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2017年9月25日 (月)

幕府の弱みを巧みに突いたペリー外交

ペリー艦隊、すなわち黒船の江戸湾来航の続きです。

 

嘉永6年(1853年)の来航に際して、幕府が相当うろたえたことは事実です。また、ペリー艦隊側にも「恫喝すればアメリカに有利な交渉になるだろう」という見方があったようです。

 

しかしペリーには、例えば要求が容れられなければ武力を行使してもよいというような、権限は与えられていませんでした。ですから、湾内で放った大砲も空砲でした。

 

空砲の中には「アメリカ独立記念日の礼砲」もあったようです。いずれにしても市民が驚いたのは最初だけで、すぐに馴れてしまったようですし、武士たちも含めて野次馬の数だけ増えていったようです。

 

オランダからの情報でアメリカ艦隊がやって来ることを知っていた、さらにはこれまでも長崎を含め各地に、各国の艦船が「開港を求め」てやってきていましたので、幕府の対応が後手に回っていた、あるいはほとんど用意ができていなかったことは確かです。

 

しかし、それをもって幕府がダメ政府であって、例えば薩長ならばという議論は的外れです。当時は日本中が幕府以下の対応しかできなかったはずで、明治維新の結果からの遡りは偏った見方です。

 

幕府(浦賀奉行)は結局、フィルモア大統領の親書を久里浜に上陸したペリーから受け取ります。ペリーは返答を求めますが、将軍・家慶が病床であることも理由に1年の猶予を求めます。

 

これも「先延ばし策にすぎない」と言ってしまうと身も蓋もないわけで、致し方無しと同情的に見るのが適当かと思います。

 

また、筆頭老中であった阿部正弘は従来の幕閣や旗本・御家人だけでなく、外様大名にも意見を求めます。これがきっかけで外様雄藩の口出しが始まり、彼らが意識を高めたことによって幕府の基板が揺らぐきっかけになったと言います。

 

Photo

しかし、それは結果から無理矢理当てはめた暴論でしょう。我々は結果を知っていますから、類推や推測を都合のいいように合わせられますし、おそらく明治新政府も都合よく歴史を仕上げていったのです。

 

少なくとも、阿部老中にはそのような推測も意識もなかったわけで、より多くの意見を採り入れていきたいという期待があったはずです。また、島津斉彬など進歩的な外様大名も少なくなったのですから。

 

実際に、斉彬などは開国にも積極的であったと思われますし、幕府内の旗本官僚にも進歩的な意見を持つ者が少なからずいました。

 

また、東京湾沿いに台場の建設を計画しますが、実現したのは品川沖に造営された11箇所の台場に過ぎなかったようです。

 

そして、悪い時には悪いことが重なるもので、将軍家慶が逝去してしまいます。後を継いだ13代将軍家定も病弱で、正常な意思決定ができたのかどうか記録を見る限りでは、無理だったのかと思われます。

 

しかも、ペリー艦隊は1年後という約束(口頭)にも関わらず、半年も経たない嘉永71161954年)に再び浦賀沖にやってきます。おそらく将軍の死と交代という情報を得て、そのどさくさにという意識がアメリカ側にあったのでしょう。

 

鎖国状態うんぬんだからではなく、今につながる「日本(人)の外交下手」が現れたように思います。少なくとも家康時代にはあったはずの外交意識が、当時は希薄になったいたことは認めざるを得ません。

 

だからといって、、それは幕府が『悪』だという結論には結びつかないはずです。

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