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2017年9月20日 (水)

泰平の眠りを覚ました黒船は2隻だった?

さて、ペリー来航についてです。どの歴史の教科書にも出ている事実です。

 

時は185378(嘉永663日)、浦賀沖にあらわれた「黒船」を見た日本人はこれを、『泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず』と狂歌に詠いました。

 

しかし実際には4隻のうち蒸気船は2隻で、他の2隻は帆船でした。ただ帆船とはいえども、当時の日本の船に比べるとはるかに大きなものでしたから、浦賀に来た日本人がびっくりしたのも当然です。

 

とくにペリーの乗った旗艦であるサスケハナ号、2450トンの外輪蒸気船で黒塗りでしたから、巨大な要塞のように見えたかもしれません。

 

前回も書きましたが、幕府はアメリカの艦隊がやって来ることはオランダからの情報で知っていました。また、アヘン戦争の成り行きについても知っていましたから、外国船討ち払い令は早々と撤回しています。

 

ペリー艦隊は上海から出航して琉球(王国)に寄港し、まず琉球国王に開国を要求したようですが柔らかに拒否されています。

 

その後まず黒潮に乗って小笠原に現れ、領有宣言をしたりしていますが(後に無効とされました)、再び琉球に戻った上で浦賀に向かいます。

Photo

アメリカの目的は日本の開国ですが、それは太平洋に展開していた自国捕鯨船への補給が主目的でした。捕鯨船は帆船が中心でしたが、積み込める食料等には限りがあります。

 

また蒸気船も積み込める石炭量は限られています。当時はまだ太平洋を横断する量を積めなかったと言われています。とくに捕鯨によって鯨油を獲り、それをたくさん積み込むには寄港補給する港が不可欠です。

 

それが日本に目を付けた最大の理由です。当初は通商のことはまず二の次で、石炭や食料等を補給できる港を日本に求めることが第一でした。

 

また、浦賀入港もあくまで江戸幕府にアメリカ大統領・フィルモアの親書を手渡すことが任務でしたので、この時には親書を幕府高官に手渡すと江戸湾を後にしています。

 

もっとも、大砲(空砲)をぶっ放したり、周囲の測量をしたりと、我が物顔にふるまったようではありますが。

 

さて、これに対する幕府の対応です。当初は浦賀奉行所の与力が相手をしていますが、下っ端では話にならないということで親書を渡されず、後に奉行が受け取りました。

 

この時の幕府老中筆頭が阿部正弘(備中福山阿部家)でしたが、彼は決して海外情勢に暗くはなく、盟友であった薩摩の島津斉彬とともに、開明的な考えを持っていました。

 

しかし、幕閣の理解を得る時間も必要でしたし、当時の12代将軍徳川家慶は病床にありました。そこでアメリカへの回答に1年の猶予を申し出、ペリーもこれを了承して来航から10日後の718日、浦賀を離れます。

 

ところが家慶も間もなく逝去してしまい、13代将軍に家定が就きますが、家定も病弱で重要な意思決定ができるかどうか危ぶまれていました。

 

そこで阿部老中は外様大名(雄藩)にも意見を求めることにしたわけですが、これがある意味では幕府の命を縮める結果になったのも事実です。

 

いずれにしても幕閣だけでは決められないということを露呈してしまったわけで、この黒船来航がきっかけで時代が大きく動いた。つまり明治維新が始まったと言われるゆえんです。

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