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もしかしたら山形県酒田市へ

■連載『MG&脳開企業革命』(6)

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人事教育課への配属は、「人と関わる仕事をしたい」という希望が通ったわけですが、任された仕事は社内報の編集・発行が主でした。当時は毎月発行で、表紙はカラーでページ数も多く充実していました。

 

ところが1973年の第1次オイルショックの影響がじわじわ出てきていて、秋頃からレイオフが始まり、週休3日とか4日の変則シフトが導入されると共に、労務部は公的補助金を受け取るための書類づくりが多忙を極めました。

 

工場は基本として止められないので、交代勤務を維持しながら個人の休みを増やしていくわけで、班の定員を維持しつつ、止めうる機械は止め、必要な機械だけは24時間稼働を続けていました。

 

労務部員も同様に出勤日が減るのですが、仕事の量は同じどころかレイオフ関連の業務が増えて大変でした。毎日のように遅くまでの残業を強いられるとともに社内報の見直しも始まりました。

 

まずページ数が減らされ、次には表紙もカラーからモノクロに変更、さらに毎月発行から隔月発行になることが検討されることになりました。余力時間は、他部門他部署の手伝いに回されたわけです。

 

とはいえ、翌春入社予定の人数は今さら変更ができず、確か学卒は我々より多い60人くらい、高卒ワーカーも確か300人近く採用していたように記憶しています。そのワーカー教育の企画を任されることになりました。

 

23歳の時ですが、これが今につながる人材教育の嚆矢となるわけです。独自のカリキュラムを工夫して作ってみたり、YH時代にやっていたゲームをアレンジしたプログラムを作ったりしました。

 

その内に、新たな状況変化が起こり始めていました。それが、「アルミの一貫生産体制」プロジェクトで、もちろん私が入社する以前から推進されていたものです。

 

住友軽金属はいわゆる一次加工メーカーで、製錬会社から購入するアルミのインゴットを溶かし、それを延べ板や管あるいは形材に加工して二次加工メーカーに売ることを行としていました。

 

アルミインゴットは原料のボーキサイトから作りますが、それらは全て輸入品でした。そこで製錬工場を建設して、国内一貫生産体制を目指すというものでした。

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住軽アルミニウム工業が別会社で設立され、山形県の酒田市に工場建設が始まり、それが完成に近づいていました。電気の塊と言われるアルミですので、火力発電所もまた別会社で傍に造られました。

 

社内報の担当者として、社長や担当重役にインタビュー取材をしましたし、酒田に取材にも出かけました。特集号を組んだこともありました。

 

しかし結論から言うとこのプロジェクトは失敗に終わり、別会社は解散、工場も取り壊され酒田共同火力発電所だけが海岸沿いの広大な敷地に残っています。要するに高すぎる電力に、採算が取れなかったのです。

 

その裏に、住軽金の本家会社である住友金属(現新日鐵住金=住友グループから離脱)と、住友化学とのトップ同士の熾烈な主導権争いがあったことは、後々に知りました。

 

それよりも問題は、私がもしかしたら酒田に「出向」になるかも知れないということでした。

ベンチャー経営者に告ぐ

ベンチャー、とくに学生ベンチャーが各地で脚光を浴びているようだ。私がかつて住んでいた長岡市でも、市内の技術科学大学や造形大学の学生が起業する例を見てきた。

 

これそれ自体は大いにけっこうで、歓迎すべきことだ。大いに奨励し、支援していくことも必要だろう。それによって、新しい技術や製品が力を発揮してくれて、暮らしや企業に役立ってくれると良い。

 

事実、各方面から注目される企業も生まれており、発展の道を歩み始めた会社も少なくない。地方から中央へと進出していく事例も、いくつか見られるようだ。あるいは大手企業の支援を得られている例もある。

 

そこからまた新たな創造が生まれていくようであれば、なお素晴らしいことだ。そういう方向に向き始めている例はまだまだ少ないようだが、これから修験してくる期待も大きい。

 

ただし、諸手を挙げて良かった良かったと言えるわけではない。起業して数年はいいのだが、そこで壁にぶつかってしまう事例が少なくない。いや、技術やアイディア、製品が受け容れられなくなったわけではない。

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むしろその逆に、さらに需要が伸びて売上高が右肩上がりになっている。引き合いも多いが、まだ体制が整わないが為に対応ができないでいる事例もあるようだ。

 

問題はどこにあるのだろう、大きく2つくらいを挙げることができる。

 

1つは、既に書いたように体制が整わないことだ。起業して一人で全てをこなせるのは最初の内だけで、発展のペースに入れば組織の整備も必要になってくる。とても1人や2人では手に負えなくなる。

 

それもうまくいって軌道に乗り始めると、2つめの問題が出始める。それがキャッシュフローだ。当初は公的支援の利用も可能だったり、有望起業に対しての融資も受けられる。

 

しかし支援には限りがあるし、融資は一定の期限が来れば、元金の返済という状況が待っている。また、製品・商品の販売を業としていると、売上が増えれば仕入も増していくので、資金需要が自ずと増えていく。

 

ところがベンチャー経営者は、みんながそうだというわけではないが、技術的なこと、アイディア創造や応用には強いが、経営特に会計・経理的なことには疎いという人が多い。

 

右腕としてその方面に長けている人材が側にいればいいが、創業・起業時にはそこまで頭が回らない。回らなくても当面はキャッシュが回っているのだが、その瞬間は突然にやってくるかも知れない。

 

そんなわけで、あたら素晴らしい会社がある日突然に行き詰まったりする。それによって、先端技術が消えていったりしてはもったいないことだ。支援する機関を作る動きが出てきたところもあるが、まだ少ない。

 

これはやはり、ベンチャー経営者自身が最低限の実践知識を身につけるしかない。ややこしいこと、専門的なことは例えば税理士に任せばいいが、日常必要なことは自らやること、もしくは相棒を持つことが大切だ。

 

あなたの持つ素晴らしい技術、アイディア、製品・商品を世の中に広めて役立たせるために、専門外のことと忌み嫌わずに、会計特にキャッシュフローの実践知識は身につけてほしいものだ。

省時間を目的として年賀状は断捨離

気が付いたら11月も残りは今日を含めて3日、週末の土日はもう12月、師走を迎えます。

 

色んな方から喪中のハガキが届き始めました、そんな季節だなとボンヤリしていましたが、そういえば年賀ハガキを用意しなければ。

 

子会社の社長という立場を退いた後から、徐々に年賀状の枚数を減らしてきたのですが、ここらでさらに、一気に減らそうかと考えているところです。

 

というのも、Facebookで「毎日のように」お目にかかっている方が多いわけで、無沙汰の挨拶という意味で言えば、、減らしても佳いのかと。

 

日頃なかなかお目にかかれない方や、仕事の上でお世話になっている方に絞らせていただこうかと。

 

それならいっそ、全部やめてしまおうかとも思ったのですが、それではやはり失礼になってしまう方もいらっしゃいますね。

 

というわけで、早速に名簿づくりに取りかかろうと重い腰を上げました。

 

もちろん名簿はマイツール(MT)の中にデータが入っていますので、まずは「作業ファイル」に移してから、じっくりと年賀状を差し上げる方にマークを付け始めています。

 

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今日中にはチェックを終わり、TMコマンドで集計をして、SHコマンドで発送名簿を作る。これは毎年の作業なので、今夜には終わるでしょう。

 

表書きについてラベルにするか手書きにするか、毎年悩むところですが、今年はラベルにしようかと考えています。手書きが面倒というわけではないのですが。

 

多い年には700枚くらいは手書きで書いていましたから、100枚くらいは訳ないことですが、そこに何か工夫を加えられないかなと、ちょっと頭をひねってみて。

 

いずれにしても、ほとんどの方にはFacebook、あるいはその他のSNSでの新年ご挨拶になる予定です。

 

断捨離ではありませんが、省時間ということで。

住友の一員になりました

■連載『MG&脳開企業革命』(5)

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1972年の夏頃(大学3年次)からは、下宿はそのままで、岡山市内のユースホステル(YH)岡山県青年会館で過ごす時間が増えてきました。

 

夏休み中の大半はヘルパー(ボランティア)として過ごしました。毎晩のミーティングでは、自分で言うのも何ですが人気者になり、愛称までつけて呼んでいただきました。私を目当てにやってくるホステラーもいたとか。

 

そうなったきっかけは、前回も書きましたが前ペアレントの死でした。私との関わりは薄かったのですが、YH内での仲間との交流の中で、その存在の大きさを感じ、その方の心に寄り添ってみたいと思ったのです。

 

結局、神戸市内の下宿は翌春を待たずに契約を打ち切って、YHの中で生活することになりました。つまり常駐のヘルパーになったわけです。その春には、現在の妻との出会いもありました。

 

大学4年次は、ほとんどの履修単位は取れていましたので、卒業までに必要なのはゼミの単位ともう1科目くらいになっていました。ゼミも月に1回くらい出てレポート指導をいただけばよかったのです。

 

そんなわけで、YHの中で出会いや仲間との交流を通じて、あるいは時間を見つけて旅をすることでの学びが多かったわけですが、学生の本分としてもう少し学部で学んでおけばという反省もあります。

 

隣接して経営学部と経済学部がありましたから、特に前者について希望履修を申し込めば、もしかしたら経営や会計に関するもっと深い学びができたのかも知れません。

 

それとは別に、卒業を控えて就職をどうしようかという課題が目の前にありました。親は(父親が公社員でしたので)公務員などになってほしいと、願っていたようです。しかしその気は全くありませんでした。

 

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一般の企業に勤めたいと思っていましたが、3月末までほとんど就職のための活動はやっていませんでした。心配した義理の従兄が、自分の会社(重役でした)に入らないかといってくれましたが、縁故というのもなぁと断りました。

 

それでも周りがどんどん就職を決めたという話を聞くと、さすがに焦ってきます。5月の連休を過ぎて、YHの仕事も暇な時期になりましたので、ようやく重い腰を上げて会社訪問を行いました。

 

まだ就職可能な会社をというような情報は、そのころはネットなどもないので分からず、目星を付けた何社かを3日くらいで回りました。その結果、3社から内定電話や通知をいただくことができました。

 

その中で、最初に電話をくれた会社である、住友軽金属に就職を決めたわけです。本社機能は既に東京に移転していましたが、発祥地でメインである名古屋製造所に43人の同期仲間が集結して、社会人1年生がスタート。

 

3ヶ月間の新人研修があり、その内1ヶ月は工場で4直3交代勤務も体験、6月に労務部人事教育課に実習生として配属されました。最初の仕事は毎月発行の社内報編集、取材も任されました。

 

またワーカー教育にも関わることになりましたが、現在の仕事が人材教育であることを思うと、運命はその道につながっていたのかと感じてしまいます。

来年もまたMGシニアを受講します

来年6月末のMGシニア研修(三浦海岸)に、参加の申込をした。

 

前回の受講が昨年の10(11)月だったので、1年半ちょっとになる予定だ。3年に1度は受講のことということになっているが、機会を作れればそのチャンスは逃さないと決めている。

 

シニア研修のフル参加は多分、13か14回目になるはずだ。1日とか2日だけの参加も含めると、おそらく20回は超えているだろう。それだけやっても、いつも新たな発見がある。

 

だからこそ何度でも「門を叩く」わけだが、それにはやはり理由がある。

 

最初のシニア研修受講は、1988年の7月(神戸)だった。まだMGも50期体験前後の頃だ。いくらか分かった気になっていた頭を、思いっきり殴られた気分だったのを思い出す。

 

以来、ゴールを目指して突き進んできたわけだが、やればやるほどゴールが、いつも一歩向こうにあることを感じる。前回、昨年もそうだった。だからこそ、また参加するのだ。

 

最初のシニア研修を受講した後すぐに、自社内の社員研修MGのインストラクターをやったのだが、ハッキリ言って散々だった。

 

なぜか、「分かっていない」自分を発見して愕然としたわけだ。分かった気になっていた自分が恥ずかしかった。そんな自分が、人を教えられるのかと思った。

 

だから、それからも時間があれば、西先生を追いかけてジュニアコースを繰り返し受講した。当時は今のように各地で盛んにはやっていなかったので、可能なところへ出かけた。

 

おかげで先生からは「全国銘柄」とまで呼ばれるようになったが、学べば学ぶほどに、まだまだインストする力のないことを思い知らされた。

 

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社内MGでは、徹底的に西先生の真似をした、口まねまでも。各地のMGで、先生の代わりに色々とやらせていただくことができたのは、とてもラッキーだった。

 

その体験があるからこそ、今もそのペースを崩していないわけだ。正しいMGを、MGの考え方、思想と哲学を伝えていきたい。そこに自分の体験を付け加えて。

 

例えば、MGとMT(マイツール)との両輪を回し続けること、ポケコンもただプログラムを入れるだけで終わらせては惜しい。

 

これからMGシニアを受講する方は、そこのところもしっかり考え実行してほしい。そうでなければ、正法のMGは伝えられないと、私は思うわけだ。

仙台MGで炎上リスクカード

昨日から仙台MG(第22回)に参加しています。

 

元々地元の日産ディーラーの社員研修からスタートした当地のMGですが、その後企業を離れて「仙台MG」として今に至っています。

 

主催している「ももさん」の思いを少しでも支えたいということで、特に支障のない限り毎年参加しています。一時は東北でMGを続けているのはここだけ、になりそうなこともありました。

 

そんな中で、東北の中心である仙台でMGを続けていきたいという強い思い。共鳴するところも多いのです。20181124_120344

 

今回は三連休の2日間ということもあるのでしょうか、例年よりやや少なめの19名、3卓でやっていますのでA卓は7名です。

 

久しぶりに新人社員を送り込まれた会社もあったりで、MGの初体験者が4名、6年ぶりというベテランもいらっしゃるなど、多彩なメンバーに恵まれています。

 

そんな中で今回は何をやろうかと考え、前回の柏崎ではやや中途半端に終わった「教育チップだけのMG」に挑戦しています。

 

第2期は順調にいって、頭に描いた以上に良い態勢で次にいけるかなと思った矢先、なんと倉庫火災のリスクカードに見舞われ、一気に材料11個がパーに。

 

直前にラッキーカードで材料5個を@10円で仕入れ、ますますいいぞと思ったところで、無災害倉庫を借りるタイミングを逸したのでした。

 

いけませんね、30年以上1300期以上MGをやり続けていてもこれですから。まだまだ学べよと頭を叩かれた感じでした。目が覚めましたね。

 

第3期はそのマイナスを取り返すことで精いっぱいでしたが、なんとか予定の数字までは回復できましたので、今日2日目は初心貫徹で参ります。

 

さてどんな結果を出せるか、その中で新たな学びと気付きに出会えるか、楽しみな1日になりそうです。

三連休初日は乗り鉄の旅

新潟から仙台へ、今では大宮経由の新幹線乗り継ぎがメインルート。乗り換え時間を入れても3時間ちょっとです。高速バスなら直通、こちらも4時間ちょっとの旅。

 

その昔の国鉄時代には、2つのルートに急行列車が設定されていました。一つが新津から磐越西線ルートで郡山を経由して、仙台に至る急行「あいづ」。

 

そしてもう一つが白新線・羽越線を走って、坂町から米沢に抜け、山形から仙山線で仙台に至る急行「あさひ」(のちに「べにばな」)でした。20181123_083226

 

どちらも2往復ずつ走っていた時期がありました。今回の「乗り鉄」旅は、後者のルートを辿ることにしました。もちろん急行はすでにありません。

 

1日に1往復だけ、新潟から米坂線経由で米沢に直通する快速が運転されています。「べにばな」の愛称も昔のまま、快速区間は坂町までですが。

 

かつてはキハ58形の4連くらいで、最盛期にはグリーン車も連結していたと思いますが、現在はキハ110形の2連、新潟発車時は7割くらいの乗車率でした。

 

朝日連峰に登る、あるいはトレッキングや温泉への乗客が降りてしまうと、車内は閑散としてきます。山々が白くなり、県境を越えて小国に入ると、里にも雪がうっすら。

 

まだ紅葉が残っていて、そこに白い雪が降っているという、この季節ならではの車窓風景でした。

 

米沢には向かわず、手前の今泉で下車して、山形鉄道フラワー長井線で赤湯までショートカット。このローカル線、映画の「スイングガールズ」にも登場しました。

 

赤湯から山形に出てここで昼食タイム。さらに仙山線の快速電車で仙台へ。かつては気動車急行が喘いで越えた峠もあっという間です。

 

昼食休憩を含めて6時間半の旅、晩秋と初冬の狭間をのんびりと通り抜けた、乗り鉄の旅でした。ホントに佳い休日でした。

人との出会いの縁は奇なものなり

■連載『MG&脳開企業革命』(4) 

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大学時代のこと、それほどとりたててお話しする話題があるわけではありません。ただ、今につながる小さなご縁があったわけで、そこに触れないわけにはいかないでしょう。

 

70年安保の学生運動真っ只中であったことで、前期の授業は半分も開かれないままに終了。履修した科目はとりあえず取りこぼしもなく後期に突入、ここから本来の学生生活でした。

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当初は高槻市の自宅から神戸(六甲)まで通っていました。バスからの乗り換えが便利で、乗換も1回で済む国鉄を選択しました。当時は快速電車がまだ六甲道駅には停まらず、芦屋駅で乗換。

 

六甲道駅からは教養部のある鶴甲(つるかぶと)へはバスで。何しろ山に向かっての登り道ですので。ただ、親から交通費を「借金」しての学生生活でしたので、数ヶ月で歩きに変更しました。

 

家からは、入学時の入学金と4年間分の授業料を渡されただけで、「後は自分で」やるように言われました。そこでバイトとして家庭教師の口を見つけたり、それではとても足りないので稼ぎ口を探しました。

 

それがパチンコ、六甲道駅前のパチンコ屋で稼ごうと思い、1ヶ月間は投資してデータを集め、それを大学ノートに記入して分析し、2ヶ月目から「回収」に取りかかりました。これで何とか交通費と食事代は稼げました。

 

しかし、通学時間(片道1時間半以上)がもったいないので、下宿を探して2年生になった頃からそちらに移りました。港の見える斜面の大きな下宿屋、しかも南側に張り出した4畳の小さな長細い部屋でした。

 

残念ながらその家は、阪神大震災で大きな被害を受けて取り壊されてしまいました。阪急電車の沿線でしたが、駅と駅の中間くらいの位置、大学までは2km以上歩いて坂道の上り下りでした。

 

ところがその下宿に落ち着いていたのは1年ほどで、鉄道研究会の仲間と旅に出たり、その中で体験したユースホステル(YH)に興味を持ってひとり旅をし、ついにとあるユースホステルに出会うことになります。

 

それが岡山市内にあったYH岡山県青年会館、古い建物でかつてある宗教施設の建物だったものを移築し、増築した定員60名余り、詰め込めば100名くらい泊まれるYHでした。

 

初めて泊まったのが1972年の冬、新幹線が岡山まで開業する直前でした。出会ったスタッフの温かさに感激し、そして病床にあった館長(ペアレント)のN氏との出会いがありました。そして5月、N氏の病死と葬儀。

 

自然な形で、私自身もYHを支えるスタッフ(ヘルパー)の一人になっていました。そしてこのご縁が、やがて仕事につながり、さらには現在につながっていくとは、さすがにこの時には分かるはずもありませんでした。

 

人との出会い、その不思議なつながりを今も強く感じます。

ニッサンには死ぬまで乗らない

今日の「怒ってます」はゴーン容疑者だ。

 

ゴーン(と呼び捨て)に対しても怒りはあるが、それだけではない。一つは日産に対してだし、もう一つは手のひら返しでゴーンを批判する輩どもにだ。

 

後者からいこう。ゴーンが来日して日産の再建を「見事に」成し遂げた時、彼らはどう評したかを忘れたわけではあるまい。コストカッターの手腕を持ち上げ、カリスマ経営者と呼んだ。

 

確かに救世主ではあったと思う。どうしようもなかった当時の日産の財務を立て直し、組織に活を入れたことは確かだった。

 

しかしその手法は、本当に褒められたものだったかと一部の識者は評していた。しかしその声は僅かで、ほとんどの経営者、アナリスト、学者がゴーンを褒め称えた。

 

その裏で2万人とその家族がリストラの憂き目に遭い、5ヶ所の工場閉鎖で企業城下町の経済は沈んだ。その事実は、華々しい結果にかき消されていた。

 

下請け会社も悲惨だった。「見直し」で多くの中小企業がカットされ、残されたところもとてつもないコストダウン要求に泣いた。

 

そのことを今さらに持ち出して、ゴーンの批判をするなどはあきれてものが言えぬ。てめえたち、あれだけゴーンを持ち上げたじゃないか、カリスマ経営者だぜ。

 

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日産も日産だ。「塩路天皇」時代からおかしな会社だなと思っていたが、相変わらず根本体質というか企業風土は、なかなか正常にはならないらしい。

 

その一が今回の社長の会見だった。本気で頭を下げたのか? 何だか、「俺たちもゴーンの被害者だ」という顔をしていた。そう思わなかったかい?

 

内部抗争の結果だという話もある、内部派閥争いだとか。ゴーン派に対する社長派の巻き返しだとよ。余りに古典的な騒動、未来企業とは言えないね。

 

とにかく、社員やその家族、あるいは協力会社を巻き込まないでくれといいたい。雲の上の話は、雲の上だけでけりを付けてくれ。

 

私もホンの僅かではあるが日産の株主ではある、株価が上がろうが下がろうが痛くもないくらいの。どういう弁解を知らせてくるのだろうか。

 

ちなみに、ニッサンの車を所有したことは一度もない、これからも死ぬまで乗ることはないだろう。現在はホンダだ。

靖国大祭の日は会津陥落・降伏の日

小さい頃、「鞍馬天狗」が好きだった。大佛次郎さんの小説そのものは呼んだことはなく、嵐寛寿郎主演の映画や大瀬康一主演のテレビドラマで見ていた。

 

その鞍馬天狗が新撰組と戦い、「キンノウのシシ」を助けるのを痛快だと喝采を送っていた。小学生の頃だ、それもまた当然だったろう。

 

月形半平太も見ていた、テレビでは鶴田浩二が演じていたのだったかな。これにもまたかっこいい!と声援を送った、敵はやはり新撰組だ。

 

後に歴史を勉強していたら、土佐藩の志士・武市半平太の名前が出てきたので、この人がモデルだったのかと勘違いしていたこともあった。もちろん、全く無関係だ。

 

いずれにしても、幼少の私の中では悪者が新撰組であり徳川幕府であって、正義の味方は勤王の志士であり、それを助ける鞍馬天狗や月形半平太だったのだ。

 

まさか薩長新政府の流れをくむ時の政権が、そういう番組を後援していたのではないだろうけど、子供の心を洗脳してしまうのはいとも簡単なことだと嘆息する。

 

何しろ無批判に、上記のように理解していたわけだ。幼少の頃どころか、つい30年くらい前まではまだ本気で徳川幕府が悪で、それを倒した明治新政府が善だと理解していた。

 

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それを覆すきっかけとなったのが、河井継之助という存在だった。新聞連載は1960年代後半だが、私が文庫本で読んだのはそれから20年も後だった。

 

河井継之助という幕末の英傑を、私はその後様々な本を求めて読みあさった。そして、もしかしたら西郷や大久保、あるいは勝海舟や福沢諭吉よりすごいヤツだと感じた。

 

その余波として、幕末の官軍といわれる薩長を中心として討幕軍、その彼らがやったことは一体何だ、と怒りが巻き起こってきた。

 

特に会津、そして長岡に対して。庄内はなぜか崩壊を免れたが。それを思った時、今一度違った角度で幕末史を見直さなければと思ったわけだ。

 

そして何度か書いたが、私は靖国神社には詣らない。そこには会津や長岡など、いわゆる『賊軍』と称される兵士たちの霊は祀られていないからだ。

 

死んだら敵も味方もない、平等だという日本人「本来の心」のない靖国神社には、散歩には歩いても決してお参りはしないだろう。

 

知っていますか?靖国神社の大祭の日(9/22)というのは、会津鶴ヶ城陥落・降伏その日だということを。あるいは鳥羽伏見の戦い当日(1/3)も大祭の日。

 

そして彰義隊に対し、その最初の大砲(アームストロング砲)を撃つよう命じた大村益次郎の像が、歩く人を見下げるようなところには行きたくないと思うのが本音だ。

もったいないことをした不真面目学生

■連載『MG&脳開企業革命』(3)

前回は何とかK大学に現役合格したところまでを書きました。これにも実は紆余曲折があり、ちょっと寄り道してそのことにも少し触れておきます。

 
11月下旬までK高校の陸上競技部で現役を続けてきたことにより、本格的な受験勉強は12月に入ってからになりました。実は最終志望校も未決定でした。

 
校内での模試(実力テスト)を経て担任の先生(既に故人)との最終面接、私の第一志望は別のK大学(文学部)、「どうですか」と聞いた私への先生の答は「8:2やな」。

 
「えっ、80%も(通る確率)があるんですか?」と聞こうとして、やっぱりやめました。そんなはずはないですよね、先生の微笑を見て確信しました。

 
そこで志望校を変えたわけですが、ついで(?)に学部も法学部に変更。理由は、K大法学部は講座数が多いということ、法学以外の講座も充実していること。

 
ところが願書を出してから、とんでもない事実に気が付きました。K大法学部の入試の配点で、数学の点が150点(他は100点)もあるということ。

 
ぎょぎょっとしましたね、何しろ数学は物理と並んで苦手科目。物理は選考せずに化学が取れましたが、数学(数Ⅰ・数ⅡB)からは逃れることができません。

 
えい、ままよ!という感じで入試を受けましたが最初が数学、これが何よりラッキー。普段なら解けるわけもない、第1問の難問がスラスラっと解けてしまったのです、奇跡だ!

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あとは得意の歴史2科目(日本史・世界史)で得点を稼げたので、勝手に合格を確信しました。入試が終わって、「乗り鉄旅」に出てしまったくらいですから。

 
そんなわけで、晴れてK大の法学部生になりましたが、時は1970年、世は大阪万博開催で盛り上がり始めていましたが、大学は紛争のまっただ中でした。

 
私自身もいささか「左かぶれ」していたというか、ある新左翼セクトにシンパシーを持っていましたので、積極的ではなくてもそれなりに活動に参加していました。

 
授業は始まりません、まだ4年生の卒業試験が行われていませんでしたから。入学式は5月の中旬でした。6月の半ばに入ってからようやく授業開始、でも多くが妨害されました。

 
前期(教養課程)はほとんど試験だけの授業や、出席だけで単位がもらえた講座もあり、この状況を見て私の「右転換」が(なぜか)始まったようです。

 
ところでK大法学部は旧商大の伝統を継ぐ学部、隣接して経営学部と経済学部がありました。今から思えばもったいないことをしたものです、不真面目な学生でした。

 
ついに経営などに興味を持つことなく、卒業までを過ごしてしまったのでした。

売上高で比較しても始まらない


売上高は役に立たない。

 
これは、MGの開発者である西順一郎さんの言葉ですが、ドラッカーも一倉定さんも表現は違え、同様のことを言われています。

 
ところが企業の大半は相変わらず売上を追いかけ、(売上)規模の拡大こそが第一だという考えを基本に経営をされているようです。

 
昔、そんな話をあるセミナーでやりましたところ、ある経営者の方が「そうはいっても売上がなければダメでしょう」とおっしゃいました。

 
余りにポイントのずれた発言に一瞬返す言葉も思いつかなかったのですが、とりあえずは「その通りですね」とお答えしました。

 
要は売上の中身だということをお話ししたいのですが、その当時まだ若くて学びが足りなかった私は、反論の言葉を飲み込んでしまったのでした。

 
考えてみれば反論することでもありません。売上ゼロであることを前提としているわけでもなければ、形としては「売上」として表示されるだけのことですから。

 
「売上100万円」といっても、中身は全ての会社で異なります。100円の商品を1万個売って100万円、あるいは100万円のダイヤモンド1個を売っても100万円。

 
私の会社でも5万円のセミナーに20人参加いただければ100万円、50万円の企業研修を2つ実施すれば100万円。

 
問題はその中身です。100円の商品の原価が50円なら粗利益が50万円、ダイヤモンドの原価が70万円なら粗利益は30万円。ちなみに当社の場合は売上イコール粗利益。

 
だから、売上で比較してみたところで始まらないというわけです。視点を粗利益に移してみてはいかがでしょうか、しかしこれも『絶対』ではない。

 
詳しいことは、MG(MQ戦略ゲーム)セミナーの中で、ということにしておきましょうか。

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先んずれば自分をも制す

11月もはや後半戦に入ろうとしています。「平成最後の」という冠詞が付くことが多いこの頃ですが、カレンダーや手帳にはまだ新年号や特例の休日は示されていませんね。

 

それはそれとして、手帳もそろそろ来年用のモノにシフトチェンジのタイミング。今の手帳から新しい手帳への記入変更なども、これからでしょうか。
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私は長年『マンダラ手帳』を愛用していますが、手に入れるのは9月の上旬から中旬、その頃から少しずつスケジュール表などの転記を進めてきています。

 

というのも年間予定表は3年分用意されているので、例えば2019年の決まった予定は、すぐにこちらの方にも書き込みます。

 

月間予定表は12月から書き込めるようになっていますし、週間予定表は今週11/19分から書き込めますので、11月については2冊併用、12月からはもう新しい手帳で行動します。

 

来年の予定も、6月までは一部の仮スケジュールを除いてほぼ完了、7月からの下半期についても、自分の主催セミナーなどはほとんど決まっています。

 
スケジュールは先行管理というか、「決めて書き込んでしまう」ことがポイントだと考えています。未定のモノでも、書き込むとほぼそれで決まってしまうものです。

 
また「やろうかやるまいか」と迷うようなことでも、スケジュールに書き込むことで「やろう」という方向に、脳が働きます。

 
未定のスケジュールも、『年内に決める(決めていただく)』ということで残り40日余りを動いていきます。

 
先んずれば人を制す、というよりも「自分をも制す」ということなのでしょうね。

感動のない会社に未来はない

あなたの会社の「売り」はなんですか。

 

色んな答が返って参ります。商品やサービス、品質や価格、イメージやブランド、エトセトラ。たまには「社員です」と胸を張る経営者もいらっしゃるようですが。いずれも当たり前の、無難な答ですね。

 

答がないよりはマシというところでしょうか。確かに何一つ「売り」がない、あるいは経営者や社員が自信を持って答えられないようでは、困りものというモノですから。

 

しかし、意地悪な私は「それだけですか?」とついつい言ってしまいたくなるのです。だってそうでしょう、それらは至極当然のもので、どれは一つくらいなければ困るでしょうに。

 

だけど、その「売り」は誰にも真似ができませんか? 世界でたった一つ、あなたの会社のモノだけですか?

 

中にはあるでしょうね、オンリーワンの商品、オンリーワンのサービス、オンリーワンのナントカカントカ。他社にはとても真似のできないモノですよと。

 

それはそれでいいのです、当然にあるべきモノですから。ですが、そのモノは「感動」を与えていますか? お客様に感動を、そして何より経営者自身や社員の皆さんの感動を。

 

つまり、感動を創り出しているでしょうか、創り出した感動を世の中に提供できているでしょうか。Photo

 

感動を創る人たちがいて、感動を提供する人がいて、その感動に感動してくれる人がいる。そんな積み重なった仕事になっているでしょうか。

 

単に良いものを作ればいい、いいサービスを提供できればいい、品質が良ければ、価格が適正であればそれでいいだろうなどと、考えてはいないでしょうか。

 

もはやそれらのことは当たり前のことで、それすらできないようでは企業として存在することすら危ぶまれます。さらにその一歩先がなければ、あなたの会社の10年先、いや数年先さえ覚束ないのではありませんか。

 

利益だけを追求していく、そのための良品、付加価値、高いサービス、高品質、ブランド、それだけで将来ずっとお客様から選ばれる会社であり続けられますか。

 

あなたの会社の存在そのものが「感動」であるような、そんな会社を創っていきませんか。お金をかければできるものではありません、それどころか余りお金をかけずともできることならいっぱいあるはずです。

 

小さな会社だからこそ、そこに集まる社員さんと経営者だからこそ、いわゆる『感動経営』を目指すこともできるのではないでしょうか。難しく考える必要はありません、思いつきでもいいからまずやってみることです。

 

やってやってやり続ける、そこにこそ本当の答があるはずです。

順調満帆(?)な生い立ちを振り返る

連載ブログの2回目、少し私の自己紹介をさせていただきます。

 

私は大阪生まれの大阪育ちです。生まれたのは大阪のど真ん中、天王寺区の烏ヶ辻町、最寄りの駅は大阪環状線(当時は城東線)の桃谷駅。大阪逓信病院で産声を上げました。

 

亡くなった父が出征して内蒙古で終戦、戦後はシベリア抑留となり帰国し母の元に戻ったのが昭和23年、その最初の子として昭和26年に生まれました。予定日より40日早く、かなりの未熟児だったそうです。

 

それでも無事に退院できて、大阪市旭区今市町にあった電電公社の社宅に戻って来ました。近くに淀川があり、また大通りには大阪市電が走っていました。産土神社は近くの大宮神社、今でも時々お参りをしています。

 

この地から、幼稚園に進む前に東淀川区の十三(にあった社宅)に転居、4月から仏教系の幼稚園に上がります。ここで、小学校と中学校を卒業することになります。

 

そして高校も同地にあった(中学校とは道路を挟んで向かい側)府立高校に進学しますが、自宅はその春に新築された新居に移り、バスと電車通学が始まります。

 

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新居は大阪と京都の中間である高槻市に位置し、国鉄の高槻駅から北へバスで15分ばかり走った山の斜面に開発された大きな住宅団地の中でした。家族は両親と5歳下の弟の4人家族、弟と共同の部屋が与えられました。

 

そこから高校まではバスと電車(国電)を乗り継いで、前後の徒歩を含めて1時間半近くかかりました。並行する阪急電車を利用すればもう少し時間はかからないのですが、始発電車に座れる国鉄を選びました。(写真は高校・旧校舎に残る戦時中の機銃掃射跡)

 

クラブ活動もやっていましたので、朝は5時過ぎに起き6時過ぎに家を出て、クラブ活動を終えて帰宅するのは夜の7時半から8時前でした。

 

3年生になってからは時間短縮ということで阪急電車通学に変更、駅から学校までは繁華街・十三を通り抜けて行くことになります(小学校時代も繁華街をかすめていましたが)。

 

有数の進学校でしたが、受験勉強を始めたのは12月頃から(11月下旬に開催された大阪高校駅伝大会に出場)、それでもなんとか神戸大学(法学部)に現役合格できました。

 

ここまでは、小学校までは体の弱かったこと(5年生で呼吸器の病気で入院)を除けば、まずは順調な人生を歩んできたのだと思います。また、現在までつづく『鉄道趣味』は、就学前から始まっていました。

 

楽観的というか、なんとかなるさという考え方も、大学進学までの18年間で身についたものかも知れません。波瀾万丈でもなかったわけですが、それが一転して大きく変わっていくのでした。

 

ちなみに、現在も関西弁のイントネーションは直りませんし、セミナーでは大阪弁を多用する方がしゃべりやすいのは、こういう生い立ちが背景となっていることを付け加えておきます。

新潟の115系電車は最後の活躍中

旅日記ではありませんが、少し鉄道のことを書いていこうと思います。

 

各地にいわゆる「旧国鉄形」と呼ばれる車両が、JR化から30年以上経つ中で最後の活躍の時期を迎えています。

 

新潟地区でもかつて活躍した特急形の485系電車は廃車され、唯一観光電車に改造されている「きらきらうえつ」用車両も、ついに来年9月で引退が決まりました。

 

残るのは近郊形のモハ115系電車と、キハ47形気動車の2系列くらいで、他にはJR貨物のディーゼル機関車(DD51、DE10、DE15)と電気機関車のEF81形です。

 
この内115系電車も、新型車のE129形の増備がつづいており、残る編成も僅かになってきて、風前の灯火状態になりました。

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すでに新潟新製配置車両はなくなり、現在健在の車両は全て長野地区から移動してきたものばかりです。全て3両編成で、一部2編成併結の6連運転が見られます。

 
信越本線では快速電車運用が残っているほか、主として越後線全線と弥彦線の吉田-東三条間で運用されています。
 
先日直江津方面からの帰宅時には、柏崎から3連編成の吉田行きに乗車しました。半自動ドアですが、ドア開閉スイッチはなく、手で開けなければなりません(戸締めは自動)。

 
また、編成毎に車両カラーが異なってきており、オリジナルの湘南色の他、新潟色が旧型カラーを含めて4種類、そこに今度は弥彦カラーが加わります。

 
そんなわけで、異なるカラー編成の併結も僅かに見られる可能性があり、それもあと1年余りのことかも知れません。E129系の増備が進めば、早晩運用廃止が必至です。

 
越後線沿線に住む私も、115系に出会う機会が減ってきましたが、たまには狙いを定めて乗り鉄しましょうかね。
 
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定年制など要らないでしょう

少子化と高齢化、どちらも企業経営にとっては頭の痛い問題です。しかし、この現状や将来をどうこうすることはできません。

 

環境条件の変化はありのままに受け容れて、その状況に対して何ができるかを考えて実行していくしかないのです。小さな会社にとっては、限られた対応の中での模索になります。

 

その中で、高齢化への対策はもしかしたら小さな会社だからこそ、できることがあるといえる領域なのかも知れません。

 

ところであなたの会社には、いわゆる高齢の社員はいらっしゃいますか? 今の制度で言うと、65歳以上が高齢者というくくりになっています。

 

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定年制度が厳然としてある会社の場合は、世の中の動きに合わせて定年の延長を何度か行ったり、あるいは最近では再雇用や定年延長を制度化している会社も多いでしょう。

 

そこでいっそのこと定年制などは廃止してしまえと、バッサリとやめてしまう会社も出てきました。その昔とは違い、今の世では60歳どころか65歳でもまだまだバリバリです。

 

健康平均年齢は70代の前半だそうですが、70歳を超えても頭も体も壮健だという方も少なくないはずです。

 

私なども来月67歳になりますが、月の半分くらい県外に出ていることもありますし、セミナーでは半分立ちっぱなし、話のし通しで過ごしています。

 

もちろん、若い時のように無理は利きませんが、適度に休養が取れていれば大丈夫です。おそらく皆さんの会社の高齢の方も、そうではないでしょうか。

 

特に今後ますます年齢が進み、反面年金などの社会保障が厚みを失っていく中では、むしろ「仕事をしたい」方が増えていくのではないでしょうか。

 

小さな会社こそ、その状況に合わせた制度をすぐに取り入れて、彼らを活かしきる企業体制あるいは企業風土をつくるべきです。

 

少なくとも硬直し、老朽化している制度など早めに廃止してしまいませんか。会社にとっても、社員さんにとっても本当にいい制度は何か、今こそがそれを実現していく時です。

 

後継者問題も含めて、10年20年前の考え方ではこれから先の未来はありません。思考の硬直化、行動の遅れは発展を妨げる大きな要因になってしまうでしょう。

 

一度、社員の皆さんと腹を割って話し合ってみませんか。

今日から書き始めます

お約束の連載ブログを今日からスタートします。

 

タイトルをどうしようかと迷いましたが、「MG&脳開企業革命」としました。MGと脳力開発の他に、MT(マイツール)もここには含まれています。

 

企業革命というのは、西先生の講演テープ『企業革命なう』からいただきましたが、そのテープ集の中に私の話も入れていただきました。千葉均さんの話も入っています。

 

1990年、私が販売子会社に出向したところからの話ですが、そろそろ記憶も不確かになってきている部分もありますので、その辺りはご容赦下さい。

 

なるたけ実際あったことを忠実に追っていきますが、どうしても出せない部分、例えば社員さんの名前や取引先の社名などは適当なアルファベットを付けていきます。

 

また数字の部分も出せないところがありますが、可能なところは実際の数字を紹介しながら話を展開していくことにします。

 

もう一つ、90年4月に出向した時点からの話ですが、やはりその前のやはりその前のMGや脳力開発との出会いに触れないわけにはいきません。

 

そこで、「前史」みたいな感じでまず90年4月に至る話から始めて参ります。

 

週2回くらいの連載予定ですので、次回は今週金曜日です。しばらくお付き合いいただければ幸いです。
 
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これからも年内は遠征がつづきます

20181107_152426 先週の火曜日から始まった今回の遠征、いよいよ今日が最終日です。といっても今日は移動、新潟への帰り道だけです。

 

柏崎MG(研修参加者)に始まり、クライアントの会社訪問・打合せや勉強会、そして週末はキャッシュフローMGセミナーのインストで締めくくりでした。

 

今回も、新たなご縁も含めて多くの方との出会いがありました。久しぶりの再会に、お酒が進んだ愉しい夜もありました。

 

天候にも比較的恵まれました。傘をさした日は1日だけ、雨の日でも外を歩く時間には雨がやんでいたという雨がやんでいたというラッキーもありました。

 

空いた時間での仕事のはかどりもあって、来年の脳力開発講座用サブテキスト(小冊子)作成へも、いくらかめどがついてきました。まだまだ先は長いようですが。

 

新たなセミナー・研修のスケジュールオファーもあり、こちらはどんどん土日が潰れていきそうですが、それもありがたいことです。

 

今回は「乗り鉄」旅はホンの短時間ではありましたが、秋の車窓も楽しめました。年内の遠征では、少し時間をとることも計画しています。

 

今週も金曜日から東京への遠征が控えています。明日1日はのんびりと過ごして、心身ともに休養しましょうか。それなりの年齢ですから、しっかり休まなくてはね。

 

では今週も明元素でいきますか。

第15回うかいMG(キャッシュフロー)開催ちう

この土日は岐阜市でキャッシュフローMGセミナー、昨年から中野一宏税理士さんとのご縁で開催していただいています。

 

「うかいMG」としては第15回目、CFMGとしては2回目となります。今回は12名(2卓)のご参加ですが、初CFMGは4、5人です。お一人は先月の伊勢CFMGから連続参加です。

 

全員がMG体験者で、100期を超えている方もほぼ半数ですのでスムースな展開。2期に自己資本300超えはなかったものの、3期は見事に正規分布です。

 

中間時での仕入決済も多くの方が軽くクリア、最悪でも材料売却でクリアされています。それでも次第に借入が増えていくところが、CFMGの難しいところ。

 

第3期の決算も夕方には完了して、戦略会計の基礎講義の後、翌日の経営計画記入まで進みました。よって、本日2日目はCF講義もたっぷりとできそうです。

 

今回の岐阜が終了すると今年の予定は残り1回、12月の神戸が最終CFMGとなります。来年2019年は、1月初めの東京(LR小川会計)CFMGから始まります。

 

今年よりも熊本セミナーが1回増え、さらに福岡セミナーが加わる予定です。また、京都でのセミナーも、昨年の通常MGから来年はCFに模様替えします。

 

今回も参加者から「改良点」の提案をいただき、早速12月の神戸から加えていきます。といっても基本的な内容には変更がありませんが。

 

さて今日も氣愛を込めていきますか。

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「おはぎといも」が歴史をねじ曲げた

「おはぎといも」、何のことかお分かりでしょうか?

 

今正に明治維新150年、大がかりなイベントこそ余り伝わっては来ませんが、地域によってはかなり盛大に祝っているところもあるようです。そう、お「はぎ」と「いも」のところなどでは。

 

おはぎは萩藩、すなわち防長州毛利家であり、いもとは薩摩島津家です。このはぎといもとが、明治維新というすごいことをやってのけたと、歴史の教科書にもハッキリと記してあります。

 

徳川幕府、徳川宗家はこの「はぎといも」に負けたことになるわけですが、歴史の事実を見ていけばどちらに「理」があるのか意見は分かれますが、私は『教科書通り』ではないだろうと感じています。

 

徳川慶喜が大政を奉還したのは事実であるわけですし、慶喜の目的が奈辺にあったかは別として、大政奉還時点で「討幕」の密勅を用意していたものの、それが偽勅であったことも明らかな事実です。

 

朝廷の反幕派公家たちや「はぎといも」の中の一部、例えば西郷や大久保、木戸たちは焦ったでしょうね。慶喜の巻き返しに遭うことは容易に想像できたでしょう。

 

しかも慶喜の目指していたものは、有力公家や大名による合議制であり、それは後に五箇条の御誓文につながる、「万機公論に決すべし」につながることなのですから。

 

慶喜はその合議政体をリードする立場、名称としては「統領」あるいは「議長」あたりを意思していたと思われます。孝明天皇も崩御前にはどうやらそういう形、あるいは慶喜そのものを支持していたようです。

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ところが実際の歴史は、異なる形で進みました。まさに、逆転サヨナラホームランと言えばかっこいいですが、どちらかと言えば「だまし討ち」でした。そして見事に、慶喜が期待していた「はしご」を外してしまいました。

 

それが「王政復古の大号令」なるもの。明治天皇の勅ではありますが、その御年齢から推察するに、天皇自ら勅の内容を考えられたとは思えません。まさに、討幕を意図する側のクーデターだったわけです。

 

しかし、教科書にはクーデターだとは記されません。なぜなら形だけでも実権を握った側による「仕掛け」なのですから。ここで慶喜が毅然として腹をくくれば、とは歴史のイフにしか過ぎませんね。

 

しかし、これで一巻の終わりとはいかなかったわけで、慶喜は辞官納地に全く応じなかったわけですし、しかも在日諸外国は幕府に外交権がなおあることを認めています。

 

そこで、討幕側は「血を見なければ収まらない」ということで、鳥羽伏見の戦いを仕掛けていき、幕軍はその挑発にむざむざと乗ってしまった。それが維新と言われるクーデターの真相ではないか。

 

といったことを、なぜ歴史教育として教えないのか。答は簡単明瞭、「はぎといも」が政権を奪取したからだ。政権側が、事実とは異なる歴史をねつ造することは、ほとんど全ての国がやっていることだ。

 

その血祭りの直接犠牲になったのが、越後長岡であり、二本松や会津であり、そして蝦夷共和国だった。事実が語られなければ、それらの犠牲者は永遠に浮かばれまい。

意思決定を迷ったら「やる」べし

この火曜日と水曜日は、柏崎MGに参加してきた。

 

今回はインストラクターとしてではなく、一人の参加者として。ゲームに加わるのは、8月の長岡・米百俵MG以来ということになる。

 

4卓22名、ほどよい人数だった。しかも新潟県勢が多数派、新しい顔ぶれが参加してくれているのは嬉しいことだ。

 

今回の戦略はいつものように単年度赤字は出さないこと、そして戦術としては青チップを使わないことを上げた。可能であれば、黄チップだけでやろう。

 

2期は予定通り黄チップとプラス人(セールス)1名で、18個販売、自己資本も一気に300を超えた。ただPQは500を超えたが、トップは逃した。次繰チップは黄チップのみ。

 

3期も同じ体制からのスタートだが、すぐにアタッチメントで製造強化を図ると共に、販売力もセールス1名増員(7個販売)とした。

 

最も苦戦を強いられたのがこの3期だったが、それは大型化による売却損と製造ミスが響いた形だった。4個製造7個販売ではバランスが悪く、大型先行もやむ無しとした。

 

在庫バランスには注意したおかげで、4期のスタートは順調だった。大阪市場が26円になったので、販売競合もあったが、それは余り気にせずに売り続けた。

 

しかし後半ちょっと風向きが変わってきた、いわゆる環境条件の変化が起きたわけで、ここでは青チップ(特急)1枚を使うことでしのいだ。おかげで自己資本ではトップに出られた。

 

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そして5期、カギは4期でのラッキーカードで赤チップを2枚準備できていたことだった。6個製造・9個販売でいくことを決め、人を一人トレード、Fの圧縮もすることにした。

 

大阪が23円になったので、当然ここが私の主戦場。6人中4人が青チップ5枚なので、前半で損益分岐点を超えることを目指した。

 

結果としては後半の最初の販売で超える結果だったが、ほぼ意図したとおりに進められた。最後の行での販売予定ができなかったが、追い上げは振り切れた。

 

最終自己資本は491、久しぶりのゲーム参加であれば順当なところか。何より、条件対応への意思決定を迷わなかったことが正解だった。

 

というのも、ここ数回意思決定を迷ってしまって、それが足を引っ張るケースがつづいていたからだ。今回は迷いがなかった、それが「佐々木杯クリスタル奪還」につながった。

 

今年は、今月末の仙台MGが最終参加となる。今度はどういう戦術で進めようか、楽しみである。

次の連載コラムに向けて

連載コラム『MGと脳力開発』も、一昨日で完載となりました。まだまだ完全ではありませんが、私の考え方を包み隠すことなく書いて参りました。

 

次はどのようなことを書いていこうかと、ただ今思案中ですが、いずれにしてもMGあるいは脳力開発に関わる内容になります。

 

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私がMGに出会ったのは31年前の1987年、そして脳力開発やマイツール(MT)との出会いは翌年の1988年でした。

 

その辺りの「歴史」を、振り返ってみようかと思っています。それらの出会いはまだ親会社で仕事をしている時代でしたが、学んだことを実際にやる機会は1990年になります。

 

すなわち、販売小会社に出向した時から始まります。ただ、「始まった」程度の生やさしいものではなかったことも事実です。苦闘とまではいいませんが、試行錯誤でした。

 

何もかもありのままとは参りませんが、もはや30年近く前のことですから、できるだけ事実に沿って自分(たち)がやってきたことを、書いていこうと考えています。

 

とりもなおさずそれが自分の体験史、企業人としての自分史にもなりますし、今の仕事にどうつながってきたのかという、自分自身の見直しでもありますから。

 

ただ事実をそのまま、たとえば数字などをストレートには出せませんので、そこのところはご了承下さい。可能なものは出して参りますので。

 

そんなわけで、来週から週2回くらいのペースで連載して参ります。タイトルもこれから考えます。またしばらく、お付き合い下さい。

 

よろしくお願いします。

リース残高は隠れ借金と心得よ

あなたの会社もリースを利用されていることでしょう。昨今はリースの範囲もかなり広がってきていますが、だからというわけで安易にリース契約を結ぶ例もあるようです。

 

よく言われるリースのメリットは、第一にリース料が比較的安いことにあります。特に機械設備の導入などでは初期費用が大きく、リースにすることで負担が軽くなります。

 

またリース料を経費として処理できます。基本的に毎月定額ですので管理もしやすく、自動引き落としなどにしておけば手間もかかりません。

 

リースにせずに購入すると、それらは固定資産として計上されますから、経費として計上できるのは原則として減価償却費のみになります。

 

また、ものによっては固定資産税や自動車税などの税金の納付が必要になり、修繕や日常メンテナンスなどでも企業の負担が避けられません。

 

新しい設備や車などへの入れ替えも、耐用年数に合わせたリース期間を設定しておれば、比較的容易に可能になります。

 

とまぁ、いいことづくめのように見えますが、メリットがあれば当然のようにデメリットもあります。何よりも、リース料は割賦代金よりも高めに設定されています。

 

それは税金やメンテナンスの費用、保険料や金利が加算されるからです。もっとも、上記のメリットを享受するための必要費用と割り切れば別ですが。

 

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また、リース物件は企業の資産ではありません、つまり所有権はリース会社が持っていますから、リース期間が満了後も使うためには再リース契約という形になります。

 

さらに契約の形によっても異なりますが、一般的には中途解約ができません。無理に解約するためには、残債を一括で払うことなどが求められます。

 

もっと注意していただきたいのは、リースとは表に現れない借入金、言い換えれば「隠れ借金」ということです。通常の借入枠の他に設定できる、別の借入と考えることもできます。

 

ですからリース残高(残債)はBS(貸借対照表)には現れません。しかし、もし会社が倒産したら、ちゃんと「負債」額として表示されます。

 

言い方を変えれば、取引相手先のリース残高を把握することも、経営上必要だということにもなります。BSに現れない借金ですから、把握は容易ではありませんが。

 

逆に言うと、会社としてもリース管理つまりリース残高管理が必要だということです。あなたの会社では、管理表を作ってリース満了日や残債をしっかりつかまえていますか。

 

金融機関では、決算時の財務諸表とともにリース残高を求めてくる事例もあるようです。隠れ借金なのですから、当然とも言えます。

 

そんな時に、さっと提出できるかできないかで、あなたの会社の評価が変わります。キチッと目配りしている会社かどうか、判断されてしまいますから要注意。

 

メリット・デメリットを十分に理解し、ただ安易にリース契約を結ぶのではなく、リース物件にするのか設備等の資産として見たほうがいいのか、よく考えたいものです。

 

また最近は「レンタル」も多方面にわたって利用できるようになってきました。このメリット、デメリットも含めて考えていかねばなりませんね。

ぜひMGシニアにご参加を【最終回】

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<連載コラム(104)>
 
 いよいよ最終稿です。脳力開発には11の土台指針があり、とくにその最初の3つについては「精神的姿勢」として、最も重要な指針として取り上げています。


 この3つは、MGの目指すところの「全員経営・戦略経営・科学経営」にフィックスしています。


 細かいところは、私自身のセミナー(MGCFMG、脳力開発講座)の中でお話ししておりますので、もし機会を作れましたら一度ご参加してみて下さい。


 東京を中心として各地で開催されている西先生のMG、しかしジュニアコースの中では、おそらくMGの目指すものについては、時間の関係で深くは触れられないでしょう。

 
 なぜMGを作ったのか、そのことも時間経過をお話しされるだけかも知れません。


 だからこそMGシニアに参加して下さい。それも一度ではなく、何度か繰り返して。私もこの10月末(2017年)に開講されるセミナーに参加の予定ですが、フル参加、12日参加を含めて多分15回目くらいではないかと思います。


 それでもまだ、これまで気付かなかったことに出会えるのではないかと期待しています。それだけMGは奥が深く、ゴールは見えておりません。脳力開発も同じです。


 長くお付き合いいただき、ありがとうございます。ひとます「MGと脳力開発」というテーマについては、ここでペンを置きます。
 
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お休みブログです

土日のこしがやMGから戻って、今日は休養日ですが、けっこうやっておかねばならないことが公私ともにたくさんです。

 

そんなわけで、本日のブログはお休みです。

 

明日からまた一週間の遠征に出ます。今回は中部地方をぐるりと回る感じで、途中ちょっと神戸に寄り道します。

 

乗り鉄の旅は特別にはありませんが、そこかしこでローカル線や各駅停車の旅を盛り込んであります。急がなくてもいいところは、急がずゆっくりと。

 

気候変動が大きな日々が続くようですが、紅葉も各地様々な彩りを見せてくれることでしょう。車窓の旅もいいものです。

 

では皆さん、今週も明元素で。

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「教え合い」が人も自分も変えていく

第9回こしがやMGは、前々回から越谷商工会館のセミナールームで開催されています。越谷駅から歩いて15分くらい、周囲は住宅地と学校があり静かなたたずまいです。

 

今回は地元の行事などと重なったせいか、いつも参加して下さるメンバーがおられませんが、県外からの新しい参加者を迎えて開催しています。

 

その内初めてMGを体験される方が1名、3回目の体験者が2名でしたが、全然大丈夫でした。少人数と言うこともあり、いつもなら飛ばしてしまう話もしっかり盛り込めました。

 

それでいて、初日の最後に戦略会計の講義時間もとれて、予定よりも早めに終了。その分、交流会(3.5期)も早くスタート、たっぷり時間もとれました。

 

このセミナー、始まったのは3年前で当初はワンデーの「入門体験MG」でした。その後ツーデーに切り換えて、越谷に会場を移したのが昨年の8月。

 

埼玉県にもMG拠点を作っていきたいという主催者の思いで、地元の方へのアプローチを重ねて続けてきています。(写真は先週のMG研修の模様です)Img_6777

 

もちろん、人数をたくさん集めてさらに広めていきたいという気持ちは持っていますが、なるたけ初めての体験者に参加をいただき、MGを知ってほしいというのが狙いです。

 

そんなわけで、私が一番期待しているのが「教え合い」のMGです。今回もそんな場面が何度も見られています。「教え合い」にはどんな効果があるのでしょうか。

 

それは、教えられる側はもちろん、教える側がさらに向上、成長できると言うことです。そのためにも、教えられる側が素直に聞く姿勢がポイントです。

 

分からないことをちゃんと分からないと言えること、意外にそれができない、日常の中でも仕事の場面でもついつい自分を守ってしまうことが多いと思いませんか。

 

そんな意識を取り払う、教える側も聞かれて分かる範囲のことを伝えることで、自分の分かっていることと分かっていないことが、分かるというものです。

 
さて、今日2日目は経営計画からスタート、どんな「教え合い」が見られるか、楽しみなところです。

文化の日もMGの仲間と過ごします

今日は文化の日、自由と平和を愛し、文化をすすめる日」とありますが、戦前は明治節すなわち明治天皇の誕生日でした。

 
その明治元年から150年、越後人(大阪生まれですが)としては、祝う気持ちにはなりません。戊辰戦争(越後では北越戦争)の総括はなされぬままですから。

 
それはともかくとして、この連休は第8回「こしがやMG」セミナー、MG仲間の柴橋さんとタッグを組んでずっと続けてきました。

 
いつも少人数で細々とですが、続けてこられたのは柴橋さんの熱い想いがあったからだと信じていますので、これからも微力でも支援していきます。

 
今年は数ヶ月おきの開催でしたが、来年は年1回に全力を注いで、確実に参加者を集めて継続していく。そのための前段階の「場」をつくっていこうと。

 
今朝は朝からスキッと晴れて、正に秋晴れの好天です。気持ちも清々しく、研修の場に臨むことができそうです。

 
MGは大勢でワイワイやるのも愉しいですが、少ない人数でも逆に基本をみっちり学ぶ機会が持てるというものです。気心も少ないからこそ通じ合えます。

 
よし、今回も参加者の皆さんが「(参加して)良かった」と感じていただける、充実の2日間にしていきます。実はそんな私が一番学ばせていただけます。

 
まずは何を伝えるところから始めましょうか。
 
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私と脳力開発との出会いを振り返る

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<連載コラム(103)>
 
 私が脳力開発というより、城野宏さんに出会ったのはMGより先でした。たまたま会社から派遣された講演会の講演者の一人が城野さんで、そこで初めて「のうりょくかいはつ」とう言葉を聞きました。

 
 その時には「能力開発」だと思い、「脳力」が誤植ではないかと思ったくらいでしたが、城野さんの迫力ある話には圧倒されてしまいました。

 
 帰り道には「脳力」という言葉が、頭の中を支配していましたが、翌朝には見事にクリア、つまり忘れ去られてしまっていました。201301_2

 
 それから城野さんとは二度お目にかかりましたが、少し間が空いてしまい、1985年の12月に亡くなられたことは全く知りませんでした。

 
 本も講演の折りに1冊だけ買い求めましたが、見事に「積ん読」状態でした。買ったことも忘れていて、数年後に同じ本を買っていました。

 
 さらに2年余後の1988
年の1月に西順一郎先生が講師のMGに参加、その講義の中に城野さんの名前と、脳力開発という言葉が出てきたのです。

 
 それが再び城野さんを、脳力開発を学び直すことにつながりました。その意味では西先生が恩人だとも言えます。

 
 その年の秋には、黒田(悦司)さん主催の3日間の脳力開発セミナー(信州青木村)にも参加し、新たな出会いもありました。

 
 城野さんの本も一気に買い込み、MG本と並行して読み進むと、書かれている共通点に次から次へと気付かされたのです。

 
 そして今、私が気付いたことを自身のMGセミナーの中でお話しし、そしてまたこういうところにも書かせていただいています。

 
 私の学びですので、それが正しいとかこう考えるべきだなどとは申しません。さらりとお読み流し下さってかまいません。

MGはスパルタ(教育)である

MG(MQ戦略ゲーム)では、研修の最終プログラムとして参加者全員に感想文を書いてもらう。よほどの場合を除いて、必ずその場で書いていただくことになっている。

 

それを読むのもインストラクターの楽しみではあるが、時には厳しい意見や批判をいただくこともある。中には、こちらが気付かないようなポイントを指摘するものもあり、素直に取り上げて次に活かすこともある。

 

初心者の参加が多い公開セミナーで、よく書かれることがいくつかある。その一つは、「初心者とベテランの方の席を分けてほしい」であり、「決算の記入見本を配ってほしい」などである。

 

あるいは、「もう少しゆっくり進行してほしかった」というのがあり、同様に「(ルールなどは)ゆっくり丁寧に説明してほしい」というのもある。

 

一方で、「実際に(ゲームを)やってみれば分かると言われたが、その通りだった」という意見もある。決算書などの作成では、「ひとりで(独力で)最後までやれて嬉しかった」というのもある。

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これらの意見のベースにある共通のポイントは、表題にもある『MGはスパルタである』ということである。スパルタ教育というと、古代ギリシャの都市国家スパルタで行われていた厳格な(軍事)教育が語源だ。

 

MGもそうなのか? ハイ、そうなんです。

 

まず何よりも、MGの基本になっているのは「教えない、教え合う、紙は自分で」の三つである。最後の言葉は、自分のことは自分でやるということだと分かるだろう。人に寄りかかるのではなく、自ら動くということに他ならない。

 

教えない、つまりインストラクターはどうやったら売上が上がり、利益が確保でき、自己資本が上がるかということを、一切教えないことになっている。あるいは決算を、参加者に代わってやってあげるのは特別な場合に限られる。

 

その代わり、参加者同士で教え合ってほしいというわけだ。そんなこと言っても、全員が初心者ばかりでそんなことは無理だろうと、おっしゃる人も少なくない。ところがその認識は間違っている。

 

先日、ほぼ初心者ばかり156名のMG研修を行った。どうなるかと心配もあったが、とにかく参加者に任せてみようと臨んだわけだが、最初からもう「教え合い」が始まっていた。これは現場を見ていただくしかない。

 

ゲームにおいても、時には私を呼んで「これは何か」とか「こういうときにはどうしたらいいか」を聞くことはあるが、一度聞けば情報は共有され、別のメンバーと一緒になれば同じ場面が出れば、ちゃんと教えられるのだ。

 

決算書づくりも同じことだ。周りより先に分かった人が、そうでない人をフォローするのだ。たまには煩わしいなと感じても、尋ねられるのは「頼りにされる」ことで嬉しいことだ。それがまた励みになる。

 

初心者とベテランを区分けせずに、同じところ(ゲーム卓)でやらせるのも同様の理屈だ。初心者は最初はウロウロするだけだが、その内にベテランのやり方を見て気付く、時には真似をする。これが「芋洗い」教育だ。

 

社内研修でも、階層や役職で区分しない。上司も部下も、社長も新人も同じ場の中で磨き合うのだ。MGとは、そういうスパルタ教育なのだ。だからこそ面白く、苦楽を共有でき、お互いを知り合えると言えるのだ。

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