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2017年9月29日 (金)

脳力開発は人間学であり行動科学です(201)

信長の部下だった秀吉と、同盟者だった家康、各々立場が違いますので本能寺の変・清洲会議後の動きも大きく異なります。畿内周辺を固め、着々と信長後継者の地歩を固める秀吉をよそに、家康は信長が遺した東の領土、信濃・甲斐に触手を伸ばしていきます。

 
 この時点ではお互いに衝突を避けて、それぞれの動きに専念しています。それが衝突の事態になったのが、いわゆる小牧・長久手の戦いです。もっともこれは「小牧の役」が正しい表現で、長久手合戦はその中の局地的な戦いに過ぎません。

 
 この長久手合戦がピックアップされ、家康の代表的な戦とされるのは、実は江戸時代に入ってからです。要するに「家康神話」であって、大権現様を神格化するためのものだったのでしょう。現実に長久手合戦はその後の大勢には、ほとんど影響なしでした。

 
 小牧の役は、秀吉からないがしろにされた信長の息子、信雄(のぶかつ)が家康を誘って叛旗を翻したことから始まりました。この信雄、いわゆるボンボンで実力はないに等しかったのですが、大義名分はいくらかありましたので、家康がバックアップに回ったわけです。

 Photo_2
 家康は小牧山に陣をかまえ、秀吉はやや遅れて大軍をその前面に当たる楽田(がくでん)に展開します。戦いはほとんど膠着状態で、局地的な小競り合い以外はのんびりしたものでした。そこで秀吉軍に参加している池田恒興が「中入れ」を提案します。(写真は楽田城址)

 
 これは、家康が大軍で小牧山に出向いて陣しているのだから、今のうちに本拠地である岡崎を襲おうというものです。秀吉は当初反対します(実は秀吉も乗り気だったという説もあります)が、結局2万数千の別働隊が動き出し、それを追った家康軍が長久手で捕捉し、これに圧勝して恒興父子などが戦死した合戦です。

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