« 陽成天皇は本当に暴君だったのでしょうか | トップページ | 法定三帳簿などをちゃんと整備していますか? »

脳力開発は人間学であり行動科学です(196)

安土にいた信長は、まず露払いに明智光秀に出陣を命じ、自身も少ない供回りを率いて京都に入り、本能寺に宿舎をとります。跡継ぎである信忠も岐阜から京都に入ります。そして62日未明、その時がやってくるのです(本能寺の変)。

 
 なぜ光秀が謀反を起こしたのかには諸説があり、これだという決定的なものはまだありません。脳力開発的に言うと、こればかりは本人に聞くしかないとなります。推測は自由なので、私は「咄嗟の思いつき」説を支持したいと思います。Photo_3

 
 居城である亀山城(京都府亀岡市)を出た12千の明智軍は、老坂峠を越えて西国街道に向かうべきところを、京に向かい桂川を越えて洛中に突入、本能寺を水も漏らさぬ体制で包囲します。信長を守るのは近習と小姓ら2百名余、あとは女ばかりです。

 
 目覚めた信長は、傍に使える森蘭丸に光秀の謀反だと聞かされると「是非に及ばず」と答え、しばらく弓と槍で戦った後、奥の部屋に移り炎の中で自刃します。享年49才、自身が好んだといわれる謡曲「敦盛」の一節、「人生五十年」にあと僅かでした。

 
 二条城に立て籠もった長男・信忠軍も全滅してしまいます。ついでにいえば、この二条城を攻めた明智軍は本能寺を攻めた軍から、先が見えた段階でようやく送られたものです。つまり最初から二手には分けなかった、これが「咄嗟の思いつき」の根拠です。

 
 ここから光秀の「三日天下」(実際には11日間)が始まります。次々に天下人としての地固めをする手を打ちますが、その多くが実りませんでした。味方として期待した細川(幽斎)や、畿内の武将たち、とくに筒井順慶の日和見が響いたようです。

« 陽成天皇は本当に暴君だったのでしょうか | トップページ | 法定三帳簿などをちゃんと整備していますか? »

VANちゃんの脳力開発ミニ講座」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/107188/65755180

この記事へのトラックバック一覧です: 脳力開発は人間学であり行動科学です(196):

« 陽成天皇は本当に暴君だったのでしょうか | トップページ | 法定三帳簿などをちゃんと整備していますか? »