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2020年11月27日 (金)

『私とMGと経営』こぼれ話(36)

1990年1月の下旬、社長より販社出向の内示がありました。


すでに予告を受けていましたので、あとはどこに行くことになるのかということだけでしたが、


新潟・長岡市の販社((株)トンボ繊維=現在は新潟トンボ(株))と聞いて、少し驚くと共に因縁を感じました。
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それというのも新潟は妻が生まれ育ったところで、地域は違いましたが長岡にも少なからず縁がありました。


販社の経営内容については、経営管理室という仕事がら一応の知識は持っていました。


決算書はもちろん、毎月送られてくる試算表にも目を通して、常務会に提出する資料作りも部下に指示していました。


数年前から赤字を計上し、「財務上の膿」を出すために「出血手術」を行ったこと、


それによって創業社長等が退陣されて、当時の現社長が販社社長を兼任し、本社からの出向が始まったこと。


その方(販社専務)が財務の立て直しを2年半くらい行なわれて、親会社からの支援も行われていたこと。


支援の内容も、毎年交わされる「契約書」(経営管理室で作成)によって概要は確認していました。


しかし、当時の私はまだ表面に現れていることだけしか知らず、とくに損益計算書(PL)の数字に目を奪われていました。


実質経営者の派遣出向による再建、確かに単年度利益が出ていて成功途上にあることをうかがわせる内容でした。


販社会議における専務の報告でも、うまくいっている旨が語られ、私もそれを信じて疑いませんでした。


無知ということは怖いものですね。


知らないことが多すぎましたし、すでに出ている資料の中からも実は読み取ることができたのです。


しかし、当時の私はまだPLだけに目を奪われていて、数字が語っている事実には気付かなかったのです。


ましてや、そういう一連の事態がいつからどのようにして起こって今に至るのかということなどは、


おぼろげなことは聞いていましたが、殆ど理解していないに等しかったのです。


それを知るだけの時間もないままに、現地での住まい探しや仕事の引継などに追われるばかりでした。

2020年11月17日 (火)

『私とMGと経営』こぼれ話(35)

1990年(平成2年)の新年は、一般参賀の儀が中止された年の幕開けとなりました。


因みに来年2021年も中止が検討されているということで、31年ぶりの中止になるやも知れません。


前回は昭和天皇崩御から1年崩御から1年ということでしたが、今回は新型コロナウイルス感染(再拡大)の影響です。


さて、その90年が訪れる前年の暮れに、実は当時の社長から「まだ決まっていないが」という話をいただきました。

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それは、本社勤務(企画部門=開発部そして経営管理室)も14年とかなり永くなったので、そろそろ転出もどうかという打診でした。


現業部門(営業部あるいは生産部)にでしょうかとの問いかけには、外に出てもらうかも知れないとの返答。


その時には、支店・営業所(東京か福岡)あたりかとも思ったのですが、


選択肢としては直営系の販売会社(北海道か大阪)あたりも可能性があることを感じていました。


本社の外に出る場合の慣例として2月には内示があるはずでしたので、それまでは「まな板の鯉」でした。


新年はまず東京・木原商店さんでMG、その後すぐに高松・瀬戸塾の新年MGに参加して幕が開きました。


さらに1月中旬に名古屋に遠征、初めて「愛環塾MG」に参加しました。


愛環塾の3人(岡田さん、水野さん、加藤さん)とは88年頃からご縁がありましたが、主催MGへの参加は初めてでした。


その後の頻繁なMG交流につながるきっかけになったのがこのMGでした。


また、西先生からルール説明を始めとして度々「指名」を受けるきっかけとなったMGでもありました。


そうこうしている内に、2月を待たずして「出向の内示」を受けました。


支店・営業所か直営の販社という読みは外れ、意外な出向先が内示されました。


それが新潟県長岡市に所在するトンボ繊維、実質子会社ではありましたが予想していなかった販社名でした。


これが私の人生を大きく変えていくことになろうとは、その時には全く予想もしていませんでした。

2020年11月10日 (火)

『私とMGと経営』こぼれ話(34)

親会社時代の1989年秋、社内MGの帰り道、駅までの短い時間の間に「不良在庫」の話が盛り上がりました。


切り出したのは三福水産(当時)社長だった河村公樹さん(故人)、西先生もすぐに応じられた。


会社盤の上に大量に在庫を積むのは良いのだろうか、という問題提起から始まりました。


駅までの間では十分な話のにつまりまではいかず、「宿題」とすることになりました。


私自身も親会社や販売会社の在庫問題では頭を悩ましていましたので、考える仲間に加えていただきました。
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それから何度か河村さんからは直接電話をいただきました。


当時のことですから携帯ではありません、出張中は連絡をもらって公衆電話から100円玉を積み上げておいて電話したことも。


こんなことを考えたのだがどうだろうかという内容でしたが、当然ながら西先生にもお電話をされていたようです。


ならばやってみようかということで、最初は確か「会社盤の上に●●個以上ある時」だったと記憶しています。


はみ出した数は全て不良在庫ということになるのですが、案の定不満を漏らす声が出てきました。


そこから色々と試行錯誤をした中で、半年後くらいになって現在のリスクカードができましたが、これは後日談。


リスクカードを引いた際に、会社盤の上に20個を超える製品・仕掛品・材料があれば、


超えたものが「不良在庫」となってストッカーに戻し、保険金(現在は1個10円)を受け取る。


河村さんと話し合っていたこの時には、ゲーム上の不良在庫としか意識がありませんでしたが、


実際の会社経営において不良在庫の酷さに直面しようとは、その時には予測もしていませんでした。


そしてそんな中で、いよいよ運命の1990年を迎えました。

2020年11月 7日 (土)

社名に残る鉄道線の残影

かつて戦中戦後の新潟県には、いくつかの私営鉄道がありました。


新潟電鉄(→新潟交通)、長岡鉄道・栃尾鉄道(→越後交通)、頸城鉄道、そして蒲原鉄道。


現在でも鉄道社名がそのまま残っているのが蒲原鉄道です。


なお現在は、3セク鉄道として北越急行(ほくほく線)と、えちごトキめき鉄道があります。

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1999年に最後に残った区間(村松-五泉)が廃線になった蒲原鉄道、最初の開業は1930年(昭和5年)でした。


最盛期には信越本線の加茂駅から、地域の中心・村松駅を経て、磐越西線の五泉駅まで約22kmの路線でした。


村松は3万石の城下町で、陸軍歩兵30連隊が駐屯する軍都でもありました。


途中の山中にはスキー場などもあって季節的な需要はあり、貨物列車も設定されていましたが、


沿線人口が希薄な加茂駅ー村松駅間は1985年に廃止され、僅か4km余の短区間だけが残りました。
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最後に残った区間はそれなりに需要もありましたが、朝の通勤時を除くと1両だけのワンマン運転でした。


磐越西線の列車に接続して、新津や新潟に通勤・通学する人も少なくありませんでしたが、


村松からは新潟市内の中心部への直通高速バスも走り、乗換が必要なローカル鉄道では太刀打ちできなくなっていました。


さて廃止の直前に最後の乗り鉄に出かけましたが、五泉駅を出ると右に大きくカーブした後は、


村松駅までほぼ一直線に、道路と田んぼの間をのんびりと左右に車体を揺らしながら進んでいきました。


村松駅は車庫もあり、すでに廃車されたものも含めてたくさんの車両が並び、すぐ近くでの撮影もOKでした。


現在も駅跡などは残っていますし、また幸いなことに多くの車両が各地に保存されているのは嬉しい限りです。


落ち着いたら今一度、それらを訪ねてみようと思っています。

2020年11月 4日 (水)

B/Sが読めますか(9)

いよいよBS左側の資産、上段にある流動在庫の中でもなかなか「厄介な」在庫(棚卸資産)についてのお話です。


棚卸資産の中身は、商品・製品、半製品、仕掛品、材料・原材料、貯蔵品といったものです。


商品とは、販売業でそのまま販売できるもの(仕入れたもの)です。


製品とは、製造業で自社製造して出来上がっもの、つまり売れる状態のものです。


半製品は完成するちょっと前の製品ですが、そのままでも販売可能なものを指し、科目上は製品に含めます


似たようなものが仕掛品ですが、こちらは製造途中のもので製品になる手前のもので、工場内にあります。


材料・原材料とは、製造するために仕入れた(調達した)原料あるいは材料のことです。


貯蔵品とは、事務用消耗品や消耗工具、燃料などでまだ使っていないもの、販促品や包装資材など、


あるいは切手や印紙で、今後使う予定で残っているものも貯蔵品に含めます。


これらは棚卸によって金額(評価額)を確定します。


棚卸には、帳簿上(最近はコンピュータ上)の棚卸と実地棚卸とがあります。


実際にあるものを数える実地棚卸(実棚)が、正しい決算するためには絶対に必要となります。

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業種業態にもよりますが、商品の回転が早いところでは少なくとも毎日か毎週棚卸を行うことが望ましいでしょう。


かつての私の会社は季節変動が大きく、商品回転も平均で4回転くらいでしたから、半期に1回の実地棚卸でした。


月次決算(月次残高試算表)については、コンピュータ管理の在庫数値でやっていました。


誤差は承知ですが、実地棚卸には時間がかかり(当社では1日半~2日)ますから、やむを得ないところでした。


ですから、実地棚卸をするとどうしても誤差(差異)が発生しますので、


差異のある商品については棚卸をやり直したり、最終的には現物主義で「洗い替え」をしていました。


棚卸資産だけでなく、資産の残高数値を正確に把握しないと決算自体が正しいものになりません。


つまり利益そのものが信頼できる数字にならないことになっては、経営が成り立ちませんから、


とくに期末の残高合わせ、実地棚卸は慎重の上にも慎重に行うことが大切です。

2020年11月 3日 (火)

『私とMGと経営』こぼれ話(33)

親会社時代の秋、西先生をお迎えしての社内MGは1989年11月22-23日に開催しました。


会社のMGによる学びを導入されたY専務の後押しで実現しました、会場は市内の岡山青年館。


しかも私のたっての希望も通り、ゲストとして下関の三福水産(当時)、河村社長をお招きすることができました。


初日3期と夕食が終了したあとに、1時間ばかりの講義をお願いしました。


実際に会社で使われていた、マイツールによるマトリックス会計表をそのままズバリ見せていただきました。


月次決算だけでなく、日々の決算や週次決算にも使われているということで、私にはとてつもない驚きでした。


ただ、親会社の社員(幹部クラス)にはレベルが高すぎた話だったように感じました。


MG、STRAC(戦略会計)を会社の中に落とし込んでしっかり使われていることだけは、参加者にも伝わったようでした。


また、9×9の大きなマンダラによる経営計画についてもお話しいただき、


これなどはやがて販社に出向した時に、私なりに応用する形で使わせていただきました。


もちろん、この時には自分自身が販社に出向することなど、微塵にも考えていませんでしたが。


河村社長の「迫力ある」MGも、参加者の皆さんの度肝を抜いたようでした。
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なにしろ青チップをガンガン積み増ししながら、ひたすら20円のプライスカードで突き進まれるのですから。


なお、この時には西先生にフルインストをお願いしたのですが、ルール説明など一部私に振っていただきました。


開発者のそばでインスト代行をやることなど、足が震え、口の中がカラカラになったことを覚えています。


もう一つ大きな出来事がありました。


それは西先生と河村社長、そして私の3人が会場や移動する車の中で話し合ったことで、


これが後に『不良在庫ルール』として、形になることになるのでした。


「冷蔵のタコも不良在庫化するんだよ」とおっしゃった、河村さんのドスのきいた声が脳裏に刻まれています。

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