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イギリス・薩摩・長州の三角密貿易

武器(大砲や小銃など)や蒸気軍船の購入を薩摩藩が行い、その代金を長州藩は米によって支払ったということを前週は書いた。ある意味の物々交換に見えるが、しかしこれは正確ではない。

 

それは当然ながら武器や船の代金を受け取ったのは誰かということだ。言うまでもなくそれがグラバー商会であることは間違いない。さらにいうならば、その後ろにいるイギリスという国だった。

 

つまり三角交易だった。この時期、幕府は諸外国つまり英仏米蘭に対して、幕府以外に武器や船を売ることを制限しようとしている。そしてイギリス以外の三国は、この取り決めをほぼ守っていた。

 

だがイギリスは違っていた。薩摩とのパイプを太くしていた上に、下関での交易の重要性を見ていたのだろう。しかし表だっては長州藩には近づけない、そこで薩摩藩だ。Photo_3

 

ちなみに、薩摩藩は生麦事件の報復攻撃でイギリス海軍と戦っている。開戦当初は優勢だったが、イギリス軍艦が備えていたアームストロング砲に砲台は壊滅、鹿児島の町も焼かれた。

 

これによって薩摩藩は「開国」に目覚めた、と通説は言う。それは大いに間違っている、島津斉彬はその生存中ひと言も「攘夷」とは言っていない。むしろ近代化を急いで力をつけた上で開国し、欧米と肩を並べようとした。

 

後を継いで実質的に薩摩の君主となった島津久光も、考え方としては兄である斉彬を引き継いでいる。つまり、薩摩は長州藩とは違い、攘夷の発想でイギリスと戦ったわけではない。

 

だから本来、薩摩と長州は相容れないはずなのだ。しかし、そこにイギリスが介在することで絵に描いたような三角形になってしまう。その三角形が実際の形になったのが、武器・軍船の三角貿易だと言える。

 

長州藩にはカネ(現ナマ)がなかった。四境戦争の賠償金を、攘夷を命じた幕府に押しつけたものの、内部抗争で疲弊していたし、禁門の変や第一次長州征伐での戦費も膨大だったからだ。

 

なお、幕府は確かに朝廷に押し切られて攘夷を命じたが、あくまで「相手から発砲された場合」にだけ、対抗して発砲するようにと命じていた。それを勝手に破ったのは長州藩で、ぼろ負けして、責任を転嫁した。

 

薩摩藩もまた、イギリスから賠償請求されたが、この賠償金は幕府に借りて支払った。ただし、借りた金は結局返さなかったのだから、長州藩と同じ穴のムジナだろう。

 

さて、カネのない長州藩は米で支払おうとしたがイギリスは拒否する。米は貿易禁止品に指定されていたので、日本国内では銀への交換ができない。本国等では米を食さないから、大量にもらっても困る。

 

そこで薩摩藩だ。土地が痩せていて米不足に悩んでいたわけだから、渡りに船だった。琉球での密貿易(すでに公になっていたが)や、奄美等でのサトウキビ砂糖の搾取で稼いだカネを使ったわけだ。

 

こうして手に入れた武器で、長州藩は幕府側と戦うことになる。相手も同じ日本人だ。イギリスは中国(清国)ではアヘンで人民を苦しめたが、日本では密貿易の武器で殺し合いをさせたことになる。

 

その長州藩の軍制の整備と武器近代化を推進したのが大村益次郎だった。日本人同士の殺し合いを主導した人物が、銅像としてそそり立っているところ、それが靖国神社だ。

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