無料ブログはココログ

« 今年も雪降る冬がやってきました | トップページ | <連載⑭> 失敗についての対応を改めよ »

2017年12月 7日 (木)

桜田門外の変はどう影響していくのか

井伊直弼が白昼堂々テロ集団に殺された桜田門外の変、「犯人」は水戸藩脱藩浪人17名と薩摩藩士1名の18人。彼らは現場等で死亡したほか、捕らえられて投獄されたもの多数です。

 

変の直後は、例えば水戸藩でも関係者の処分を実施しています。薩摩藩でも、悪影響がないかとかなり気を遣ったようです。

 

ところが明治新政府は、例えば唯一の薩摩藩士であった有村に対して正五位を追贈したりしています。これはどういう意味なのでしょうか。

 

また、襲撃者すなわちテロリスト全員が靖国神社に合祀されています。ではこの変で死亡した彦根藩主、あるいはその後の政変で失脚・打ち首にされた長野主膳などは?

 

私が靖国神社を散歩はしても、参拝は絶対にしないのは、このあたりの片手落ちというかテロリスト賛美が気にくわないからです。

 

維新の時代に亡くなった人々を平等に祀るのであれば、どうみても恣意的に区別するようなことはおかしいとしか思えません。

 

彦根藩もある意味では被害者でした。幕閣の事なかれ主義で、直弼は病死とされ「事業継承」も認められますが、大幅に減封(35万石から25万石)されてしまいます。

 

これによって、明治に入って伯爵にしか叙位されなかったと恨み節が出ますが、これはいささか誤解によるもののようです。

 

ともかく、彦根藩自身も変後の収拾に終われ、しかも幕府の事なかれ主義や世論に迎合してしまいます。とくに安政の大獄の関係者逮捕に豪腕を振るった長野主膳は、悲劇的な最期を迎えます。

 

確かに、主膳の行動は非難されてもやむを得ない面もありますが、職務に忠実だったことや彼は彼の主義に基づいて信念を持って行動したと考えれば、一方的非難は当たらないでしょう。

 

蛇足ですが、彦根市と水戸市が「和解」したのは、変からなんと100年以上も経った1968年だということを耳にしています。

 

こういう例は、例えば萩市や下関市と会津若松市の関係とか、いくつかあるようですが、現代人の感覚には合わないなどとおっしゃるのは、薩長史観に馴らされた故ではないかと思う次第です。

 

いずれにしても、このテロ事件以来特に京都における「(勤王の)志士」と名乗る、輩たちの跋扈が激しさを増していきます。彼らが「勤王」であったとはとても思えません。

 

単独での、あるいは徒党を組んだテロ事件が頻発し、京都は暗黒の都と化します。とくに、安政の大獄での体制側と名指しされた、あるいは疑われた人たちは戦々恐々だったことでしょう。Photo

 

実際にテロの対象は、そういった人たちに集中します。一方で水戸藩は藩内抗争と分裂が続き、過激派は天狗党と称して京都に上ろうとしますが逆に追討を受けて崩壊、多くが惨殺されてしまいます。

 

こうして水戸藩は維新の主役の座から脱落、一方の彦根藩は、戊辰の役の中で官軍に鞍替えするという逆転劇を演じます。歴史の変転、その背景や結果を私たちは正確に見つめたいものです。

« 今年も雪降る冬がやってきました | トップページ | <連載⑭> 失敗についての対応を改めよ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 桜田門外の変はどう影響していくのか:

« 今年も雪降る冬がやってきました | トップページ | <連載⑭> 失敗についての対応を改めよ »

2022年2月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28