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薩長同盟とやらは倒幕軍事同盟ではない


薩長同盟とやら
について書こうと思う。

 

その前に前回書いた高杉晋作と、薩摩の西郷隆盛とは出会ったことがあるだろうか。残された史料や評論などを読む限りにおいては否であるようだ。

 

薩長同盟とやらが締結されたと言われるのが慶応2年の1月(旧暦)で、その年6月の第二次長州征伐(四境戦争)では、高杉は海軍総督として指揮を執っている。ただし西郷の薩摩藩はこの戦いに出兵していない。

 

薩長同盟とやらの締結前に西郷は下関に立ち寄り桂と会うことになっていたが、西郷は素通りして京都に直行してしまっている。よって、西郷は高杉と会うことがなかったはずだ(と思っていた)。

 

ところが、最近発見された資料によると、どうも第一次長州征伐の後で二人は対談?しているらしい、場所は下関の対帆楼という料亭だという。ここで、長州藩の「降伏」条件を確認したようだ。

 

その際に、今後のことを高杉と西郷が話し合った可能性がなかったとは言えない。もしかしたら、後の薩長同盟とやらにつながるようなことが、話題に上ったとしても不思議ではないわけだ。

 

だが高杉は慶応2年の夏頃には労咳の症状が重くなり、下関にて療養生活に入ったようで翌年春に死去している。高杉が薩摩とのつながりを重視したことは確かだが、結局その中に参加することはなかったようだ。

 

さて、ここまで何度も薩長同盟「とやら」と書いてきた。イメージ的には軍事同盟なので、条文を書いた書面を取り交わしたように思えるが、いわゆる書類はなかったようだ。

 

双方の主役すなわち交渉役は、長州が木戸寛治(桂小五郎)そして薩摩は西郷吉之助(隆盛)だった。桂は拗ねていたらしい、西郷が下関を素通りして面会をすっぽかしたせいでもあり、弱みを見せたくなったのだろう。Photo

 

しかし薩摩にも薩摩のメンツがある。それを周旋したのが坂本龍馬だと言われる。だが、その裏にはイギリスの影がチラチラしている。

 

その表の主役は駐日英国公使のパークスであるはずだ。パークスは何度か高杉と会い、薩摩との盟約をそそのかしたはずで、その話は高杉から桂に伝えられていることは間違いない。

 

さらに裏の主役は政商(死の商人ともいう)であるグラバーで、そのグラバーを出先に据えるマゼソン商会と言えるだろう。後のグラバーの手先として動いたのが龍馬だ。本人にその感覚があったかどうかは別だが。

 

そして正式に交わされた、互いに署名をした書類などはなかったが、桂が覚え書きとして口頭で交わした約定を書面にし、それに裏書きで署名したのが龍馬だ。つまりこれで間違いないと、龍馬が保証したのだ。

 

これをもって「倒幕」に向けて、長州と薩摩がタッグを組んで動き始めたと正史=薩長史観は主張するが、そんな簡単なものではなかった。第一、この盟約が「薩長同盟」などと呼ばれることは少なくとも当時はなかった。

 

その上に条文をどう読んでも、幕府を討伐するための軍事同盟だなどとはとても読めないのだ。ウソだと思う方は、龍馬が保証署名した条文を読んでみるがいい、どこに「幕府を討つ」と書いてあるのか。ではまた次に。

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