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2017年12月18日 (月)

<反論・薩長史観> 松陰から玄瑞・晋作へ

井伊直弼にフォーカスしてきましたが、少し時計を元に戻してみましょう。

 

吉田松陰が処刑されたのは安政6年(1859年)1027日、その朝死罪が申し渡され、そのまま伝馬町の獄で即刻処刑されました。享年30歳(満29歳)。

 

松陰の辞世の句としては、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という弟子宛のものが有名ですが、私は親に宛てた次の一句です。

 

「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

 

松陰が処刑された年には、まだ萩の両親は健在でありましたし、処刑前日に書いたと言われるこの句には最も素直な気持ちが込められていると思うのです。

 

狂気の人と言われた松陰を決して見捨てることなく、最後まで支え続けたのは両親であったことでしょうし、住み辛い思いや心苦しい思いもされたことでしょう。

 

さて、松陰の死骸はそのまま伝馬町の牢屋敷に放置されたらしく、江戸屋敷にいた周布正之助の指示で毛利家中の数人が引き取りに行きますが、牢役人に拒絶されたようです。

 

おそらく賄賂なども使ったのでしょうが、結局牢役人を押しきって遺骸の引き取りしますが、死骸を入れる丸桶に遺骸を投げ込んで、伝馬町から南千住の小塚原回向院に向かいます(役人も同行)。Photo

 

夜中でもありかなりの距離がありますので、大変だったでしょう。その回向院には、桂小五郎や伊藤利助(博文)も待っていたようです。

 

彼らは、首と胴体をつなごうとしますが、さすがにそれは役人からダメ出しをされたようでうす。処刑された重罪人ですから、強くはいえなかったようで、そのまま埋葬します。

 

その後、門下生である久坂や高杉たちは、山田方谷を通じて当時老中だった(?)板倉勝静に遺骸引き取りを頼んだようですが、それが功を奏したかどうかは別としてようやく許可を得ます。

 

そして回向院からさらに、江戸郊外にあった毛利家の飛び地に移された埋葬されます。そこが現在の松陰神社です。

 

ですが、松陰が毛利家の中でも名誉を回復するにはさらに時間がかかっています。それまでは、なお「狂気の人」として遠巻きにされています。

 

大赦令が出て、松陰の名誉が回復されたのは1863年になってからですから、毛利家飛び地への改葬もその後に行われたようです。この時には高杉も立ち会っています。

 

そしていよいよ、毛利家では門下生であった久坂玄瑞と高杉晋作が、大きな影響力を持って藩論を左右していくことになるのですが、あまりにその功罪の「功」の部分がクローズアップされているのが薩長史観です。

 

そんなにエエもんかよ、というのが私(たち)の思いであり、結果として北越戦争や会津の戦いに直接つながる元であったということを、ハッキリと記しておきましょう。

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