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慶喜の大政奉還は逆転満塁ホームラン

一気に歴史の歯車を進める、慶応3年まで、西暦でいえば1867年になる。つまり「明治維新(とやら)150年」のわずか1年前ということになる。

 

1014日(旧暦)に大きな政治的事件があった、言うまでもなく大政奉還だ。二条城で、徳川慶喜が京都在住の諸藩士(重臣)を集め大政奉還を諮問し、その後明治天皇に奏上したということで、正式勅許は翌15日だ。Photo

 

大政奉還に至る経緯はいろんなところに書かれているのでここでは触れないが、土佐藩からの建白・勧奨があったことは事実のようだ。ただしそれが坂本龍馬からの意見具申から始まった、というのは甚だ疑問だ。

 

もちろん大政奉還が龍馬のオリジナル意見でないことは自明の事実だが、土佐藩内で実力を持っていた後藤象二郎が、どれだけ龍馬から意見を聞いたか、あるいは受け容れたかについてはどんなものだろう。

 

この土佐藩の建白を、薩摩藩(西郷、大久保)が当初承認したわけだが、おそらく慶喜が受けるわけはないだろうと考えていたのだろうか。とすれば、なんとも慶喜を見くびったものだ。

 

とくに西郷がどのような政権構想を抱いていたのか、それについては遺されたものがほとんどないので想像するしかないのだが、おそらく慶喜の半分もまともなものではなかったように思われる。

 

私は慶喜という人物は好きでないし、彼がもっと毅然として事に当たっていたら越後(長岡)や会津の悲劇はなかったのではないかと思うので、甚だ遺憾な行動を続けたと思っている。

 

しかしそのことを差し引いても、当時の日本で最も第一級情報をたくさん持ち、世界レベルでの将来展望持ち得ていたのは、慶喜であり彼のブレインであったはずだ。

 

西郷など、勝海舟に一度面会して「世界に目を開いた」とも言われているが、これは私の想像だが、西郷が目を見開いたのは海舟が論じた「幕府はダメだ」ということではなかったか。

 

百歩譲っても、薩摩藩の世界への窓はイギリス(の恫喝外交)であり、フランスへの対抗ということで伝えられる情報ルートでは、グローバルな物の見方ができたとは思えない。

 

そして、西郷も大久保も朝廷内の黒幕であった岩倉(具視)に振り回されるのだ。その意味では、岩倉は非常に興味ある人物には違いないが、なぜ「500円札になったのか」その理由が分からない。

 

岩倉は一度失脚している、というより天誅の嵐におびえて逼塞しただけだ。その当時は孝明天皇の公武合体主義に追随していたわけだが、長州過激派から恫喝されると尻尾を巻いて逃げ出している。

 

それがのこのこと戻ってきたらと思ったら、公武合体主義を取り下げてしまい、討幕論に傾いていく。それが故に孝明天皇の「病死」に関して、疑惑を抱かれる存在になったのも自業自得だろう。

 

確かなことは、孝明天皇の死が歴史の回転を一気に逆回転にしたことだろう。そこに岩倉が介在したかどうかは知ったことではないが、何らかの関わりがあったと想像することはたやすい、それまでの人物だったということだが。

 

その岩倉は王政復古を企画して暗躍し、偽勅を作成して行動を起こそうとした、その刹那に慶喜の大政奉還に機先を制された訳だ。ある意味痛快なことだった。

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