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2018年1月25日 (木)

反薩長史観・鞍馬天狗はエエもんではない

小さい頃は娯楽の主流は時代劇映画で、ようやく始まったテレビドラマでも時代劇が多かったと記憶しています。「鞍馬天狗」などもその一つで、当時は鞍馬天狗の活躍にワクワクしたものです。

 

そう、ドラマの中では「勤王の志士」がエエもんで、それをつけ狙い惨殺しようとする新撰組などがワルもんでした。勤王の志士危うし、そこに颯爽と馬に乗って現れる鞍馬天狗。

 

バッタバッタと新撰組を倒していき、やがてまた颯爽と去って行く。カッコええなぁと子供心に思い、チャンバラ遊びでも天狗は無理でも、勤王の志士になりたかったものでした。

 

そんな頃から、もう薩長史観が体の中に染み込み始めていて、思考が毒され始めていたというわけです。吉田松陰の伝記も読んだ記憶がありますが、それはそれはかっこいい教育者でした。

 

今では全否定とは言いませんが、9割否定というところでしょうか。

 

勤王の志士、それはまさしくまがい物の志士であり、単なる無思考のテロリストたちであったことは今さら言うまでもありません。多くの志士が攘夷という言葉に踊らされ、その中身もよくは知らない、無知蒙昧な輩でした。

 

そんな志士が大きな顔で闊歩している京の都に、京都守護職に任じられた松平容保に率いられた、会津家中の武士たちがやって来ます。かれらは、文字通り武士中の武士でした。

 

松平容保は当初「話せば分かる」の姿勢で臨んだようですが、志士どもは会津家の駐屯地(金戒光明寺=黒谷さん)にやって来ては吞み食いして、また天誅を繰り返す有様だったとか。

 

ついには足利将軍三代の木像から首を切り落とし、それを三条川原にさらすという暴挙に出ました。ここに至ってさすがの容保も、完全に切れてしまいます。

 

新撰組が組織され、やがて会津家中に組み込まれたのはその少し後ですが、彼らは近藤勇と土方歳三の元で、治安維持集団としての組織を固めていきます。特に土方は、厳格な掟を作って内部を引き締めます。

 

その新撰組の名を一気に高めたのが池田屋事件、元治元年(1864年)初夏の話です。Photo

 

この事件、真実を知るまでの私は新撰組の暴挙と思い込んでいました。有能で将来の日本を担うべき志士たちを、新撰組という暴力集団が襲い惨殺したと。

 

善は志士たち、悪は新撰組だと思っていました。ですが、明らかに真実は逆です。池田屋に集まった志士たちが決行しようとしていたことは、京都中を火の海にして反対派を抹殺し、天皇を拉致すること。

 

その目論見が新撰組や会津候に知られてしまったので、決行日を早めようと画策したものでした。そこには桂小五郎(のちの木戸孝允)も加わっていましたが、かれは事件直前に姿を消しました。

 

まさに「逃げの小五郎」です。もちろん事件後「指名手配」されますが、うまく逃げおおせたのは悪運のよほど強い男であったのでしょう。それが日本にとってプラスだったかは疑問ですが。

 

池田屋事件で惨殺された中には松陰門下の四天王の一人、吉田稔麿(重傷・脱出後に自刃)などもいて、そのことに久坂玄瑞は憤りを覚え、新撰組と会津家憎しの心を固めます。

 

この瞬間に、過激な扇動家であった吉田松陰の遺志を継ぐ、テロリスト・久坂玄瑞が誕生したと言えます。

 

なお池田屋は人手に渡り佐々木旅館として残りましたが、後に廃業して建物も壊されます。今はビルが建っていて、「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑(写真)があります。

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