<反薩長史観> 長州藩は間違いなしの朝敵
禁門の変、あるいは蛤御門の変と称されている。
禁門とは禁裏の門ということで、つまり天皇のおられる御所の各門のことである。もちろん、そこには警備の兵が配置されていて通常の一般人は通ることができない。
天皇が住まわれる御所は決して侵してはいけないところなので、禁裏と呼ばれているわけであるが、前回の池田屋事件で書いたように、「勤王の志士」どもはそこに放火しようとしたのだ。
池田屋事件で吉田稔麿ら藩士を殺された長州藩の急進派は激高して、すぐにも京都へ攻め上ろうとします。高杉晋作や久坂玄瑞は、拙速だと意見しますが勢いに押されてしまいます。
しかも久坂自身は次第に急進派に傾き、自らも「孝明天皇に冤罪を訴えて、八月十八日の政変の恥を雪ぐ」として上京していきます。
久坂らは天王山(山崎)に本陣を置きますが、先鋒の来島又兵衛や福原越後は早くも洛中に入ろうとします。朝廷内でも長州シンパの急進派公家たちが暗躍します。
これに対して孝明天皇は毅然たる姿勢を守られ、長州藩兵に対して退去命令を出し、そして一橋慶喜や京都守護職の松平容保に掃討を命じます。
この時久坂は、天皇が退去命令を出されたのであればやむを得ずとして、命令に従おうとしたと言われます。しかし結局は急進派に圧されるまま、自らも御所に近づこうとします。
洛中での攻防が最も激しかったのが蛤御門です。ここを守っていたのが会津藩兵でしたから、憎しみに燃える長州兵の攻撃も激しいものがあったようです。
さらに中立売門や乾門などにも攻め込みますが、薩摩藩兵の応援部隊が入ってこれを阻止します。この時薩摩兵を率いていたのが西郷隆盛であったようです。
八月十八日の政変では会津と薩摩はタッグを組んでいたわけですが、禁門の変では薩摩の出兵がかなり遅れています。西郷にもしかしたら迷いが生じていたのでしょうか。
久坂が御所に近づこうとした頃には戦闘はもはや終わりに近づき、長州兵は指揮官を失って退き始めていました。もちろん久坂は御所に入ることができず、隣接の鷹司邸に入ります。
ここで前関白輔煕に朝廷への建白書(赦免状?)を託そうとしますが、すでに出仕の後でした。結局、久坂らは屋敷内で自害して果てます。
こののち、改めて長州藩の追討が決せられ、これが第一次長州征伐につながっていくわけですが、この時点で明らかに長州藩は「天皇に弓引く」朝敵でした。
弓引くどころか、鉄砲やあげくに大砲を撃ち込んだわけですので、弁解の余地はありません。洛中も大半が火災によって焼けてしまい、多くの屋敷や寺社、商家などが消失してしまいました。
その朝敵が「維新」とやらのどさくさの中で赦免されて朝敵を解かれ、幕府や会津藩等を追討する側に回るなどとは、笑止千万でしょう。
教科書にも、こういう市街戦闘があったことと京都の町の多くが消失したということだけが、さらっと書かれているだけというところに、欺瞞を感じざるを得ません。
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