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2017年12月25日 (月)

<反論・薩長史観> 明治天皇を取り巻く謎

日本を席巻している「薩長史観」について、私なりの反論を書き続けています。薩長史観というよりも、むしろ「長州史観」といった方がより正確なのかも知れません。

 

専門家すなわち史家でもでもなく、研究者でもない私の書く雑文ですから、しっかりした根拠があるとかなどという難しいものではありません。なんとなく感じていることを書き連ねているばかりです。

 

ですから、巷に一般的に流されている薩長史観をなぞらえる日もあります。こういうことが、一般的に語られている、あるいは教科書的に伝えられているということをハッキリしておきたいのです。

 

それに対して、こういう考え方もできるのではないか、あるいは事実としてこんなことがあったのではないかと。ものの見方も、表から「見せられたところ」だけを見るのと、裏側から眺めるのとでは違います。

 

「見せられていない」ところは、矛盾の中から発見することも少なくありません。いろんな方が書かれているところから、これまで見知ることのなかった新しい観点も生まれてくるものです。

 

衝撃的だったのは、「明治天皇すり替え」という意見です。真面目にこの裏付けに取り組んでおられる専門家もいらっしゃるようで、それだけを読むと妙に納得させられます。

 

もちろん、私には何が正しいのかという判断をするだけの材料も才覚もありませんので、あくまでそういうこともあるのだとしか書けません。Photo_2

 

ただ確かに客観的事実の中に、おかしなことがたくさんあることには気づかされます。もちろんちゃんとその理由も書かれていますが、理由が添えられているところに「おかしさ」も感じます。

 

例えば、明治天皇は即位前には睦仁親王と呼ばれておりました。父は孝明天皇、母は中山慶子で、攘夷派公家の中でも強硬派と言われた中山忠能(権大納言)の娘です。

 

皇居の奥深くでお育ちになり、少なくとも即位までは外に出られたという記録もありません。孝明帝の急死により14歳で即位されましたが、その頃の様子はほとんど表に伝えられていません。

 

それが慶応2年ですが、践祚されたのにどうして元号はそのままだったのでしょう。まだ元服されていなかった故にとも言われますが、元服前の践祚(即位)はそれまでにいくらでも例があります。

 

実際に元服され即位礼を執り行われたのは慶応4年、その後すぐに明治と改元されました。この頃まで、天皇のお姿を実際に見た人間はどのくらいいたのでしょう。

 

会議の折りにもほとんど御簾の内でしたでしょうし、維新の混乱の中でしたから、御所の外に出ることもほとんどなかったということなのでしょう。

 

それがある時点から頻繁にお姿を見せられるようになっていきます。もっとも「写真はお嫌い」だったそうで、あまり多くは遺されていません。

 

ただその御姿写真を見ますと、かなりの大男で剛健そのものの体格です。若き日のそれとはかなり異なり、そんなところから「すり替え説」も生まれたということでしょう。実際、かなり違います、客観的に見て。

 

ちなみに皇后に冊立されたのは一条美子(はるこ)、明治天皇より少し年上でした。入内は明治元年ですが、その後お子様には恵まれませんでした。

 

その美子皇后が天皇薨去後に与えられた追号は『昭憲皇太后』、あれっと思われません?『皇后』ではないのですかと。これでは明治天皇の母后になってしまいませんか。疑問いっぱいです。

 

ではまた来年に、ブログ上で私感を展開します。引き続きお付き合いください。

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