土手)を切って水を流し、一気に姫路城を目指すのです。その行程約70km

脳力開発は人間学であり行動科学です(196)

安土にいた信長は、まず露払いに明智光秀に出陣を命じ、自身も少ない供回りを率いて京都に入り、本能寺に宿舎をとります。跡継ぎである信忠も岐阜から京都に入ります。そして62日未明、その時がやってくるのです(本能寺の変)。

 
 なぜ光秀が謀反を起こしたのかには諸説があり、これだという決定的なものはまだありません。脳力開発的に言うと、こればかりは本人に聞くしかないとなります。推測は自由なので、私は「咄嗟の思いつき」説を支持したいと思います。Photo_3

 
 居城である亀山城(京都府亀岡市)を出た12千の明智軍は、老坂峠を越えて西国街道に向かうべきところを、京に向かい桂川を越えて洛中に突入、本能寺を水も漏らさぬ体制で包囲します。信長を守るのは近習と小姓ら2百名余、あとは女ばかりです。

 
 目覚めた信長は、傍に使える森蘭丸に光秀の謀反だと聞かされると「是非に及ばず」と答え、しばらく弓と槍で戦った後、奥の部屋に移り炎の中で自刃します。享年49才、自身が好んだといわれる謡曲「敦盛」の一節、「人生五十年」にあと僅かでした。

 
 二条城に立て籠もった長男・信忠軍も全滅してしまいます。ついでにいえば、この二条城を攻めた明智軍は本能寺を攻めた軍から、先が見えた段階でようやく送られたものです。つまり最初から二手には分けなかった、これが「咄嗟の思いつき」の根拠です。

 
 ここから光秀の「三日天下」(実際には11日間)が始まります。次々に天下人としての地固めをする手を打ちますが、その多くが実りませんでした。味方として期待した細川(幽斎)や、畿内の武将たち、とくに筒井順慶の日和見が響いたようです。

脳力開発は人間学であり行動科学です(195)

朝倉攻めからの退却戦で、がぜん頭角を現したのが秀吉です。当時はまだ木下藤吉郎時代で、美濃攻め、とくに墨俣攻防戦で功があったとされているものの、まだ当時は「足軽大将」くらいの地位でしかありませんし、周囲からはま武功を認められていない頃です。

 
 退却戦で重要な役割は殿(しんがり)軍です。戦っては引き、追跡軍を待ち構えてまた戦って時間を稼ぎ、さらに退くことを繰り返す、命がけの役割です。生還率は極めて低く、実際に秀吉軍が京都に着いた時には約半数を失っていました(金ヶ崎の退き口)。

 
 しかし、これによって信長には大いに認められ、また古くからの武将たちにも一定の評価Photo を得ることに成功します。以降も秀吉は信長に従い、徐々に頭角を現していきますが、大きな転機となったのは本能寺の変、それにつながる「中国大返し」でした。

 
 信長軍は今でいう「方面軍」編成に近かったようです。北陸方面は柴田勝家、関東方面は滝川一益、丹波丹後方面は明智光秀、四国方面は丹羽長秀、そして中国方面が羽柴秀吉です。中国方面の相手は毛利軍(当主は輝元)、そしてそれを支える吉川・小早川の両川軍です。

 
 ちょっと脱線ですが、羽柴という苗字は「柴田勝家」と「丹羽長秀」の苗字からいただき組み合わせた、それだけ秀吉は先輩に気を遣ったというのが定説ですが、それは眉唾でしょう。序列からいうと柴田が上ですから、「柴羽」になるのが本来の礼儀のはずです。

 
 その話は別として、秀吉は毛利攻め最前線の備中高松城包囲戦に臨んでいました。攻めあぐねた中で、黒田官兵衛が思いついたといわれる「水攻め」により、有利な戦況でした。そこで信長の出馬を願い、最後の仕上げにとりかかるところでした。

脳力開発は人間学であり行動科学です(194)

信長の桶狭間の戦いを奇襲戦だと書いた本が、以前は主流だったようですが、事実と思われる資料・史料あるいは現場観察から言いますと、そうではないという結論になるようです。もっとも、計算され尽くした戦いとまでは言いませんが。

 
 強いて言えば遭遇戦だと思うのですが、勢いは明らかに信長の方にありました。その勢いそのままに、信長はこの戦いのあと尾張一国をまとめ上げることに成功していきます。また、桶狭間以降の信長の戦いは、徐々に相手を上回る物量戦に変わっていきます。

 
 また、情報を駆使して戦に勝ったというように書いた本もあるようですし、私もそのことをセミナーでお話ししていた時期もあります。しかし最近の研究では、どうもそういう事実はほとんど見当たらないようです。やはり事実に基づく分析は欠かせません。

 
 尾張を統一してからの信長は、じっくりと腰を据えた戦いを続けます。美濃の斎藤氏を滅ぼし併合するのには、何と7年余りを費やしていますし、朝倉、浅井を滅ぼすのにもかなりの年月をかけています。石山本願寺攻防戦も5年の長きに亘っています。Photo_2

 
 つまり短気で気ぜわしく、戦いも電撃的だという評価が信長にはつきまといますが、事実を見ると決してそうではないということになります。評価というのは一面だけを見て下すべきではない、ということですし、やはり事実をしっかり見つめることが大切です。

 
 さて信長の戦いはいくつもありますが、常に勝ち戦ではありませんでした。それどころか、桶狭間以降でも厳しい戦いがありました。その代表例は、朝倉攻めの際に浅井長政に後ろを攻められ、命からがら死地を脱して京都に逃げ帰ったことでしょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(193)

現地に行ってみると色々なことが分かります。これは、脳力開発の提唱者である城野宏先生も、情勢判断学会というグループの行事として、各地に出向かれていました。もちろん、桶狭間にも実際に行かれて確かめられたことは、言うまでもありません。

 Photo
 同様に、当時の信長が居城としていた清洲に行きますと、なぜ信長が10倍の大軍を前にして、自ら果敢に攻め込んでいったかという理由も分かります。現在の清洲城(モニュメント)は、かつての位置とは違いますが、それでも平野のど真ん中だと分かります。

 
 小説や軍記物では、重臣たちが籠城を主張したとありますが、「信長公記」にはその記述はありません。もっとも、平地の孤城を10倍の大軍で取り囲まれたら、よほどの援軍が来ない限り3日と保たないでしょう。そのことを知らない重臣ではなかったはずで、もちろん信長もです。

 
 さて今川軍は
3万の大軍と書きましたが、すでに大高城に松平元康(後の家康)軍が、鳴海城に岡部元信軍がそれぞれ23千人で進出し、信長方の前線砦のいくつかにも1千人単位の攻城軍が囲んでいました。そうすると本軍は2万そこそこだったと思われます。

 
 しかも今川軍は遠方(駿府)よりやってきていますから、本軍の
4割くらいは輜重兵(小荷駄隊)で実戦は戦いません。つまり本軍の実数は1万人余ではなかったかと計算されます。しかも、細い街道筋を行軍していますから、長く伸びていたことでしょう。

 
 これに対し信長軍は
3千人に満たなくても全てが戦闘員であり、これが長く伸びた敵軍の本陣目がけて一気に攻め込んだわけです。もしそれを、信長が計算していたとすれば、見事な合理性・科学性だったといえるのではないでしょうか。

脳力開発は人間学であり行動科学です(192)

織田信長と聞くと、まず思い浮かべるのは「桶狭間の戦い」でしょうか。三河・尾張国境に攻め上がってきた、約3万の今川義元率いる駿遠三軍を、1/10の兵力で打ち破ったと言われる戦いです。

 
 生前の城野先生も、セミナー・講演でこの戦いを語られることが多かったようです。大河ドラマを始め、多くのテレビドラマでも桶狭間のシーンは何度も取り上げられています。その多くは、織田軍は折からの雨に紛れて迂回路を進軍し、行軍を休んで谷間にくつろいでいる今川軍を、坂落としのように攻め込んで打ち破ったというもの。
Photo_2
 
 これはかつて日本陸軍が編纂した合戦分析資料に書かれていたのですが、事実はどうだったでしょう。脳力開発(情勢判断学)では、常に事実を見つめて判断することを求めます。そこで、私もかつて桶狭間の地に実際に足を運んでこの目で確かめてみました。

 
 桶狭間(あるいは田楽狭間)と聞くと、険しい谷間の地形を連想しますが、実際に行ってみるとそこはなだらかな丘陵地(現在は住宅地)です。しかも今川軍はその低地にではなく、丘陵の上方斜面に本陣を構えていたようです。つまり坂落としはありえません。

 
 つまり、信長軍は丘陵地の下の方から攻め上がってきたということになります。しかも、桶狭間まで隠れて迂回してきたのではなく、当時の主要道(鎌倉街道)をほぼ真っ直ぐに行軍してきたようです。その行軍はきっと今川軍からも見えていたはずです。

 
 梅雨時で雨が降ってはいましたが、行軍を隠すほどの大雨(ゲリラ雨)とは思えません。第一そんなに降っていたのでは、街道はぬかるみか、あるいは川になってしまうでしょう。これらのことは信長の側近だった太田牛一による、「信長公記」にちゃんと書かれています。

脳力開発は人間学であり行動科学です(191)

歴史上の人物を取り上げる講話を、私は「歴史に学ぶ人間学」と名付けています。それは、英傑たちも私たちと同じ人間で、同じ脳力をもっていたからであり、彼らがその時の環境条件に対応してどう動いたかが、とっても参考になるからです。

 
 確かに彼らの時代にはコンピュータやネットはありませんでしたが、それに代わるもので情報を手に入れていたでしょうし、相手に対する仕掛け、例えば謀略などは今の時代にも通じるところがあるかも知れません。

 
 そんなわけで、彼らがその時どう考え動いたかを学ぶと、類似条件の中で私たちはどう行動するかという示唆が得られます。ではこれから、少しのページを借りて何人かの英傑について述べていくことにしましょう。ケーススタディとしてお読み下さい。

 
 「
歴史に学ぶ人間学」では、前に書きましたように著名な英傑を取り上げます。それは『大多数の方(セミナー参加者)が知っている』からです。無名でも素晴らしい方はたくさんいらっしゃいますが、やはり身近に感じていただきたいから。

 
 さて、戦国時代の三英傑は最も頻繁に取り上げますが、参加者によって好き嫌いもあるようです。職業で違いはありますが、若い人や女性には信長が大人気、まんべんなく人気があるのは秀吉、そして経営者層には家康が評価される傾向があります。

 
 そこでまず信長です。信長というとかなり評価が分かれて、英雄あるいは先駆者視されることもあれば、暴君で血も涙もない激しい性格だと見ている人も少なくありません。49年の短い生涯を、一気に駆け抜けたという印象が強いようです。
Photo_2

脳力開発は人間学であり行動科学です(190)

 20156月より、東京と神戸で『未来に舵切る脳力開発講座』を開講し、それぞれの会場で10数名の方に脳力開発の基礎を学んでいただきました。実はそこで使った教材は、今から30年余前に開催されていた脳力開発講座でも使われていたものです。

 
 それから時代は流れ、世の中の状況も大きく変わってきています。しかし人間本来の思考や行動は、環境条件への対応を除けば変化がないとも言えます。なぜなら、脳力そのものには東西古今変わりがないからです。
Photo
 
 人間の大脳(皮質)細胞は150億個、脳細胞同士がつながって微電流が流れる速さは秒速50m。この事実はホモサピエンス誕生の時から、不変なのですから。たかだか30年ではもちろん、本質的なものは変わらないから、新鮮な気持ちで学びに向かえるのです。

 
 
さて、脳力開発の講座ではケーススタディを使った演習や、歴史に学ぶ人間学という講話を通じて、実際行動から学んでいただくプログラムもあります。後者で取り上げるのは歴史の中の英傑と呼ばれる人たちですが、天性の脳力は私たちと同じです。

 
 現代の私たちと違うのは、彼らの生きた時代の環境条件だけです。その条件も、もしかしたら私たちが出会うかも知れない条件と似通っているかも知れません。その時自分だったらどう動くか、歴史にイフはありませんが、自分にイフは必要でしょう。

 
 私が講座で取り上げる英傑は、時代が大きく変わる、いわゆる変革期に活動した人物を多く取り上げます。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛、坂本龍馬、あるいは河井継之助、時には諸葛孔明や劉邦など中国の英傑も取り上げています。

より以前の記事一覧