西郷に使い捨てにされた相楽総三と赤報隊
赤報隊と聞くと、31年前に起こった朝日新聞社阪神支局を襲ったテロ事件を思い出す。あの事件も卑劣極まりないものだったが、犯人は未だに捕まらないまま公訴時効を過ぎてしまった。
さて犯人(たち)が名乗っていた赤報隊とは、幕末に結成された尊皇攘夷過激派集団が名乗った名前だ。結成は慶応4年、彼ら自身は草莽の士だと言っていたが、間違いなくテロ集団に違いない。
その名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられたようだが、結成の後押しをしたのは西郷隆盛と岩倉具視らしい。隊長は相楽総三、下総の郷士の子として江戸で生まれたそうだ。まだ20代の後半。
この赤報隊が結成される以前に、相楽は江戸の薩摩藩邸(三田)を根拠地として、藩邸に集まった不逞の輩と共に江戸市中での乱暴狼藉を繰り返すことになる。相楽はそうした浪士隊の総裁を名乗っていたようだ。
おそらく藩邸にいた藩士も、何らかの形で騒乱の中に加わってきたのだろうが、いずれにしても堂々と薩摩藩邸に出入りを繰り返すのだから、「知りません」では済まされない。
もちろん、西郷からの指令での動きであるから、いずれ何かことが起こることは予測していたはずだ。というよりも、西郷はそれ(報せ)を今か今かと待っていたに違いない。
ついに庄内藩を中軸とした幕府側が藩邸を襲撃し、浪士どもを斬り捨て、あるいは捕縛したことは前回も触れたとおりだ。すなわち大半がこの時に命を失うか、あるいは散り散りに逃げた。
この事件が導火線になって、戊辰戦争の最初の戦い、鳥羽伏見の戦いが始まるのだが、それについては次回以降に書いていくことにしよう。
問題は京都に逃げ帰った相楽たちの行く末のことだ。相楽を隊長に赤報隊が結成され、東山道軍いわゆる「官軍」の先鋒隊として江戸を目指すことになる。
相楽たち赤報隊は、新政府の許可を得て各地で「年貢半減」を宣伝して進軍する。これが各地の民衆の支持を得たことは当然だろう。しかしあくまで口約束で、裏付ける新政府の文書などは発行されていない。
第一に、カネのない(江戸に向かう軍費用さえ乏しかった)新政府に、全く財政的裏付けのない年貢半減など、明らかにまやかしの宣伝に過ぎなかった。
新政府は密かに年貢半減の「(空)手形」を取消し、これは赤報隊が勝手にやったことだとし、ついには「偽官軍」であると触れて廻った。つまり、相楽たちははしごを外されたわけだ。
これに対して西郷がかばい立てに動いた形跡は全くない、見殺しにしたわけだ。用が終わったから不要になった、使い捨てだといった方がいいだろう。相楽総三は信州で敗戦し、下諏訪で処刑された。
実際のところ、相楽たちは官軍を名乗りながら行軍の途中で略奪を繰り返していたし、「官軍の捨て駒にされた悲劇の主人公」といった綺麗事ではない部分が多い。
昭和に入って相楽たちの名誉が回復されたそうだが、そのことが冒頭の昭和末期のテロ事件に糸がつながっていたのだとしたら、何をか言わんやである。
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