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大政奉還から王政復古までの隙間

教科書的にいうと、一連の流れはこのようになっています。

 

徳川慶喜は、土佐藩の山内容堂の進言を容れて大政奉還を決意し、朝廷に申し入れて認められた。これによって、家康以来260余年続いた徳川幕府は政権を朝廷に返上した。

 

次いで、朝廷は薩摩藩など雄藩の支持を得て王政復古の大号令を発し、これによって文字通り幕府は終わりを告げることになった。

 

私も含めてみんなこの「歴史」を信じて疑わず、徳川(幕府)から新政権(朝廷)への移行がスムースに行われたものと認識していたわけです。

 

それならばなぜ、その後の鳥羽伏見の戦いから会津戦争、五稜郭の戦いに至る「戊辰戦争」が起こったのか。戊辰戦争と言うが、鳥羽伏見の戦い自体は確かに戊辰の年だが、その年で終わったのではない。

 

そもそも政権移行と言うが、政治には内政と外交とがある。一体誰が内政を担い、誰が外交を担当していたのか。内政はともかく外交には相手国があるのだが、それらの国は新政権を承認していたのか?

 

とにかく疑問だらけだ、というよりきれい事(ハッキリ言えばウソ)で固めたが故に、つじつまの合わないことばかりなのだ。それを『正史』として学ばされたのでは、迷惑極まりないではないか。

 

正しい歴史を学べと言っている政治家、学者、評論家などなどがたくさんいるのだが、こんな間違った歴史を学んでも何にもならない。

 

もしかして学校での歴史の勉強がいつも、幕末維新で終わってそのあとはさらりと流してきたのは、正しい歴史を覆い隠すが故のことなのか? そもそも多くの教師が、正しい歴史を知っているとは言いがたい。

 

さて大政奉還も事実だし、王政復古の(大)号令も史実には違いない。それを否定しようとは思わないが、その二つの出来事の間には何があったのだろうか。Photo_3

 

何よりハッキリしていることは、大政奉還のあとでも政権運営能力を持っていたのは徳川幕府であったこと。慶喜と彼を取り巻く幕僚たち、江戸の官僚たちであった事実だ。

 

朝廷の公家どもにはそんな能力など、ホンのかけらもない。彼がやれたことは、ああでもないこうでもないと無味乾燥な意見を述べるか、有職故実をさぐってみて「分からない」という結論に至るだけのことだ。

 

あとは、偽物の勅や綸旨をねつ造すること、声の大きな力の強そうな人間の意見に相乗りしていくことくらいであった。その人間の一人が岩倉具視という怪物だった。その岩倉を薩摩の西郷や大久保がバックアップしていた。

 

大政奉還をしても慶喜はまだ実権を握っていた。政治テクノラートは自分の側にしかいなかったのだし、とくに外交権は朝廷からも確かに委任されていた。諸外国もあくまで慶喜側を窓口にしていたのだった。

 

格好を付けて「王政復古」を宣言したものの、どうにも動けない朝廷側は右往左往していたのだ。何よりおカネがない、何をやるにも先立つものがない。そこで慶喜に辞官納地を命じようとしたのだった。

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