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陽成天皇は本当に暴君だったのでしょうか

応天門の変(866年)から10年、27歳になられていた清和天皇は突然譲位されます。2年半後にはまた突然に出家され、その後水尾の地で苦行生活に入られます。

 

嵯峨水尾(みずのお)は、愛宕山の南麓に位置する山間の静寂の地です。東の八瀬大原と並んで、古代より出家・隠棲の地とされていました。

 

清和天皇は「水尾帝」と呼ばれたほどこの地を愛し、最期の地として意識されていたようです。現在は「柚の里」として知られていますが、これは時代を下って14世紀に花園天皇が柚を植えられたことから始まったそうです。Photo_2

 

譲位後4年、清和上皇は洛東の円覚寺で崩御されますが、遺骨は遺言によって水尾山寺に葬られ、山陵もこの地にあります。交通不便な地ではありますが、私も学生時代に一度足を伸ばしたことがあります。

 

さて、清和天皇のあとを継がれたのは第一皇子である9歳の、貞明(さだあきら)親王=57代陽成天皇でした。母は藤原高子(たかいこ)、最大権力者藤原基経の同母妹になります。

 

この高子さん、あくまで噂の域を出ませんが、入内前にはとある皇孫と恋愛関係にあったとか、それが在原業平でした。

 

また兄である基経との確執というか、どうも折り合いが良くなかったらしく、また陽成天皇の所業がよろしくないということもあって、ぎくしゃく関係が続きます。天皇自身も、青年に成長されると共に、摂政である基経との関係が悪化します。

 

ついに基経は政務を放棄し出仕しなくなります。陽成天皇に自分の娘を入内させようとしたのを、高子に拒否されたのも原因と言われています。

 

やがて大事件が勃発します。それは宮中における殺人事件で、被害者は源益(みなもとのまさる)で、陽成の乳兄弟でした。

 

直接手を下したのか否かは不明ですが、陽成天皇が何らかの関わりを持っていたことは確実らしく、基経は強く退位を迫ります。

 

結局、陽成は退位を余儀なくされ、高子もその地位から蹴落とされてしまいます。通説では陽成の暴力的な性格や言動が要因と言われていますが、要は宮廷における権力争いでしょう。

 

なお、陽成天皇の子女も臣籍降下で源姓となりますが、そういった状況もあって「陽成源氏」を名乗らず「清和源氏」を称したとも伝えられています。

さて次の天皇には、「けんか両成敗」というわけではありませんが、2代続いて幼い天皇が即位したことへの反動もあって、55歳の時康親王が58代光孝天皇として即位します。

 

時康親王は、3代前の仁明天皇の第三皇子です。これによって、皇統は少し移動してしまうことになるのです。何故なら、陽成天皇には実弟の貞保親王がおられましたが、結局皇太子には就かれませんでした。

 

これも基経と高子との兄妹対立の結果と言えましょう。

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