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2018年3月31日 (土)

俗論長州をひっくり返した男

歴史の歯車を一気に回していこうと思う。2度の流罪(最初の流罪は緊急避難的だったようだ)から、再び政治の前線に戻った西郷吉之助は、まずは禁門の変で名を挙げる。

 

このとき薩摩は会津と手を握るわけだが、急進的な長州を警戒したというのが真相だろう。結局長州は「朝敵」となり、過激派の公家たちを伴って京を追われる(七卿落ち)。

 

久坂玄瑞は自害、桂小五郎は辛うじて出石に逃れる。京の都はつかの間の平和を取り戻すが、禁門の変による火災で街は大きな被害を受ける。金払いのよかった長州が去り、京の色町はしばし活気がなくなる。

 

間もなく第一次長州征伐が行われるが、長州は三家老の首を差し出したくらいで、減封もなく中途半端な幕切れであった。そのような幕切れを演出したのは、実は西郷であった。

 

その後しばらく長州は急進派が鳴りを潜めるが、その実は反転攻勢に向かって着々と準備が進んでいた。これを武備恭順と呼んだようだが、朝敵を完膚なきまで懲らしめることなく終わったことが、幕府側の失策だった。

 

実はこのとき幕府側も一枚岩ではなかった。第一に江戸の老中を中心とした政府と、京都の前線政府の溝が大きかった。後者を主導したのは徳川慶喜だが、優柔不断であったと言われる。

 

政治推進の裏付けとなる「武」については会津と桑名が中心になっていた。会津藩主の松平容保と、桑名藩主の松平定敬は実の兄弟だった。長州を厳罰にと主張する両者に対し、慶喜は煮え切らぬ態度だった。

 

そこにこれまた他人任せの傾向の強い松平慶永(春嶽)が、責任転嫁をするばかりで自らは泥をかぶらない。結局のところ、「一会桑(いっかいそう)政権」と言われても機能不全であった。

 

それをみて西郷は徐々に距離を置き始める。もっとも、この時代薩摩はまだ「倒幕」に舵を切ってはいない。西郷自身はそろそろ見切りをつけ始めていたようだが、大久保一蔵(利通)はそこまでには至らない。

 

さらには薩摩には、良識派と言われる小松帯刀が島津久光の側近として重い存在であった。だが、この辺りから西郷の独断専行が目立つようになる。結果としてはその動きに、薩摩全体が引きずられるようになる。

 

そして長州にも一人の風雲児が現れる、高杉晋作だ。

 

高杉は松陰門下に名を連ねてはいたが、決して松陰の超急進思想に引きずられてはいなかった。その辺りは久坂玄瑞とは違っていた。下関での外国船砲撃にも、京都への出兵にも冷ややかな目を向けていた。Photo

 

保守派(俗論派)が藩政を握った間は鳴りを潜めていた、投獄されていた時期もある。それがついに鎌首をもたげたのは、第二次長州征伐が始まった頃だ。

 

高杉もまたある時期はテロリストの一員であったが、情勢分析には極めて現実的だった。しかし、やるべき時にはやるという強い意志を持っていた。たった80名で戦いに踏み切った、功山寺の挙兵だ。

 

これにより長州藩は再び過激派が実権を握った。幕府憎し、会津・桑名憎しである。ここに、桂小五郎が呼び戻された。西郷はそういった状況をしっかりと見つめていたようだ、イギリスとの接近もこの頃からだ。

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