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「薩長史観」に正面から斬り込んでみる

前回の歴史ブログに、次回から反「薩長史観」について述べていきたいと書いたところ、何人かの方から面白そうだ、あるいは期待しているというご意見をいただきました。
 

何しろ史料にまともに当たったこともないという素人の駄文なので、とても期待に応えられそうもありませんが、感情に流されることなく書き連ねていくことにします。
 

それはおかしいぞとか、そういう意見には賛成しかねるということがありましたら、どうぞご遠慮なく反駁を加えるなりしていただければ幸いです。
 

さて、薩長史観ということですが、これは明治維新をめぐる人物像や現象事件について、明治新政府の中心であった薩摩・長州が、自分たちを『正当化する』ために作り上げた歴史観のことを指します。
 

とまぁ、断定的にいってしまうのはどうも落ち着かないのですが、最初に私が疑問を感じたのは靖国神社についてです。靖国神社の問題をあれこれ語る気はありませんが、私の疑問はそこに「賊軍の兵士」が祀られていないという事実でした。
 

当時私が好んで読んでいたのは、越後長岡藩(江戸時代には藩とは呼ばれず、越後長岡牧野家というべきところですが、一般的な呼び方に従い藩と呼びます)の軍事総督、河井継之助についての書物でした。Photo_2 (写真は長岡市の河井継之助記念館入り口)
 

長岡藩は戊辰の役の一つである北越戦争で山県有朋率いる官軍と戦い、緒戦を勝利するものの城を落とされ、さらに奪回作戦を挙行して成功するものの、結局落城し町を焼かれます。
 

つまり長岡藩は賊軍とされるのですが、なぜ彼らは賊軍と呼ばれたのか。その呼び方が官軍に対比するものであったとして、そこには官軍=善(正義)、賊軍=悪という理由付けがなされますが、では何をもってその善悪が定められたのか。
 

さらには、同じ戦争(内乱)で亡くなった兵士でも、官軍の兵士は靖国神社に祀られ、賊軍の兵士は祀られていないという事実を見て、どちらも同じ日本人ではないのか、「国のために戦った」ことに善悪がつけられるのかということでした。
 

当時の私は靖国神社の成り立ちも性格もよく分かっていなかったので、単純にそう思っただけでした。つまり官軍(その主体は薩長軍)は愛国者であり、対抗した長岡や会津の兵士は非愛国者なのか。
 

何だかおかしい。おかしいはずです、靖国神社の最初は官軍兵士(のみ)を愛国者として祀るためであったから。その後のことはまたいつか触れるかも知れませんが、本題ではありませんので省きます。
 

いずれにしてもこのおかしさ、不可思議さはどこからきているのだろう。それが「薩長史観」というものだと気付いたのは、ずいぶん後のことでしたが、その視点から見るとおかしなことが山積しているのです。


では、いくつかある中で「薩長史観」が隠してしまった史実をいくつか羅列(ほんの一例です)してみます。


その一はペリーの来航、譲歩に譲歩を重ねた幕府は腰抜けで無能なので、進歩的な薩長に滅ぼされたのが当然であった。いったいどこにそんな史実が記録されているのか?

 

その二は大河ドラマにも準主役で出てきた久坂玄瑞(長州藩士)、禁門の変を起こし御所に攻め入ろうとしたこの男がどうして英雄か。そしてその師である吉田松陰は、いわば煽動者でありテロリストの師ではなかったのか。
 

その三、西郷隆盛は武装集団を江戸に送り幕府側の藩邸を襲撃、また市中においても略奪や殺戮を繰り返させた。そしてあくまで武力倒幕を実行しようとしたが、平和的解決を意図した勝海舟ら幕閣によってその邪魔をされた。
 

挙げているときりがありません、次回からは各論に入っていくことにしましょう。

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