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ペリーの恫喝外交に負けなかった林大学頭

さて再び半年後に現れたペリー艦隊のお話です。今度は6隻で浦賀沖にやってきましたが、その内外輪蒸気船は3隻でした。さらに日を置いて、もう3隻が江戸湾に現れます。

 

将軍の交代などでバタバタしていた幕府ですが、それなりに再来航への準備はしていました。前回書いた台場づくりの他にも、洋式帆船の製造を浦賀造船所で完成していましたし、オランダに軍艦を発注しています。

 

また、その他にもジョン万次郎を招いてアメリカ事情を語らせています。しかしまさか半年で、しかも9隻もの艦隊で現れるとは思わなかったでしょうから、前回よりも大慌てでした。

 

一方市民の側は、2度目ともなれば馴れてしまったのか、小舟を出しての見物や物売りまで現れたそうです。また幕府も、横浜(当時は寂しい海辺の寒村だったようです)に応接所をつくり、艦隊員を接待しています。

 

そんな中でアメリカ側との交渉が始まっています。私たちが学んだ教科書の歴史によれば、アメリカ側の強硬な要求に押されて、あるいは江戸湾深く侵攻するような脅しもあって、幕府は屈辱的な条約を結ばざるを得なかったと書かれています。

 

しかし実際にはそうではなかったことが、多数の文書・史料で確認ができます。

 

ここに一人の人物が登場します。林復斎、儒学者・林家の本家大学頭家を継いだ俊才です。しかも、アメリカを初めとする外国事情にも明るい人材でした。

 

横浜村での応接掛に登用された林は、漢文での応対だったようですが、アメリカのことをよく研究しており、ペリーの居丈高な外交姿勢をかえって批判したくらいです。

 

アメリカ側は、捕鯨船の寄港と食料や水、薪炭などの補給を求め、そのためにいくつかの港の開港、さらにその上に通商交易を求めて来ていました。

 

林は前二つについては妥当だとします。これは当時の国際状況から避けられない、やむを得ないとの判断によります。とくに、アヘン戦争等による清国の状況をよく研究していたようです。

 

アメリカの要求の本音もつかんでいたと推察され、ペリーをキチッと理詰めで論破していたことが、史料(『墨夷応接録』など)からも読み取れます。Photo_2

 

とくに国内情勢に鑑みて、通商についてはまだ時期尚早であると、断固として拒絶しています。

 

そうなるとペリーも無理押しはできません。急務である、開港と補給の保証を取ることが最大の急務であったからです。

 

こうして結ばれたのが日米和親条約(神奈川条約)、後に明治新政府が言うように、また教科書に書かれ続けてこられたような、弱腰外交では決してなかったのです。

 

条約締結はその年(1854年)の33日、さらに細かい部分については下田で追加条約が結ばれます。

 

この条約によって、日本は下田と箱館(函館)の2港を開港し、いわゆる「鎖国」の体制は終焉を迎えることになります。

 

役目を終えたペリー艦隊は、6月の始めに下田を出て琉球に向かっています。なお、浦賀沖に停泊中に密航を企てたのが、かの吉田松陰でした。松陰についてはまた後日。

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