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薩長同盟の中身を検分してみると

<薩長史観へのアンチテーゼ>

薩長同盟とやらについて。前回も書いたように、正式な文書が取り交わされたのかどうかも不明だし、薩長同盟という名称も、後から名付けられたものに過ぎない。しかし、学校の歴史教育ではそのように教えている。

 

内容から言えば、同盟と言うよりは「盟約」、あるいはせいぜい約束事くらいの感じではなかっただろうか。それでも朝敵とされ、追い詰められていた当時の長州藩にとっては、何よりも心強かったに違いない。

 

正式な交換文書は(現在)存在していないわけで、木戸寛治(桂小五郎、後の木戸孝允)が記憶のままに筆記したものに、坂本龍馬が保証する旨の裏書きサイン(写真)をしたものが、伝わってきている。

 

それを引用してみよう。

一、戦いと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事


上の文書のどこに「倒幕」、あるいは「討幕」ということが書かれているのか。京都へ(薩摩藩の)兵を2千人送るとは書いてあるが、それをもって幕府軍、会津藩や新撰組と一戦交えるとは書いていない。Photo

 

戦いと相成り候時」とはあるが、幕府と名指しをしていない。話し合いの中でそういう想定もでたかも知れないが、軍事同盟だというなら相手を明示しておかねばならないだろう。

 

要するに、第二次長州征伐が始まれば薩摩が京都(と大坂)に兵を出して、その動きを牽制する。その上で、幕府軍が撤退したら朝廷に対し、長州に対する冤罪や朝敵認定の取消について尽力する、といった内容だ。

 

結果として薩摩藩は第二次長州征伐には出兵せず、長州藩が勝利を得るのだが、勝因は幕府軍が各藩の寄せ集めで士気も低く、自滅自壊したといったところ。

 

この中に「橋会桑」とあるのは、一橋慶喜、会津藩と桑名藩のことである。禁門の変では薩摩藩と連携していたのだが、ここに至って離れ始めたというわけだ。

 

史料によれば、薩摩藩も藩全体の意思(島津久光の意思)はこの時点ではまだ「佐幕」であり、討幕の意思を鮮明に持ち始めていたのは西郷くらいではなかったかと、推察されるのだ。

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