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VAN研(ヴァンガード経営研究所)

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<連載④> 「分かった」気だけでは実際が伴わない

脳力開発の基礎部項目(つまり土台習慣づくり)は、全部で11項目ありますが、その全てが対比志向で表示されています。すなわち、互いに反対関係にある2つの習慣のうち、どちらを取るのかという形で表現されています。

 
 
例えば指針その1は、「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」ですが、それとともに、「人頼りの姿勢」をやめようとも表現されています。主体的にやる姿勢をとるのか、人頼りの姿勢をとるのか、どちら側の習慣を土台にするかの選択は、当人の意志に基づく自由なものであるということです。201302 (イラストは「人頼りの姿勢」のイメージ)

 
 
しかしながら、そこから導かれてくる結果(到達点あるいは効果)は、実は客観的法則に基づくものですから、こちらの方は選択した当人の意志の自由にはならないのです。脳力開発では「確定的可能性」とも呼んでいますが、このことをしっかり理解した上で、しっかりと選択しなければならないということなのです。

 
 
言い換えれば、結果が良いと判断される方を欲するのであれば、どうしてもそちらの結果に導いていく方の土台習慣を選択し、固めていかねばならないことになります。しかし脳力開発では、どちらがよいとは教えません。これはまさにMGの基本である、「教えない」にも通じるところなのです。

 
 
なぜなら教えられて「分かった」気(つもり)になっただけでは、実際が伴わないばかりか、土台の回路づくりにはちっとも結びつかないからです。ここはどうしても、自ら意思決定した上で実際行動しなければならない、ここに大きな、そして重要なポイントがあります。

MG100期をやることの意味とは

台風22号が東海沖にあって関東方面に接近中です。先日の21号ほどではないようですが、万が一のことがあってはいけませんので、早めにホテルにチェックインです。(この記事は昨日29日夜に書きました)

 

この土日は「軽井沢MG」セミナーに参加、新たな学びと出会いをいただいて参りました。

 

そんな中で西順一郎先生からの一言が、強く印象に残りました。

 

20171029

最近は東京はじめ各地のMGに、たくさんの人が参加しています。ある意味、何度目かのブームといった感じです。しかも一度でやめる人よりも、続けて参加されるケースも少なくありません。

 

また、MGシニア研修(インストラクターコース)を受講し、西先生から「MG免許証」をいただき、地元でMG研修を開催される方も増えています。

 

そうやって、MGが広がっていくことは嬉しいことではあります。しかしながら、西先生の言葉が強い重みとして、私の心に響きました。

 

MGを始めて、体験を続けていき、100期を達成する人も増えている。それはそれでいいのだが、「100期」が目的あるいは目標になってしまっている(ことも多い)。』

 

私は1987年の9月にMGを始め、89年の1月に100期に到達しました。当時としては比較的早い方だったと思いますが、最近は1年を経ずして100期達成という声も少なくありません。

 

ですが100期のMGを体験して、その方の会社は大きく変わって、良くなったのでしょうか。そこまで至らなくても、変革の第一歩を踏み出し始めたのでしょうか。

 

あるいはまた、周囲を巻き込んでおられるでしょうか。まずその第一として、社員さんと一緒にMGに参加されるようになったり、社内での研修などを試みておられるでしょうか。

 

脳力開発で大切なポイントとしているところは、『学んだことはすぐに使う』です。せっかくMG100期も重ねたのに、何の一歩も踏み出していないということでは、何のために時間と費用を使ったのか分かりません。

 

100期は目標ではなく、自分の到達点・到達度を確認する通過点です。

 

そこまでやっていて、やる前と何も変わらないというのでは困ります。もちろん、やったご本人は満足しているのでしょうけど。まぁ、「人間が変わる」ことは大切なことですが。

 

自分が佳い方向に変わっても、周りにも良い影響を及ぼさなければ、これまた脳力開発でいうところの「自分も良し、他人も良しの姿勢」になりません。

 

明後日火曜日からは、MGシニア研修に参加をします。これでシニア研修は30年間で167回目になるかと思います。今回も一昨年12月以来の参加です。

 

この中で、上記のようなことを今一度深く考えてみようと思っています。この先、多くの方にMGを使えていくためにも明らかにしていきたい命題です。良い目標ができました。

今秋の軽井沢MGにも来ることができました

この土日は軽井沢MGに参加しています。

 

会場は長野県蓼科山麓の春日温泉もちづき荘、軽井沢でないのに軽井沢MG?

 

そうなんです、スタート時は軽井沢で開催されていて毎年春と秋の2回、今年で32回目を迎えています。

 

今の会場は温泉にも恵まれ、霊気にあふれロケーションも抜群です。私も可能な限り参加するようにしています。

 

それは軽井沢MGを立ち上げた芦田さんと山崎さんとのご縁。山崎さんは残念ながら、還暦を迎えて日を経ずして還らぬ人になってしまわれましたが。

 

そんなわけで、今秋も山ちゃんに会いにやってきました。

 

今回は何と第2期で、自分のMG史上で最高のPQ(売上高)を記録できました。これまでの記録を100円以上上回る763円。

 

何があった? そう、何かがあったんですよ。山ちゃんのニコニコ笑顔がね。

 

さぁ、今日2日目もがんばりますか。20171028_114713

松陰が密航で処刑されなかったのは幸か不幸か

吉田松陰の密航事件をもう少し追ってみましょう。この事件を「下田踏海(とうかい)」とも呼ぶようですね。嘉永7年(1854年)のことです。

 

この時ペリーは2度目の来航で、すでに神奈川・横浜村で日米和親条約を結び(33日)、艦隊は下田に移動したところでした。

 

そして325日夜、最初の密航を試みますが、この時には波が高く断念しました。翌々日、たまたま浜辺を歩いていた米書記官に出会い、乗船を望む趣旨を書いた「投夷書」を手渡しました。その夜再度決行したわけです。

 

ところで、松陰が密航を決意したのは、師であった佐久間象山の後押しがあったからだといわれています。それは前回のペリー来航の折で、松陰自身もその目で黒船を見聞します。

 

象山はともすれば血気にはやろうとする松陰に対し、「西洋列強に学ぶべし」と諭したと言われます。これをストレートに受取り、そのためには西洋に渡り学ぶことが一番だと決意するわけです。

 

前回も書きましたように、ペリーがいったん日本を離れた後でしたので、松陰は長崎に急ぎプチャーチンロシア軍艦を掴まえようとしますが、一歩遅れてしまいました。

 

江戸に戻った松陰でしたが、今度はペリー艦隊を掴まえようと下田に向かったわけです。思いつきで行動するとまでは言いませんが、それがどんな結果を招くかまでの考えに至らなかったのでしょうか。他のことが見えなくなる性格であったのかも知れません。

 

327日、松陰は同行する金子重之輔と共に小舟をこぎ出します。細かいことは申しませんが、この小舟は海岸につないであったものですから、窃盗の罪も犯しています。そんな意識はなかったでしょうが。

 

旗艦ポーハタン号では色んなやりとりがあったでしょうが、ペリーには面会ができたと思われます。その日に書記官に手渡しておいた「投夷書」の効果があったのかも知れません。

 

しかし、ペリーは松陰たちの留学の望み(密航)を拒否します。

 

日本人が許可なく国外に渡航することを禁ずるという幕府の法を、遵守するという建前でした。おそらく、せっかく条約が結べたのに、ややこしい問題は起こしたくないというのが本音だったでしょう。Photo_2

 

密航することの見込がないことを悟った松陰たちは、艦隊のボートで浜まで送り返されます。彼らの乗ってきた小舟は、船に係留できなかったために流されていました。

 

いかにもアキラメがよすぎる感がありますが、ほとんど言葉通じない、コミュニケーションがとれない中ではどうしようもなかったのでしょう。

 

乗ってきた小舟が流されて、おそらく浜に打ち上げられているでしょう。その中には身分が明らかになる物や、師の象山からもらった激励の書がそのままでした。迂闊ですよね、どうにもなりません。

 

松陰はすぐにことが露呈すると判断し、「むしろ自首して自分たちの気概を日本中の志士たちに知らしめよう」としたと言いますが、負け犬の遠吠えあるいは取り繕いのようです。

 

それでも死刑(打ち首)にならなかったのは、ペリーの方から幕府に対し寛大な処置を望んだからだと言われていますが、果たして事実だったのでしょうか。

 

ここで打ち首になっておれば、歴史にイフは禁物ですが、日本の歴史は変わっていたのでしょうか。

<連載③> 誰でも簡単にできる習慣づくり

自分の習慣づくりや核動作づくりは、自分の意志コントロールの範囲内で、誰でも簡単にできることです。なぜなら、これまでよりも少し意識して、その意識が無意識にまで昇華されるまで、何度も繰り返すだけのことなのですから。

 

ただ、どうしても日常的に忘れてしまいがちになってしまったり、いつもと同じことの繰り返しに無反応になってしまい、惰性に流されてしまうこともあります。

 20170129_mg5

MGでも、ことに第1期は毎回いつも同じことの繰り返しですから、ついつい「分かっているつもり」の馴れが生じてしまいがちです。

 

そのことにちょっとでも気が付いたら、今日の研修目標を考え、しかも必ず以前とは違う狙いを決めて臨むことです。もっとも、私自身もそのことに気付かされたのは、おそらく50期体験を過ぎてからのことだったのでしょう。でも気付くのに遅いも早いもありません。

 

具体的な目標・狙いを一つでいいから定めて、MGに臨んでみてください。そうすれば、必ず新しい気付きに出会うと思います。あるいは、前回までにはまだ気がつかなかったこと、分からなかったことがふとひらめいて、腑に落ちたりするものです。

 

脳力開発では、身近な具体例をみつけて、それを通して回路づくりをすると佳いと教えていますが、これをいつも一人でやるのはけっこう骨の折れることです。

 

しかしMGでは、すでにやるべき具体例がいつも示されているではありませんか。しかも常に同じ学びをする仲間がいます。そうと分かれば、MGを学びながら、実は脳力開発で言うところの「回路づくり」を行っていることに気付きます。

「謙虚」の意味が変わったのかと思ったよ

総選挙が終わりました。事前の大方の予想通り政権与党側の圧勝、いわゆるアナウンス効果なるものは全般的には起こりませんでした。

 

しかしながら投票率は余り上がりませんでした。期日前投票の数はかなり多かったようですが、当日は台風21号の影響も少なからずあったのでしょうか。

 

気に懸かるのは、若い人の投票率。18歳の投票率は平均より少し低かったくらいでしたが、19歳のそれははるかに低く、3人に2人は投票しなかったようでした。

 

積極的に棄権をしたというよりは、総選挙の意味をキチッと理解していない若い人が多いというも言えそうな感じですが、私などの門外漢には分かりません。

 

選挙が終わって、報道番組では様々な識者が分析を行い、あるいはそれぞれの党の代表や当選者、落選者がこれまた色んな意見を述べていました。

 

聞いていて、誠にレベルの低い意見が多いなぁと感じたのは私だけではないでしょうね。

 

笑止だったのは、現職閣僚たちの閣議後のインタビュー。半数の大臣が「謙虚に」という言葉を使っていたようですが、いったい彼らは謙虚という言葉をご存じなのでしょうか。

 

ある辞書には、「控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。」とありました。彼らにどの部分が当てはまるのでしょうか。

 

選挙中はいくらかそういう姿勢をとっていたかも(見せかけていたかも)知れませんが、支持者の集まりでお礼を言上したまででおしまい、になどならないように願いたいものです。

 

第一、「すなおに相手の意見などを受け入れる」というのは、選挙前のたとえば「モリカケ問題」への対応を見ても、にわかには信じられません。

 

それともホントに心を入れかえるのでしょうか。謙虚の反対は?尊大でしょうか、あるいは傲慢とか横柄とか、何だか選挙前のあの人(たち)に当てはまりそうなんですけど。

 

もう一つは、希望の党とやらの失速ですね。告示前のキックオフの時には勇ましかったのに、日を追うごとに希望がしぼんでいく感じで、そういえば希望の「希」は「希薄」にも使われていますねぇ。Photo

 

そのようになった原因を追求する声もありますが、経営コンサルタントという立場でいえば、やはりトップの責任に至りますね。トップ、すなわち小池ゆり子さん。

 

結党発表の時には格好良かったですが、だんだんと馬脚を現してきてしまったのはザンネンです。その第一は、自らが首相候補と名乗れなかったこと。そのためには立候補が必要だったわけで、都知事を捨てることへの民意の反発を考慮したのでしょう。

 

しかしながら、戦略を貫くのだとしたら都知事は捨てるべきだったでしょう。もちろん反発の強さは強大だったでしょう、けれども本気を感じて支持も増えた可能性がないとは言えません。

 

あとの「さらさら(ない)」発言や、「排除」発言は付けたりのようなものでした。ですが、とくに「排除」はマイナス言葉として、使うべきではなかったでしょう。

 

その他に言いたいことも多々ありますが、何より小選挙区制は日本(人)には合わない、やめましょうよ。

台風に翻弄されましたが充実のCFMGでした

昨年第1回目を開催した伊勢CFMG(キャッシュフローMG)、今年も同じ時期に第2回セミナーを、昨年と同じ会場で開催していただきました。

 

台風21号が次第に近付いてくるという予報の中での開催でしたが、まだ影響はそれほどのことはないとの見込を立てて予定通り開始。今回は15名の参加をいただきました。

 

前日もすでに秋雨前線による雨が降り始めていましたが、まだ降りも普通の雨程度でしたので、前夜祭から参加された方と充実のセミナーになる予感を感じていました。

 

特に今回は、主催者である河西税理士さんがMG300期を迎えたり、春の「お伊勢さんMG」会場である旅荘海の蝶の、西村支配人さんが100期を迎える記念セミナーでもありました。20171022_132121

 

今回も初めてMGを体験するという方が1名おられたり、まだ体験期数の浅いメンバーもおられましたので、第1期から少し丁寧な解説で進めていきました。

 

そうして初日は無事に第3期決算、戦略MQ会計講義まで終わり、その後の交流会も大変盛り上がって終えることができました。

 

ただ、その頃からいよいよ雨が本降りになってきていました。また、台風が非常に大型化していて、しかも当初の予想より早めに近付いてきそうなことがニュースで分かりました。

 

そこで翌朝には、河西先生ともメールで打ち合わせをして、午前中の第4期で打ち切ることを決定し、朝一番の経営計画づくりと、昼食をはさんですぐまとめの短い講義でクロージングすることにしました。

 

秋雨前線の雨が小康になれば、その間に列車での移動も可能であろうし、車で来ている方も安全に帰れるだろうとの判断でした。私の頭の中では14時前に終わることを考えていました。

 

2日目(日曜日)は朝から雨が断続的に続き、昼前になってもやむ様子がないので気にはなりましたが、列車の運行状況はネットで調べる限り午前中は余り問題もなく、予定通り14時終了となりました。

 

ところが実際には、昼の時点でJR(参宮線・紀勢線・関西線)が早々と運転取りやめを決定。次いで近鉄電車も線路支障などでダウン、セミナー後に駅に駆けつけた頃には1本も動かない状況になっていました。

 

当初は近鉄電車の早い復旧も可能なニュアンスでしたが、台風の接近でそれも難しいことがハッキリし、列車移動を予定していた、私を含む5名は伊勢市での引き続き宿泊を余儀なくされました。

 

結論から言えば、2日目はセミナーを朝中止していないと、昼前に打ち切ったとしても列車移動途中で立ち往生という結果になってしまった可能性がありました。

 

レンタカーでの移動も選択肢にはありましたが、すでに時間待ちの際にアルコールを口にしていましたし、大雨の中での移動は危険を伴っていたかもしれません。実際道路の冠水も今日ですらあちこちで見られました。

 

そこで居残りメンバー5名に河西先生を加えて、臨時のMG打ち上げ会です。これもまた、MGを学ぶ仲間の阿吽の呼吸といったところです。ハプニングもありましたが、充実の時間でもありました。

 

そして翌23日、まだJRも近鉄も止まっている状況で、河西先生に開通している松阪駅まで車で送っていただきました。特急電車はまだ運転見合わせでしたが、松阪から始発の急行に乗れ、途中満員すし詰め状態でしたが座席も確保できていましたので、昼過ぎにようやく名古屋に到着でした。

 

私は当初の予定より半日遅れくらいでの移動でしたが、他の方は本当に大変でしたし、お気遣いお世話をいただいた河西先生には心から感謝です。

<連載②> 核動作づくりの訓練が脳力開発とMG

基礎習慣(土台)づくりは、別の言葉で言い換えますと「核動作づくり」とも呼びます。ものごとは「核動作」として完全習慣化してしまえばよいということです。脳科学で言えば、脳細胞(大脳皮質細胞)の中にしっかりと回路付けができることを指しています。

 
 
そして、この回路をできるだけたくさん作っていくことが必要なのですが、それは例えばセミナーや講習・講座などで話を聴いたり、あるいは教科書、専門書・参考書などを読んでみるだけでは不完全です。実際に行動する、実践することがカギになるのです。

 Img_9259
 
MG
でも、なぜいつも同じことを繰り返すのでしょうか。何度も何度も、いつも同じ300円(資本金払い込み)のスタートで第1期シミュレーションから始まります。自分はもうこれまで3回も4回も繰り返しやったので、十分頭の中に入っている、あるいはもう10回も同じことを繰り返したので身に付いている。そう思われている方もいらっしゃることでしょう。

 
 
我がことで申し訳ないですが、それでは私はどうなるのってその方々に問うてみたいですね(笑)。自慢ではありませんが、単純計算で250回くらい同じことを、30年余り繰り返してきているのですから。反対に笑われてしまうでしょうか、あきれられますか?

 
 
それはともかくとして、核動作づくりあるいは基礎習慣づくりというものは、一つ一つ該当する具体行動を、着実に繰り返す積み重ねによってしか実現しないのです。その動作は、極めて平凡な当たり前のものばかりです。それを愚直に繰り返す「訓練」が、脳力開発でありMGです。

まだまだ予断は許しませんが

台風21号は静岡県に上陸、そろそろ関東方面を北上しているようですね。暴風域が大きいので、広範囲に雨風が強そうです。

 

昨日は伊勢市でのCFMGを第4期で打ち切り、まとめの講義も短く切り上げて14時過ぎには会場を後にしました。雨が次第に激しくなってきていましたが、車でお越しの方は無事に帰られたようです。

 

列車組は宇治山田駅と伊勢市駅に向かいました。私は近鉄特急に乗るべく宇治山田駅に着きましたら、名古屋線は線路か架線の支障で不通になっているとの情報。

 

窓口で聞きますと、大阪までは大丈夫で途中の八木で乗り換えると京都に行けるとのこと。その言葉にすぐ切符を買ってホームに上がりましたが、待てど一向に電車が来ません。

 

これはまた状況が変わったのかと駅員に尋ねますが、余り要領を得ません。ただ、不通区間が広がっているように感じましたので、外に出てタクシーでJRの隣の伊勢市駅に向かいました。

 

ところがここでも、JRの運休情報が流れていました。どうも昼頃には「今日は全面運休」という決定がされたようです。近鉄のそのすぐ後に支障が出て名古屋線が不通に、その後他の線にも広がったようです。20171022_180615

 

それが15時前、切符を払い戻してネットで空いているホテルを検索。ちょうど、2日間泊まったホテルが空いていましたので、すぐに予約を完了。雨をついて、すぐにホテルに向かいました。

 

チェックインしてすぐに自宅に電話、カミさんに状況を伝え、「しょうがないね」と。

 

ホテルの1階が居酒屋ですので、伊勢市駅で開通を待っているらしい仲間に連絡、彼らもその店にやってきて合流しました。

 

その後主催者の河西先生も自宅から駆けつけて、図らずもセミナーの打ち上げ会になったのでした。二次会にも出かけましたが、ここから戻る道が大変、大雨に道路が冠水して足首以上に水に浸かってほうほうの体でホテルにたどり着きました。

 

バスタオルを余分に借りて、濡れた靴やズボンを洗って乾かしました。ズボンは洗い流して軽く絞り、バスルームにつるしておきました。朝からはズボンプレッサーにかけています。

 

今日は、台風の接近で夜半から状況がひどくなると予想していましたが、その以前に秋雨前線の雨でもう鉄道が不通になってしまったのは、ちょっと予測が甘かったなと反省をしています。

 

それでも昼前に終えても間に合わなかった感じがしますし、もし間に合っていたとしても電車の乗っている途中で止まってしまったことも考えられます。

 

その意味では現地にとどまったことは、正解と言えるのかも知れません。今日がどうなるのかは、まだ情報が整っていませんが、少なくとも午後には動けそうな感じです。

 

朝すぐに(名古屋に)移動するには難しそうですが、今日中に新潟の自宅に帰り着けばいいので、楽観的には見ているところです。

 

そんなわけで、今回は色んな意味で思い出深いCFMGセミナーになったと考えます。状況の変化の中でどう動くかという、脳力開発の実践訓練にもなりました。

 

来年も同じ時期での開催が決まりましたが、今回のようなことにならないことを祈っています。

CFMG2日目は半日だけの予定ですが

台風21号がずんずんと近付いてきています、強風域が広大でしかも非常に強い台風だそうです。一昨日の午後から三重県の伊勢市に来ていますが、真っ直ぐこちらに向かってくるような。

 

金曜日は豊受大神宮(外宮)参拝時には雨も上がっていましたが、夕方前から雨脚が強くなり、昨日は終日雨、今日は夜半から益々激しくなっていくようです。

 

本来なら名古屋に泊まって、明日昼前の空便で新潟に戻る予定でしたが、昨日の内に月曜日の名古屋発便は全便欠航が決まりましたので予約キャンセル。今日の名古屋宿泊もパスにしました。

 

というわけで、本日の伊勢CFMGは第4期の決算終了・まとめの短い講義で、クロージングさせていただくことにいたしました。

 

遠方に返る方もいらっしゃいます、列車や車と交通手段も様々です。鉄道や道路がダメになる前に、皆さん無事に帰れますように。

 

さて、そんな大きな台風が近付く中ですが、この土日は伊勢市でのキャッシュフローMGCFMGセミナーは15名のご参加(3卓)、MGを初めてやられる方もいらっしゃって盛り上がりました。20171021_163034

 

九州や神戸など遠方から参加された方と、体験期数の浅い初心者数名が混ざり合い、程良い「芋洗い研修」になっています。MGの基本が「教えない、教え合う」ですので、共にいい学びになっているはずですね。

 

1期は、初心者向けの講義としましたのでいつもより時間をかけました。そのために昨日の進行が少し遅れてしまいましたが、それもまた佳しでしょう。

 

いつも感じることですが、第1期の中にはMGで学ぶべき要素、それは様々の分野の基礎を網羅していますので、おろそかにはできません。

 

昨日もMG研修の基本姿勢はもちろん、全部原価と直接原価の違い、あるいは会計恒等式についてなどちょっと丁寧すぎるかなとは思いましたが、時間をかけました。

 

初日終了後の交流会もほぼ全員参加、色んな話題や情報が飛び交っていました。

 

そんなわけで、今日は残念ながら途中で打ち切りになりますが、戦略MQ会計による経営計画による経営実践を体験していただき、最後に「MGの目指すもの」を伝えていきます。

 

いずれにしても無理なく安全にということで、2日目は半日だけのセミナーになってしまいますが、氣愛を入れていくことにします。

CFMGに出てくるUZK(ウズク)って何だ!?

今日から2日間神都・伊勢市で、キャッシュフローMG(CFMG)を開催していただきます。主催は、MG仲間である税理士の河西誠二郎さんです。

 

今回もMG初受講の方がいらっしゃいます。MG体験期数のまだ浅い方もおられるようですので、とくに最初の『第1期』は丁寧に話を進めていきましょう。

 

幸い体験期数の多いベテランさんもたくさんいらっしゃいます。期数の多い人ほど、第一期の大切さをよくご存じですので、インストラクターとしてはありがたいです。

 

さて、この「小さなか会社のマネジメント」ブログでは、何度かキャッシュフローあるいはCFMGについて書いてきましたが、重複になるかも知れませんがポイントをお伝えしておきます。

 

通常の西研MG(MQ戦略ゲーム)では、すべてが現金取引です。経理的にいえば、発生主義即現金主義ということで、仕入も販売もすべて現金即時決済です。

 

実際の仕事、会社の業務では何もかも即時現金でやいとるする例は、かえって希少です。究極の現金商売は「バナナのたたき売り」だと、私はいつもセミナーの中で言っていますが、これはまた基本的に在庫を持たない商売です。

 

でも世間一般の会社では、仕入か販売のどちらか、あるいは両方ともに即時現金でないのが一般的です。いわゆる信用取引、つまり掛け買いや掛け売りが通常です。

 

この形をMGでも再現して、シミュレーション(疑似体験)するゲームがCFMGです。

 

材料仕入は一部例外を除き原則として掛け買い、ですから手元に現金がなくても材料を市場から買ってくることが可能です。しかし、いずれは(CFMGでは中間時と期末に)買掛の決済が必要です。

 

一方で販売(売上)も原則として掛け売りになりますから、いくら売り上げが上がっても現金は手元に入ってきません。売り上げから少し遅れて集金(売掛回収)をしなければ、現金が手元に入ってきません。

 

通常のMGであれば、常にその都度現金残高を意識しておればいいのですが、CFMGでは少し先のことを考えておかなければ、いざという時に現金不足状態に陥ります。

Img0532_2

これは実際の会社でも同じではないでしょうか。今月は売上が順調に上がっているから、期末の支払も楽だろうと思っていたら、いざ支払の時期になって「お金が足りない」と慌ててしまう。(イラストは横田真「上手な資金管理の仕組み」からの引用です)

 

今期は儲かったから、社員の皆さんにボーナスを奮発しようと思ったら、金庫(預金口座)の中に使えるお金がない。利益が出たから税金を納付するのに、銀行から借金をする羽目になる。

 

極端なことでは、売上も利益も伸びた(増収増益)のにもかかわらず、倒産の憂き目に遭う。これを黒字倒産と呼んでいますが、決して少ない例ではありません。

 

会計の世界では、「利益は意見、キャッシュは現実」と言います。資金繰りがつかずに事業停止に追い込まれ、社員やその家族が路頭に迷う。そんなことがないように、日常の資金管理をきちんと行わねばなりません。

 

ではどうして資金繰り(キャッシュフロー)が苦しくなるのか、実はとってもカンタンなことなんです。CFMGでは、そのことをゲームを通して学んでいきます。ポイントはUZK(ウズク)です。

 

ウズクってなんだ!? ぜひCFMGに参加して学んでみませんか。

<連載①> 分かりきったことでもキチンとやる

しばらくは、MGと脳力開発という大きなテーマで、私自身がこれまで学んできたことや、あるいは感じていることを思いつくままに書いてまいります。参考に読んでいただければありがたですし、これを機に脳力開発講座に参加いただければさらに嬉しいです。
 
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脳力開発の目的(ねらい)は、土台づくりです。この土台づくりを、言い換えると「基礎習慣づくり」をしっかりと行わなければ、諸々の訓練にいくら一所懸命になっても、大した意味をなしません。
 

 

思うような結果を得られませんし、場合によっては、肝心な勘どころや本質がずれてしまうような結果に陥ります。
 

 

最も土台となる重要な習慣づくり(脳力開発では「指針」と呼んでいます)ほど、ごく平凡で当たり前な内容と雰囲気を持っています。
 

 

そのために、何度も繰り返すことが案外おろそかになりがちです。また、日々の意識の中から洩れやすく、忘れられる結果になったりします。
 

 

これをMGでいえば「第1期(シミュレーション)」です。期数を重ねて馴れてくると、ついいい加減になりがちであったり、インストラクターの進行などを無視してやってしまうことが少なくありません。
 

 

隣に初心者が座っていても、どんどん自分勝手に鉛筆を進めてしまい、さっさと終わってしまっているといった感じのことです。
 

 

1期の進行には一つ一つに意味があるのですが、最初は意味を考えずにやっていきます。でも、いつまでも意味に気付かぬまま通り一遍の作業をこなしていては、学びになりません。
 

 

そして、分かりきったことでも「もう一度改めて(何度も)やる」ことが大切なのです。これによって、実践での土台が知らず知らずのうちに築かれていくのです。
 

 

MGの研修では、原則として(よほど全員が期数を重ねたベテランたちだけである以外は)必ず第1期からスタートします。私自身1千期をかなり超えましたが、もちろん初心者と同じスタートラインに立ちます。

遠征というのに台風が近付いている

一気に秋が進んでいる。気温の変化が激しくて、気温差アレルギーの身には辛いところだが、辛うじて着るもので調節できている。

 

秋雨前線が復活したということで、前線が列島を上下することで、寒気が入ったり暖気が入ってきたりと忙しいことだ。各地への遠征の際にも傘が手放せないし、バッグが濡れない工夫も必要になっている。

 

悩ましく困ったことだが、相手が自然だけに嘆いてみてもしょうがない。うまく温度調節ができたり、雨に遭わないで済んだ時にはひたすら感謝するのみだ。

 

そんな状況の中で、今度は台風(21号)が列島に近付いてきているという。しかも水温の高い沖縄の南の方で、さらに発達してきているのこと。

 

暴風域もできたようだし、これからどの方向に向かうのか気が気でない。というのも今週も明日の金曜日から遠征に出るからで、最悪の場合は移動の交通に影響があるかも知れない。

 

毎年、季節を問わずに気象の影響を受けて、遠征の移動に支障が出ることがある。台風にも毎年のようになにがしか、影響を受けて変更を余儀なくされている。

 

幸いセミナーや講演などが中止になったということは希だが、途中で切り上げて早めに移動したことは何度かあった。強風などで列車が止まり、代行バスでの移動を強いられたこともあった。Photo

 

そのために時間的な余裕(バッファ)をスケジュールには組み込んでおくのだが、台風のように進路がなかなかハッキリしない場合は、ギリギリでの判断が求められることがある。

 

ある時には早すぎた判断で、講演をキャンセルして(代わりの方にお願いして)、移動を前倒しにしたことがある。この時には台風の動きが遅く、当初の予定通りでも大丈夫だった結果に終わった。

 

それでも万が一を考えると、可能な手を打っておくことは大事だなと考えている。

 

ある年は韓国に行っていたのだが、インチョン空港からの帰り道、新潟行きの便が新潟空港の積雪でフライトキャンセルだということがあった。フライトの1時間前くらいに急に決まってしまい、ガイドも帰ってしまったので大変困った。

 

幸い、航空会社から同じ航空会社便で関西空港へ飛ぶことが可能だといわれ、それに切り替えてもらった。関空からもギリギリの列車乗り継ぎで、新潟に戻ったのは最終新幹線だった。

 

その列車の運賃分がかなり余計に掛かったことになったが、翌日朝早くからの仕事に支障が出なかったので、良しとしたわけだ。大事な仕事を控えて、ギリギリの予定を組んだことは反省だったが。

 

ただ、キャリーバッグがその便に積み込まれずに他社便で遅れて関空着、列車の発車時刻の関係で空港では受け取れず、トラック便で送ってもらうおまけがついたが。

 

今週の遠征も国内だが空便での往復になる。明日の往路は大丈夫そうだが、週明けの帰路が台風の進路次第でかなり心配だ。今日くらいには進路もハッキリしてくるかな。

 

そうなると対策も練っておかなければならない。最悪の場合は空便(の運賃分)を捨てて、移動を早めて新幹線で帰るか、台風から離れたところに泊まるかなど、「戦術」をいくつか準備しておかねばならないだろう。

 

またまた脳力開発の実践、自分が試されるケーススタディ・トレーニングと割り切っていくとしますか。

松陰神社(東京)は明治初年にはまだなかった

吉田松陰その2です。先ずは神社の話。

 

松陰を祀る松陰神社は、地元の萩の他に東京世田谷区にもあります。世田谷区若林にある松陰神社は、東急世田谷線の松陰神社前停留所から北に歩いて34分のところにあります。

 

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途中は商店街になっており、左に折れるとすぐ世田谷区役所があります。この神社は、安政の大獄から4年ほど経った頃、処刑された松陰の亡骸を遷して(改葬)安置したところです。

 

これを実行したのは高杉晋作や伊藤博文等と伝えられていますが、この神社一帯は元毛利家藩主の別邸があったところです。しかしながら神社が創建されたのは明治15年ですから、明治初年からはちょっと間がありすぎませんか。

 

神社創建までは、どうも簡素な墓碑しかなかったようです。なお蛇足になりますが、松陰神社と谷をはさんで豪徳寺があります、皮肉にもこちらは井伊直弼の菩提寺となっています。

 

それはともかくとして、ここでは教育者(明治維新の人材を育てた教育家)としての吉田松陰が祀られているわけですが、もし本当にそうであれば明治初年の頃に祀られていても然るべきと思うところです。

 

それが10数年経ってようやくというところに、松陰の複雑性があるのだと考えざるを得ません。つまり単なる教育者、明治新政府の中核を担う人材を育てただけでない「特殊性」を観るべきでしょう。

 

あるいはまた、松陰を祭り上げた新政府の長州人たちが幕末に犯した悪行を、隠蔽するための必要として神社として昇華したともいえるのではないでしょうか。

 

確かに松陰自身は、例えば「天誅」などという殺人はやっていません。だが、松陰の教えを受けた人たちはやっています。戦争におけるそれはともかく、伊藤博文もまた殺人を犯した一人でした。

 

久坂玄瑞や高杉晋作たちは、伊藤も井上(馨)も含めて、イギリス公使館の焼き討ちなどという愚行もやらかしていますし、久坂は禁門の変で御所に向けて大砲をぶっ放してもいます。

 

では松陰は全く罪を犯していませんか、否ですね。最大の罪は密航未遂、密航は当時の国法違反の最たるものです。

 

すでにこのブログでも触れた、ペリーの2回目来航時、1854年の出来事です。

 

実はその前年1853年にも、松陰は密航を企てています。長崎に来航したロシアのプチャーチンの船に乗り込もうと、江戸から長崎に急ぎましたが、一歩遅く出港した後だったのです。

 

それで今度は、再来航したペリー艦隊に目をつけます。まさか地元の船頭に頼むことはできませんから、行動を共にした金子重輔とともに自ら小舟を漕いで艦隊に近付きます。

 

何とか旗艦・ポーハタン号に乗り込むことには成功しますが、密航は認められませんでした。条約締結を目前にして、幕府側と揉め事は起こしたくないというペリーの意思も働いていたのでしょう。

 

艦隊から追い返され、計画に失敗した松陰は下田の奉行所に自首して、金子と共に捕縛されます。本来なら死罪も免れないところですが、死一等を減じて長州に戻され、獄につながれることになります。

 

この密航の罪は、安政の大獄で逮捕される理由にはなっていません。また、アメリカに留学し、アメリカの技術を盗み、アメリカを倒すためというのが密航の理由だという人もありますが、そこまで果たして深く考えていたのか、それにしては余りに稚拙な計画と実行であったと感じます。

改善提案制度とやらを問い直したい

自分が出向していた会社では結局やりませんでしたが、その前に仕事をしていた親会社には「改善提案制度」がありました。
 

日本の会社のどのくらいがこの制度を採用しているのか、定かには知りませんが、製造業には比較的採用が多いようにも感じます。
 

有名な改善制度はいくつかありますが、私の知っている中では岐阜県の未来工業さんの制度が、とっても印象的でした。
 

詳細についてはいろんなところで紹介されていますので、そちらをご覧いただくとして、これが成功事例だとすれば、世の中には失敗事例もまた多々あるわけです。
 

A社もそんな会社の一つです。実は、同じ産業団地の中にある会社が改善提案制度を導入して、効果が上がっていることを聞きつけ、もらった資料の通りにやってみようと思ったそうです。
 

早速月初めの朝礼で制度導入を発表、急いで提案シートや提案箱を用意し、提案促進のためのポスターも作ってスタートしました。「1人月に1つ以上の提案」というキャッチフレーズも貼り出しました。Photo
 

提案審査委員会も、各部署からの推薦者と部門長、そして担当常務と社長とで立ち上げ、提案審査に当たることになりました。
 

導入して最初の内は、そのキャッチフレーズの効果もあったのか、あるいはまた部門長が率先して部下に提案を促す部署もあって、まずまずの提案数になりました。
 

しかし、社長が期待したものとは、提案のレベルが極めて低いように感じました。金賞以下、銀賞、銅賞、その下に敢闘賞や努力賞なども作っていたのですが、それらに該当する提案はわずかでした。
 

1ヶ月後の審査結果発表では、何らかの賞に該当したものが5つくらい、それもすべて努力賞という結果でした。部門長会で「さらに良い提案を期待したい」とハッパをかけ、部課ごとに朝礼でも号令してもらいました。
 

ところが、月を経るごとに提案数が減っていくばかり、その内容も相変わらずパッとしません。半年もたった頃には、提案審査会も短い時間で終わるという有様になりました。
 

成功している会社とどこが違うのか、社長は考える気も起こらず、担当常務に丸投げしてしまいました。常務にしても社長の命令だからという気持ちが強く、停滞の原因を真剣に追及していこうとまでには至りませんでした。
 

相変わらず社長が部門長会でハッパをかけ、朝礼で全社員に呼びかけ、新しいポスターを作るくらい。金賞の上にダイヤモンド賞を作ってみましたが、努力賞を超える提案はまばらです。
 

そんな時に私が相談を受けたのです。
 

実情の把握から始めて見ましたが、1日で結論が出ました。それは今のままのやり方を続けるなら、やめた方がいいということでした。それを聞かれた担当常務は慌てましたね、「いや、それでは困ります」と。でも、困ると言われましてもねぇ。
 

さて、もしあなたがこの会社にアドバイスをするとしたら、どうされますか?
 

今回は結論なしの問題提起です。自社のケーススタディとしてお考えください。

脳力開発は人間学であり行動科学です(206・最終回)

その昔、脳力開発の提唱者・城野宏先生は、敵対する立場のどちらもが同じことを記していたら(主張していたら)、「確定的事実」として捉えてもよいと言われていました。当時(30年以上前)は東西冷戦の時代、アメリカとソ連の発表はたいていいつも異なっていました。

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 その中で時には、ほとんどイコールな内容で出来事を伝える報道がありました。こういう場合、もちろん他の立場の報道も確認した上ですが、確定的事実として判断の材料にしていました。一方からの情報だけで判断すると、間違いをおこす恐れが大きいわけです。

 
 とくに注意すべきは報道などのマスコミ情報です。マスコミは注目される部分を強調して扱います、TVは視聴率を上げないといけませんし、新聞や雑誌などは買ってもらわねばなりませんから。ですから、観る方がしっかりと情報判断をしなければなりません。

 
 私が時々書いている歴史ブログでも、薩長史観への反論というか違った目で見た私感を書いています。事実をしっかり見て、できるだけ公平な感覚で書いてはいますが、それでも「反」となると感情の偏りがついつい出てしまうモノで、反省してしまいます。
 

城野先生だったら、ここはどう観られただろうかなどと考えてしまうところです。どうしても私自身の感覚、あるいは思想・哲学が背景にありますので、そこを切り捨てるわけにはいかないのが人間の面白いところかも知れません。

 
 こんなところで、このシリーズの締めくくりといたします。感謝。

41回目のアニバーサリー

1976年10月15日、この日に私たちは結婚しました。

 

それから41年、山あり谷あり(あり過ぎ)の人生でしたが、幸いにこの日を今年も無事に迎えることができました。

 

実は実際に結婚届を市役所(岡山市)に出したのは、一週間前でしたし、同居をスタートしたのはそのまた数日前でした。でもこの日に皆さんにお祝いしてもらいました。

 

正直言ってほとんどゼロからの出発でした。私自身は転職してまだ半年、その会社でこの先もやっていけるのかと不安な毎日でした(幸い30数年も在籍しましたが)。

 

また、カミさんも田舎(新潟県)から勤めを辞めてやってきて、右も左も分からない、知り合いも殆どいないという状況でした。

 

よくぞ、そんなところへ、そんな私のところに来てくれたものと、改めて感謝です。

 

まだ遠征途上ですが、今日は午前中には家に戻ります。先日プレランチお祝いは済ませていますが、さて今日はどんな形でこの日を祝いましょうか。

 

大切なのはまたこれからですね。お互いもう人生の7~8割くらいを経過し、残りは「あと数行」といったところにさしかかります。

 

だからこそ、1日1日をこれまで以上に大切にして過ごして参ります。

 

ご縁のある皆様に感謝しつつ、これからもよろしくお願いいたします。511726_2

吉田松陰は高潔な教育者だったのか?

明治維新と聞くと、多くの方が吉田松陰の名を頭に浮かべるでしょう。ちなみに、地元山口県では決して呼び捨てにはせず、必ず「松陰先生」と呼ぶそうですね。

 

それだけ名高い松陰ですが、では何をされた方ですか?と尋ねますと、(地元の方は別としても)ハッキリとは分からないというのが本当のところではありませんか。

 

松陰と言えば松下村塾ですが、この塾も松陰が作ったものではありませんし、実際に松陰が直接ここで教えたのはホンの数年に過ぎません。

 

実際に何度か松下村塾を訪れたことはありますが、「えっ、これが!?」と驚かれる人が多いくらいの、小さなみすぼらしい建物です。小屋といった方がふさわしいかも知れません。

 

もちろん、ハードウェアが小さく貧弱であっても、そこから幕末・明治の時代に活躍した人材を輩出したことは事実です。伊藤博文、山県有朋、井上馨などなどいくらでも名前が挙がります。Photo

 

では松陰という人物は「高潔な高人格の教育者」であったのか、というとそれはどうなのでしょう。確かに教科書では優れた教育者として書かれ、時代を彩る人材が学んだことも事実です。

 

だからといって、松陰が素晴らしい人間であったと短絡するのはいかがなものでしょう。

 

また、幕府とくに井伊直弼政権の方針や政策を批判し、安政の大獄で検挙されて挙げ句に刑死する。それは幕府や井伊直弼が悪くて、松陰先生のような逸材を殺したことはけしからん、という教え方がされてきました。

 

私もそのように考えていました。小学生の頃に読んだ「日本の歴史」にもそう書いてありましたから、疑うことを知らない少年は「松陰先生は素晴らしい」、「そんな先生を処刑した井伊大老はどんな悪い奴だ」と。

 

しかし、吉田松陰は、間違いなく処刑されるべくして処刑されたのです。

 

こう書くと、多くの方からブーイングを食らうかも知れませんが、事実を曲げるわけにはいきません。実際のところ、長州毛利家でも、松陰のことは持て余していましたし、二度も獄に入れることになりますし、処刑されてからもしばらくは「厄介者」だったのです。

 

今はそんなことは、松下村塾を尋ねても投獄された事実だけを紹介しているだけで、そのこともまた松陰が偉大な教育者であったことにつながることとされています。

 

繰り返しますが、松陰の元に集まって人たちの多くが、幕末や明治の時代の中心になったことは事実として認めます。だからといって、松陰が傑出した教育者であり、まさに新たな時代を切り開く先駆的な逸材だったということには、大いに異論があります。

 

強いて言えば、教育者と言うよりも煽動家=アジテーター=と読んだ方がふさわしいと思うわけです。松陰を先生として祭り上げ、聖人の如く崇めることにしたのは、明治新政府を担った長州人たちです。

 

彼らが明治新政府の中心にいなければ、「歴史はねじ曲げられなかった」し、「松陰はあくまで反政府主義者でトンデモ人間だった」という事実が語られたことでしょう。

 

薩長史観と言うより、ここでは長州史観ということになるのかも知れませんが、では次回からは事実・史実を客観的に眺めていくことにしましょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(205)

よく「真田三代」と言いますが、正に『謀将』の系譜で、昌幸を挟んでその父・幸隆、そして昌幸の次男・信繁(幸村)の三代を指します。幸隆は武田信玄に仕え、信玄が信濃に領土を拡大していく際に大きな役割を果たしています。Photo

 
 信繁は、関ヶ原の戦い後は昌幸と共に高野山に近い、九度山に流されて逼塞生活を送りますが、昌幸死後の厳しい監視の中を抜け出して大坂城に入り、夏の陣・冬の陣で活躍します。とくに夏の陣での「真田丸」の戦いは、徳川軍の肝を冷やさせました。(写真は真田ミュージアム)

 
 真田というとこの親子が有名ですが、私は昌幸の長男である信之を高く評価します。二人とは袂を分かって家康に臣従し、享年93才まで長生きして、明治維新までつづく真田家(当初は沼田、維新の時には松代が本拠)を築いた功績者です。

 
 
戦国時代は、講話などで取り上げる「人材の宝庫」と言っていい時代です。3人の天下人や、猛将、謀将そして智将などなど話題に事欠きません。やはり、時代が大きく変わったということもあるでしょう。時代の変化に彼らがどう動いたか、興味津々です。

 
 時代の大きな変化というと、戦国の次には明治維新を上げることができます。時代が現代に近いだけに記録も多く残っており、また歴史書や歴史文学にも多く取り上げられています。しかし、すべてが確定的事実かどうかはよく吟味せねばなりません。


 明治維新にしても、新政府の中心に連なった薩長土肥、とくに薩摩・長州中心の歴史観(薩長史観)になったことは否めません。例えば会津藩や新撰組などは「敵」としての扱いですから、公平な視点でかかれているのかどうか、双方の言い分を確かめる必要があります。

その山は火山ではありませんか?

九州の新燃岳が6年ぶりに噴火したとのニュースが流れています。





昔、私などが学校で習った頃は、今現在活動している、つまり噴火している火山は「活火山」、現在噴火していない火山は「休火山」あるいは「死火山」と呼ばれていました。



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ですから、富士山のように文献による検証可能な時代に噴火の記録はあっても、現在休んでいる火山のことを指して「休火山」、そういう歴史時代の噴火記録がない火山のことは「死火山」だと習いました。(写真は2011年の新燃岳噴火)





ところがどっこい、死んじゃいないよ、休んでなんかいないんだよというのが最近の定説。火山の活動寿命は長くて、数百年程度の休止期間はほんのつかの間の眠りでしかないというわけです。





確かに「地球の活動」と捉えるならば、人間の感覚などは瞬きくらいのものでしょうから。





そして、1975年に火山噴火予知連絡会が、「噴火の記録のある火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義して、77の火山を選定しました。





その後2度にわたり追加されて、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」として、86の火山が指定されました。





さらに、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と、活火山の定義を拡げ直して、現在は111の活火山が指定されています。





記憶に新しいところでは、木曽の御嶽山があります。2014年に大噴火して多くの死者を出しましたが、この山も79年の噴火までは、死火山あるいは休火山とされていました。





私の住んでいる新潟県には、新潟焼山と妙高山の二つの火山があり、焼山については「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山」(全国に50火山)にも、指定されています。





新潟焼山のように普段から水蒸気や噴煙が上がっていれば分かりやすいですが、現在は静かでも地下活動は奥深いところでうごめいているかも知れません。





あなたのすぐそばの山が111の火山に該当しているかどうか、知っておいた方がいいでしょうね。噴火警戒レベル1は全く静穏ということですが、火山であることには間違いないのです。





御嶽山がそうであったように、ある日突然にというようなことが全くないとは限りません。これもまた「危機管理」の一つということになります。





一方でまた、火山国・火山地帯であるということは、温泉などの観光資源も少なくないということです。自然とどう上手に付き合っていくかも、問われるところですね。





今回の新燃岳の噴火では、警戒レベル12、そして3(入山規制や避難準備)に引き上げられていっています。大きな被害につながるような噴火でないことを祈っています。

行動が変われば人間が変わる

当社ヴァンガード経営研究所が開催している脳力開発講座、今年春から新たにスタートした3回シリーズの「シニア講座」が、週末土曜日の東京講座でフィニッシュします。

 

このシリーズ講座では、「脳力開発とは何か」から始まって、土台習慣<11の指針>の中から最も重要な「精神的姿勢の確立」3つの指針を深掘りして学びます。

 

締めくくりは「戦略と戦術の区別」と、「真のリーダーの心得10カ条」です。この一連の学びの中で、自己革新すなわち『自分を変える』ことの大切さに気づいていただきます。

 

しかし学びはここで終わるわけではありません、というよりもこれからなのです。

 

11の指針>その9には、「知識はすぐに使う習慣をつくろう」とあります。本当に大事なのは、この実践につながることです。いくら知識として学んだことを蓄積しても、使わなければ意味がないのです。

 

使うこととは、行動することに他なりません。行動してこそ初めて、学んだ知識が自分のものになるのです。このことは脳力開発だけでなく、あらゆる学びに通じることです。

 

では行動とは?

 

ここで多くの方が立ち止まってしまいます。

 

多分、難しく考えてしまうのでしょう。あるいは、今までにない新しいことをやることになるが、新しいことへの挑戦は大変なことではないだろうか、などと。

 

うまくいくだろうか、うまくいかなかったら(失敗したら)どうしよう。

 

脳力開発を提唱された城野弘先生は、あるコラムの中でこのようにおっしゃっています。

 

人間のできることは三つしかない。口を動かすことと、手を動かすことと、足を動かすことである。それ以外には伺もできない。だから、できる、できないと悩んだり騒いだりしているが、つまるところは、希望が実現できるように口と手と足を動かすか、それとも、実現できないように口と手と足を動かしているかというだけの差である。口と手と足を動かすことには変わりはないのだから、どちらが難しいとか易しいという問題にはならない

 

つまり、手と足と口とを今まで以上にしっかりと、余計に動かすことなのだと言っているのです。201611

 

ではなぜ、この3つなのでしょう。それは、この3つ以外に「自分の思い通りに」自由自在に動かせるものは、自分の体とはいえ他にはないのです。

 

自由自在に動かせるということは、一方では自分の意思によって動かさないでいることもできる、ということでもあるのです。

 

しかし、動かすか動かさないか、行動するかしないかで結果は大きく異なってきます。雲泥の差がつく、と言ってもいいでしょう。

 

というわけで、講座が終わったから終わりなのではなく、ここからが脳力開発そのものなのです。

 

なお、来年2018年の脳力開発講座も同じ3回シリーズで、3月から神戸、4月から東京にて開講します。また、企業内社員研修としてもいくつかのプログラムを準備していますので、ぜひご活用ください。

 

意識が変われば思考が変わる。思考が変われば行動が変わる、行動が変われば結果が変わる。

脳力開発は人間学であり行動科学です(204)

家康が天下を取って江戸に幕府を開くと、本多正信は側近筆頭として幕政を主導します。ツーと言えばカーと言いますが、この君臣は文字通り水魚の交わりと言えたようです。もっとも、腹芸もできたらしく、家康に物言えた存在だったようです。

 
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年に秀忠が2代将軍につくと、その顧問格として年寄(後の老中)として権勢を奮います。家康が大御所として駿府におり、二重権力構造になっていて、正信はお目付役としての役割を果たしていたと思われます。言わば煙たい存在だったのでしょう。

 
 後ろ指を指される立場にいただけに、正信は我欲を抑えます。そのため、いくら勧められても加増を辞退し、相模国玉縄(鎌倉付近)1万石、晩年にやっと22千石だったそうです。家康が亡くなって程なく、後を追うように亡くなります。

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 本多正信が謀将というべき存在なら、それを上回る謀将は真田昌幸でしょう。関ヶ原に向かう徳川本軍を率いた秀忠を、上田城攻城戦に釘付けにしてしまい、ついに肝心の合戦に間に合わなくした戦いは有名です。その時の秀忠軍参謀役が正信です。(右は第二次上田合戦布陣図)

 
 この時の秀忠軍(徳川本軍)は38千とも言われますが、これに対して真田軍はたったの2千人でした。徹底した籠城策と奇襲作戦で大軍を翻弄し、秀忠はついに攻略をあきらめます。この間正信は、攻撃をやめ関ヶ原に向かうよう進言したと伝えられています。

 
 これが第二次上田合戦でしたが、第一次上田合戦はその15年前、相手は家康でした。詳細は省きますが、この時も徳川軍7千に対して真田軍は2千足らず。家康は2割近い死傷者を出して切歯扼腕します。昌幸はさらに秀吉に臣従し、信繁(幸村)を人質に送ります。

足を一歩踏み出さなければ何も始まらない

今日のコラムは「定石」についてです。昨年「経営の定石の失敗学」(小林忍著・)という本が目に入り、早速購入して読んでみました。うなずくことがたくさん書かれていました。Photo

 

内容についてはぜひお読みいただければt思いますが、私も読みながらMG(MQ戦略ゲーム)のことを考えていました。なるほど、MGという経営ゲームには、一見勝つための定石あるいは方程式があるように考えますが、決してそうではありません。

 

スポーツなどでは、負ける時には負けるべくして負けるとよくいわれます。負ける時には、ほとんど共通の要因があるといってもいいでしょう。

 

しかしながら、勝つ時にはいくらか共通性のある要因はありますが、さりとて次回同じようにやったからといって大丈夫とはいかないのです。

 

負けは自滅ともいい、その負け要因はほとんど全てが自分の中にあります。自分自身の責任に負うところが全てですので、ハッキリ言ってしまえば「負けの定石」があるわけです。

 

ところが勝利にはそれが当てはまらないのです。野球でも勝利の方程式などといいますが、その通りにリリーフ(ホールダーやクローザー)を継投しても、絶対に勝つという保証はありませんから。

 

ゲームでもそうなのですから、現実の経営では当然だと言ってもいいでしょう。

 

ところが、世の経営者たちは勝利者と呼ばれる成功経営者に学ぼうと必死になっています。成功経営者の話を聴き、あるいは著書や紹介本を読みあさります。

 

そこから成功のカギや、あわよくば秘訣といったノウハウを得ようとされているのでしょうが、たとえそれが定石という類のものであっても、自社に持ち込んだところで成功するとは限りません。

 

やらないよりはやった方が良いということも、中にあることは間違いないのですが、あなたの会社を取り巻いている環境・条件は成功会社のそれとは違うのですから。

 

自社の環境・条件に当てはめてみて、当てはまる部分だけを採り入れてみても、総合的なプロセスによって成功したものであれば、部分的な最適化そのものが無駄になります。

 

全体を自社の環境・条件に合うようアレンジするならまだ分かりますが、成功方法のつまみ食いするだけでは効果を得られないことを知るべきです。

 

でも、真似をすることは大事なことです。学ぶの語源は「真似ぶ」だとも言われますから。

 

まずやる、あとで(やりながら)直すというのは、MGあるいは脳力開発の基本でもあります。まずやってみなければ、失敗も成功もありません。一歩足を踏み出す、それだけはお忘れなきよう。

 

失敗することで、どこに問題があるかが分かります。つまり他社のモノマネなんですから、自社でやる際には何が問題なのか、何が足りないのかなど、次に成功につながるポイントが見えてくるのです。

 

失敗を恐れてやらない、どうなるか先が見えないからためらって立ち止まったまま、それがいちばん問題なのです。うまくいくかいかないかではなく、やるかやらないか、その意思決定に命を懸けましょう。

孝明天皇は和親条約には反対しなかった

二度目のペリー来航により、アメリカの間に日米和親条約が結ばれます。この時に日本側の実質的な交渉代表だった林大学頭(復斎)のことを前回書きました。

 

復斎は決してペリーの恫喝に屈することはなく、むしろ正論を堂々と主張して、むしろアメリカ側を圧倒していたのです。しかも、当面の目的が捕鯨船を主体としたアメリカ船への食料や水の補給であることを見抜いていました。

 

つまり通商は「あわよくば」という要求であったわけで、復斎は時期尚早をタテにしてこれをはねつけます。どこがこれまでの教科書にあるような、弱腰外交だったのでしょう。

 

しかも、もう一つ重要なポイントがあります。この和親条約について、京都の朝廷側もほとんどクレーム・いちゃもんはつけていないのです。

 

当時の天皇は第121代の孝明天皇ですが、天皇は大の異国(人)嫌いであったことは間違いありませんが、でもこの条約に対しては反対をしていません。(写真は孝明天皇陵)Photo

 

確かに天皇は開国に反対されています。幕府に対してペリー来航以前の段階で、「海外防備を厳重にせよ」という勅令を出されましたが、当時の幕府はこれをほとんど無視して特に手立てはせず、それに対しても特別おとがめがあったわけでもありません。

 

ではなぜ、天皇・朝廷側は(日米)和親条約には反対をしなかったのでしょうか。

 

江戸時代の日本を支配していた思想は何だったでしょうか。それは朱子学を土台とする「中華思想」です。つまり、日本が世界の中心という発想であり、国を鎖していたこともその延長にありました。

 

ではここで開国する意味は?

 

和親条約の条文を読めば分かります。つまり、日本を頼ってくる異国船(と船員)に、食料や水を「分け与えてやる」ということです。つまり施しを与えるという姿勢なわけです。

 

分かりますね、この条約は「上から目線」であるわけで、日本の国体はちゃんと守られているのですから、しかも開いた港は京都からはるかに離れた下田と函館ですし。

 

薩長史観に毒されたこれまでの歴史書・教科書では、違うことが書いてありませんでしたか。いや、実は特に書いてはなかったはずです。しかし、「反対しなかった」とも書いてありません。林復斎のような骨のある幕臣がいたとも書いていませんでした。

 

問題は次に結ばれる日米修好通商条約です。これに、孝明天皇や朝廷側が猛反対したことは事実でありますが、当然ながら対等(実は不平等でしたが)に通商することに難色だったわけです。何しろ、「施し」とは異なるわけですから。

 

ところが薩長史観の教えは、最初から腰の砕けた軟弱な幕府が・・・となっているわけです。しかも、異国に対する知識も、先進的な発想もないままにというのです。

 

でもどうみても、当時外国に対する情報をいちばん持ち得ていたのは幕府側ですし、後手に回ったところは否めないまでも、薩長側だったらうまくやっていたなどという論理は成り立ちません。

 

そしてここに、吉田松陰というトンデモ人間が登場してくるのです。

リーダーの本質が透けて見えてくる選挙戦前夜

10月に入って今日で一週間、気温の変化が激しくて体が戸惑いそうです。着るもので調節とはいえ、朝と昼と夜でチェンジするというのもなかなか大変です。

 

この土曜日から三連休という方も多いですね、前回の三連休は台風などにたたられて大変でしたが、今回は天候もまずまずということになるようです。

 

その三連休が終わった翌日10日は、いよいよ衆議院選挙の公示があり、正式の立候補者による選挙戦がスタートします。

 

衆議院の解散前後から政界は荒れ模様で、状況が次にはどう変わるのかめまぐるしい動きでしたが、この三連休で「頭を冷やせ」ということかも知れません。もっとも水面下の動きはなお続いていて、一寸先はどうなるか分からないというのが本当のところでしょう。

 

「希望の党」が台風の目だなと衆目が一致するかと思ったら、どうも予期せぬ方向(かなり予期していた方向かも)に風が流れていて、なお波乱も予想されるところです。

 

お互いの「非難合戦」も、やり過ぎるとブーメラン効果があるようで、冷静に見ているとおかしなことばかりです。

 

一番笑っちゃったのはアベさんの「愚直に」仕事をするという言葉、愚直という言葉が一番似合わない人の台詞のように思えました。愚直なら、とっくにモリカケについて正直に話しているはずでしょう。

 

大声で他党を非難して、その分モリカケ他色んな問題を隠そうとしていることが見え見えです。

 

烏合の衆だとか、思想信条の違う者どもが寄り集まってとか言っていますが、自民党だってよくよく見ればかなり信条や主張が違う人間の集まりのようです。第一、だからこそ佳いという発想が元々あったはずではないのでしょうかねぇ。

 

連立与党を組んでいる両党でも、自民党の大勢は改憲(いわゆる護憲の方もおられます)ですが、こちらはどちらかというと『壊憲』のように見えますがいかが。それに対して公明党は本来護憲が主流で、『加憲』という立場のはず。

 

そんな両党が連立を組んでいるのは、思想信条の違う者どもが「政権」目当てでやっているってところかな。

 

民進党はその出発からして、こと憲法についても原発についても様々な考えを持っている人たちが集まっていましたから、ここに来てそれを土台に分裂したのもやむを得ないところですよね。

 

マエハラさんが丸ごと希望の党に合流できるとは思ってはいなかったでしょうが、見通しが利かない政治家でしたねぇ。前回民進党代表の時も、いきなりのリスクカードに見舞われましたが、今回は自ら引いたリスクカードの読みを誤ったというところ。(写真は前回のポスター)Photo

 

その分、コイケさんのしたたかさが目立っていますが、ここにきて「イヤらしさ」に見えてしまっています。排除というのは究極のマイナス言葉でしたね、しかも吐いた自分の側にもろに戻ってくるような。

 

そして、その裏返しとして立憲民主党、とくに中心となったエダノさんの「ぶれない」姿勢が際立つようになってきました。ザンネンながら少数党の悲しさがつきまとうでしょうが、日本人の判官贔屓をもしかしたら突き動かすかも。

 

さて、我が選挙区・新潟1区は、そんな自民党と立憲民主党(いずれも現職)の戦いになりそうですが、予断を許さなくなるかも知れません。前回参院選でも自由党が勝ち、知事選でも野党系が勝利したところ、最後まで大変な戦いになるかも。

脳力開発は人間学であり行動科学です(203)

家康は名将と言うより、謀将と呼ぶ方がいいというと、家康ファンには総スカンでしょうね。とくに日本の経営者は、とくに大手企業の経営者には家康ファンが多いそうですから。しかし「狸親父」と呼ばれることもまた、脳力開発的には上々です。

 
 謀将と言えば、前に書いた真田安房守昌幸などはその代表です。中国には紀元前の昔から謀将が輩出していますが、例えばよく知られているのは越王勾践に使えた范蠡(はんれい)。呉王夫差を滅ぼすため、美女西施を贈ったのは有名です。

 
 西施は色事で呉王夫差を骨抜きにするのではなく、「男らしくあれ」とか「覇王らしくあれ」と励まし、夫差はそれに応えようとして戦に明け暮れ、あるいは豪華荘厳な王宮や庭園を築Photo_2 きます。そのために重税や労役を課したために、怨嗟の的になります。

 
 それは范蠡の謀略だったと言われています。
越王勾践と呉王夫差の争いは、日本でも(勾践の)臥薪嘗胆の事例として有名ですから、聞かれたこともあるでしょう。勾践の軍師が范蠡だとすると、家康にとっての「范蠡」は、本多正信(弥八郎)ということになるでしょうか。

 
 本多佐渡守正信は途中一度家康に叛旗を翻し(三河一向一揆)、一揆終息後三河を出て10数年間諸国を回ってから、再び舞い戻り家康に仕えます。秀吉の死の前後から側近となり、いわゆる参謀として家康になくてはならない存在となります。正に君臣一体です。

 
 正信は家康の行った謀の企画・実行者です。家康が謀将と呼ばれることがないのは、そういう陰の仕事を正信が担っていたからでしょう。京都の本願寺が西と東に分かれているのも、実は正信の献策であったと言われていますが、どうなのでしょう。

ハードやソフトウェアよりもハートウェアを

102日、クライアント会社の「内定式」に参加させていただきました。来春学卒採用者について、10月から内定解禁ということで、ニュースでも大手企業の内定式の様子が放映されていました。


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大学生については、すでに9割近く就職先が内定したと伝えられており、昨年よりもさらに内定率が上がっていて、いわゆる売り手市場を色濃く反映しています。

 

大手企業でも人材の確保には苦心しているという中で、日本の大部分である中小企業にはさらに高いハードルの就職戦線です。

 

私の周辺でも100%充足できた企業は少なく、厳しい現実に直面しています。中途採用でカバーするのも、有効求人倍率が毎月のように上がっている現状ではなかなか困難なようです。

 

ところが、中には(一握りではありますが)就職希望者が殺到している中小企業もあります。募集人数の数倍どころか、数十倍というすごい会社もあります。

 

そこから見えることは、企業の大きさとか上場しているか否かとか、あるいは世間的な知名度があるなしではないということのようです。

 

中小企業の中にはせっかく内々定を出しても、辞退者が相次いで内定まで至らなかったという、会社の悲鳴も聞いています。一所懸命努力して「引き留め」したと言っていますが、結果が示していることを真剣に考えなければなりません。

 

ベンチマークなどという高度な分析や他社との比較もいいですが、すなおに今いる従業員の声に耳を傾けてみたらいかがでしょう。そこに不満や、足りないことが充満してはいませんか。

 

ハードとかソフトとかではなく、ハートの方に問題はありませんか。何かというとシステム的なものに目が向きがちですが、視点を変えてみる費用がありそうです。

 

社長は試行錯誤・努力しているのですが、どうも空回りをしているといった会社も少なくありません。周りの社員の皆さんは冷ややかに見ているだけ、などとなっていては新戦力など望むべくもありません。

 

人が採れるか採れないかは、ある意味その企業の現状のバロメータと言えるでしょう。採れないということは、何かが足りない、その主体はハートウェアだと早く気付いて下さい。

 

採用面接した中での感想などにも、素直に耳を傾けてみるのもいいでしょう。社長や採用担当役員などには本音を言わなくても、先輩リクルーターには意外に話をしていたりします。

 

ある会社は「採用も人材教育の一環」だと言われています。社長自身が自社を見直すきっかけになる、そして今いる社員さんと一緒に会社説明会、採用面接や内定前後の研修にも取り組まれている。まさに「全員経営」です。

 

その雰囲気、会社の風土といった「ハートウェア」が応募者の琴線に触れるのでしょう。

 

企業は常に新陳代謝を進めていかねばなりません。直接的には新しい人の採用、間接的・波及的にはそれに向けて全社で動いていくことが佳い効果を生むのです。

 

世はすでに来来春に向けて動き出しています、遅れてはいけませんよ。

脳力開発は人間学であり行動科学です(202)

秀吉に勝ったというので、家康とはすごい武将だ、さすが「東海一の弓取り」だと絶賛するわけです。これで秀吉は家康に遠慮せざるを得なくなり、必然的に家康の発言力も高まって、やがて天下を取る布石になったというのです。

 
 まぁ、ここまでおべっかを使うとあきれてものも言えませんが、江戸(徳川幕府)時代はこれが「常識」になっていたわけです。結局秀吉は家康との衝突を回避して、信雄を孤立させて単独講和を結ばせ、名分を失った家康は岡崎に戻っていった。これが小牧の役の結末です。

 
 大局的に見れば、戦争に勝ったのは秀吉で、家康は単に局地的な戦い(戦闘)に勝利したに過ぎません。その後秀吉は家康のご機嫌取りをして、最後は母親を「人質」にしてまで家康の上洛を促したと。これなどは確定的事実の見方違いで、笑止千万です。

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 家康が「海道一の弓取り」と言われるのは、その生涯の戦いで常に勝利してきたから、あるいは「野戦の名手」と称されたのもそうなのでしょうが、実のところこれまた伝説の世界です。確定的事実から言えば、とてもそんな名将とは言えないのです。

 
 例えば、信長と連合軍で浅井・朝倉軍と戦った姉川の戦い、苦戦する信長軍を救ったのは家康(徳川軍)だと江戸時代の史書にはあります。そして関ヶ原の戦いや大坂の陣での圧勝。

 
 だが、三方原では武田信玄にぼろ負けし、信州上田城では兵数ではるかに少ない真田昌幸に二度も惨敗しています。関ヶ原でも、実質東軍の半数の軍だった西軍にかなり押し込まれています(最近は少し違う説も出てきているようですが)。

 
 しかし最終的に勝者となり、260年の平和な江戸時代の礎を築いたことは紛れもない事実です。だからこそ神格化され(事実神様=東照大権現になりました)て、戦についても神様扱いになったわけです。(写真は三方原後の自身を描いた「しかみ像」)

ペリーの恫喝外交に負けなかった林大学頭

さて再び半年後に現れたペリー艦隊のお話です。今度は6隻で浦賀沖にやってきましたが、その内外輪蒸気船は3隻でした。さらに日を置いて、もう3隻が江戸湾に現れます。

 

将軍の交代などでバタバタしていた幕府ですが、それなりに再来航への準備はしていました。前回書いた台場づくりの他にも、洋式帆船の製造を浦賀造船所で完成していましたし、オランダに軍艦を発注しています。

 

また、その他にもジョン万次郎を招いてアメリカ事情を語らせています。しかしまさか半年で、しかも9隻もの艦隊で現れるとは思わなかったでしょうから、前回よりも大慌てでした。

 

一方市民の側は、2度目ともなれば馴れてしまったのか、小舟を出しての見物や物売りまで現れたそうです。また幕府も、横浜(当時は寂しい海辺の寒村だったようです)に応接所をつくり、艦隊員を接待しています。

 

そんな中でアメリカ側との交渉が始まっています。私たちが学んだ教科書の歴史によれば、アメリカ側の強硬な要求に押されて、あるいは江戸湾深く侵攻するような脅しもあって、幕府は屈辱的な条約を結ばざるを得なかったと書かれています。

 

しかし実際にはそうではなかったことが、多数の文書・史料で確認ができます。

 

ここに一人の人物が登場します。林復斎、儒学者・林家の本家大学頭家を継いだ俊才です。しかも、アメリカを初めとする外国事情にも明るい人材でした。

 

横浜村での応接掛に登用された林は、漢文での応対だったようですが、アメリカのことをよく研究しており、ペリーの居丈高な外交姿勢をかえって批判したくらいです。

 

アメリカ側は、捕鯨船の寄港と食料や水、薪炭などの補給を求め、そのためにいくつかの港の開港、さらにその上に通商交易を求めて来ていました。

 

林は前二つについては妥当だとします。これは当時の国際状況から避けられない、やむを得ないとの判断によります。とくに、アヘン戦争等による清国の状況をよく研究していたようです。

 

アメリカの要求の本音もつかんでいたと推察され、ペリーをキチッと理詰めで論破していたことが、史料(『墨夷応接録』など)からも読み取れます。Photo_2

 

とくに国内情勢に鑑みて、通商についてはまだ時期尚早であると、断固として拒絶しています。

 

そうなるとペリーも無理押しはできません。急務である、開港と補給の保証を取ることが最大の急務であったからです。

 

こうして結ばれたのが日米和親条約(神奈川条約)、後に明治新政府が言うように、また教科書に書かれ続けてこられたような、弱腰外交では決してなかったのです。

 

条約締結はその年(1854年)の33日、さらに細かい部分については下田で追加条約が結ばれます。

 

この条約によって、日本は下田と箱館(函館)の2港を開港し、いわゆる「鎖国」の体制は終焉を迎えることになります。

 

役目を終えたペリー艦隊は、6月の始めに下田を出て琉球に向かっています。なお、浦賀沖に停泊中に密航を企てたのが、かの吉田松陰でした。松陰についてはまた後日。

キャッシュフローMG・東京秋開催中

今年も3/4が終わり、残り3ヶ月。世の中は選挙モードに染められ始めましたが、自然は秋モードが次第に深まっていくことでしょう。

 

さて、月の変わり目の土日は東京・神田でキャッシュフローMG(CFMG)を開催しています。今年も東京では年4回の開催予定で、これが3回目です。

 

今回は開催寸前のお申し込みもあって13名、2卓ですので7名・6名の組み合わせでのゲーム展開となりました。

 

そんな中で、初めてMGを受講されるという方が3名いらっしゃいます。お母様とご子息2名のご家族参加、お話を聞きますとお父様が若い頃にMGをやられていたそうです。

 

私がMGに出会ってちょうど30年になりますが、どうもそれ以前にやられていたそうで、出会う機会はなかったようです。

 

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ご子息はお二人とも20代、弟さんは大学在学中、しかも理系専攻だそうです。でも、いずれ会社に入ることを意識されている感じでした。

 

それはともあれ、初めてのMGにCFMGで大丈夫なのかと思われる方もいらっしゃることでしょう。結論から言えば、全然大丈夫です。

 

1年半前に東京で開催したCFMGでも、数名初MG体験の方がおられました。初めての方にとっては、元が全くの白紙ですから問題はないのです。ルールがちょっと増えている(減っている部分も一部あります)くらいのことですから。

 

逆に、通常のMGに馴れている人の方が、かえって戸惑われて間違えるということも少なくないのですから。

 

もちろん、通常のMGセミナーのスタート解説をしっかりやりますし、今日もまとめの講義でも「MGの目指すもの」もキチンとやります。

 

基本に忠実に、根本や原点を崩さないというのが私の学びですから、それを的確に伝えて参ります。まさにインスト冥利に尽きるところで、ありがたいです。

 

では、氣愛を入れて2日目に臨みます。

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