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2018年1月18日 (木)

過激で幼稚な長州人の攘夷と実行

最近、相次いで薩長史観への反論書が出版されるようになりました。そのいくつかに目を通しましたが、うなずけるものも多々あるものの、いささか感情的なものも少なくないようです。

 

ちょうど今年は明治維新から150年ということで、その評価を巡っての諸説が公にされていくのでしょうが、学界は相変わらず史料偏重らしく、天地がひっくり返るような「事実」はなかなか出てこないようです。

 

そんな中で先日のTV番組で、「坂本龍馬暗殺は誰が指示したか」というテーマでの話がありました。このテーマは維新史の中でも常に論議を呼ぶところであり、私のブログでもやがて触れることになります。

 

その中では、意外な人物が「黒幕」として取り上げられ、それはこれまで封印されていた龍馬の書簡から証明できるとのことでした。しかし、私の感想ではそれはいささか無理があるなぁというものでした。

 

いささか荒唐無稽な発想かも知れませんが、龍馬を切ったのはその場に相対していた中岡慎太郎ではないか、そういう思いが私には強いのです。中岡も重傷を負い数日後に死にますが、龍馬に切られた?

 

真相は藪の中です。でも、龍馬と中岡が言い争いになり互いに太刀で斬り合いになった、そこへかねて龍馬を狙っていた幕府見廻組が踏み込んだ。やはり、無理な発想でしょうか。

 

さて、話を久坂玄瑞に戻しましょう、これが当面の本題ですから。

 

玄瑞をもって「幕末の英雄」と評する論が多く、長州の英傑として語り継がれていますが、以前から申し上げているように、私はそれにはとても与することができません。

 

高杉晋作と並べて「松下村塾の双璧」、あるいは「松陰門下の四天王」などと呼ばれていますが、間違いのないことは、松陰の『狂気』の部分を色濃く引き継いでいるということでしょう。

 

ことに、松陰が安政の大獄で刑死してから、その傾向が一層強まります。師が老中暗殺を口にしている際には止めに入り、師から罵倒されていたのに、死後はむしろ最強硬派に転じます。(写真は長州攘夷派が出入りしていた品川塾の土蔵相模跡)Photo

 

ただ、その思想はまだ未熟なものではなかったかと思われます。ありていにいえば、学びが浅かったということ、過激(で幼稚)な尊皇攘夷思想から一歩も抜け出せていません。

 

ですから、攘夷決行日に関門海峡を通った外国船に大砲をぶっ放す、その先頭に立っていたわけですが、その試みは見事に失敗に帰します。

 

正しい海外情勢への認識や、外国船を一方的に攻撃したらどうなるかという先を見る力がなかった、そう断言しても良いでしょう。こんな男が英雄・英傑であるとは、どこの押したら言えるのでしょう。

 

結果的に長州(と薩摩)が幕府を圧倒して新政府樹立にこぎつけたから、その先駆者として評価されたに過ぎないわけで、(歴史にイフは禁物ですが)逆になっていたら、単なる跳ね返りの無法者です。

 

関門海峡での外国船砲撃の前に、久坂たちは英国公使館焼き討ちも決行しています。これには高杉も参加しており、他にも伊藤(のちの博文)や井上(のちの馨)らも一緒でした。

 

この品川御殿山の公使館、実はまだ建設中(ほぼ完成)だったものですが、燃え上がる火を見て喜ぶ姿は、単なる放火魔といったところでしょうか。

 

多額の建設費(一説に8000両)を無駄にしただけで、歴史の大勢にはほとんど影響のなかった事件です。こんな子供じみた放火遊びが、長州尊皇攘夷の口火であったなどとは笑止千万です。

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