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新規・企業制服事業を立ち上げました

■連載『MG&脳開企業革命』(47)

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今日がついに「平成」最後の日です。この連載コラムの舞台は、平成時代の前半のおよそ1/2ということになります(平成2年~平成18年)。

ここまで最初の数年間、再建(改革)5カ年計画の話を進めてきました。計画のスタートが平成2年の7月1日、ひとまずの締めくくりが平成7年の6月30日です。

丸3年で累積赤字を解消し、懸案の一つであった不良貸付金の清算も終えることができました。PQ(売上)は当初より1.3倍を超え、それ以上にMQ(粗利益)は1.6倍を超えました。

4年目からは復配(僅か5%ですが翌年には10%に)を実施し、主立った社員にも自社株をもってもらうようにしました。私も、社員と共に親会社の名義株を取得してこの会社に身を捧げる気持ちを表しました。

と書いてきますと、すべてが何だか順調に進んでいったように思われるかも知れませんが、実際には失敗したこともいくつかありますし、社員との間で意見のすれ違いも何度かありました。

最初の内は、MG研修やマイツール(MT)導入への抵抗があったことは、これまでにも書いたとおりです。幸い3年が経過した頃には、これらに対する反対は殆どなくなりました。成果によって、理解が進んだのでした。

ところで少子高齢化が叫ばれてもう久しいですが、第2次ベビーブーム(1971~74年)世代が中学生になった80年代中盤を過ぎると、学校制服業界でも将来を懸念する声が上がり始めていました。

彼らが高校に入る頃まではそれでも、バブル経済とも相まって業界にも活気がありましたが、バブルがはじけると一気に問題が浮き彫りになってきました。早めから手を打てなかった同業での倒産、廃業が始まりました。

私たちの企業グループは業界トップの数社の中に入っていましたが、将来を予測すればだんだんと尻すぼみになってくることは明らかです。競合が激しくなり、価格競争になってはトップたりとも安心はできません。

ましてや、市場規模の大きくない地方問屋の当社にとっては死活問題です。そこで、再建5カ年計画には新規事業への進出をすることを盛り込んでいました。
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急がねばなりませんが、新規事業に向ける人材を既存メンバーからは出せません。そこで、中小企業家同友会の共同求人にも参加するなど、大学・短大卒の人材採用を進めましたが、結果は余り芳しくありませんでした。

3年間で4名を採用しましたが、現在まで会社の主力メンバーとしてがんばってくれているのは1名だけです。結局中途採用に頼るしかないという状況を受け容れざるを得ませんでした。

そこで、新規事業は私自身(当時専務)が手がけることにしました。その事業はあくまで「制服屋」というジャンルの中で求めることにし、ビジネスウェア(企業制服)の企業直販に乗り出しました。(写真はイメージです)

スタートは年度途中の92年の年明けから、最初は同じ産業団地に入っている会社や、中小企業家同友会でご縁を得た企業回りを始めました。なかなか成果は出ませんでしたが、それでも数社から注文をいただきました。

夏服で盛り返して初年度は計画のPQ300万円をクリアできましたが、これではとえても経営の柱にはほど遠い数字です。どうしても専任の担当者が必要だと、強く感じました。私一人では1千万円がやっとでしょう。

そんな時に手を上げてくれた女性社員がいたのです。総務・経理担当として中途採用したHさん、「ぜひ営業をやらせてほしい」との言葉に、私の方から飛びつきました。

彼女はMGを始めて数回目でその面白さを感じ、実際の営業活動をしたいと思ったのだそうでした。もちろん、制服の仕事は初めての体験、ユニフォームの素材や縫製の知識も殆ど持っていません。

周囲のメンバーは心配をしたようですが、私はMG研修の時の負けても成績が悪くても明るく元気な様子に、大いに期待することにしました。いざとなればフォローしてあげられる。翌年の目標PQは初年度の10倍、3千万の設定です、無茶苦茶だよなと笑いながら。

人を大切にする経営ー相手中心主義への思い

平成もカウントダウンが始まり、企業の多くも9連休や10連休の前半です。もちろん連休には関係なく仕事をしておられる方もいらっしゃるわけで、感謝しなければいけませんね。


さて、「小さな会社のマネジメント」コラムもお休みといきたいところですが、書きたいことがあるとついついキーボードに向かってしまう「悪いクセ」があるようで、今朝も頭の中を整理しながら書いています。


企業と簡単に書きましたが、いわゆる「会社」と呼ばれるものもたくさんの種類があります。一般的には株式会社とか有限会社、あるいはほかにもナントカ会社と言われるところが並んでいます。


これらは法人組織ですが、法人には他にも社団法人、社会福祉法人、NPO法人などこちらも多数の種類があります。法人と対照されているのが個人で、士業の方や私のような個人事業があり、むしろ法人よりも数は多いのかも知れません。

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つまり一般的な会社組織を作っているところもあれば、そうでないところもあるわけです。私のところで言えば一人会社ではありますが、仲間達との緩いネットワークで仕事をしている部分もあります。


そうでなくても、全く一人では仕事をすることはできないわけで、利害関係を含めて様々なネットワークが取り巻き、支えとなっているわけです。さらには必ず「お客様」という存在があり、お客様のいない会社はありえないでしょう。


私のところのように主としてサービスを提供する事業もあれば、製品を作り販売する事業、商品を仕入れて販売する事業、その他にも無数の種類と組み合わせがあります。また、大きな事業から微少な事業まで量的な規模も千差万別です。


でも究極はどんな事業でも、売り手(提供する側)と買い手との1対1が基本です。あるいは、事業を支えてくれる周囲の人との関係についても突き詰めれば1対1です。


ベースにしていただきたいのは『相手中心主義』で、脳力開発講座やMG(MQ戦略ゲーム)などのセミナーを通じて、毎回必ずお伝えしています。


常に相手の心に沿い、相手の方が私の提供する商品やサービスの価値を感じてくれることを願って仕事を進めるわけです。この基本は、事業の大きい小さいには無関係です。


さらに深掘りしていけば、相手中心ということは「人を大切にする」ということであり、事業を行うリーダーすなわち経営者は、常にこのことを心に刻んでおくことが求められます。


このコラムで最も伝えていきたいテーマがこれであり、経営・マネジメントの各論の中でもこの基本から発信しているということを、知っておいていただければ幸いです。


平成から令和へ、元号が変わり時代が代わっていくのだとしても不変不朽のテーマとして、書き続けていきます。これからもお読みいただけることを願ってやみません。

平成最後のMGセミナーを楽しみます

昨日から、あるいは今日から世の中は大型連休ですね。かつては「日本人は働き過ぎだ」などと言われましたが、実態はどうなのでしょうか。欧米に比べても決してそうではないという統計もあるようです。


ただ、例えば今回のような長い休みを取ることが少なかったことは事実のようです。欧米では数週間、あるいは1ヶ月のホリデーをしっかり休み、あとはまた集中して働くといった生活スタイルが多いとも。


私のような個人事業の経営サポーターは、実はこの大型連休も余り関係はなく、ただクライアント企業も休みなのでサポートや研修の仕事もお休みとなっている、といったところです。

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そんな中で、この土日は長野県の蓼科山麓、佐久市の春日温泉でセミナー(軽井沢MG)に参加しています。一昨日の雨も上がって、当地では桜がちょうど満開、何度目かの花見を楽しんでいます。


今朝は雲もスッキリ晴れて、正面には浅間山がくっきりと見え、後ろには蓼科の山々が少し雪をいただいて控えています。早朝はかなり冷え込んでいましたが、まずは温泉にゆったりと入って気分も一新です。


さてMG研修の方は、今回も「毎期ゼッタイに赤字を出さないこと」を戦略として、まずはその目標通りに進んでいます。今日もこの線で進めていきますが、その結果としての最終成績にこだわるかどうか、難しい意思決定ですね。でも決めなくては。


MGの第4期目は経営計画を立てて臨みますが、いつものように2種類の戦術を組み立てています。どちらを選んで進むのか、ゲームスタート前には決めなければなりません。少なくとも優柔不断にならないようにはしなくては。


平成最後の西研MGセミナー、さてさてどのように進んでいくのでしょうか。

山ちゃんに見守られて

平成最後の土曜日、残すところあと5日足らずで令和の時代に入ります。


今日から10連休あるいは明日から9連休という方も多いのでしょうね。天候がどうもスッキリしない日が多いようですが、早くも移動ラッシュが始まっているのでしょう。



個人事業の私には10連休も、元号の移り変わりにも関係はなく、いつも通りの日々が続きます。さすがにこの間に研修を行う企業もなく、公開セミナーももちろん企画していませんでしたので、のんびりと時代の変わり目を見る予定です。

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ただ、連休最初の土日はすなわち今日明日は、佐久市の春日温泉・もちづき荘で開催される「軽井沢MG」に参加しています。今回で35回目の開催だそうで、年2回春秋の開催ですので18年前に入ったわけです。


スタートの18年前は、文字通り軽井沢の浅間山麓の研修施設での開催だったのですが、諸事情から現在のもちづき荘に移ってきました。最初の頃は20人足らずのセミナーという時期も続きましたが、今では全国各地から仲間達がやってきます。今回も40名の参加とのこと。


主催者は社会保険労務士の芦田さん、かつてはメーカーの人事を担当して企業内でのMG研修もされていました。独立してから軽井沢MGを立ち上げて、そこに山崎進さんが加わったのです。


山崎さん(山ちゃん)はMG大好き、人間が大好き、お酒も大好きという素晴らしき好漢だったのですが、惜しくも10年前に亡くなりました。でも、今でも私の耳には山ちゃんの明るい声が聞こえてきます。


今回のMGでも会場のどこかに居て、私たちを見守ってくれているはずです。「何をやってるんだ、しっかりせい」とニコニコ顔で言っているかも知れません。いつも山ちゃんに励まされ、そして時には夜遅く携帯電話を鳴らすこともありました。


販社から親会社に帰る時にも、そして独立した時にも、いつも山ちゃんがそばに居ました。残念なことに、その直後に亡くなってしまったのですが、ステキな笑顔と声とは忘れることができません。


そんな軽井沢MGが間もなく始まります。

『最高の負債』にありがとう

■連載『MG&脳開企業革命』(46)

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ここで少し時を遡って、親会社時代のことを振り返ってみます。4月途中入社という形で親会社に入社したのは1976年のことでした。

私がボランティアをしていた団体(財団)の理事長が、たまたま当時の社長出会ったというご縁で「拾っていただいた」入社でした。最初の配属は商品開発部宣伝企画室、以来12年間配転もなく過ごしました。

開発部(企画)の仕事内容は、宣伝販促から商品企画、マーケティングまで広がり、時にはグラフィックデザイナーのまねごともやり、コピーライター的な仕事もこなしました。門前の小僧で店舗レイアウトもやりました。

いずれにしても同じ部署から10年以上も動かない(部や課の名称は何度か変わりました)のは、親会社の中では稀な例でした。ただそこに必要というより、他に動かしようがないと思われていたのでしょう。

その間に係長に昇格しましたが、昇格すると組合員を外れると同時に、会社の株を持たされる(社員持ち株会)ことになります。つまり株主になれたわけですので、決算書をもらって株主総会にも出席します。

ところがこの決算書なるものが、さっぱり読めません、理解できません。当時32、3才、これは困ったなということで経営や会計の参考書を買ってきて勉強を始めますが、何度も途中で挫折です。

難しくて手に負えない、どうせこのまま企画の仕事を続けていくのだからあんまり必要もない。そう思ったわけですが、もちろん負け惜しみです。

もしこのままの状態で、販売会社に出向などという事態になっていたとしたら、おそらく「売上を上げろ」「経費は節減だ」というだけの現地責任者で推移したことでしょう。

可もなく不可もなく既定の年数(3~5年間)を勤め上げて親会社に戻り、本流である営業部門か製造部門で一般的な出世コースに乗って、もしかしたら経営ボードの一角を占めたかも知れません。
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あるいは「天下の天邪鬼」を自負していた私は、親会社に戻っていっても本流から離れたところで仕事をしたまま、不満を抱えつつも時代に流されていっていたかも知れません。

その人生の方向を左右してくれたのが1987年9月、MG(MQ戦略ゲーム)、そして翌年1月の西先生との出会いでした。そしてたまたま、MGとの出会いと同じタイミングで開発部から配転(半年間は兼務)になるのです。

新しい職場は経営管理室、社長秘書的な役割を持つ部署でしたが、そこで自社や販社の数字とも向き合うことになりました。MGを学んでいくことと並行していましたので、数字も少しずつ読めるようになりました。

MGに出会ったのが35才、そしてその2年半後の38才で販社に出向することになったのです。2年半で200期に達しましたが、まだまだ未熟、現場を知らないペーパードライバー状態でした。

それがいきなり「修羅場」に直面して、好むと好まざるとにかかわらず「MGを現場実践」することになったわけです。実践というよりは実戦でした。5年の既定期限はアッという間で、気が付いたら16年(半)でした。

普通の安定した会社で会ったら、MGで学んだこともMQ会計の範囲内、せいぜいMQ管理グラフとか利益感度分析などを表面的に活用はしたでしょうし、それなりの結果には繋がったかも知れません。

しかしながら、BSを考えるあるいは重視する経営にまでは至らなかったでしょうし、CF(キャッシュフロー)のことは余り考えなかったでしょう。ましてや、その後の「3S経営」や「人を大切にする経営」などにはねぇ。

その意味で『最高の負債』を抱えてくれていて、ありがとうという思いです。何も無ければ、今こうしてコラムを書いている自分もいなかったことでしょうから。

米坂線2004年5月3日

昨年11月、仙台へ出かける際久しぶりに米坂線に乗車しました。現在は新津運輸区所属のキハ120型が主力で、新潟から分岐駅の坂町までは快速列車ですが、米坂線(坂町ー米沢)に入ると「快速」でも各駅停車です。


この米坂線、鉄道旅行作家としては最も著名な宮脇俊三さんが、「終戦の玉音放送」(1945年8月15日)を聞かれたところ。私が初めて乗り鉄したのは、確か1971年頃であったと記憶しています。


その当時はSL(蒸気機関車)の終焉期で、私も周りの鉄道ファンに混じってSLを追いかけている頃でした。米坂線には坂町機関区に所属していたキューロク(9600型)が、旅客・貨物を牽引していました。多分、米沢から坂町へ抜けたと記憶しています。

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それから数回米坂線には出かけ、キハ58系急行「あさひ」(のち「べにばな」で現在は快速)にも乗車しました。急行廃止後は足が遠のき、仕事で新潟に赴任してからも、なかなか足を向ける機会がないままでした。


ふと行ってみようと思いついたのが2004年の5月3日、「えちごワンデーパス」というフリー切符での乗り鉄旅でした。この切符で、当時住んでいた長岡から新潟経由で坂町に至り(快速「べにばな」)、そのまま米坂線に直通し小国まで行きました。


小国がこの切符で乗れる境界駅で、唯一新潟県の外(山形県)に出られるのです。快速気動車は、キハ47とキハ52の2両編成で、キハ52は新潟でも米坂線と大糸線にだけ残っていて希少価値がありました。


もちろん乗車したのはキハ52(137)、エンジンを2台積んだ勾配用の気動車です。とはいえ、勾配区間にさしかかるとエンジンの音が大きくなるのと反比例して、速度はぐんぐん落ちてしまいます。


米坂線はかつて新潟と仙台を結ぶメインルートに当たり、郡山から磐越西線を経由するよりも距離が短く急行「あさひ」利用者も多かったようです。現在は米沢ー山形間は「山形新幹線」となり、線路は途切れてしまっています。メインは高速バスに代わりました。
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米坂線自体も完全にローカル線になり、貨物列車は遠い昔のことになり、日中は2~3時間おきにしか列車の走らない路線になりました。先日快速に乗車した際も、新潟・山形県境を越えた乗客は2両編成で10数人でした。


15年前は山形県に一駅だけ入った小国で下車、しばらく待ってから坂町行きで引き返しました。小国町は、かつては木材の集散地としても栄えていましたが、今はひっそりとした山間の町になっています。


最近は新型のE120型気動車も走っている米坂線ですが、これからも地域になくてはならない路線として存続していってほしいものです。

勢いあるベンチャーがアブナイ

知り合いのAさんから突然、私の携帯に電話がありました。Aさんはとある団体で一緒に学んでいる仲間で、年は還暦少し前くらいです。小さなお店の社長兼店長をされていて、時おり私もお店に出かけています。

出会ってから一、二度経営についての相談を受けたことがありましたので、どうかしたのかなと思いながら次の言葉を待っていました。ちょっと相談があるので、どこかでお会いできませんかとのこと。

早速行きつけのコーヒーショップを指定して、早めに行って待っていました。時間通りにお店に入ってこられたAさんの顔色は、心なしか疲れた様子に見えました。いつも快活な方ですので、ちょっと心配しました。

「お店のことで何かありましたか?」と尋ねてみると、「いや、私のことではないんですよ」と。Aさんが話し始めたのは、ご子息のことでした。確か、2年くらい前に有名私立大学を出てすぐに、会社を立ち上げられたはずでした。

いわゆるベンチャー起業ということで、私も立ち上げの相談に少しだけ乗りました。Aさんの話をまとめると次のようなことでした。ご子息は友人と二人で、アイディア商品の製品化を試みました。


創業からの1年は試行錯誤が続いたり、販路を見つけることで苦労されたようですが、商品の良さが評価されて受注が増え、製造(OEM)が間に合わないのだそうです。

そんなわけで売上は2年目に一気に急上昇し、付加価値の高い商品ですので粗利益もしっかり確保できているようです。社員も3人採用して、Aさんの息子は社長兼製造発注・仕入の担当だそうです。

資本金は500万円ですが、それだけではもちろん足りませんので、ベンチャー支援の補助金や給付金、創業支援などの名目による銀行借入(協会保証付き)で回してきているそうです。

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それが2年過ぎて3年目(3期目)に入って、経営が厳しくなってきたというのです。売上の見込みは3年目もさらに伸びることが確実で、広げて見せていただいた計画書によると年間売上予定は前年比130%です。

前年も経常利益を確保して、初年度の赤字早くも消すこともできたとのこと。当面の受注残も抱えていますので、順調すぎるくらいなのだがということです。

それなのに、ご子息が借金を依頼してきたというのです。もちろんそれほど多額ではありませんので、即座に応じることにしましたが、何だか心配だと言います。ちなみに資本金の内、100万円を個人で出資しているのだとか。

色んな話を聞いていて、私にはピンとくるものがありました。「経理は誰がやられているんですか?」と尋ねましたら、専門担当はいなくて殆ど税理士さんに丸投げしているとのことでした。

日々の経理処理は社内でやらず、半月ごとに伝票や領収書などをまとめて税理士事務所の担当に渡しているとのことでした。給与計算などもお任せで、支払明細や納付書が届いて対応しているそうでした。

「では、資金繰り計画表などもないですね」と聞きましたら、「私のところでも月次分しかありません。あいつのところにはそれもないようです」と。「集金も余り進んでいませんね」、売掛残が毎月のように増え、受取手形もあります。

「今のままだと、どこかで資金がショートしてしまいますよ」と、率直に申し上げました。「この状態が続くと、今年1年は持たないでしょう」とも。Aさんは「やっぱりなぁ」とつぶやかれました。

心配していたそうです。自分の会社でもかつて売上が急に増えていった際に、逆に資金繰りが厳しくなっていたのを肌体験で知っておられたのです。

そうなのです。売上が上がる、それも急激に上がると集金がそれに追いついていかない、目先の売上に目が向いてしまい、仕入が増えてその支払いや決済が増えること、回収(集金)が後回しになることに気付かないのです。

その辺りのことをアドバイスすると共に、きっと100万円程度の資金手当では間に合わない。Aさん(の会社)が保証することで借入をして当面を乗り切り、その後すぐに抜本策を打つように進めました。

せっかくのアイディア商品が、ダメになってしまわぬことを祈るばかりです。幸い、まだ受注残があって売れていますので、タイミングを間違わなければ大丈夫なはずです。

Aさんにも腹をすえて、息子の経営に口を出すよう強く言い添えました。

デッドストック商品を処理する

■連載『MG&脳開企業革命』(45)

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不良貸付金の償却処理が終わっても、まだ不良資産の処理は完了しないままであった。しかしながら、大きな金額であるのでさすがに一気にというわけにはいかない。

価格改定が少しずつ効を奏して粗利益利率の改善が進み、経常利益も確保できる見通しができてきたので、3~4回(期)に分けて償却処理をする方向を決めた。

一括で特別損失処理をする方法もあるのだが、税務処理上否認される可能性もあるので、「デッドストック商品処理」といった科目を作って、経費処理をすることとした。時間(年数)はかかるがやむを得ない。

この方法でも「利益減損処理」ということで否認される可能性はあったが、もし認められれば、その後のデッドストック処理についてお墨付きがもらえる形になるので、敢えて踏み切ったわけだ。

制服の卸業、特に学校制服の場合はデッドストックが発生するリスクが少なくない。新学期とくに入学式に間に合わせる、納期遅れを起こさない為にシーズン前に既存の制服を備蓄しておく。

学校の規模によっても違うが、7~8割くらい事前に在庫を確保しておくわけだ。そして残りについては、採寸後に追加オーダーすることになるが、追加は納期が厳しいのでできるだけ少ない方が良い。

そんな中で、もし制服のモデルチェンジが実施されることになると、その備蓄在庫は無駄になってしまう。それは極端な事例で、モデルチェンジ情報は早めに分かるので、できる限り対応をしていく。

それでも新学期シーズンが終わった段階でも在庫は残っている。できるだけ少なくできることが、担当者の「腕」なのだが、男女比が変わったり体型・体格の読み違いもあって、在庫を残してしまう。在校生用在庫も必要だ。

そのような状況下でモデルチェンジになると、残った商品の多くはデッドストックとなってしまう。体操服の場合は、制服に比べてモデルチェンジがもっと頻度が高い。

平均すると毎年300万円前後のデッドストックが発生する可能性があり、「もう売れない」と判断できる時点で、償却してしまうことが望ましい。それを怠っているとどんどん溜まり込んでいくわけだ。Photo_16

さて、処理を進めていくことにしたが、具体的には焼却処理すなわちゴミの焼却場に運び込むことになる。環境問題が叫ばれるようになってからは「埋め立て処理」になるのだが、この時期はまだ焼き捨てられた。(写真はイメージです)

トラックに商品を積み込み、市の焼却場に運び込む。写真をキチンと撮っておき、もちろん伝票明細も残しておく。焼却場では「焼却証明」ももらわねばならない。それらをセットで保存しておくことになる。

メーカーにいた私には涙が出る仕事だった。工場でミシンを踏んで商品を作っている女性達の顔が浮かぶ、申し訳ない気持ちになったものだ。

結論からいうと、この経費処理は税務署の調査官から認めてもらえた。翌年の税務調査で、とくに指摘がなかったというわけだ。そこで、経営計画の最初から「デッドストック商品処理」予算を組むことにした。

毎年こまめに処理していけば、在庫もキレイになるし、利益の足を引っ張ることもない。これで、不良資産処理も先が見えてきた。

平成から令和へセミナー継続

先週の週末、金土日の3日間は「平成最後」の主催セミナーを東京で開催しました。金曜日が脳力開発講座・東京、そして土日がキャッシュフロー経営セミナー(CFMG)でした。数ある中から選んでご参加いただき、ありがとうございます。


MGに関していえば、インストラクターの資格をいただいたのは1988年でしたから、昭和最後の時代ということになります。当時はまだ自社内の社員研修のインストラクターでした。


平成に入って販売会社に出向しても、やはり自社の研修が主体で、そこに社外からゲストをお招きするスタイルでした。やがて西先生に講師をお願いする「長岡MG」を公開セミナーとして開始しましたので、平成時代ずっとセミナーを続けてきたことになります。


脳力開発セミナーの開催は21世紀に入ってからでしたが、その後MG(あるいはキャッシュフロー経営セミナー)との両輪で、ずっと平成の時代に続けてこられたのは、参加して下さった皆さんのおかげと感謝しています。
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何度か挫折しそうにもなりました。例えばリーマンショック後や東日本大震災の後は、開催を延期あるいは中止することもありました。中越地震や中越沖地震で被災した際には、これで継続開催も途切れるかなと感じたものでした。


それでも、周囲の仲間が支え応援していただき、ここまでずっと続けてくることができました。心より感謝を申し上げます。


おかげさまで、令和時代に入っても引き続き各地で脳力開発講座、ならびにキャッシュフロー経営セミナーを開催していくことができ、望外の喜びとするところです。この二つのセミナで何を伝えていけるのか、時代の節目に今一度じっくり考えたいと思っています。


基本ベースは、私自身が小さな会社の経営の中で、あるいは企業サポート・コンサルティングをしてきた実際体験です。試行錯誤、さらにはいくつかの失敗があったことも事実です。


それもまた、私のセミナーでお伝えしたいことの中にふくまれてい含まれています。2人の師(故城野先生・西先生)から学び、それらを実際経営の中で実践して来て身につけたこと、感じたことを自分の言葉で伝えて参ります。


ちなみに、令和最初の研修はクライアント会社の社内MGです。その翌週に、最初の公開セミナー(キャッシュフロー経営セミナー)を大阪で開催していただきます。感謝の日々がスタートすることに、ますます氣愛を込めて参ります。


新しい出会いにも期待しています。皆さんとの交流がさらに楽しみです

平成最後の公開主催セミナー

平成も残り10日を切ろうとしています。今日は統一地方選挙の後半戦、注目は2つの衆院補選ですが、本当はそれ以上に各地域の首長選や議会選挙の方も大切にしなければと思いますが、残念ながら無投票当選が多いですね。


中にはもう10年以上も無投票などというところもあるようで、それは「選挙権を行使できない」という以上に、「選挙権を奪われている」のではないかと危惧されるものです。


幸い私の場合は、前半戦の県議選と市議選共に期日前投票で権利を行使することが出来、そして自分が支持した候補が当選しました。これから4年間、その人達のやることをしっかり見つめていこうと思います。


無投票が続くと、そういう意識も希薄になるのではと心配されます。それでなくても、政治への無関心(あきらめ?)が蔓延しているとも感じられる今日、もっと自分たちにとって大切な権利義務なのだということを、自覚したいものです。


そんな日曜日ですが、いよいよ「平成最後の」主催セミナーとなります。キャッシュフロー経営セミナー(CFMG)の2日目、キチンと締めくくれるよう、氣愛を込めて参ります。


ただ元号が変わるだけのことですが、考えてみれば最初の公開主催セミナーは20年くらい前に、すなわち平成の時代に始まったということですので、その一つの区切りが今日なのだと感じているところです。


ここ数年は毎月のように、時には月に数回のセミナー開催が続いていますので、平成の時代を通じて150回以上やってきたのでしょう。令和最初のセミナーは来月の中頃、すぐに始まりますが心を引き締めていきます。

外の気温以上に、熱いセミナーになりますように。

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脳力開発講座・東京講座始まる

3月の神戸からスタートしました、今年の脳力開発講座。昨日19日に始まった東京講座にも、9名の方が参加して下さいました。2日前あたりから日中の気温が上がり、歩道のツツジの花も一気に開き始めています。


プログラムの内容や基本構成は神戸と同じですが、できるだけ最近の話題も講義の中に取り入れるようにしています。まとめの講義は毎回歴史の人物を採り上げていますが、その中にもアレンジを加えています。


脳力開発では、「脳力の発揮=行動すること」と定義をしていますが、人間の1日を見ていますと行動しているよりも、思考している時間の方が長いそうです(個人差はあります)。
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受け売りの話ですが、人間は1日に約6万回の思考を行っているそうです。しかも、その6万回の内8割近くは「ネガティブ思考」なんだそうです。ネガティブ思考が常に悪いわけではなく、危険回避の為には必要だとも言われています。


脳力開発でも常にポジティブに、前向きな思考をするようにとは言っていません。物事にはすべて二面がある(時には多面もある)わけで、例えば表があれば裏があるように、その両方に目を向ける必要があります。


問題は、どちらの方に自分がシフトしていくのかというとにあります。負のループに陥って、せっかくの前向きな思考を止めてしまったり、チャレンジしようとする気持ちにブレーキをかけないようにと、教えているのです。


今日はその中で、『人頼り(の姿勢)』の問題点を学んでいただきました。物事がうまくいかない時に、ついつい周囲の(人や物の)せいにしてしまう傾向はありませんか。そういう人は、実はかえって周囲への依存度が高いのです。


時には『決める」という仕事さえも、人任せにしてしまう傾向があります。自分で主体的に意思決定して行動することが出来ない、例えば上司や先輩、あるいは取引先の意向や希望を優先してしまう傾向です。


そればかりが続いていると、いざという時つまり自ら決断し意思決定するべき時に、二の足を踏んでしまったりするのです。そうしてタイミングを失ってしまい、気が付いた時には後手を踏んでいるということにもなりかねません。


そういった傾向は、自分ではなかなか気が付かないことが多いのです。自分を客観的に見つめることに慣れていれば良いのですが、多くの方はそんな習慣がありません。せめて、脳力開発講座の際にでも自己客観視を試みていただきたいものです。


今年から初めて行う福岡での講座では、私の脳力開発の先輩であり、故・城野先生から直に多くを学ばれた田上康朗さんを特別講師にお招きをして、講話をお願いしています。神戸や東京でも、特別企画を考えています。


引き続き継続して参加をしていただきますと共に、周囲の方にスポット参加もお勧め下さい。毎回が完結プログラムですので、単独講座受講も十分可能です。お待ちしております(ちなみにスポット受講料は1回2万円です)。

一気に不良貸付金の償却実行

■連載『MG&脳開企業革命』(44)

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赴任して丸1年、小学校6年生で地元の小学校に編入した娘は、そのまま公立の中学に進むのではなく、国立の(新潟大学教育学部)附属小学校を選んだ。そちらの方が近いからという理由だったらしい。

子どもは慣れるのが早い。岡山を離れる時にはクラスメイトと別れるのがイヤだと泣いていたのが、親よりも早くあっさりと方言にも染まっていた。カミさんは元々新潟県生まれなので、ジタバタは私だけだったようだ。

もっとも、私生活でジタバタしている余裕などない1年であったし、娘の進学のことにもほとんど意見を述べることもなかった、父親失格の私だった。その上「経営者失格」ではかっこうがつかない。

最繁忙期が終わり、シーズンの後始末が一段落して夏物の見通しもハッキリし、今期の最終予測が予想を上回る数字になりそうだと分かっても、まだ不安な気持ちは収まらなかった。

それはそうだろう、たった1年前は申告上僅かながらもG(経常利益)を計上したとは言え、実質的には赤字であったし、累積赤字も不良資産もほぼそのままに引き継がねばならなかったのだから。

年度末6月末の棚卸も、当初1回目ではかなりの誤差を生じていたが、2度3度とやり直して最終的には、さほど大きな差違は出さずに確定が出来た。その数字で試算をして、ようやくホッと一息をついた。

試算の数字を社員にもすぐに公開したが、一様に喜びが溢れていた。親会社の社長にも電話とFAXとで報告、これで2年目に船出が出来る自信が湧き上がってきた。

PQ(売上)も10%以上伸びたが、MQ(粗利益)の伸びはそれをさらに上回った。利益感度分析を繰り返し、商品別に、得意先別にMQアップの戦術を実行してきた成果が出たのだった。

もちろん、すべてがうまくいった訳ではない。新規の学校制服獲得企画コンペで、ライバルに負けてしまったケースもあったし、主力店への深耕開拓ではなお課題を残していた。

最終的なGは当初目標の1000万を超えて、1200万をも突破できた。これで累積の赤字も半分くらいまでに減じることが出来た。しかもF(経費)も10%近く増やしての最終結果だ。

この結果を得て、いよいよ再建2年目の年度には、不良資産の減少に取り組むことを決意した。まずは大赤字を出した時の負の名残り、不良貸付金の処理を一気にやってしまうことだった。
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新年度の計画上は一括処理を行っても、なおキチンとGを残して追えることができるはずだった。顧問税理士さんと何度も打合せ・シミュレーションを行い、まずは債務者に内容証明を送ることから始めた。

返済してもらえないことはほとんど(100%)明らかだった。この時、私は生まれて初めて内容証明の書類を作り、郵送するという作業を行った。2ヶ月おきに3回送ったが、当然ながら債務者からはなしのつぶてだった。

そこで、年末つまり半期の最終に一括処理を行った。具体的には債権放棄ということになり、特別損失で残額の約1000万余を「捨てた」ことになった。メインバンクをはじめ、各取引銀行にも説明に回った。

要するに、『負の資産』を作ってしまうことは、後々に大きな禍根を残すのだということを身をもって知ったわけだ。これは、実際経営に携わなければほとんど知ることもなかっただろう。また、再建会社だったからでもあろう。

そんな風に、いくらかでも前向きに考えられたのは脳力開発をやっていたおかげと言える。そしてこれをやることによって、必ずプラスに針が振れていくことを感じてもいたのだった。

しかしまだまだ負の資産は大きく残ったままだったし、業種業容の宿命上、不良在庫は年々増加するのだ。いずれはそこにもメスを入れるとして、まずは当面の膿をなんとかしなければならない。

それには、特に営業部隊の一層の活躍に期待するしかない。幸い、1年目の結果・成果に彼らも自信を持ってくれたようだった。少なくとも、このやり方を続けていけばよいと分かってくれたことは確かだった。

経営はじわじわ上昇し続けるのが良い

移動平均というものをご存じでしょうか。聞いたことはあるが見たことはない、あるいは自分で計算したことはない、というのが(小さな会社の)経営者の大半でしょうね。

移動平均は、変化しているデータのある範囲の和を、データの個数で割ったものです。 その平均値を折れ線でつなぎ合わせたものが、移動平均のグラフです。

例えば、自社の売り上げを12ヶ月分合計します。それを12で割った数値が「12ヶ月(短期)の売上移動平均」です。ある年の1月から12月までを合計する、次には2月から翌年1月までを合計する。

というように、1ヶ月ずらしていって12ヶ月分の合計を順番に求め、それらをそれぞれ12で割っていくのです。これを24ヶ月分にすれば「24ヶ月(中期)の売上移動平均」ということになります。
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毎月コンスタントに売上があり、それほど大きなブレのない業種業態だと、月次データをつないでもその傾向を捉えることができます。しかし季節変動が大きい場合は、移動平均を求めないと傾向が正しくつかめません。

かつての私の会社がそうでした。なにしろ、売上最大の月と最小の月との差は30倍、年度の上半期が全体の2割、残りの8割は下半期、それも大半はある2ヶ月に集中する、そんな会社でした。

移動平均を月別にきめ細かくとっていき、その数値のそれぞれに再び12を掛けて(乗じて)求める数値が、移動年系と言われる数値で、多くのデータが連続して繋がると、未来値が読めてきます。

この移動平均分析は経営の中で売上のみならず、色々なところで使えますが、多くの会社のサポートを通して感じたことは、移動平均のグラフはなだらかな方が良いということです。

急激に売上や利益が上昇する、勢いが付いて止まらない(ような気がする)。それが良いという人もいらっしゃるでしょうし、それはそれでいいでしょう。でも私は、やっぱり細々でもずうっとじわじわ上がっていく方が好きですね。

どちらにもちゃんと原因があります、原因があって結果があるのは急上昇も、なだらか緩やかに上がるのも同じです。私は急上昇の原因というのは、どのように好意的に見ても異常だと思うのですね。

もしかしたら、その急激な変化の裏で、あるいは横で泣いている人はいないのかなと思ってしまうわけです。売上が一気に上昇すれば、作る人や売る人にそれまでに類なき大きな負担がかかる。

自分たちだけの中で完了する仕事であるのならともかく、そういうものはほとんどない。下請けの会社や人がいる、外注先や仕入先の人がいる。製品・商品を運ぶ人もいれば、アフターする人もいることでしょう。

それぞれに急激な変化のツケが廻ってくる。もし、万が一その急上昇がストップしたり、逆に急降下したらどうなるんでしょうか。反動の大きさは半端ではないのでは?ないとは言えませんね、そういう事態が来ることが。

だから、ゆっくりゆったりで良いと思いませんか。亀の歩みでも良いから、少しずつじわじわと上がり続けていく。微増収微増益、移動平均のグラフが何となく上がっているかなというくらいが。

それでも10年20年、50年も経って振り返ってみるとずいぶん上がってきたなと感じられる。長続きすることがいいのだと、最近本当に感じるのです。

変化があって悪いとは言いません、時には変化も必要であり、常に進歩発展、進化向上していることは必要条件です。そしてその上昇のカギが、常に人にあるのだということ。

企業を支えている人、特に社員とその家族とが少しずつ少しずつ幸せになっていくという、そういう事実の積み重ねが何よりのことだと思いませんか。

小冊子『MGと脳力開発』を再びPR

今年の初めに『MGと脳力開発』と題した小冊子を自家本作成したことは、すでに何度かSNSなどでお話した。

セミナー開催などでお世話になってきた方や、脳力開発講座にご参加の方、特別のご縁をいただいた方には贈呈し、あとは1冊1000円でご希望の方に販売をしてきた。

おかげさまでたくさんの方にお買い求めをいただいて、最初に作ったロットについてはほぼ完売に至り、今月に入って追加の100冊を印刷することにした。

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脳力開発講座や、とくにMG/CFMGに参加された方には、「これを読むとMGに強くなれますよ」などとジョークを言って買っていただいている。強くなれるかどうかは分からないが、ヒントはあるはず。

MGのことはともかく、少なくとも経営の判断や意思決定にはきっと役立つはずだと思っている。もっとも、書いた内容はあくまで私自身の体験に基づくものなので、十分とは思っていない。

その部分は、城野(宏)先生や西(順一郎)先生から学んだことを、私自身の言葉に置き換えて書いている。時には我流の解釈もあるかも知れないので、そこのところはご容赦を願うところだ。

本当は人生にも役立つといいたいところだが、残念ながらそれを語るには、まだまだ私は足りないところが多すぎる。倫理法人会でも永年学んでいるのだが、相変わらず配偶者に「まだまだね」と言われている。

それでも、行動そのものは脳力開発やMGを学び始めた30数年前から比べれば、格段に進化向上したと自負している。それはとりもなおさず、意識が変わったことやすぐに行動できるようになったことだ。

また、何よりも人間が明るく前向きになったことだ。学びの以前は、常にマイナスのオーラを発散していたことに、自分でもいくらか気づいていた。しかしそれも自分の個性だ、などとうそぶいていた。

しかし、学びを重ねることで次第にプラスのオーラが出てくるようになり、顔つきが変わったと周りからも言われるようになってきた。「笑顔が佳いですね」と言ってもらえるようになった。

さてさて、まだホンモノかどうかは自分では分かりかねるが、周囲の人たちと真っ向からぶつかったりすることはほとんどなくなった。どうにも我慢できないことも時にはあるが、自分を抑えられるようになった。

自ら求めてけんかはしない、しかしやるべき時はしっかりやろうと思っている。幸いにそういう人が周りからいなくなったということなのだろう。

そんな今に至る自分の考えや意識、行動をまとめたのが小冊子『MGと脳力開発』だ。大したページ数でもないので、暇な時間にパラパラめくっていただいても時間がかからずお読みいただけるはずだ。

元々は、フェイスブックに書き連ねていたブログ原稿を2/3くらいに圧縮して、若干補訂したものだ。ページを少なくする為に、もっと書きたいところを押さえた部分もある。

それはまた、第二弾か何かで補っていこうと思う。次にまとめていこうと思っているのは、「小さい会社のマネジメント」というテーマで書いているブログだ。

ことらは、毎回テーマがあちこちに飛ぶのでまとめるのは大変だが、いずれキチンと筋の追えるものにしたいと考えている。何年かかるか分からないが、70歳になるまでにはと思っている。

とはいえ、そんなに時間はない。自分の考えを集約し、まとめることなのだがこれがなかなか難しい。その時々で「これでいい」と考えたことを、あとから自分で否定することもあるからだ。

でもまぁ、大げさに言えばライフワークとしてまとめていこう。

そんなわけで、小冊子『MGと脳力開発』をご希望の方、ぜひメールやメッセージでお知らせ下さい。送料込みで1000円、もちろん各セミナーの場でもお求め下さい。

ありがとうございます。

年度計画づくりももちろんマイツール

■連載『MG&脳開企業革命』(43)

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1991年4月の高校入学式が終わると、私たちの最繁忙期シーズンが終わり、ホッと一息をいれます。この年も納期遅れという事態を招くことなく、無事に終了することができました。

最もそれも僅かな間で、1週間か10日後には夏物の納品に向けた準備活動が始まります。入学と同時に採寸ができている新入生は比較的楽ですが、在校生は希望販売で、時には採寸も伴います。

本格的に忙しくなるのはゴールデンウィーク(GW)明けですが、デパートや専門店では新入学時の商品との入れ替え作業をGWまでに終わらせます。返品の受け入れもピークになります。
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そういう状況の中で、私は早くも7月からの新年度に向けての計画作業をスタートさせます。3月末の時点で今年度の最終着地点もかなり見えてきますので、見込み数字を頭に置いての計画作業です。

ベースには(再建)5カ年計画がありますが、これは年次計画ですので、最新データを元に月次計画に置き換えていきます。トータルが決まれば、月次に振り分けるのはマイツールを使えば至極簡単です。

給与などは個人別に細かい計算もしますが、余裕分を加味して最終的には1/12して書き込んでいけば、各科目の月次数値は完了です。単位は「万」、それで十二分です。

忙しい営業担当者にも、仕入の担当者にも、時間の合間を縫って月別データを出してもらいます。この頃には、集計の仕事はマイツールでやることが定着していました、たった1年で。

これは1日も早く「一人1台(のマイツール)」を実現しなければと、強く思いました。最初の計画よりも1年早めたいという思いを、当然ですが計画予算にも反映しました。

もちろんそれだけ経費(F)が増加していくわけですが、その額はたかだかしれている。そして必ずそれ以上の効果=成果を生んでくれることを確信していました。

5月の下旬に夏物納品もゴールが見えてきますと、いよいよ全員会議の開催です。かっこよく『新年度戦略会議』と名付けました。これはその後の年も継続し、時には泊まりがけで行ったこともありました。

商品別、得意先別の計画づくりは、私の手からは離れそれぞれの担当者に任せ、部課長がとりまとめをしたものが私の手元に届きます。個人別の面接チェックをすると、年次計画が確定します。

私の仕事はさらにそこから進めて、年間の資金繰り計画へと移っていきますが、これもマイツールを使えば丸1日あれば作ることができました。

さらに年間の行事計画、社員教育計画などは、年間カレンダーを作成し、そこに当てはめていくだけ。社員の意見も聴いて微修正をすれば、もう完成です。ここまで全部マイツールでの仕事です。

年間計画表と資金繰り計画表は、次年度が始まる寸前に取引銀行別に提出します。資金繰り表は銀行別に借入・返済計画を記してあります。

まだ期末に多額の借入金が残る状況ではありますが、これも10年後にはゼロにするという密かな目標も作っておきました。結果から言いますと、10年後にしっかりと実現できました。

なお、資金繰り計画書は銀行から大きな評価を受けました。年間の資金(繰り)計画書をあらかじめ出してくる企業はほとんどないということを聞き、誇らしい思いにもなりました。

お伊勢さんMGに参加しています

MGシーガル仲間の税理士、河西さんが「お伊勢さんMG」を始められたのが2011年でしょうか。それから数えて今年が9回目、私も2012年よりできるだけ参加するようにしています。


今年はさらに参加人数も増えて、地元の方はもちろん全国から伊勢・鳥羽の地にやってくる方もたくさんいらっしゃいます。MGの前日には恒例の神宮御垣内参拝もして来ました。文字通り平成最後の参拝になります。


MG初参加の方も数人おられて、楽しい学びと交流が繰り広げられています。私も先月の博多シーガルMGに続いて今年2回目のMG参加、どういう戦略かといえば、今回も「単年度赤字を出さない」ということに尽きます。
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MGを始めた頃に「赤字は悪や!」と後藤昌幸さんに教えられ、当時はそれがピンとこないままに期数を重ねてきましたが、実際に会社経営を任されてようやくその重要性に気が付いたものでした。


爾来、その教えをひたすら守り続けてきていますが、なかなか思うようにならないのが経営なり、MGのまた面白いところです。実際経営では、専務・社長の16年間、一度も赤字を出さずにクリアできましたが、振り返ってみればスレスレと感じる年もありました。


ただ、無理をしてはいけない、無理をすれば必ずそのツケが廻ってくるものだということは、身に染みて分かりました。MGも全く同じです。肌身で経営を体験できる機会を、実際経営にたずさわる前に何度も与えられたことが幸運でした。


MGでなら、赤字はもちろん、債務超過も倒産も体験することができます。なぜそうなったのか、現状と原因をしっかり受け止めて次に活かすことができるのも、MGの素晴らしさだといえましょう。


さて、今日は2日目の学び、もちろん戦略をしっかりと貫いていくことが第一ですが、状況の変化に合わせて如何に柔軟に行動できるか、その体験も積み重ねていきましょう。


我以外皆師、その心を忘れることなく。

四日市にもナローゲージ健在

この土日は伊勢市のMG仲間、税理士の河西先生が主催されている「お伊勢さんMG」(講師・西先生)に参加しています。今年は久しぶりにフル参加です。

その前々日の木曜日、四日市で途中下車しました。昨年秋に三岐鉄道(北勢線と三岐線)に乗り鉄しましたが、ついでに四日市あすなろう鉄道にもと思っていたのですが、何となくスルーしていたのです。

そこで今回こそということで立ち寄ってきたわけです。四日市あすなろう鉄道は、元は近鉄の内部線・八王子線ですが、その前身は三重交通(三重電鉄)。近鉄時代の70年代に乗ってはいます。

三岐鉄道北勢線(近鉄←三重交通←北勢鉄道)と並んで、全国でここだけに残った通年運転の狭軌鉄道(ナローゲージ)です。他に黒部峡谷鉄道もありますが、黒部は冬期間運休です。

ナローゲージは、2本のレール間隔が2フィート6インチ(762ミリ)であり、新幹線の約半分、JRなど多くの鉄道の1067ミリと比べてもかなり狭い線路幅(軌間といいます)です。

かつては軽便鉄道とも称され全国各地にあったのですが、今現在は黒部と合わせても3つしか地方鉄道としては残っていないのです。かつては近鉄の大きな傘の下でしたが、赤字が膨らみ廃止寸前でした。

そこで地元が立ち上がり、近鉄の子会社として四日市市が25%出資した3セク鉄道となりました。内部線・八王子線の2線がありますが、合わせても路線延長は僅か7キロです。

八王子線はかつては伊勢八王子まで路線がありましたが、1974年の水害で西日野までの1区間を除いて廃止になってしまいました。

両線とも毎時2本の運転で、分岐駅の日永で双方が接続するようなダイヤで運行されています。主として260系車両の3両編成、最高運転速度は40km(多くは35kmまで)です。

桑名から急行で四日市に着いて、降りる階段を間違えてあすなろう鉄道の四日市に着いたのは、内部行き出発の2分前。フリー切符(1日乗車券)を求めて、慌てて飛び乗りました。
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内部まで乗って、折り返して日永で今度は西日野行きに乗り換え。終点まで行って引き返し、四日市に着きましたが、所要は80分くらいだったでしょうか。ちなみにフリー切符は550円、十分元が取れました。

近鉄時代以来、40数年ぶりの乗車でしたが、とりあえず廃線を免れたという段階ですので、これから先どうなるかというのは、素人の私には分かりません。ラッシュ時はそこそこの乗客もあるそうですが。

貴重なナローゲージ線だけにいつまでも残ってほしいところです。幸い、現行の260系車両などは全面リニューアル、ないしは新製された車両ですので、当分は大丈夫でしょう。

しばらくの間は、吊り掛けモーターの音を響かせてくれそうですが、将来共に安泰とはいかないでしょうから、三岐鉄道北勢線とともに、今後運転を継続してくれることを祈るばかりです。

学校採寸現場にマイツール

■連載『MG&脳開企業革命』(42)

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学校制服業者にとっては年明けの1月から、4月の入学式・始業式までが1年で最大の繁忙期シーズンとなります。私の会社でもこの時期に年間の8割以上(の売上)が集中していました。

店頭での販売も多いのですが、それ以上に集中するのが学校での採寸から納品に至る、一連の仕事です。公立の小学校から学区の中学入学者への採寸もありますが、これは割合少数です。

生徒数が多くしかも集中するのは私立の中学、そして公立私立の高校です。入学試験後の合格発表時に一斉採寸を行う学校が大半です。

とくに(新潟県の)公立高校の場合は入試が上旬、合格発表がその2、3日後です。4月の入学式までの期間は当然ながら1ヶ月以下です。中には二次試験を実施する学校もあり、そうなると余裕はほとんどありません。

これは新潟県ばかりではなく、全国の都道府県でほぼ同じような状況です。そうなると、採寸を経てからのメーカーに対する追加発注は、一時期に集中します。
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事前に生産のキャパを調整していただき、一定の量に対する対応はしていただけますが、それでも発注データが1分1秒でも早くメーカーに届けば有利です。

1991年当時の採寸によるデータ集計、チェックはまさに人力を集中して行っていました。採寸の現場で1名ずつの受注申込書にサイズと数量を書き込み、それを会社に持ち帰って整理します。

数量を数えるのは2人がペアになって行い、サイズ別に「正」の字を書いていくのです。かなり慎重には行いますが、人間がやることですので間違いもゼロではありません。

何より時間が掛かかってしまいます。採寸が終わって会社に戻り、そこからチェックをしながら集計作業をするのですが、早くても夕方、遅いと8時9時を回ることもしばしばです。

一定の在庫も確保していますが、それと照合しながら不足数量を出していきます。何とかその日の内にとがんばれば、メーカーへの追加発注(FAX)を送るのが夜中になってしまうこともしばしばです。

これをなんとかするにはどうしたらよいか、そこでマイツールの活用です。1つは採寸データを会社に戻って、データ入力します。集計コマンドを使って集計すれば正確に、間違いない数字が短時間で出せます。

これで何とか夜中までかかることはなくなったとはいえ、まだまだだと感じました。こうなったら、採寸現場にマイツールを持ち込んで、採寸と並行してデータを入力してデータベースを作る。

しかも金額などのチェックも自動的に行う、その為のコマンドも利用技術もありました。前例はありませんので、大げさに言えば「世界で初めて」私が作りました。

このシーズンは私が立ち会える学校だけに留まりましたが、会社に戻ってからのデータ入力も同じシステム、やり方でできますので、数人にチャレンジしてもらいいました。

これで、少しでも早く正確な追加発注データをメーカー(親会社)に送るという目標が達成できました。翌年以降も徐々にみんなができるように工夫をし、採寸現場へのPC持ち込みも当たり前になりました。

データベースはサイズ集計だけでなく、商品の加工伝票や加工ラベルの発行、商品アソート伝票や納品伝票、請求書まで作り出すことまでできます。在庫との照合ももちろんマイツールです。

親会社ではこれらを行うコンピュータシステムを有料(20~50万円)で提供していましたが、マイツールを使えばアレンジするだけなので無料です。すごいでしょう。

忙中閑ありの乗り鉄

昨日は上越高田で満開の桜を満喫、花見の前には、MUGの「マイツール教室」で初心者の為のデータ活用を学んでいただきました。毎年お花見例会は雨に見舞われますが、昨夜も小雨の中でした。

それでもやはり日本人の心には、ソメイヨシノの花盛りが合うのでしょうね。肌寒さを忘れる桜の美しさを満喫しました。高田公園は、日本三大夜桜と称されていますが、もし小雨でなかったらきっと歩くのも大変な人出であったことでしょう。

桜のあとは花より団子、いや花より交流会ということで美味しいお酒をたっぷりといただき(花見の間も吞んでましたが)、夜桜見物に出かける仲間と別れて宿泊地の長野へ。


そして今日の午前中、名古屋への移動までの空き時間を利用して、長野電鉄のミニ乗り鉄。複線区間の長野と朝陽の間を往復し、元小田急の特急車(ゆけむり号)や元東急、元営団地下鉄の車両をカメラに収めました。


今日はこれから、名古屋、桑名を経由して四日市まで参ります。昨年スルーしたままの、四日市あすなろう鉄道の乗り鉄に行って来ます。そんなわけで今日のミッションは、遠征中の乗り鉄休日です。


では名古屋行き特急「しなの」が長野駅を出発しました。

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財務諸表が読めますか?

このコラムをお読みになっているあなたが、「小さな会社」の経営者であるなら質問をしましょう。その一つめは、「あなたは財務諸表が読めますか?」という質問です。

財務諸表って何だ?という方は、まさかいらっしゃらないと思いますが、念のためにいっておくと、基本は期末貸借対照表(BS)と期間損益計算書(PL)、そしてキャッシュフロー計算書(CF)の三つです。

これを称して財務三表と呼ぶわけですが、その他にも製造原価報告書だの、売上原価報告書だの、いろんな付帯表がありますが、ともかく前三つのことを取り上げます。

それで最初の質問です。馬鹿にするなよ、これでも私は経営者だよと胸を張られる方は、一体どのくらいおられるでしょうか。あくまで私の経験と勘の範疇ですが、多分2割もいらっしゃらないでしょう。

切り口を変えて、その財務諸表をいつも見ていますか?こちらはどうでしょう。多分ほぼ皆無になったのではないかと思うのですが。決算書あるいは月次試算表、それが手元に届いてチラッと見る。

いえいえ、いつも見ていなさいと言っているわけではありません。どうせ見てもよく分からないでしょうからって、別にあなたをバカにしているわけではありませんから。なぜなら私もそんな経営者の一人だったですから。

では今なら読めるのか、うーん、まぁあなたよりはちょっぴり読めるかも知れませんが、多分五十歩百歩のことだと思います。私の方が色んな会社のそれを、ちょっとだけたくさん見てきたというだけのことです。

財務諸表は、経営者にあなたにそれほど役に立つものでもありませんから。全く役に立たないとまでは申しませんが。
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もう一つ役に立たないものを上げておきましょうか、それは経営分析(一覧)表なるものです。おそらく顧問の税理士さんや、もしかしたらメインバンクあたりからもいただいているかも知れませんね。

流動比率がどうたらこうたら、長期適合比率とか投下資本回転率だの、20いくつも指標とやらが並んでいるアレのことです。じっくり眺めてみられたことがありますか? いや、見なくてもいいですよ。

中には知っておいた方が良い比率もないわけではありません、例えば自己資本比率とかは。なぜ不要なのかっていいますと、あの経営分析表を必要としているのは大きな会社だけだからです。

大企業だの上場企業には必要な指標が並んでいますが、中小企業とりわけ「小さな会社」にはほとんど不要のものばかりですから。せいぜい、ここ3~5年の移り変わりを見るくらいでいいのです。

それだって、いわゆる異常値以外は大して意味もありません、というのが私の考えです。もしかしたら、あなたの会社の顧問の先生は全く違うことをおっしゃるかも知れませんので。

私もかつては自分が経営者であり、いまでも多くの会社の経営のサポートを仕事としています。ですが、それらの財務諸表を穴のあくほど眺めたこと、眺めることはほとんどありません。意見も余り言いません。

私は現役時代、自分の経営判断や意思決定に必要な経営情報は、自分で作っていました。あるいは信頼する部下よりいただいていました。データをもらって、それを色んな角度から加工してチェックをしました。

その時に財務諸表データは、余り使いませんでした。まして税務署に提出する申告書などは、一度も活用していません。棚に飾っておくというと言い過ぎですが、役に立たないものは見る必要がありません。

あなたは、そういう自身の経営判断や意思決定に関わる、参考になる経営資料を自ら作っていますか? あるいは信頼できる部下が作って届けてくれますか。

まさか、経験と勘だけでやっていませんよね。あるいは顧問の先生に丸投げしていませんよね。会社の中で最も経営を知っているはずのあなたが、それらを作らなくて誰が作るのでしょうか。

という問題提起をして、今日は終わりとしましょう。またいずれ。

1991年正月の爆弾宣言

■連載『MG&脳開企業革命』(41)

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1991年(平成3年)の正月を迎えました。

再建計画に基づく実際の活動を開始してから半年、7月からスタートする年度の上半期は、私たちの会社にとっては「種蒔き」の期間です。スクールユニフォームの仕事はよく農業に例えられました。

夏場にしっかり種蒔きをして秋に生育を見守りながら、冬に入って収穫の準備を始めて春に入ると一斉に収穫を始める。それも一気にです。間には少し別の収穫もありますが、春に比べれば小さな割合です。

売上・利益(PQ/MQ)ベースでいえば、上半期の半年がザッと20%前後、残りの80%内外は下半期、それもその過半を2月3月で稼ぎ出すので。ただ収穫のためには種蒔きと生育が不可欠です。
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12ヶ月間の内9ヶ月間は赤字、残りの3ヶ月でほとんど全ての利益を生み出すといっても過言ではありません。それだけ季節変動も激しい業種なのですが、上半期も遊んではいません。

というよりも、この時期にどれだけ動いて種をしっかり蒔いて水と肥料をやることができたか。それが春の収穫期に喜びとなるかの大きな分かれ道になります。気が抜けない半年間ともいえましょう。

ですから、この年度も上半期はいつものように大きな赤字を溜め込み、借入金は目一杯に膨らみました。しかも、賞与を出す計画通り実行しました(1ヶ月分くらいですが)ので、さらに赤字が膨らんでいます。

先憂後楽という言葉がありますが、正直言ってそんな達観した気持ちにはなっていませんでした。幸いに赤字なりに月次目標は達成してきていましたし、「棚蒔き・育成」の報告も順調でした。

そして、正月明けの下半期最初の日の朝礼で、私は年初の挨拶と決意表明のあとで、爆弾宣言をしたのです。それはマイツールに関してでした。

半年間でマイツール(以下MT)の使用人口は徐々に増えてきていました。台数もいくらか無理をして、ようやく私を含めて14名で「3人で1台」というところまできていました。会議資料はMT資料に変わりました。

ですがまだまだ「手書きと電卓」状態からは、とても抜けられたとはいえません。どうしたらいいかと考え抜いたあげく、爆弾発言になったのです。いわく「今後私への提出資料・書類は全てMTで作ること」でした。

会議の数値資料はもちろん、日々の営業報告、行動報告、企画書や上申書、さらには出張時の費用精算書に至るまで、何もかもMTで作成することを義務づけました。そうでなければ受け付けないと。

もちろん、その為には仕組み作りをしなければなりません。そこで定型的なもの、例えば旅費の精算書などはフォーマットを作って、データを入れれば自動計算してくれるようにしました。

月次資料などはすでにフォーマットができていましたが、営業日報なども「1行1データ」の報告様式を決め、日々の報告を義務づけました。ただし、その他の資料の多くは自分でフォームを自由に作ってもよいと。

こうしておくと、誰かが作ったフォームの中でより良いものが最終的に残って統一されていく、それをすでに半年間で見ていました。予想通り、繁忙期に突入する頃にはほぼ狙った状態が実現してきました。

よしこれでいけると感じましたので、「2年後には1人1台(のMT)を実現する」ことも宣言しました。ちなみにこの宣言は、2年後に間違いなく実現できました。

さて、いよいよ肝心要の繁忙期シーズン突入です。私は、もう一つ重要なことを考えていました。ではその話は次回に。

阪神武庫川線ミニ乗り鉄旅

暖かな日曜日でした。日なたでは上着を脱いでもいいくらい、こんな日はのんびりと乗り鉄に出かけたいところですが、仕事と仕事の谷間の1日ですので、休養を優先しました。

それでもミニ乗り鉄くらいは楽しめるかなと、まずは元町駅から阪神電車に乗り込んで武庫川駅へ。この武庫川駅はホーム全体が川の上という、つまりは橋梁自体が駅という珍しい駅です。

 

西側つまり神戸側の階段を降りると、そこに武庫川線というミニ路線があります。たったの1.7km、中間に東鳴尾と洲先という2駅があります。元々は洲先が終点でしたが、その先に大きな団地ができて延長されました。

かつては洲先の先の海岸沿いに軍需工場(川西航空機)があって、東海道本線の西ノ宮駅から引き込み線が伸びてきて、北方の武庫大橋以南は三線軌条が敷かれていました。

戦後もしばらくはSL牽引の貨物列車が乗り入れていたらしく、軌条も残っていましたが、今では何も残っていません。武庫大橋―武庫川間の正式廃止は1985年だったそうです。

この西ノ宮からの貨物線は、私が鉄道に興味を持ちだした頃にはまだ武庫大橋の手前までは残っていて、やがて甲子園口駅の配線変更に活用(下り外側線に利用)されて、なくなりました。
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さて、単線の阪神武庫川線は日中や休日は20分間隔で、2両編成の電車が折り返し運転をしています。ラッシュ時には東鳴尾駅で交換することで、10~12分間隔で2編成が通勤輸送にあたっているようです。

ワンマン運転で、最高速度は45km、その為に信号機も青信号の現示はなく、赤信号と黄信号のみです。朝の洲先行きはガラガラでしたが、武庫川団地からの折り返しはけっこう混雑していました。

今日の編成は7864+7964、阪神のいわゆる急行色(赤胴)車ですが、もちろん列車は普通電車。所要5分ほどのまさにミニ乗り鉄旅でした。

このあとは梅田に出て、京都線の特急で京都(烏丸)に向かいました。

まずは心身のリフレッシュを

桜が満開の神戸に遠征中です。暖かさも半端ではなく、初夏の陽気にジャンパーだけでなく、上着も脱ぎたくなります。今日日曜日は、桜の名所はどこも人で溢れることでしょう。


せっかくの遠征中休日ですので、乗り鉄に行きたいところもありますが、何しろ春の「青春18切符」最後の日曜日ですから、こちらも電車はたくさんの人が乗り込んでいることだと思います。


そこでちょっと穴場と思われるところに、足を向けて行こうかな。どこかはナイショということで、Facebookに近況報告と行きます。桜も満開であることを祈っています。


昨日の午後は、クライアント会社の新年度経営計画発表会に参加をしてきました。ビジネスとしてのご縁をいただいて丸6年、人財づくりのお手伝いをしています。ここ数年は毎年新人が入社して、活気に溢れる企業風土が定着しつつあります。


創業から50年、また新たな50年をスタートして「100年企業」を目指して行こうという、大きな目標もできました。もちろん、そのゴールを迎える時には現在の社長も、社員の皆さんもいないわけですが、思いは引き継がれていくでしょう。


休み明けの月曜日にも社員研修を予定していますので、今日は研修内容についても最終チェックをしておかなければ。日中の休み気分で心身をリフレッシュしたら、仕事にもパワーが入ります。


ではそろそろ、始動しましょうか。

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あなたの会社の人件費は「費用」ですか?

 人件費は『費用』なのかと問われたら、あなたはどう答えますか?

この問いは、伊那食品工業の塚越寛さん(相談役になられたはずだ)が講演や著書の中で言われている言葉である。私も初めてその問いを聞いた時に、しっかり答えられなかった。(写真は伊那食品工業さん工場内の直営SHOP)
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私たちは、経営の学び(例えばMQ戦略ゲームの中)でも、人件費を「F1」として人に関わる経費だと一括で捉えている。もちろん給与(や賞与)の他に、法定福利費や福利厚生費、あるいは教育費なども含む。

それらは経費、すなわち費用として何の疑いもなく考えてきた。だから、「人件費は費用か?」と問われたら、それのどこがおかしいのかと問い返してみたくなったものだった。

だから、その時からこう思うことにした。人件費は、「費用(概念)を超えた」費用なのだと。そうではないですか、会社の目的が社員(とその家族)の幸せであるならば、人件費は目的そのものではないのかと。

働く社員への対価であるとともに、幸せを実現するために必要不可欠なもの。さりとて、多ければそれでいいといった考えではないはずだ。身の丈、あるいはあるべき姿というもので考えたい。

だから、会社の利益が上がったから増やすというものではない。もしそうであれば、会社が儲からなければ下げてもいいのかということになる。会社はいつも身の丈の少しずつのばしていきたい。

もちろん、会社が苦境に立った時には経費の節減もテーマにはなるはずで、しかも小さな会社では最も大きなウエイトを占めるのは確かに人件費だ。だから削減するのだと短絡するのはいかがなものか。

少なくとも真っ先に手を付けるものではなく、様々な費用をチェックし削減しうるものは削減した最後に、どうしてもという局面で手を付けるものでありたい。

それもまず、経営者自身が身を切るところから始めるのが本筋だ。そこまでやれば、社員の方が納得してくれるはずだ。そこまで至って初めて、必要最小限の削減をやむなくすることになる。

少なくとも、人件費を一連の費用の一つと考えるべきではないと思うのだ。それを貫くことで、社員との信頼関係が築かれるというのが、塚越さんの信念だった。社員との信頼関係は、外にも広がるものだ。

新しい経営理念を創りました

■連載『MG&脳開企業革命』(40)

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問題点の本丸、それは会社再建には絶対不可欠な条件でした。PLすなわち利益の改善が必要条件なら、こちらは十分条件であり、その双方が連繋して揃わなければ再建はあり得ないのでした。

その本丸とはBS(貸借対照表)の左側、中でも流動資産の中に澱んでいたものでした。平たくいえば不良資産、具体的には不良売掛金(売上債権)、不良在庫、そして不良貸付金の三つでした。

しかもその総額は合わせてざっと5千万円、総資産のおよそ1割を締めていました。

流動資産とは本来、現金預金と「1年以内に現金に変わるもの」ということですが、以上の不良流動資産は、煮ても焼いても現金化できる代物でありません。それらが埋没沈殿していたわけです。

その分だけBS右側の負債、とくに借入金を増やしていることは明白でした。しかし、借入金を減らすだけのキャッシュはあるわけもなく、単年度利益を上げて「左右を相殺」していくしかありません。

まずPLを良くする、その目途を付けてBSにとりかかる。初年度はじっくりと構想を練り、2年目からやっていくということを5カ年計画の中に盛り込みました。それも貸付金以外は特別損失にせずに。

さて、再建計画に並行してもう一つやることがありました。それは、心機一転の意味を込めて新たな『経営理念』を創ることでした。当時当社には独自の経営理念がなく、親会社の理念を借用していました。

再建のキックオフに当たっては、新しい理念を創って旗印にすることが不可欠だと感じました。ただ、さすがに一朝一夕にはできません、時間が掛かるのはやむを得ません。

そこで、ちょうど中間の折り返しである1991年の正月に経営理念を発表するという、期限目標を設定しました。社員も全員巻き込んでやりたかったのですが、営業現場の人たちはやることが満載でした。

そこで素案の作成までは私がやって、それをたたき台にして幹部会議や営業会議の中で意見を求める、ということにしました。それでも与えられた時間は僅かです。201904-t  

幸い、理念づくりに着手した頃に中小企業家同友会と出会い、同友会の理念づくりを各社の事例などで見ることができました。経営指針委員会にも顔を出したり、本を借りて読みました。

でも最も役立ったのは、城野宏さんの脳力開発の著書群でした。これによって、経営理念が企業にとっての「戦略」であることを肝に銘じることができました。そして、テーマを『お役立ち』にまず定めました。

というわけで、最終的に写真にあるような経営理念ができましたが、28年経過して私が退任してもう10年以上になりますが、現在もそのまま継続されているのは嬉しいことです。

ただ、今から思えば足らないところがあったと感じています。それは「社員とその家族の幸せ」ということですが、辛うじて4番目の項目にその思いは組み込まれているかなと考える次第です。

経営理念の発表と同時に、この1991年の正月にはもう一つ「重大発表」を行いました。それは、MT(マイツール)活用についてでした。それも、私が目指す企業革命の核の一つになるはずでした。

次回(来週)はそのくだりから。

戦略は目的か目標か

『戦略』の話である。英語ではSTRATEGYという。最初に戦略という言葉を使って体系化したのは、プロイセンのクラウゼヴィッツClausewitzの「戦争論Vom Kriege」だと言われている。

とするとドイツ語だから、元々はStrategieだったということになる。もちろん「戦争論」は、ナポレオン戦争をベースに書かれたものと言われているから、文字通り戦争についての軍事戦略の書である。
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その中に展開されている、戦略と戦術などの言葉がやがて企業戦略と始めとした経営学にも採り入れられ、とくに1960~70年代に普遍的に使われるようになった(と私は考えている)。

今では一般的な経営(学)の用語になっているが、正鵠を得ている定義を見たことはない。図書館にも、本屋の本棚にも「戦略」と題した本はたくさんあるが、「戦略とはコレコレだ」と明確なものは少ない。

戦略と戦術をごちゃ混ぜに混同しているものは論外だとしても、書き手によって定義や意味づけが違っている。かくいう私も私なりの「定義」をもって語っているというわけだ。

例えばある人は、戦略とは目的だといっているし、ある人は目標だと定義する。では、目的と目標との違いって何だろうか。脳力開発の師である故・城野先生は、戦略とは「打撃の方向」と定義されていた。

例えば商売敵が目の前にいるとして、その敵を特定し(定め)、戦うのか戦わない(退く)のかを決める。つまり前者を選んで、商売敵と戦うということが「打撃の方向」になるわけだ。

では経営戦略ということに置き換えるとどうなるのか。経営戦略を決めるということは、すなわち会社が進むべき方向を決めるということに他ならない。進む方向の行き先は「ゴール」ということになるだろう。

完全にイコールであるとはいえないだろうが、そのゴールは目的と言い換えて良いのではないか。だから、戦略は広義なのか狭義なのかは別として、目的だと考えている。

経営戦略とは「経営(会社)の目的である」、私はこの定義で企業のサポートをしている。進むべき方向を決めなければ、しっかりとした羅針盤を手元に置かなければ、前に進むことはできるわけがない。

目的を定めても、ゴールはかなり遠いことがある。創業の時には理想や夢を追いかけることに、情熱を注ぐはずだ。すぐ手の届くところにゴールは置かない、はるか先にゴールを定めることが多い。

ゴールへの道は迂遠であったりする。そういう場合には、節目節目に目指すポイントを置く。これが目標なのだといえるかのではないか。目的がゴールなら、目標は道しるべにするべき標点だ。

私はそのように定義をしているわけだが、もちろん異論もあるはずだ。それはともかくとして、あなたの会社には、あるいはあなたの人生にはちゃんと戦略=目的があるのだろうか。

ボンヤリしていているのであれば、ちょっと立ち止まってリセットするのがいい。新しい元号の時代が間もなくスタートするが、その時までに明確な戦略、目的を定め直してはどうだろうか。

平成を振り返り令和に向かう

新元号が発表された、「令和」。気の早い人は、(4月1日に)今日から「令和元年」だと記した向きもあるらしい。さすがにそれはねって感じだが、いよいよ平成も秒読みカウントダウンに入った。
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平成の最初の日は、厳冬の札幌にいた。その時には、元号が変わったんだなと思っただけだった。昨日と今日で自分は変わっていないのにと、妙にねじ曲がった感覚でいたようだ。

そう、ちょうど「MG100期」到達がその日だった、そのくらいが今までとは違うと思ったくらいかも知れない。人生が大きく変わったのは翌年、1990年(平成2年)だった、新潟・長岡市にある販社への出向。

折から膨らむだけ膨らんでいたバブルが、急激な下り坂を転がり始めたのが、ちょうどその頃であった。前年末の大納会に39000円に迫った株価は、僅か9ヶ月後に一時2万円を割り込んだ。

地価の暴落が都市部から始まり、燎原の火のごとく都市から地方へと広がって、留まるところを知らなかった。今から思うと背筋が冷たくなる、出向した販社はどん底にいたから。

もしそのままどん底状態が続いていたら、いわゆる銀行からの「貸し剥がし」に遭っていたはずだ。その辺りのことは、このブログの中で週2回連載しているコラム『MG&脳開企業革命』を、見ていただければ幸い。

長々書いたが、平成の最初の頃はそういった状態だった。まさに元号が変わるとほぼ並行して、人生が大きく変わっていったのだった。平成30余年間の半分以上は、販社においての楽しくも苦闘の日々。

そして後半の1/3は独立(2008年)してからの紆余曲折、リスクカードの連続であった。もっとも、リスクカードの中にはラッキーカードも少なからずあったことも事実。

独立したその年に起こったリーマンショック、数少ない仕事の予約がキャンセルになったが、その分中小企業のサポート業務が増えて、たくさんの業種業態に触れることができた。

仕事が軌道に乗り始めて飛躍を誓った年には、東日本大震災が起きて少なからず痛手を受けた。しかしそれも視点を変える、視野を広げるきっかけにすることができた。

それができたのは、MGそして脳力開発のおかげに違いない。その年の暮れに還暦を迎えたが、そこから先は「お返しの人生」だと位置づけることにした。体験や学びを、自分の言葉で伝えることだ。

さて、1ヶ月足らずで私にとっては3つめの元号時代を迎える。『令和時代』には、どんな変化がやってくるのだろう。いずれにしても、残された時間はそれほど多くはないだろう。

だからこそ、より密度の濃い生き方を目指していこうと思うのだ。『令和』のイメージは今のところハッキリ描けないが、私の感じるのは「静かに空の青を写す水面」といったところだ。

明鏡止水のような心境にはとてもなれそうもないが、時代の流れを素直に受け止めていこうと思う。万葉の心なんだそうだが、私が万葉集に持つイメージは生命力だ。ダイナミクスつまり原動力だと言ってもいい。

そういえば、にわか万葉集ファンも増えているらしい。歴史を含めて、日本の心の原点に触れていただくのはいいことだ。古代史は私も好きだが、分からないところも少なくない。また書を紐解くかな。

累積赤字が解消した

■連載『MG&脳開企業革命』(39)

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財務三表の内、損益計算書(PL)レベルでの企業再建は、前回書きましたようにMGを通じて社員と共に学んだ「5通りのMQアップ」と「利益感度分析」の活用によってメドが付きました。

その後もMGの学びについては、年間の教育計画の中にしっかりと組み込み、全員必須の研修としました。社員は15期(研修3回受講)が必修、係長・課長はプラス5期、部長以上はさらにプラス5期。

まずは8月の最も閑散期に、全員参加受講の「長岡MG」をスケジュール化しました。翌年からは、MG開発者の西順一郎先生に講師をお願いし、これが今に繋がる長岡でのMGです。

また主として6月から11月の半年間に、新潟や東京を始め各地のMG研修に参加できるように、仕組みを作っていきました。行き先は自由、スケジュールを組むのも原則自分でということにしました。

このようにMGを主体に年間研修を組み立てましたが、それだけでは偏りますので、マイツールを中心としたOAの研修、さらには脳力開発研修を年1回組み入れることにしました。

つまりはMGを真ん中にこれを主要エンジンとし、マイツールと脳力開発を両輪としたのです。脳力開発については、故・城野宏先生に直接学ばれた黒田さんに講師をお願いしました。 Photo_6

年間の経営計画として、「人材(のちに人財と改めました)教育には、MQの2%を充てる」と規定しました。ざっと年間250万円くらいの予算となります。貧乏会社にはかなり厳しい額でした。

しかし、これは譲ってはいけないことだと覚悟を決めました。社員教育関連の給付金を一所懸命探し、2年目からは30~50万円くらい受給できるようになり、少し楽になりました。

さて、MGを会社全体でやりたいと思われている話はよく聞きますが、なかなかうまく軌道に乗らないということも耳にします。もちろん、私の会社でも「アンチMG」という意識を持つ社員がいました。

当初は半数以上がアンチであったと思います。親会社から(落下傘で)やってきた専務が何をやるというのだ、という思いだったでしょう。結果を出すしかありませんが、結果が出るのは少し先です。

腹をくくりました、最初はとにかく強制でもいい、何が何でもMGをやらせる。なぜなら必ず効果が出て、良い結果を生むに違いないからと信念を固めました。

朝礼の場はもちろん、営業の会議の場などで何度何度も「なぜMGなのか」を語り、時にはアフターファイブの吞みの席でも「MGの必要性」と会社の近未来を熱っぽく語りました。

年間の期数義務を定めたのもその延長です。「会社はあなたの成長のためのお金を出すから、皆さんは時間を提供してほしい」と言い続けました。

結論から言いますと、数年で「MGはイヤ」という社員はほぼなくなりました。消極的であった社員は結局会社を去って行きましたが、それは幸い数人にとどまりました。

こうして少しずつ成長していく社員によって、業績は一気に回復していきました。5カ年計画の半ば、3年目には累積赤字が消え、税金(法人税)も納付できるようになりました。

しかしまだ、BSとCFは改善が道半ばでした。PL改善に続いて、いよいよ本丸に着手することになります。

「夕張線」よ永遠にサヨナラ!

今日から新年度、新元号も発表されるということですが、昨日で「平成は終わった」と勘違いをしているSNS投稿も少なくないようです。新元号は5月1日からですのでご注意。


エイプリルフールに名を借りた「フェイクニュース」も流れていますが、中には笑えないものもあるようで注意が必要ですね。ユーモアジョークはいいですが、人を惑わすことのありませんように。


そんな中で、昨日3月31日でJR北海道のローカル線の一つが、長い歴史に幕を下ろしました。石勝線夕張支線、石勝線の新夕張から夕張までの盲腸線ですが、かつては国鉄『夕張線』という名を持つ重要な路線でした。


何が重要かといえば、最盛期の石炭輸送の要となっていたのです。当時はまだ石勝線は開通しておらず、室蘭本線の追分駅を起点に紅葉山(現在の新夕張)を経て、夕張を結ぶ中で、炭坑に伸びる私鉄や専用線がたくさんありました。


次々にやってくる石炭列車を牽引していたのは蒸気機関車(SL)で、沿線ではどこでもその煙を見ることができました。夕張線で活躍していたのは、大正生まれの9600形(キューロク)と最多両数を誇るD51形(デゴイチ)でした。


私鉄や専用線には、オリジナル機や古典機関車もあり、それらを見て回るのが楽しみでした。各駅はそれぞれ多くの貨物側線を持ち、セキと呼ばれる石炭貨車が並んでいました。5_71


私が初めて夕張線を訪れたのは1971年の夏7月、この年は天候不順が続いていて、冷たい雨が連日降って薄手のジャンパーでは寒いくらいでした。そんな中を北海道周遊券とカメラ2台を抱えて、道内を回っていました。


札幌のユースホステルを基点にしていましたので、夕張線には1日足らずの余裕しかなく、しかも当時は情報も少なくて全てを回ることはできませんでした。


しかも、末端の一駅鹿ノ谷から夕張までは乗り鉄ができず、その後に一駅だけ乗るためにやってくるということもありました。その頃にはすでにSLはなく、ディーゼル機関車に牽かれた石炭列車も僅かになっていました。


そんな「夕張線」が昨日で廃線になりました。増結されたり、臨時列車も運転されたようですが、いずれも満員の乗客だったそうです。今朝は、当時撮影した中から2枚の写真を掲載します。


上は清水沢駅から出ていた大夕張鉄道の石炭列車(入れ換え作業中)、牽引機はキューロク形の5号機。下は沼ノ沢駅を発車するデゴイチ・D51117です。
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