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松陰神社(東京)は明治初年にはまだなかった

吉田松陰その2です。先ずは神社の話。

 

松陰を祀る松陰神社は、地元の萩の他に東京世田谷区にもあります。世田谷区若林にある松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前停留所から北に歩いて34分のところにあります。

 

Photo

途中は商店街になっており、左に折れるとすぐ世田谷区役所があります。この神社は、安政の大獄から4年ほど経った頃、処刑された松陰の亡骸を遷して(改葬)安置したところです。

 

これを実行したのは高杉晋作や伊藤博文等と伝えられていますが、この神社一帯は元毛利家藩主の別邸があったところです。しかしながら神社が創建されたのは明治15年ですから、明治初年からはちょっと間がありすぎませんか。

 

神社創建までは、どうも簡素な墓碑しかなかったようです。なお蛇足になりますが、松陰神社と谷をはさんで豪徳寺があります、皮肉にもこちらは井伊直弼の菩提寺となっています。

 

それはともかくとして、ここでは教育者(明治維新の人材を育てた教育家)としての吉田松陰が祀られているわけですが、もし本当にそうであれば明治初年の頃に祀られていても然るべきと思うところです。

 

それが10数年経ってようやくというところに、松陰の複雑性があるのだと考えざるを得ません。つまり単なる教育者、明治新政府の中核を担う人材を育てただけでない「特殊性」を観るべきでしょう。

 

あるいはまた、松陰を祭り上げた新政府の長州人たちが幕末に犯した悪行を、隠蔽するための必要として神社として昇華したともいえるのではないでしょうか。

 

確かに松陰自身は、例えば「天誅」などという殺人はやっていません。だが、松陰の教えを受けた人たちはやっています。戦争におけるそれはともかく、伊藤博文もまた殺人を犯した一人でした。

 

久坂玄瑞や高杉晋作たちは、伊藤も井上(馨)も含めて、イギリス公使館の焼き討ちなどという愚行もやらかしていますし、久坂は禁門の変で御所に向けて大砲をぶっ放してもいます。

 

では松陰は全く罪を犯していませんか、否ですね。最大の罪は密航未遂、密航は当時の国法違反の最たるものです。

 

すでにこのブログでも触れた、ペリーの2回目来航時、1854年の出来事です。

 

実はその前年1853年にも、松陰は密航を企てています。長崎に来航したロシアのプチャーチンの船に乗り込もうと、江戸から長崎に急ぎましたが、一歩遅く出港した後だったのです。

 

それで今度は、再来航したペリー艦隊に目をつけます。まさか地元の船頭に頼むことはできませんから、行動を共にした金子重輔とともに自ら小舟を漕いで艦隊に近付きます。

 

何とか旗艦・ポーハタン号に乗り込むことには成功しますが、密航は認められませんでした。条約締結を目前にして、幕府側と揉め事は起こしたくないというペリーの意思も働いていたのでしょう。

 

艦隊から追い返され、計画に失敗した松陰は下田の奉行所に自首して、金子と共に捕縛されます。本来なら死罪も免れないところですが、死一等を減じて長州に戻され、獄につながれることになります。

 

この密航の罪は、安政の大獄で逮捕される理由にはなっていません。また、アメリカに留学し、アメリカの技術を盗み、アメリカを倒すためというのが密航の理由だという人もありますが、そこまで果たして深く考えていたのか、それにしては余りに稚拙な計画と実行であったと感じます。

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