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2018年1月11日 (木)

反論薩長史観・テロリストたる久坂玄瑞

先日の日曜日から大河ドラマ「西郷どん」が始まりました。初回は「まぁ、こんなものかな」というスタートでしたが、いきなり上野の西郷像の除幕式で、糸さんが「顔が違う!」そのシーンから始まったのはやや意外。

 

前回のコラムに書いたように、西郷さんの実像写真も絵画もありませんので、今なお真相は闇の中です。おそらく、1年間続く中でまた違った西郷像が姿を現していくのか、ゆっくり見守りましょう。

 

さて、話を長州に戻していきましょう。吉田松陰が安政の大獄で処刑されたことで、門人たちはかなり動揺したのは間違いありません。

 

しかし当時の毛利家中は、生前の松陰が発した過激な言動に辟易する方が主流であり、どちらかといえば穏健派の主張が通っていました。

 

ところがここに二人の過激な門人が、隙間を縫うように台頭していきます。一人が久坂玄瑞、そしてもう一人が高杉晋作です。出自は違い、高杉が上士の階級に属していたのに対し、久坂は医者の出身です。

 

ただ、松陰が老中暗殺などの強攻策を唱えていた頃は、二人ともそれを諫めるような言動をとり、とくに高杉は松下村塾からも距離を置いていたようです。

 

一方久坂は、師の思いを引き継ぐかのように、その死後強硬派として名をあげていきます。松陰の妹(文)を娶っていたこととは直接関係はないでしょうが、義兄の遺志を継ぐという気持ちは少なからずあったでしょう。

 

松陰の刑死から2年後の文久元年(1861年)暮れあたりから、その行動が活発になります。年長者でもある桂小五郎を中心に、高杉、久坂ら松陰門下生が集結します。

 

その主張は「尊皇攘夷」であり、とくに思想的には久坂が一歩前をリードしていたようです。もっとも、それはまだ幼稚といってもよく、内外特に海外の情勢を踏まえて、あるいは国力を鑑みてという段階ではありません。

 

言うなれば、アンチ開国・アンチ外国人であり、テロも辞さないという過激思想です。いささか空想的、夢想的で具体的にどうしたらよいか、そこまでの深い思想ではなかったと思われます。

 

言ってみれば、吉田松陰の「狂(気)」をそのまま引き継いだものに過ぎず、その次元で言えば、他藩の同類を含めた、いわゆる「勤王の志士」というのはそういうレベルであったと言えます。

 

実は毛利家中では、長井雅楽が唱えていた航海遠略策が藩論の主流になっており、久坂がこれに対して激しい反論をしたようですが、藩論は覆ることはありませんでした。Photo

 

となると、久坂の言動はさらに過激にならざるを得ずと言うか、そうしていくことが義兄であり師である松陰の思想を継ぐことだと、信じていたのでしょう。

 

ついには長井雅楽の暗殺をも考え実行しようとしたようですが、成功はしませんでした。かのように、久坂は根っからのテロリストであり、彼をもって「草莽の志士」などと讃える考えには到底うなずくことはできません。

 

この時期久坂は京と萩を往復し、京都では「勤王の志士」たちと交流しています。また、坂本龍馬が萩の久坂を訪ねてきた記録もあるようです。この時期、龍馬もまた攘夷思想の持ち主でした。

 

一方、久坂は執拗に長井雅楽の弾劾を繰り返し、翌文久2年の夏、ついに長井は失脚して開国をも視野においていた航海遠略策は葬り去られます。

 

これにより毛利家中(長州藩)も、次第に討幕の方向へと舵を切り始めますが、まだこの時期は尊皇攘夷色濃い藩論であったと言えます。ただその攘夷思想は、国内でも最も過激な思想ベースを持っていたようです。

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