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脳力開発は人間学であり行動科学です(195)

朝倉攻めからの退却戦で、がぜん頭角を現したのが秀吉です。当時はまだ木下藤吉郎時代で、美濃攻め、とくに墨俣攻防戦で功があったとされているものの、まだ当時は「足軽大将」くらいの地位でしかありませんし、周囲からはま武功を認められていない頃です。

 
 退却戦で重要な役割は殿(しんがり)軍です。戦っては引き、追跡軍を待ち構えてまた戦って時間を稼ぎ、さらに退くことを繰り返す、命がけの役割です。生還率は極めて低く、実際に秀吉軍が京都に着いた時には約半数を失っていました(金ヶ崎の退き口)。

 
 しかし、これによって信長には大いに認められ、また古くからの武将たちにも一定の評価Photo を得ることに成功します。以降も秀吉は信長に従い、徐々に頭角を現していきますが、大きな転機となったのは本能寺の変、それにつながる「中国大返し」でした。

 
 信長軍は今でいう「方面軍」編成に近かったようです。北陸方面は柴田勝家、関東方面は滝川一益、丹波丹後方面は明智光秀、四国方面は丹羽長秀、そして中国方面が羽柴秀吉です。中国方面の相手は毛利軍(当主は輝元)、そしてそれを支える吉川・小早川の両川軍です。

 
 ちょっと脱線ですが、羽柴という苗字は「柴田勝家」と「丹羽長秀」の苗字からいただき組み合わせた、それだけ秀吉は先輩に気を遣ったというのが定説ですが、それは眉唾でしょう。序列からいうと柴田が上ですから、「柴羽」になるのが本来の礼儀のはずです。

 
 その話は別として、秀吉は毛利攻め最前線の備中高松城包囲戦に臨んでいました。攻めあぐねた中で、黒田官兵衛が思いついたといわれる「水攻め」により、有利な戦況でした。そこで信長の出馬を願い、最後の仕上げにとりかかるところでした。

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