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今年もあと3ヶ月、先行管理で2018年へ

Photo 9月もいよいよ今日が最終日、2017年も残り100日を切って、そろそろ新しい年への準備を開始する時期になりました。

 

先ずはいつもの年のように、手帳の交代準備。12月からは全面的に2018年用の手帳に切り替えますので、まずは12月分の写し換え、そしてすでに決まっている来年予定の記入です。(写真は10数年愛用しているマンダラ手帳です)

 

少しずつですが、スケジュールの空白が埋まっていく作業は心が躍ります。とはいえ、体調も含めてしっかり休養がとれるように調整することも必要ですね。

 

また、できるだけ効率の良い遠征をしていきたいので、今のところ個々の予定が並んでますが、それを巧くつなげる工夫もしていきます。

 

遠方への遠征の場合は、クライアントに交通費の負担をお願いすることも多いので、それを極力抑えることもサービスの一つです。

 

さらには、趣味である「乗り鉄」にも時間を使いたいので、それができるような余裕も持っておきたいところです。

 

しかも早めに予定が定まっていけば、交通手段や宿泊についてもメリットのある予約が可能ですから。

 

それらが一段落すれば、2018年の「戦略と戦術」を固めていく仕事が待っています。大きな戦略、すなわち中長期的な方向性は固めてありますので、その土台の上に具体的な内容を組み立てていきます。

 

これが楽しい仕事になるように、まずは「やりがい」のある目標を決めます。わくわく感がなければ、やっていてもつまらないでしょう。

 

やりながら、クライアントや新たにクライアントになっていただきたい方・会社の姿を、頭の中に描きます。どういう企画提案をしていこうか、これもまたワクワクする仕事です。

 

まずは、以上のことをいつまでにやり終えるかのスケジュールを決めます。昨年はやや遅れ気味でしたので、今年はできるだけ前倒しを心がけます。

 

まだ決まっていない継続的な仕事も、早めに固めることですね。

 

先行管理、若い頃から心がけているテーマを、今年もしっかり守っていきます。

脳力開発は人間学であり行動科学です(201)

信長の部下だった秀吉と、同盟者だった家康、各々立場が違いますので本能寺の変・清洲会議後の動きも大きく異なります。畿内周辺を固め、着々と信長後継者の地歩を固める秀吉をよそに、家康は信長が遺した東の領土、信濃・甲斐に触手を伸ばしていきます。

 
 この時点ではお互いに衝突を避けて、それぞれの動きに専念しています。それが衝突の事態になったのが、いわゆる小牧・長久手の戦いです。もっともこれは「小牧の役」が正しい表現で、長久手合戦はその中の局地的な戦いに過ぎません。

 
 この長久手合戦がピックアップされ、家康の代表的な戦とされるのは、実は江戸時代に入ってからです。要するに「家康神話」であって、大権現様を神格化するためのものだったのでしょう。現実に長久手合戦はその後の大勢には、ほとんど影響なしでした。

 
 小牧の役は、秀吉からないがしろにされた信長の息子、信雄(のぶかつ)が家康を誘って叛旗を翻したことから始まりました。この信雄、いわゆるボンボンで実力はないに等しかったのですが、大義名分はいくらかありましたので、家康がバックアップに回ったわけです。

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 家康は小牧山に陣をかまえ、秀吉はやや遅れて大軍をその前面に当たる楽田(がくでん)に展開します。戦いはほとんど膠着状態で、局地的な小競り合い以外はのんびりしたものでした。そこで秀吉軍に参加している池田恒興が「中入れ」を提案します。(写真は楽田城址)

 
 これは、家康が大軍で小牧山に出向いて陣しているのだから、今のうちに本拠地である岡崎を襲おうというものです。秀吉は当初反対します(実は秀吉も乗り気だったという説もあります)が、結局2万数千の別働隊が動き出し、それを追った家康軍が長久手で捕捉し、これに圧勝して恒興父子などが戦死した合戦です。

キャッシュが足りなくなる3つの大きな要因

今週末の土曜日と日曜日の2日間は、キャッシュフローMGCFMG)開催日です。

 

CFMGは、通常の西研MGMQ戦略ゲーム)が現金取引だけなのに対して、信用取引すなわち売掛と買掛を加味したものです。より現実の商いに近いと言われますが、それによって意思決定の幅が広がります。

 

コンサルタントとして経営、とくに創業のお手伝いを何社かやらせていただきました。素晴らしい技術や商品を持っておられる会社を立ち上げ、意欲十分にスタートされる企業の支援です。

 

中には助成金や補助金も認められて、順調な出足を見せられる会社もありますが、1年も経たない内に勢いがなくなる会社も少なくありません。

 

勢いがなくなる要因はキャッシュフローです。創業時代は最初から利益を出してとはなかなかいかず、赤字計上もやむを得ないところです。

 

利益が計上できても、材料や商品の先行仕入、製造を任せておれば外注費の支払いなどが少なくありませんし、必要な設備投資などもちりも積もればという感じで増えていきます。

 

そうなると「キャッシュが目に見えて減っていく」という現実に気付かされます。借り入れしてスタートした場合、利息は最初から払うことになりますし、据置期間がすぎれば元金の返済もしていかねばなりません。

 

そういうわけで、数年を経ない内に資金繰りが窮屈になってきます。その時になって慌ててしまっても、時すでに遅しなどという事態に陥りかねません。

 

ではなぜキャッシュが不足するのか、なぜそうなるのか、その要因くらいは創業前から知っていてほしいものです。000

 

キャッシュが不足する大きな要因は次の3つです。

1) 儲かっていない、利益が出ていない

2) キャッシュ・マネジメントが甘く杜撰である

3) 資金調達のパイプが細い

 

この内1)はまぁ当然のことで分かるでしょうが、2)が問題です。創業経営者がキャッシュフローに理解があり、自らキチンと管理(マネジメント)している会社はまれです。3)はもちろん経営者の大事な仕事です。(写真の本はザンネンながら絶版です)

 

たとえ儲かって(PL上)いてもキャッシュが苦しくなる、それは良くあることです。最低限その理屈くらいは、経営者たる者分かっていなければと思うのですがねぇ。

 

どうも、優れた技術者ほど「良いものを作れば売れる」と勘違いをしているようですし、有能な営業マンや販売員たちは「売上を上げる」ことに長けていても、それ以外のことには無頓着です。

 

それは困るのです、とくにキャッシュフローについては(実務は他の社員に任せても)経営者自身が、ちゃんと目配りしていないといけません。

 

3つの要因でいえば、1)の利益、まずは売上総利益=粗利益=を確保することが第一、2)はとくに「出を制する」ことと集金を怠らないこと、3)については銀行とのパイプづくりです。いずれも経営者がやるべき仕事、少なくとも先頭に立ってやるべきことです。

 

その辺りの感覚ややり方が今ひとつ分からない、不明だという方は、ぜひ早めにMGあるいはCFMGを学んで下さい。まずは一歩足を踏み出すことです。

選挙を通して国民が議論などできるか!?

明日28日に開かれる臨時国会の冒頭で、衆議院が解散されることが確実だ。任期は来年12月までだそうだから、14ヶ月ほど短縮となる。

 

で、話題に上がっているのが解散の「大義」だが、そもそも解散に大義など要るのかという意見もある。首相の専権事項など憲法のどこに書いてあるのか、といったことはともかくとして、これまでの慣行は「首相の好きな時に解散する(できる)」だった。

 

だから、大義などと大上段に振りかぶらなくても、要するにアベが「自分の都合のいい時だから解散する」のだろう。

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でもそうなると格好がつかないから、世の中の人たちが「大義」と勘違いしてくれそうなお題目をいくつか並べたらしい。それを突っ込まれたら、自分は「大義」だなどと名付けたことはないと開き直るのか。

 

衆議院選挙は言うまでもなく、政権選択の選挙だ。衆議院の多数党(一党の場合もあるが、連立多数の場合もある)が以後の政権を担う。我々国民はその選択を選挙に託すわけだ。

 

だから、この選挙は『戦略』すなわちこれからの国家戦略を選ぶもののはずだ。

 

アベは、この選挙で消費税の使い道や北朝鮮を念頭に置いた安全保障について、国民の信任を得たいと言っているが、そのどちらも戦略ではなく戦術レベルの話だ。

 

第一、解散するという発表の中では、憲法改正のケの字にも触れなかった。それってアベの最も重要なポイント、核ではなかったのか。まぁ、それはおいておくとしよう。

 

何より訳の分からないのは、選挙を通して「国民が議論する」のだという発言だ。アホも休み休み言うものだ。いったいどうやって、国民が議論するというのか。

 

議論するのだというなら、国民の代表たる議員が国会という場で議論するのが当の然だろう。そのくらい、子供でも知っている常識じゃなかろうか。

 

それを臨時国会は開くが、議論を一つもやることなく、解散のセレモニーだけをやるというのは、国民を馬鹿にしているとしか思えないのだがどうだろう。

 

この選挙、10日の公示で22日の投票になるようだが、その12日間の選挙戦の期間中に、どこでどのように国民が議論するというのか。政党や候補者の一方的な主張を聞いたり読んだりはできても、それ以上のことはほとんどの国民ができるまい。

 

その主張も、途中からはほとんど名前の連呼だろうよ。

 

結果は22日の深夜までには明らかになるだろう。多分今のところ、そうなる公算が強いが政権与党側が勝つだろう。少なくとも第一党は自民党であろう。

 

つまりアベが『勝つ』シナリオができていくのだろう。勝ったら、自分の「大義」が支持された、信任を受けたと大きな声で叫ぶに違いない。

 

「大義」の最後の方に付けたりのようにくっついていた「モリカケ」問題も、みそぎを受けたということにしてしまうのだろう。

 

戦術的勝利だろう、しかし相変わらず戦略は置き去りにされたままだ。それが見えていて、投票に迷う国民の身にもなってみろというもんだ。

脳力開発は人間学であり行動科学です(200)

江戸時代に書かれた中で最も著名なのは、儒学者・小瀬甫庵による『太閤記』でしょう。賤ヶ岳の戦いもこの中に書かれていますが、それによると佐久間盛政が勝家の指示を無視して、深く入り込みすぎたために戻ってきた秀吉軍に急襲されたと。Photo

 
 つまり敗因は一に盛政にありということなのですが、もっと大きな要因が前田利家の戦線離脱、つまり明らかな裏切りであったことは間違いありません。ではなぜ小瀬甫庵はそれを裏切りだとは書かなかったか。いや、実は「書けなかった」のです。

 
 実は当時の小瀬甫庵は加賀前田家に使えていて、家族で世話になっていたのです。まさか主家の悪口は書けませんから、事の全てを盛政の若気の至りのせいにしたのです。こんな風に、歴史を学ぶ時には周囲の状況も頭に入れておかねば、確定的事実にたどり着けないのです。
 

さて家康です。織徳(しょくとく=織田徳川)同盟と言われるように、桶狭間からしばらくしてより家康は信長と深い同盟関係にありました。信長にとっては、美濃を攻めてさらに京に上るためには、東方面の安心安全を確保するのに家康の存在が必要でした。

 
 当初は対等に近い関係を結んだと思われ、家康の嫡男・信康に信長は娘(五徳)を嫁がせます。しかし徐々に信長の力が大きくなっていき、完全に対等とは言えなくなっていったでしょう。しかし「律儀な人」と言われた家康は、しっかりと同盟を維持します。

 
 本能寺の変勃発の際に堺に滞在していた家康は、帰路を明智勢や土匪の妨害を受けますが、辛うじて伊賀越えをして伊勢に抜け、海路を三河に戻ります。すぐに攻撃体制を整えますが、その時には早くも秀吉の山崎での勝利が伝わってきます。

幕府の弱みを巧みに突いたペリー外交

ペリー艦隊、すなわち黒船の江戸湾来航の続きです。

 

嘉永6年(1853年)の来航に際して、幕府が相当うろたえたことは事実です。また、ペリー艦隊側にも「恫喝すればアメリカに有利な交渉になるだろう」という見方があったようです。

 

しかしペリーには、例えば要求が容れられなければ武力を行使してもよいというような、権限は与えられていませんでした。ですから、湾内で放った大砲も空砲でした。

 

空砲の中には「アメリカ独立記念日の礼砲」もあったようです。いずれにしても市民が驚いたのは最初だけで、すぐに馴れてしまったようですし、武士たちも含めて野次馬の数だけ増えていったようです。

 

オランダからの情報でアメリカ艦隊がやって来ることを知っていた、さらにはこれまでも長崎を含め各地に、各国の艦船が「開港を求め」てやってきていましたので、幕府の対応が後手に回っていた、あるいはほとんど用意ができていなかったことは確かです。

 

しかし、それをもって幕府がダメ政府であって、例えば薩長ならばという議論は的外れです。当時は日本中が幕府以下の対応しかできなかったはずで、明治維新の結果からの遡りは偏った見方です。

 

幕府(浦賀奉行)は結局、フィルモア大統領の親書を久里浜に上陸したペリーから受け取ります。ペリーは返答を求めますが、将軍・家慶が病床であることも理由に1年の猶予を求めます。

 

これも「先延ばし策にすぎない」と言ってしまうと身も蓋もないわけで、致し方無しと同情的に見るのが適当かと思います。

 

また、筆頭老中であった阿部正弘は従来の幕閣や旗本・御家人だけでなく、外様大名にも意見を求めます。これがきっかけで外様雄藩の口出しが始まり、彼らが意識を高めたことによって幕府の基板が揺らぐきっかけになったと言います。

 

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しかし、それは結果から無理矢理当てはめた暴論でしょう。我々は結果を知っていますから、類推や推測を都合のいいように合わせられますし、おそらく明治新政府も都合よく歴史を仕上げていったのです。

 

少なくとも、阿部老中にはそのような推測も意識もなかったわけで、より多くの意見を採り入れていきたいという期待があったはずです。また、島津斉彬など進歩的な外様大名も少なくなったのですから。

 

実際に、斉彬などは開国にも積極的であったと思われますし、幕府内の旗本官僚にも進歩的な意見を持つ者が少なからずいました。

 

また、東京湾沿いに台場の建設を計画しますが、実現したのは品川沖に造営された11箇所の台場に過ぎなかったようです。

 

そして、悪い時には悪いことが重なるもので、将軍家慶が逝去してしまいます。後を継いだ13代将軍家定も病弱で、正常な意思決定ができたのかどうか記録を見る限りでは、無理だったのかと思われます。

 

しかも、ペリー艦隊は1年後という約束(口頭)にも関わらず、半年も経たない嘉永71161954年)に再び浦賀沖にやってきます。おそらく将軍の死と交代という情報を得て、そのどさくさにという意識がアメリカ側にあったのでしょう。

 

鎖国状態うんぬんだからではなく、今につながる「日本(人)の外交下手」が現れたように思います。少なくとも家康時代にはあったはずの外交意識が、当時は希薄になったいたことは認めざるを得ません。

 

だからといって、、それは幕府が『悪』だという結論には結びつかないはずです。

脳力開発と純粋倫理の共通性に学ぶ

今日のブログは、私が入会している倫理法人会についてです。

 

入会したのは21世紀が始まった2001年の1月ですので、早いもので今年の年末が来れば丸18年になろうとしています。

 

それともかく、皆さんは「倫理」と聞くとどういうイメージでしょうか。おそらく入会前の私がそうだったように、倫理道徳とか企業でいえばコンプライアンスとか、そういうどっちかというと堅いイメージではありませんか。

 

そういう「お堅いのは自分には合わないだろうな」と考えていた私は、当然ながら再三のお誘いを断り続けていました。でも、お世話になっている方のお勧めに根負けして入会したわけです。

 

朝の6時からというモーニングセミナーが毎週、しかも盆でも正月でも祝日でもあるというので、どんな団体なのかと野次馬興味はありました。何しろ、最初に出席したのは正月2日でしたから。

 

入会した際にいただいた「万人幸福の栞」をパラパラとめくって、そこに書いてある内容にびっくり。ずっと学んできていた脳力開発の考え方と見事に重なり合うのです。

 

そうなんです、倫理法人会の母体である倫理研究所を創設した故丸山敏雄先生は、これを『純粋倫理』と呼ばれ、その中身は「生活の法則」であると言われました。

 

しかも、大事なことは学んだことを「すぐに実践する」ことだというのです。これはまさに、故城野宏先生が提唱された脳力開発とぴったりと重なります。

 

脳力開発は意識と行動の変革を目的としますが、それこそ実践に他なりません。しかも、意識すると同時に足を一歩踏み出すこと、行動(実践)することによって結果が出ると教えます。

 

一方、純粋倫理では生活の法則を実践することで「体験が生まれる」と言っています。見事に重なり合っているではありませんか。

 

ですから、私は倫理法人会に学ぶことで、同時に脳力開発も学ぶという幸運に恵まれました。何しろ学びが倍になったわけで、学びが倍になれば実践とその結果(体験)も倍以上になりますから。

 

脳力開発を学ぶ中で若干疑問に感じていたことは、純粋倫理すなわち生活の法則を記した「万人幸福の栞」の言葉が補足してくれました。一方純粋倫理でおやっと思った部分も、脳力開発の指針が補完してくれました。

 

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そして、脳力開発も純粋倫理も、学び体験したことをどんどんお伝えしていく、という行動の共通性があるのです。それがまた体験の積み重ねと、自分を見つめ直すきっかけとなります。

 

そしてここが共通の基本です。それは「自分を変える」実践こそが大事だということです。他人を変えるのではない、自分を日進月歩変えていくことです。

 

その倫理法人会は9月が新年度です。入会以来、殆どの期間単会あるいは県の役員としてお役立ちの機会をいただいてきました。今年は新潟西倫理法人会の役員(監査)を拝命しました。(写真はモーニングセミナー朝食会のお弁当です)

 

また1年、自分を磨く機会を与えていただいたことに感謝して、ますます実践を心がけていきます。

社内会議における社長の発言に一言

またまた、会議についてです。もちろん、小さな会社の会議についての私見です。

 

会議はできるだけ短めに、なぜなら会議自体はMQ(売上総利益=粗利益)を産まないから。もちろん、会議を通じて決まったことを実行すればMQは生まれるはずです、念のために。

 

で、社長たるあなたはその会議に出席されていますか。会社の中には色んな会議があって、その全てに社長が顔を出すことはないかも知れませんが。

 

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今日の問いかけは、その会議の中で「あなたはいつ発言されていますか?」です。

 

全く沈黙して一言も発しない、ということはまずないでしょうね。参加者の一員ならもちろん、たとえオブザーバーの立場での参加であっても、ファシリテーター(司会者)は「社長のご意見」を求めてくるでしょう。

 

私は現役社長時代、自ら出席する会議は年間予定である戦略会議以外は、毎月の定例幹部会議と営業会議に限定していました。あとは出席を求められた会議、それは大なり小なり意見や、時には判断を求められる時でした。

 

定例の会議には私の発言時間が、あらかじめスケジュール化されていました。基本的には冒頭の5分間、そして締めくくりの5乃至10分間でした。その以上の時間は必要ないと伝えてありました。

 

本当は締めくくりの発言だけにしたかったのですが、会議の目的の前提となる戦略について、メンバーに語っておく必要がありましたので、冒頭発言も入れていただきました。

 

そして途中の会議・ディスカッション中は、極力発言しないように心がけていました。どうしてもという時、それは冒頭に示した戦略と異なる方向に向かう恐れありと判断した時だけ、短い発言を求めました。

 

当然のことですが、やり方や手段・方法つまり戦術については黙って聞いていました。なぜなら、私はその成否を判断する立場ではありませんし、もし私が発言すればその内容に参加者はこだわるでしょうから。

 

あるいは「社長の言葉」に左右されてしまい、元から持っていたはずの「自分の意見」を変えてしまうことにも成りかねません。

 

私自身が長い間一般社員とか中間管理職の立場で会議に出ていましたから、そうなる可能性を肌で感じていましたから。自身もそうなりかけたことがありましたし。

 

もっとも、社長が一切発言しないというのも、社員の立場から言うと(とくに当初は)不気味なことです。いったい何を考えているのかが気になるでしょうし、もしかしたら最後にひっくり返されるかもなどと思っているかも知れません。

 

そこで、時には全体の流れに影響を与えない範囲で、例えば他社の事例だとか講演やセミナーで聴いたことなどを、短く紹介して場の空気を和らげることをやりました。

 

ただ、それは会議のやり方を革新してから数ヶ月のことで、半年も経てばそんな必要などないようになってしまうものです。そうなると、求められなければ一切物言う必要もなく、じっくりと聞き耳を立てることができます。

 

もし最後の社長発言(まとめ)で流れと異なる意見を述べるとしても、決まったことを覆す必要のないことを前提とし、「この点だけは気を付けてやってほしい」までに留めました。

 

あなたの会社の会議はどうですか、そして社長の発言は?

脳力開発は人間学であり行動科学です(199)

山崎の戦いで光秀を破った秀吉は、この後「信長の後継者」としての意識を強くしていたようです。そのための根回しを緻密に行って、清洲会議に臨みます。この辺り、戦略を明確にして戦術を組み立てる、まさに脳力開発の目指すところです。

 
 清洲会議を主宰したのは柴田勝家ですが、勝家は対光秀戦でもはるかに遅れをとり、また会議に向けても信孝を後継者にという目標は持ちますが、根回しを行った形跡は余り見られません。目前の対抗馬・信雄に対してすらやっていません。

 
 秀吉は信長の嫡孫・三法師を担ぎ出し、山崎にも参加した宿老の丹羽長秀の賛同を得、池田恒興(信長の乳兄弟)を領土という餌で味方につけ(たらしい)、そして3才の三法師にもおもちゃやお菓子でてなずけていきます。これまた会議前に趨勢は決していました。Photo

 
 清洲(清須とも)会議は、信長の後継については、まさに秀吉の事前根回しでの圧勝に終わるわけです。勝家は辛うじて、自分が推していた信孝を三法師の後見とすることで、一矢を報います。また、会議の後「お市の方」を妻として挽回を図ります。

 
 また、秀吉の領地であった長浜・北近江を自領に加えますが、この地の戦略性を余り重視しなかったようです。ここには甥の柴田勝豊を守将として入れますが、勝豊は勝家が重用する佐久間盛政とは微妙な対立関係にありました。

 
 長浜は畿内への入口で、琵琶湖を経て京都に向かう拠点になります。冬場は雪に覆われる越前は大軍を動かせませんが、長浜は雪も少なく、しかも信孝の居城・岐阜や安土にも近いのです。むしろ盛政を入れるか、勝家自身がせめて冬場だけでも入るべきだったでしょう。

お彼岸入りなのにまた怒っちゃいました

お彼岸入りですね、もうすぐ秋分の日。

 

世の中はもう選挙モードに突入、「正式決定」前だというのにお忙しいことです。

 

そんな中で、余裕のヨ党は毎回恒例の失言ラッシュになってきそうな予感。

 

早速に党の要の幹事長がやっちゃいました。曰く、「モリカケ問題なんて小さいこと」って言っちゃいましたね。

 
あらら、小さいことだったんですか。だから、閉会中審議とやらにも後ろ向きだったし、ヤ党の臨時国会開会要求にも梨の礫だったんだ。

 
何億も何十億も不明朗な税金の使い方をやっていて、それが小さな問題ですと。責任あるヨ党の幹事長とは思えぬ無責任発言。

 
ところがこの発言が、ちっとも「炎上」しないんだなぁ。庶民感覚もおかしくなってきているのかなぁ。不倫には大騒ぎしても、税金には無関心?

 
狂ってきているんじゃないの、日本が、日本人が。

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だいたい、内閣ってこの間改造をやったところでしょう。何ですって、「仕事師内閣」だそうでしたね。でも仕事らしい仕事をやったの?

 
ヤ党に「しごと、しない、かく」ナンテ揶揄されてますが、どうなんでしょうね。

 
このモード切り替えで分かったこと、2年後の秋に消費税が10%に上がるってこと、再認識しましたよ。

 
その使い方について問うのが今回の争点だって? ボケてんじゃないの、アベは。

 
また、怒ってしまいました。

泰平の眠りを覚ました黒船は2隻だった?

さて、ペリー来航についてです。どの歴史の教科書にも出ている事実です。

 

時は185378(嘉永663日)、浦賀沖にあらわれた「黒船」を見た日本人はこれを、『泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず』と狂歌に詠いました。

 

しかし実際には4隻のうち蒸気船は2隻で、他の2隻は帆船でした。ただ帆船とはいえども、当時の日本の船に比べるとはるかに大きなものでしたから、浦賀に来た日本人がびっくりしたのも当然です。

 

とくにペリーの乗った旗艦であるサスケハナ号、2450トンの外輪蒸気船で黒塗りでしたから、巨大な要塞のように見えたかもしれません。

 

前回も書きましたが、幕府はアメリカの艦隊がやって来ることはオランダからの情報で知っていました。また、アヘン戦争の成り行きについても知っていましたから、外国船討ち払い令は早々と撤回しています。

 

ペリー艦隊は上海から出航して琉球(王国)に寄港し、まず琉球国王に開国を要求したようですが柔らかに拒否されています。

 

その後まず黒潮に乗って小笠原に現れ、領有宣言をしたりしていますが(後に無効とされました)、再び琉球に戻った上で浦賀に向かいます。

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アメリカの目的は日本の開国ですが、それは太平洋に展開していた自国捕鯨船への補給が主目的でした。捕鯨船は帆船が中心でしたが、積み込める食料等には限りがあります。

 

また蒸気船も積み込める石炭量は限られています。当時はまだ太平洋を横断する量を積めなかったと言われています。とくに捕鯨によって鯨油を獲り、それをたくさん積み込むには寄港補給する港が不可欠です。

 

それが日本に目を付けた最大の理由です。当初は通商のことはまず二の次で、石炭や食料等を補給できる港を日本に求めることが第一でした。

 

また、浦賀入港もあくまで江戸幕府にアメリカ大統領・フィルモアの親書を手渡すことが任務でしたので、この時には親書を幕府高官に手渡すと江戸湾を後にしています。

 

もっとも、大砲(空砲)をぶっ放したり、周囲の測量をしたりと、我が物顔にふるまったようではありますが。

 

さて、これに対する幕府の対応です。当初は浦賀奉行所の与力が相手をしていますが、下っ端では話にならないということで親書を渡されず、後に奉行が受け取りました。

 

この時の幕府老中筆頭が阿部正弘(備中福山阿部家)でしたが、彼は決して海外情勢に暗くはなく、盟友であった薩摩の島津斉彬とともに、開明的な考えを持っていました。

 

しかし、幕閣の理解を得る時間も必要でしたし、当時の12代将軍徳川家慶は病床にありました。そこでアメリカへの回答に1年の猶予を申し出、ペリーもこれを了承して来航から10日後の718日、浦賀を離れます。

 

ところが家慶も間もなく逝去してしまい、13代将軍に家定が就きますが、家定も病弱で重要な意思決定ができるかどうか危ぶまれていました。

 

そこで阿部老中は外様大名(雄藩)にも意見を求めることにしたわけですが、これがある意味では幕府の命を縮める結果になったのも事実です。

 

いずれにしても幕閣だけでは決められないということを露呈してしまったわけで、この黒船来航がきっかけで時代が大きく動いた。つまり明治維新が始まったと言われるゆえんです。

明白なり!党利党略解散じゃないか

衆議院の解散・総選挙が決まりそうだとのこと。ニューヨークに旅立つアベさんは、戻ってからゆっくり決めるとうそぶいたが、もちろんすべてはもう決まっている。

 

そしてすでに、政界は10月22日選挙に向けて待ったなしに、大きく動き出した。台風が過ぎ去っていくとともに、この解散台風が一気に吹き荒れだした感じだ。

 

つい1ヶ月ちょっと前には、世論調査の数字で内閣支持率が30%前後となり、青息吐息だったのに、とてもその時点では解散など考えられないムードだったのに。

 

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また生き返ったか、しぶといなぁ。内閣改造で支持率が少し戻ったときにも、期待感はあってもアベへの信頼については低い数字だったように思ったが。

 

なんだか、キタのミサイル発射や核実験に救われたように感じてしまうが、どうなんだろうかねぇ。ホラホラ、だんだん言った通りになってきただろう、以前に決めていた安保法制や関連法案が、これから効いてくるんだよってか。(写真はニュース記事より借用)

 

冗談じゃないぜよ。

 

コイケさんは好きではないが、いいこと言ってるじゃないか。今ここで解散するなんて、大義名分はあるんですかって? その通りだよなぁ。

 

どうせ、色々と言いつくろって格好のつく名分を表に出してくるだろうけど、どうみても党利党略解散としか思えないよ。

 

それも相手にとって不足なマエハラ・ミンシン党が、屋台骨が揺らぐやら土台がガタつくやらで、とてもまともな臨戦体制などとれない状況を見越してだ。

 

この国の政界には「武士の情け」なんざねぇだろうけどさ。それなら、武士の心得たる「常在戦場」だなどという言葉は使ってほしくないなぁ。武士道はどこへって感じだ。

 

もっともミンシン党も全くだらしがないしなぁ、国民の多くはあの民主党政権時代のていたらくがトラウマになっているわけだし。

 

10月22日はセミナー遠征で地元にいない。いつもなら喜んで期日前投票へとなるところなんだけど、何となく気が乗らねぇ。そんなこと言っちゃ、国民の義務が果たせないけど。でも本音なんだよなぁ。

 

だいたいこの選挙区に越してきたのが1年半くらい前で、初めての馴染みのない小選挙区で、誰が国会議員で対抗馬は誰だも分かってないんだよ。

 

ヨ党には入れたくない、かといってまともなヤ党はないし、どっちつかずのユ党は論外。

 

あああ、どうすべぇかな。

スケジュール管理とタイムマネジメントの違い

スケジュール管理についてです。

 

皆さんは、どんなやり方で自分自身のスケジュールをマネジメントされていますか。スマホを活用されている方は、グーグルカレンダーやその他のアプリを上手に使われているのかも知れませんね。

 

いや、やっぱり手帳に書き込むのが一番いいんだよという方にも、時々お目にかかります。私はというと、グーグルカレンダーも使えば、手帳も活用する、あるいはPCでマイツール(データベースソフト)を使っているというわけで、デジタル・アナログ混用です。

 

どれを使ってもいいのですね、キチッとできるのであれば。中には複数のツールを連動されて、データを巧く活用されている方もおられます。それを見ると、見事だなぁと感心してしまいます。

 

いずれにしても、それぞれのツールでは使い方も違いますし、おそらく使う目的も少しずつ違っているのではないでしょうか。同じツールを使っても、使う人によって違うこともあるでしょう。

 

会社の中では、ツールを統一した方がいいというので、グーグルカレンダーで必要データは共有するとか、あるいはサイボウズのスケジュール機能などを全社で使うというところもあるようです。

 

そういったツールでは、そこに各自がスケジュールを書き込む、それで個人もスケジュール管理がスムースにでき、周りも情報を共有できる。少なくとも「能書き」にはそのように記してあるはずです。

 

しかし現実はどうでしょう。上手にそういったツールを使っているのかといえば、見事に使いこなしているなと感じられる会社はホンの一部に過ぎません。まぁ言ってみれば「やっているだけ」というところが大多数です。

 

そこで、スケジュール管理についての私の考えを少し書いてみます。

 

そもそも、スケジュール管理はなぜ必要なのでしょうか。スケジュール管理を時間管理(タイムマネジメント)だと考えている方が多いようですが、それは一つの側面に過ぎません。

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脳力開発では「戦略と戦術」を学びますが、スケジュール管理は戦略そのものです。つまり、スケジュールを組み立てることこそがポイントであり、その組立ては戦略(企業戦略あるいは人生戦略)の具体化です。

 

ゴール(戦略の最終目的)に向かってのステップを決めていくことであり、その都度の「定点」をおいていくことです。タイムマネジメントは、それを時間軸で置き換えるもの(戦術)に過ぎません。

 

なぜなら、1年は365日であり、1日は24時間だからです。用意された時間をどう有効に使うのか、それがタイムマネジメントであり、それをいかに上手に行えるかのためにツールが用意されています。

 

スケジュール管理の決め手は、これから将来の定点をキチンとポイントしていくことであり、その定点が戦略的にどういう位置づけかを確認していくことにあります。

 

今あなたがやられているのは、スケジュール管理ですか?それともタイムマネジメントなんでしょうか。

 

先ずはそれを見極め、区別するところから始めて見ませんか。

「鎖国」していたから非開明的だったという大ウソ

鎖国と言われています、国を鎖すこととされていることはご存じの通り。これが江戸幕府の「(家康以来の)祖法」であり、次々に出された鎖国令が江戸時代を支配し続けたとある。

 

このことは教科書などにも書いてあるのですが、二重に間違いです。何よりもまず、江戸時代には「鎖国」という言葉が少なくとも1800年代に入るまでなかったのです。来日したドイツ人医者が日本について書いた本を、訳した際に造語したと言われています。

 

ですから、当然のことに江戸初期に「鎖国」令が順を追って出されたというのは誤りです。それらはキリスト教の禁令だとか、ポルトガル船の入港禁止といった命令でした。

 

また、「祖法」であるというのも間違いで、家康はむしろ交易を拡げようとしたのではないですか。アダムスやヨーステンを顧問にして外国事情を学んだ事実もあり、ヤン・ヨーステンは「八重洲」の地名にもなりました。

 

家康は幕府が外国貿易を独占することを目指したようで、そのために各大名が大型船を建造したり、独自に外国と交易することを制限したのです。ただ、時代が下る中で、時の老中などの幕閣が「家康以来の祖法」としていったことは確かです。

 

しかし、幕府が国を鎖したと断定してしまうことは明らかに間違いです。少なくとも、長崎においてオランダや清国との交易は続いていましたし、対馬藩を窓口に朝鮮との交易が続き、あるいは琉球王国を介しての貿易も存在していました。(写真は長崎・出島)Photo

 

ですから明治新政府が、鎖国を国法として国を鎖した頑迷な幕府を、開明的な新政府が打倒したのだと声高に叫んだのは、明らかに間違いだと言えるでしょう。

 

第一に、当初「攘夷」を叫んでいたのは長州を中心とした志士と言われる武闘派であり、その説に踊らされていた攘夷派の公家であったわけです。

 

そもそもこの志士と名付けられた輩たちが、やったことはなんでしょうか。とくに禁門の変に至るまでの志士たちは、どうみても暗殺テロ集団あるいはテロリストにしか見えません。

 

後に「勤王の志士」などと名付けられているのは、誠に笑止千万です。鞍馬天狗の活躍などは、映画やお芝居の中だけでいいのです。それをやたらと持ち上げたり、靖国神社に祀るというのはいかがなものでしょう。

 

むしろ志士というテロリストたちが京の都を跋扈していた頃、本当に開明的であったのは江戸幕府ではなかったでしょうか。

 

当初は「外国船打払令」を出したりしていますが、10数年でその間違いに気付き、薪炭や水・食料を求めてやって来る外国船には、最低限の望むものを与えるよう指示しています。

 

少なくとも、ペリーが来航した頃には「外国船打払令」など存在していませんでした。また、鎖国をしていた幕府は国際情報に疎く、ペリーの来航も寝耳に水であったというのも明らかなまちがいです。

 

すでにペリー来航のはるか前から、日本近海には外国船が度々姿を見せており、港や浜辺の町に近寄ってきた例も多数見られます。また、オランダ情報でペリーがやって来ることも知っていました。

 

情報を得ていながら、事前の対応策が後手に回ったなど不十分であったことは確かです。しかし、それにしても「薩長より頑迷であった、遅れていた」という事実は全くないのです。

 

では次回はペリーの来航に絞ってみましょう。

キシャ旅をのんびり愉しみたいね

先日、マスコミが伝えたニュースがとても心痛かった。展示してあった保存電気機関車EF63から、部品を盗んでいったのだという。夜陰に紛れてだと思うが、とても許されぬ行為だ。

 

心ないファンの行為ではないかと伝えたマスコミもあったが、とんでもない、そんなことをするのは「鉄道ファン」とは言えないし、名乗ってほしくはない。

 

最近は「鉄」が増えてきたらしい。若い人たちや、また女性ファンも増加してきているらしい。嬉しいことではある。私が撮り鉄・乗り鉄になった頃は、いささか肩身が狭くファンと名乗るもおこがましかった。

 

それはそれでいいことなのだが、心ないというかルールを逸脱する輩が増えるのは歓迎できない。昔も、人の迷惑を顧みない連中がいて周囲から批判をされたが、最低限のルールは守らねばならない。もちろん、法律違反などはとんでもない。

 

先日もたまたま「乗り鉄」を愉しむ中で会津若松駅に途中下車したが、ちょうど『SLばんえつ物語』号の運転日で、到着したSL列車を撮影しようというカメラを抱えたファンの姿も多かった。

 

だいたいはルールを守り、例えば白線をまたがないとか、入ってはいけないところに入らないということはできていた。しかし、時には別の人がカメラを向けているその前にしゃしゃり出てしまう姿も見かけた。

 

ホーム上を我が物顔で駆け回ることも含め、これはマナー違反というところだろう。昨今はスマホなどでも、そこそこ佳い写真が撮れるので、気楽にカメラを向けられるのだが、他人の迷惑になってはいけない。

 

小学生以下の子供たちの場合には、そばに大人が付いていて然るべきだと思うが、かくいう私は小学生の頃には公共の場(例えば駅)に一人でカメラを持って出かけることはなかった。

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さて、そういうことは別にして、久し振りにローカル線を各駅停車で乗り鉄できたので、気分爽快だった。

 

最近の若者たちは「電車旅」と呼ぶが、私たちの年代は「汽車旅(あるいはキシャ旅)」だ。私が「鉄小僧」担った頃は、機関車に牽かれた客車列車が長距離の主流だった。

 

大阪から西へ向かうと電気機関車、当時はEF58(ゴハチ)が牽引し、姫路からは蒸気機関車に代わった。たぶんC62とかC59などの大型機関車だった。岡山との県境の帆坂トンネルでは窓を閉めさせられた。

 

最近は電車が主流で、中には窓が開かない車両も多い。今回のローカルキシャ旅では2両編成の気動車だったが、エアコンが効いて窓は少ししか開かないようになっていた。

 

それでもゆっくり移り変わる車窓は、キシャ旅モード全開だった。新幹線や特急に揺られることが多い昨今だが、時間が許せば例え短い時間でもキシャ旅を愉しみたい。

脳力開発は人間学であり行動科学です(198)

秀吉軍は約2万数千人と言われ、6日の昼前後から一昼夜かけて居城の姫路に、全軍が帰還します。速く走るために武具などは打ち捨てて行ったとも。それにしても、6070kmからの狭い街道を、本軍が一気に駆け抜けたというのは空前絶後でしょう。

 
 途中の飲み水やおむすびの手配は、黒田官兵衛の指示であったとも言いますが、走りながら食べ飲みしたものと思います。秀吉自身は騎馬ですが、途中で居眠りして落馬することがあったとか、一部途中は船を使って沿岸海路を移動したようです。

 
 7日中には全軍が姫路城に到着、城内の金銀、米穀や武具などを全て分け与え、早くも9日には出陣して明石、兵庫、尼崎、摂津富田を経て、13日には山崎の合戦場に光秀に先んじて陣を張ります。この時には織田信孝らも合流、4万の大軍になっていました。

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 秀吉と光秀が激突した山崎の戦いは、「天下分け目の天王山」とも言われていますが、天王山の争奪戦は全体の趨勢にはほとんど影響はありませんでした。現在の天王山には碑が残り、そこからは淀川河原に広がる合戦場を見渡すことができます。

 
 戦いの勝敗は、本能寺からたった11日目の613日に秀吉が、3万数千の大軍を山崎に展開したところでついていたと言っても、過言ではありません。対する光秀軍は1万数千、数も勢いも秀吉側がはるかに勝っていたわけです。

 
 全軍を山崎に集結できた秀吉に対し、居城の坂本城や洛中、安土城に兵を割かねばならなかった光秀との違いもあります。何よりも繰り返しになりますが、前代未聞の速さで大返しを行った、その知恵と行動に脱帽というところでしょう。

コミュニケーションに良し悪し、上手下手があるのか

コミュニケーションということが、多くの会社で課題になっている。

 

コンサルティング相談の中でも、社長の口から「当社はコミュニケーションが良くなくて」というグチが聞かれ、「なにかいい方法があったら教えて下さい」とくる。

 

コミュニケーションとは、組織(企業)の中における情報のやりとりとか情報の共有を意味しているらしい。情報のやりとりとは言葉のやりとりのことだが、一方通行ではなく双方向がいいのだそうだ。

 

その辺りの認識が、逆にコミュニケーションの悪さになっているのじゃないかと言いかけて、ふと思った。そもそもコミュニケーションの良し悪しって何だ?コミュニケーションに上手下手があるのか?

 

では良いコミュニケーションとは何だろう、上手なコミュニケーションとはどういうものなんだろう。当社のそれが悪い、下手だとのたまう社長はどのようにしたいのだろう。

 

そこに色んな提案が外から届く。昔から様々なコミュニケーション・ツールが工夫され、最近ではもちろんITを活用したコミュニケーションが脚光を浴びる。

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先進的なIT活用によるコミュニケーションを導入した会社も見学したが、一目見て、うまくいっているとはとても思えなかった。(右はITコミュニケーションのイメージ)

 

デジタルもいいがアナログも見逃せないということで、朝礼の活用とか掲示板が見直される。単一の手段や道具だけでなく、たいていの場合は複数手段が用意されている。なのに、まだコミュニケーションが悪く、下手なのだそうだ。

 

こいつはどうも、手段や道具つまり戦術レベルの問題ではないなと気が付く。となると、戦略の問題なのだから答は難しくない。

 

要するに、コミュニケーションとは何だとか、コミュニケーションの目指すところは何かということが、組織の構成員(社員)の共通認識になっていないということに尽きる。

 

そこのところが分かっていれば、手段や道具は何でもいい。その時々に最も適切・的確なものを、多くの中から選んで使うだけのことだ。

 

また突き詰めていけば発信と受信に他ならないのだから、常に発信することを心がけて実行し、いつでも受信可能状態であることだ。

 

何でも発信する、必要なのかそうでないかは受け手に任せることだ。その代わりに、自分に必要のない情報だと思ったら容赦なく捨てる。それでよい、そうなればコミュニケーションは自然と回る。

 

かつて未来工業の相談役だった山田さんは、「ホウレンソウなんて必要ない」と喝破した。過ぎたるは及ばざるがごとしという、過ぎたる「ホウレンソウ」は意味がなく邪魔なだけだ。

 

受信も発信も任せてしまえばいい。ただしその前に、キチンと戦略を徹底しておくことだ。

 

ちなみに、我が家(事務所)のコミュニケーションは言葉の他は、ポストイットとメモ用紙(コピー紙の余剰)だ。後者は見えるところに置く(貼る)が、必要なしだと分かると即座に捨てられる。

 

二人でできるものは大勢でもできる。とくにあなたの会社が大会社でないのなら、簡単にできるはずだ。

「薩長史観」に正面から斬り込んでみる

前回の歴史ブログに、次回から反「薩長史観」について述べていきたいと書いたところ、何人かの方から面白そうだ、あるいは期待しているというご意見をいただきました。
 

何しろ史料にまともに当たったこともないという素人の駄文なので、とても期待に応えられそうもありませんが、感情に流されることなく書き連ねていくことにします。
 

それはおかしいぞとか、そういう意見には賛成しかねるということがありましたら、どうぞご遠慮なく反駁を加えるなりしていただければ幸いです。
 

さて、薩長史観ということですが、これは明治維新をめぐる人物像や現象事件について、明治新政府の中心であった薩摩・長州が、自分たちを『正当化する』ために作り上げた歴史観のことを指します。
 

とまぁ、断定的にいってしまうのはどうも落ち着かないのですが、最初に私が疑問を感じたのは靖国神社についてです。靖国神社の問題をあれこれ語る気はありませんが、私の疑問はそこに「賊軍の兵士」が祀られていないという事実でした。
 

当時私が好んで読んでいたのは、越後長岡藩(江戸時代には藩とは呼ばれず、越後長岡牧野家というべきところですが、一般的な呼び方に従い藩と呼びます)の軍事総督、河井継之助についての書物でした。Photo_2 (写真は長岡市の河井継之助記念館入り口)
 

長岡藩は戊辰の役の一つである北越戦争で山県有朋率いる官軍と戦い、緒戦を勝利するものの城を落とされ、さらに奪回作戦を挙行して成功するものの、結局落城し町を焼かれます。
 

つまり長岡藩は賊軍とされるのですが、なぜ彼らは賊軍と呼ばれたのか。その呼び方が官軍に対比するものであったとして、そこには官軍=善(正義)、賊軍=悪という理由付けがなされますが、では何をもってその善悪が定められたのか。
 

さらには、同じ戦争(内乱)で亡くなった兵士でも、官軍の兵士は靖国神社に祀られ、賊軍の兵士は祀られていないという事実を見て、どちらも同じ日本人ではないのか、「国のために戦った」ことに善悪がつけられるのかということでした。
 

当時の私は靖国神社の成り立ちも性格もよく分かっていなかったので、単純にそう思っただけでした。つまり官軍(その主体は薩長軍)は愛国者であり、対抗した長岡や会津の兵士は非愛国者なのか。
 

何だかおかしい。おかしいはずです、靖国神社の最初は官軍兵士(のみ)を愛国者として祀るためであったから。その後のことはまたいつか触れるかも知れませんが、本題ではありませんので省きます。
 

いずれにしてもこのおかしさ、不可思議さはどこからきているのだろう。それが「薩長史観」というものだと気付いたのは、ずいぶん後のことでしたが、その視点から見るとおかしなことが山積しているのです。


では、いくつかある中で「薩長史観」が隠してしまった史実をいくつか羅列(ほんの一例です)してみます。


その一はペリーの来航、譲歩に譲歩を重ねた幕府は腰抜けで無能なので、進歩的な薩長に滅ぼされたのが当然であった。いったいどこにそんな史実が記録されているのか?

 

その二は大河ドラマにも準主役で出てきた久坂玄瑞(長州藩士)、禁門の変を起こし御所に攻め入ろうとしたこの男がどうして英雄か。そしてその師である吉田松陰は、いわば煽動者でありテロリストの師ではなかったのか。
 

その三、西郷隆盛は武装集団を江戸に送り幕府側の藩邸を襲撃、また市中においても略奪や殺戮を繰り返させた。そしてあくまで武力倒幕を実行しようとしたが、平和的解決を意図した勝海舟ら幕閣によってその邪魔をされた。
 

挙げているときりがありません、次回からは各論に入っていくことにしましょう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(197)

光秀の天下が11日で潰えたのは、光秀が無能であったからでは決してありません。むしろ有能すぎたが故に、必要な手を完璧に網羅しようとし、時間をかけてしまったのです。いや、通常ならそれでも佳かったのですが、相手が常人ではなかったのです。

 
 そう、秀吉が中国・備中高松の陣から、決戦の場となった山崎まで戻ってくるのが余りに早すぎたのです。常識では考えられない迅速さがどうして実現できたのか、アドバイザーたる黒田官兵衛のサポートも含めて見ていくことにしましょう。Photo_2

 
 62日未明の本能寺の変、その報せは翌日深夜、秀吉の元にもたらされます。一節には光秀が毛利氏にむけて送った密使を捕縛したといい、いずれにしても水も漏らさぬ包囲網に情報が引っかかってきたということは確かなことのようです。

 
 「
信長斃れる」の報せに秀吉は驚愕し卒倒したようですが、傍にいた黒田官兵衛は主君信長の仇を討つよう、強く励ましたと言われています。官兵衛の頭の中には、すでに「大返し」の筋書きができていたのかも知れません。しかし実行するのは秀吉です。

 
 正気に返った秀吉は官兵衛に毛利との早急な講和を指示、すでに毛利方の安国寺恵瓊と根回しを進めていたこともあり、条件を緩和(割譲領土の減)して講和に成功します。備中高松城主・清水宗治は、水上に船を浮かべて切腹しますが、これが64日です。

 
 翌5日、秀吉軍は撤退の準備を始めます。慌ただしく撤退しては怪しまれるということで、逸る心を抑えて準備を整え、近くの別の城(沼城)に移ります。6日に毛利側に面した水攻めの堰(土手)を切って水を流し、一気に姫路城を目指すのです。その行程約70km

学びにはゴールなどないのだ

もうすぐ30年になります、私がMG(西研MG=MQ戦略ゲーム)に初めて出会ってから。

 

あの時は35歳でした(つまり現在はもう65歳)。それまで企画開発、マーケティングの仕事しかやっていなかった私が、いきなり経営管理室長というお役をいただいたタイミングでした。

 

私のいた会社はアパレル系の製造販売会社ですが、いわゆる「ライン」の仕事、すなわち生産現場や営業現場の仕事には10数年在籍していて、一度も就いたことがありませんでした。

 

それまで入社以来籍を置いていた開発部はもちろんスタッフ部門であり、商品企画では生産部と、また宣伝販促やマーケティングについては営業部門と密接に関連はありました。

 

しかし、要するに作ったり売ったり、あるいは仕入れたりという仕事には全くノータッチであったわけです。経営管理室もスタッフ部門ではありますが、日々の生産実績や営業の生の数字に触れる仕事です。

 

また、データや情報から読み取ったことを、インフォメーションとかインテリジェンスとして、ライン部門あるいはトップに伝えるという役割があります。

 

ところが当時の私は、数字にはからきし弱かったのです。それまで直接数字に触れる仕事をやってこなかったわけですし、また経営の数字にも全く無頓着に過ごしていましたから。

 

中間管理職として社員株主でもありましたら、毎年自社の決算書はいただいていましたが、それがどういうことを語ってくれているのかなど、さっぱり分かりません。せいぜい損益計算書を見て「儲かっているのだろう」という程度でした。

 

貸借対照表など、書かれている言葉(科目)の意味さえ分からず、また深く考えたこともなかったのです。要するに全くの「経営数字オンチ」だったわけで、トンチンカンな質問を経理部長にしたことも。

 

そんな人間が経営管理という仕事を任されたのです。一番戸惑ったのは私自身で「この仕事をやれるんかいな」というのが、正直な感想でしたね。いや、きっと周囲もそうだったかも。

 

そんな最中にMG研修を受ける機会が巡ってきたのです。

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よく「出会うべくして出会う」とか、「最も良いタイミングで出会いがある」とか言いますが、それはあとから言えることであって、その時には決してそういう気持ちにはなりませんでした。

 

九分九厘「やだなぁ、面倒だなぁ」であったのですよ、正直言って。ところが最後の一厘のところで、「もしかしたらこれってすごいのかも」と感じたのです。その結果が、30年学び続けることになるのです。

 

経営管理室長としての仕事は僅か2年半でした。学びながら仕事をしたのか、仕事をしながら学んだのかという年月でした。社内におけるMGインストラクターという役割も担いました。

 

そして何と、2年半後に販売会社の現地責任者(専務)として出向することになったのです。私はもちろん、周囲も殆どが驚きの顔でした。私などはまさに青天の霹靂でした。

 

もしMGを学んでいなかったら、そもそも販社出向という人事もなかったかも知れません。人間の運命とは不可思議そのもので、この出向体験が16年余にも及び、現在の私の仕事につながっていると考えると感無量です。

 

そして結論です。学びにゴールなどない、今日が最高の吉日です。

明治維新は角度を変えて見た方がいい

歴史に学ぶということから書き始めた「VANちゃんの歴史ブログ」、古代から年代順に、どちらかというと歴代天皇に寄り添って書いてきました。

 

このままずっとそのままで進めてもいいのですが、少し書きたいこともあって、中世史・平安時代の藤原氏による摂関政治に入ったところで一時中断、一気に明治維新前後に飛んでみることにします。

 

元々脳力開発講座の「歴史講話・歴史に学ぶ人間学」では、戦国時代や中国の三国志時代と共に明治維新を取り上げることが多かったのですが、最近になって明治維新は角度を変えて見た方がいいのではと気付いたのです。

 

脳力開発では常に、両面からモノを見ること(両面思考)や、色んな角度から眺めること(多角度思考)を推奨していますから、歴史もまた例外ではありません。

 

それに歴史ほど、為政者によって一方的角度から書かれることが多いことも事実です。となれば、違った角度から眺め分析を試みることも無駄ではないと思うのです。

 

例えば戦国時代でいえば石田三成という存在、秀吉亡き後の天下を得んとして、関ヶ原の戦いで「無謀にも」徳川家康に挑み敗れ去った武将であり、傲慢で不公平な政治を行ったとされていますが、それは本当か?といったこと。

 

同様に明治維新では、古くさい体質・旧弊を引きずっていた無能な幕府を、開明的な維新の担い手たちが打ち倒して近代国家を築いたとする、教科書的味方は果たして真実なのか。

 

そういったことを、私なりの観点で見直してみようというわけです。これまでにも、このブログの中で一部触れてきたことがありますが、じっくり落ち着いて時代背景も再考しながら見つめ直します。

 

というのも、この明治維新という歴史の転換点が現代の日本あるいは日本人の、ある意味で原点になっているからです。

 

もっともその割には、学校における歴史教育においてこれほど「いい加減に」扱われている時代も少ないでしょう。というよりも、最も重要な時代であるのにも関わらず通り一遍の、それも駆け足授業で済ませているという感が否めません。

 

折りしも来年は「明治」と改元されて150年の節目を迎えます。

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私は歴史家とか歴史学者といった者でもなく、ただ単に一介の市井人に過ぎません。ただ、モノの見方について先述のように少しばかり脳力開発的に、両面思考や多角度思考を怠らないというだけに過ぎません。

 

ですから、当然のように誤った見方をすることもあるでしょうし、史料に基づいた(とされている)定説・通説を無視した記述もすることでしょう。

 

まぁそれも一つの見方かなと寛容の心でお許しをいただき、さらりと読み流していただければとお願いするところです。

 

いったい何回くらい続くのか、それも分かっていません。何しろ思いつくままに書くのですから。ただ一つ、人間にフォーカスして書くということは私自身の信念です。

 

週に1回くらいの頻度ですが、この歴史ブログに引き続きお付き合いをいただければ幸いです。

法定三帳簿などをちゃんと整備していますか?

いきなりですが、個人と対比されるのが法人です。個人に人格があるように、法人には法人格というものがあります。個人の人格がそうであるように、法人格には権利が認められていると同時に義務が課せられます。

 

法人の一つに会社があります。株式会社がその代表であるわけですが、昨今は資本金が1円から作ることができます。この法律ができた時には「1円会社」がかなりできたようですが、その後1円では信用力がなかったらしく、この頃はそうでもありません。

 

その昔は1000万円以上の資本金が必要だった株式会社ですが、業種業態によって創業に要する資本力には違いがあります。ですが、最低限やるべきことがら、どうしても守るべきことがらや義務は、資本力に関係なく平等に課せられます。

 

ところが、「小さな会社」はその必要最低限ができていない、そういう例が多く見られます。この多くは経営者の無知や怠慢に原因があり、それをフォローして然るべき専門家(税理士や社労士)の怠慢によります。

 

例えば、会社は労働関係の帳簿を最低限3つ備えておかねばなりません。この3つを法定三帳簿といい、労働者名簿、賃金台帳、そして出勤簿です。もちろんこの他に、経理の帳票類(総勘定元帳他)や就業規則(社員10人以上)なども必須です。

 

賃金台帳は、税理士さんに全面的に経理処理などを委託している会社の場合は、社内に常備していなくても税理士さんのところに書類や帳票として「ある」でしょう。だけども、経営者の手元にいつでもある、という状態が当然のはずです。

 

出退勤を記録する出勤簿は当然に会社の中になければなりません。タイムカードか、労働者本人が記入するものであればOKです。

 

さて、労働者名簿は作成していない事例も数多いようです。恥ずかしながら、かつての私の会社もあるにはあったものの、メンテナンスが殆どされていない状況でした。何を記しておかねばならないかは、最近はネットなどでも調べられます。

 

またかつては法令用紙に手書きで作成していましたが、最近はPCソフトもありますから、昔ほど面倒ではありません。ただし、データは最新のものを印刷して保管しておく必要があります。

 

いずれにしても、そういう必要義務のある台帳や書類が不備だと、いざというときに慌ててしまいます。最近は税務署だけでなく、監督署や社会保険事務所の調査や査察も以前より厳しく行われています。第一印象から「とんでもない会社」のレッテルを貼られないようにしておかねば。Photo

 

なお、法定三帳簿を適切に整備していない場合には、罰則規定(30万円以下の罰金)がありますので、くれぐれもご注意下さい。罰則うんぬんというよりも、社員を大事にしていないことの表れですから。

 

公的な助成金や補助金を申請する際にも、それらは絶対に必要不可欠です。社員のために行えば良い、助成金の申請なども少なくないのです。

 

何にしても必要最低限のことはしておかなくては、「法人格」という言葉が泣きますよ。まさに、経営者の人格が問われるというものです。「社員を大切にする」姿勢を問われかねませんね。

脳力開発は人間学であり行動科学です(196)

安土にいた信長は、まず露払いに明智光秀に出陣を命じ、自身も少ない供回りを率いて京都に入り、本能寺に宿舎をとります。跡継ぎである信忠も岐阜から京都に入ります。そして62日未明、その時がやってくるのです(本能寺の変)。

 
 なぜ光秀が謀反を起こしたのかには諸説があり、これだという決定的なものはまだありません。脳力開発的に言うと、こればかりは本人に聞くしかないとなります。推測は自由なので、私は「咄嗟の思いつき」説を支持したいと思います。Photo_3

 
 居城である亀山城(京都府亀岡市)を出た12千の明智軍は、老坂峠を越えて西国街道に向かうべきところを、京に向かい桂川を越えて洛中に突入、本能寺を水も漏らさぬ体制で包囲します。信長を守るのは近習と小姓ら2百名余、あとは女ばかりです。

 
 目覚めた信長は、傍に使える森蘭丸に光秀の謀反だと聞かされると「是非に及ばず」と答え、しばらく弓と槍で戦った後、奥の部屋に移り炎の中で自刃します。享年49才、自身が好んだといわれる謡曲「敦盛」の一節、「人生五十年」にあと僅かでした。

 
 二条城に立て籠もった長男・信忠軍も全滅してしまいます。ついでにいえば、この二条城を攻めた明智軍は本能寺を攻めた軍から、先が見えた段階でようやく送られたものです。つまり最初から二手には分けなかった、これが「咄嗟の思いつき」の根拠です。

 
 ここから光秀の「三日天下」(実際には11日間)が始まります。次々に天下人としての地固めをする手を打ちますが、その多くが実りませんでした。味方として期待した細川(幽斎)や、畿内の武将たち、とくに筒井順慶の日和見が響いたようです。

陽成天皇は本当に暴君だったのでしょうか

応天門の変(866年)から10年、27歳になられていた清和天皇は突然譲位されます。2年半後にはまた突然に出家され、その後水尾の地で苦行生活に入られます。

 

嵯峨水尾(みずのお)は、愛宕山の南麓に位置する山間の静寂の地です。東の八瀬大原と並んで、古代より出家・隠棲の地とされていました。

 

清和天皇は「水尾帝」と呼ばれたほどこの地を愛し、最期の地として意識されていたようです。現在は「柚の里」として知られていますが、これは時代を下って14世紀に花園天皇が柚を植えられたことから始まったそうです。Photo_2

 

譲位後4年、清和上皇は洛東の円覚寺で崩御されますが、遺骨は遺言によって水尾山寺に葬られ、山陵もこの地にあります。交通不便な地ではありますが、私も学生時代に一度足を伸ばしたことがあります。

 

さて、清和天皇のあとを継がれたのは第一皇子である9歳の、貞明(さだあきら)親王=57代陽成天皇でした。母は藤原高子(たかいこ)、最大権力者藤原基経の同母妹になります。

 

この高子さん、あくまで噂の域を出ませんが、入内前にはとある皇孫と恋愛関係にあったとか、それが在原業平でした。

 

また兄である基経との確執というか、どうも折り合いが良くなかったらしく、また陽成天皇の所業がよろしくないということもあって、ぎくしゃく関係が続きます。天皇自身も、青年に成長されると共に、摂政である基経との関係が悪化します。

 

ついに基経は政務を放棄し出仕しなくなります。陽成天皇に自分の娘を入内させようとしたのを、高子に拒否されたのも原因と言われています。

 

やがて大事件が勃発します。それは宮中における殺人事件で、被害者は源益(みなもとのまさる)で、陽成の乳兄弟でした。

 

直接手を下したのか否かは不明ですが、陽成天皇が何らかの関わりを持っていたことは確実らしく、基経は強く退位を迫ります。

 

結局、陽成は退位を余儀なくされ、高子もその地位から蹴落とされてしまいます。通説では陽成の暴力的な性格や言動が要因と言われていますが、要は宮廷における権力争いでしょう。

 

なお、陽成天皇の子女も臣籍降下で源姓となりますが、そういった状況もあって「陽成源氏」を名乗らず「清和源氏」を称したとも伝えられています。

さて次の天皇には、「けんか両成敗」というわけではありませんが、2代続いて幼い天皇が即位したことへの反動もあって、55歳の時康親王が58代光孝天皇として即位します。

 

時康親王は、3代前の仁明天皇の第三皇子です。これによって、皇統は少し移動してしまうことになるのです。何故なら、陽成天皇には実弟の貞保親王がおられましたが、結局皇太子には就かれませんでした。

 

これも基経と高子との兄妹対立の結果と言えましょう。

人を採用できない要因は我(会社と社長)にあり!

つい先日のニュースだが、有効求人倍率が全国平均で1.52倍になったという。どうもバブル期に匹敵するくらいの高い倍率なのだそうだ。

 

あくまで全国平均なので、都道府県別にはバラツキもあるだろうし、同じ都道府県でも地域間格差というものがある。高いところもあれば低いところもある、当たり前のことだけど。

 

この有効求人倍率とは、経営者なら殆どの方がご存じだろうけれど、有効求職者数に対する有効求人者数の割合のこと。景気と共に上下するので、景気動向を表す指数としてよく使われている。

 

ただし、数字を鵜呑みにする前に中身を考えてほしい。まず有効ナントカというのは、どちらも全国のハローワークにおけるそれらの数が基準になっている。ハローワークを通さない数字については欠落しているか、推定して加算しているかよく分からない。

 

また、今回の1.52倍にしても、それは正規労働者も非正規労働者も両方を含んだ数字であることだ。今回は、正社員の有効求人倍率も1倍を超えたらしいが、地域によっては1.0未満が少なくないのだ。

 

また、双方共に地域間格差だけでなく業種間格差もかなり大きいものがある。例えば土木や建設関連業種では、正規も非正規もかなり高い倍率だ。


 
こういった数字が報道されると、人の採用が(新規も中途も)ますます大変な状況になるなと、頭を抱えてしまう経営者も多いだろう。実際に、来春の大卒・高卒者の採用戦線では、中小企業の苦戦も伝えられている。


 
せっかく「内々定」を出しても、鳶に油揚げをさらわれるといった事態も起こっている。半数以上どころか、「内々定者」全員に袖にされたと嘆く社長にも出会った。

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確かに、中小企業の団体や地域の商工会議所が主催している就職説明会に、足を運ぶ学生の数が目に見えて減ったなんていう話も耳にする。


 
しかし、事実はどうかを確かめたわけではないけれど、こういう周辺状況が進んだことが原因ばかりではないと思う。というより断言できる。


 
内々定自体を食らった会社(の社長)には申し訳ないけれど、あなたの会社は経営環境条件が良い時にも、似たような状況になってはいなかったか?


 
人が採れない原因は景気や就職希望者の目指すものにあるのではなく、あなたの会社そのものに要点があるのではないか。


 
人が採れないことを嘆く暇があったら、自社のことをじっくり考え直してみてはどうか。むしろ、そういうチャンスを与えてもらった、いい機会になるくらいの前向きな意識を持つべきだ。


 
今からでも遅くはない、就職を希望する人たちだって、100人が100人その希望を充たされているわけではない。より良い会社はないかと、最後の最後まで動く人もいるだろう。


 
あなたの会社がその受け皿になれるのかどうか、そうなれるように動いてみることだ。新卒だけではなく、中途採用でも同じことだ。


 
採用できない要因は我(会社と社長)にあり。

脳力開発は人間学であり行動科学です(195)

朝倉攻めからの退却戦で、がぜん頭角を現したのが秀吉です。当時はまだ木下藤吉郎時代で、美濃攻め、とくに墨俣攻防戦で功があったとされているものの、まだ当時は「足軽大将」くらいの地位でしかありませんし、周囲からはま武功を認められていない頃です。

 
 退却戦で重要な役割は殿(しんがり)軍です。戦っては引き、追跡軍を待ち構えてまた戦って時間を稼ぎ、さらに退くことを繰り返す、命がけの役割です。生還率は極めて低く、実際に秀吉軍が京都に着いた時には約半数を失っていました(金ヶ崎の退き口)。

 
 しかし、これによって信長には大いに認められ、また古くからの武将たちにも一定の評価Photo を得ることに成功します。以降も秀吉は信長に従い、徐々に頭角を現していきますが、大きな転機となったのは本能寺の変、それにつながる「中国大返し」でした。

 
 信長軍は今でいう「方面軍」編成に近かったようです。北陸方面は柴田勝家、関東方面は滝川一益、丹波丹後方面は明智光秀、四国方面は丹羽長秀、そして中国方面が羽柴秀吉です。中国方面の相手は毛利軍(当主は輝元)、そしてそれを支える吉川・小早川の両川軍です。

 
 ちょっと脱線ですが、羽柴という苗字は「柴田勝家」と「丹羽長秀」の苗字からいただき組み合わせた、それだけ秀吉は先輩に気を遣ったというのが定説ですが、それは眉唾でしょう。序列からいうと柴田が上ですから、「柴羽」になるのが本来の礼儀のはずです。

 
 その話は別として、秀吉は毛利攻め最前線の備中高松城包囲戦に臨んでいました。攻めあぐねた中で、黒田官兵衛が思いついたといわれる「水攻め」により、有利な戦況でした。そこで信長の出馬を願い、最後の仕上げにとりかかるところでした。

2018年にセミナーを一緒にやりませんか

先週の長岡・米百俵MG、そして今週の神戸セミナーシリーズも無事に終了しました。今週の参加者感想文に目を通しながら、ホッとしているところです。

 

関西でのセミナー開催は、大阪出身で神戸で学生生活を送った私にとっては生まれ育った土地への恩返しでもあり、また30年前の神戸でのMG受講がその原点ですから、より感慨深いものがあります。

 

これからも体力や気力の続く限りはなどと気負いはしませんが、幸い参加して下さる方、あるいは支援して下さる方がおられるので、ますます継続する力をいただいております。

 

そういうわけで、まだ今年も1/3が残っている段階ですが、来年のセミナー開催の予定が少しずつ決まってきています。

 

長岡・米百俵MGは、MG開発者の西順一郎さんを新潟にお迎えするセミナーとして、来年も夏の同じタイミングで開催が決まっています。おかげさまで今年も、参加定員いっぱい、それも春の段階で満席の予約をいただき心から感謝です。

 

そして私自身はキャッシュフローMG(CFMG)を体験していただく機会を作ることを目指し、引き続き東京と神戸で年間4回(原則3ヶ月おき)の開催を決めました。また、その他の地域でも開催して、「毎月どこかで」を実現していきます。(写真はCFMG神戸セミナー)

 

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そしてもう一つ、脳力開発講座(3回シリーズ)ですが、今年の神戸セミナーは終了し東京セミナーも来月で完結です。

 

来年はどうしようかと迷うところもあったのですが、城野先生の提唱された脳力開発を少しでも伝えていきたいとの思いが強く、来年も継続を決心しました。

 

まずは神戸での開催、CFMGの翌日または前日というタイミングで、3ヶ月おきに3回シリーズを今年と同じ『シニア講座』と位置づけていきます。目的やテーマは今年と同じですが、内容は時間をかけて見直してお届けします。

 

東京でも、CFMGのタイミングかもしくは神戸講座とのスケジュールつながり、どちらかを決めて開催を実現します。

 

戦略とは「スケジューリングである」というのが一つのポイントでもあり、私自身もその通りだと考えています。まず決めること、決めて実現する(実行する)、これも脳力開発の重要な行動目標です。

 

もし、皆様とのご縁の中でCFMG、あるいは脳力開発講座を新たに、また継続して開催できていければ、益々幸いに思うところです。

 

やりましょう、ぜひご一緒に。

秋風が爽やかなCFMG神戸セミナー

すっかり朝晩は秋の風が吹き始めました、空気が乾いていて爽やかで佳いですね。昼間も気温は30度を超えていますが、日陰に入ると風が心地良いです。

 

神戸は海がすぐそばですし、背後に六甲の山並みが控えていて、海からの風も山を下りてくる薫風も今の季節は優しいです。

 

学生時代をこの町で過ごしたのですが、それも遠い昔の話になりました。大学を出てからは縁遠い時代が続いたのですが、MGのご縁で毎月のように、今でも1~2ヶ月に一度は訪れています。

 

今月は3日間のセミナー三昧、金曜日の脳力開発講座から始まって、この土日はキャッシュフロー・CFMGのセミナーを開講していただいています。

 

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今回の参加者は13名、地元神戸や大阪の他、遠くは福岡あるいは福井からも来られています。MGが初めての方はいらっしゃいませんが、CFMG既体験者は数名です。

 

キャッシュフローMGは、通常のMGが全て現金でのやりとり(受取・支払・決済)なのに対して、信用取引、すなわち売掛や買掛を加味しています。

 

売上は原則として売掛に振り替わり、集金(回収)をしなければいけません。売上と同時に現金をいただくことができません、少し間が空いてしまうのです。これは通常の会社でもよくあることです。

 

その代わり、仕入(材料)は一部の例外を除いて掛けで買うことができます。極論すれば、お金がなくても材料の仕入が可能です。もっとも、必ずどこかの時点(中間または期末)で決済をしなければなりません。

 

言ってみれば、リアル会社に近い状況を作り出しているわけで、資金管理という「見えない部分」のマネジメントも体験することができるのです。

 

私自身MGをやる前までは、とくにCFMGに出会うまでは、なぜ「集金を早くしなければいけないのか」とか、「在庫はどうして減らした方が佳いのか」が分かりませんでした。

 

CFMGをやっておぼろげに分かりかけていたのが、販売会社に出向して経営者として資金管理をやらざるを得なくなり、衝撃的に理解できました。

 

というより、分かっていなければ大変だ!となったわけです。何しろ資金繰りが毎月苦しい会社でしたし、売上債権や買入債務の金額がけっこう大きな会社でしたので。

 

そんなわけで、私に実際の体験も踏まえて、資金管理や資金繰りの大切さとかポイントをこの2日間で、しっかり伝えて参ります。

 

CFMGは神戸での定期開催の他、東京でも年に4回開催しています。また他の地域でも、年に1回各地で開講していただいています。この秋は、東京、伊勢、岐阜で予定しています。

 

ぜひ、企業の血液とも言えるキャッシュ、そのマネジメントを学びにお越し下さい。

その会議はMQにつながりますか

これまでにも何度か書いたテーマですが、社内会議についてです。

 

基本的に会議は、直接的にMQ(利益)を産みません。これは極めて当たり前。

 

ところが、どこの会社でもけっこう会議が多いですね。儲かっていない会社ほど多い、などとは申しませんが。

 

昨日から9月がスタートしましたが、月の初めは会議が集中するのかも知れません。先日ある方(部長クラス)の手帳を拝見しましたが、スケジュール欄にはびっしり会議予定。

 

それもやたらと長い会議が多いようです。終日とか半日とか、時間をかけると良い会議になるとでも思っているのでしょうか。

 

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私もたまにクライアントの会議に呼ばれますが、必ずタイムスケジュールを事前にいただくことにしています。中心時間だけに顔を出したいから。

 

ああそれなのに、タイムスケジュールや議題・テーマが事前に配られない会議の少なくないこと、首を傾げてしまいます。

 

いつだったか、ある会社の「下半期戦略会議」というのに参加しましたが、これは朝の9時から、昼食を挟んで終わったのは夜の19時でした。ため息が出ました。

 

戦略会議だというので期待していましたが、とにかく「戦略」の話はほとんどなし。午前中は延々と上半期の報告と反省です。

 

まぁ振り返りが悪いことだとは言いませんが、、、

 

報告などはA4ペーパー1枚にまとめていただき、できれば事前に配っておいていただきたいものです。しかも時間が守られない、1人15分以内の発言が20分30分と続くのですから、あくびも出ようというものです。

 

で、その後は、下半期は何をどうしようかという戦術の話が百花繚乱、それをいちいち詳細まで詰めようとするものですから、話は堂々めぐり。

 

多くは、そのやり方(戦術)が良いか悪いか、あるいはホントにできるかできないかの論議でしたから、そんなものに結論が出せるわけがありません。

 

私にいわせれば、良いか悪いかは「戦略」に照らし合わせてトップやリーダーが決断するだけ、これは1分でけりがつきます。

 

また、できるかできないかは「やってみなければ分からない」ので、「いい、やれ!」「やります」と宣言すれば足ります。

 

それを「会議は踊る」ではありませんが、あるいは「小田原評定」でもあるまいし、もう二度とこの種の会議には出るまいと思わせる一日でした。

 

時間の無駄、MQゼロ。

 

あなたの会社も、そんな会議をやってはいませんか。

脳力開発は人間学であり行動科学です(194)

信長の桶狭間の戦いを奇襲戦だと書いた本が、以前は主流だったようですが、事実と思われる資料・史料あるいは現場観察から言いますと、そうではないという結論になるようです。もっとも、計算され尽くした戦いとまでは言いませんが。

 
 強いて言えば遭遇戦だと思うのですが、勢いは明らかに信長の方にありました。その勢いそのままに、信長はこの戦いのあと尾張一国をまとめ上げることに成功していきます。また、桶狭間以降の信長の戦いは、徐々に相手を上回る物量戦に変わっていきます。

 
 また、情報を駆使して戦に勝ったというように書いた本もあるようですし、私もそのことをセミナーでお話ししていた時期もあります。しかし最近の研究では、どうもそういう事実はほとんど見当たらないようです。やはり事実に基づく分析は欠かせません。

 
 尾張を統一してからの信長は、じっくりと腰を据えた戦いを続けます。美濃の斎藤氏を滅ぼし併合するのには、何と7年余りを費やしていますし、朝倉、浅井を滅ぼすのにもかなりの年月をかけています。石山本願寺攻防戦も5年の長きに亘っています。Photo_2

 
 つまり短気で気ぜわしく、戦いも電撃的だという評価が信長にはつきまといますが、事実を見ると決してそうではないということになります。評価というのは一面だけを見て下すべきではない、ということですし、やはり事実をしっかり見つめることが大切です。

 
 さて信長の戦いはいくつもありますが、常に勝ち戦ではありませんでした。それどころか、桶狭間以降でも厳しい戦いがありました。その代表例は、朝倉攻めの際に浅井長政に後ろを攻められ、命からがら死地を脱して京都に逃げ帰ったことでしょう。

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