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承和の変が起こったが死亡者はなかった

天皇史上唯一の散骨を願われ実行された淳和天皇譲位後は、正良(まさら)親王が継がれました。第54代の仁明(にんみょう)天皇です。もちろん、淳和は上皇として残られますが、この時期には嵯峨上皇もご健在でした。

 

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その嵯峨上皇の意向もあって、皇太子には淳和の嫡子である恒貞親王が就かれます。親王の母は嵯峨上皇の皇女でもありました。親王はその後も度々皇太子の地位にあることを辞退されたそうですが、上皇が許されなかったようです。


 
親王は礼節に優れ、周囲からも大変慕われた方であったようです。しかし、結局恒貞親王は皇位に就かれることはありませんでした。840年にまず淳和上皇が崩御され、その2年後に嵯峨上皇も亡くなられます。


 
その直後に起こったのが承和の変です。この事件は、平安時代における藤原氏(北家)の他氏排斥事件の最初とも言われています。その余波を食らって、恒貞親王も廃太子されてしまうのです。


 
この時期急速に台頭してきたのが、藤原冬嗣の次男であった良房です。良房は檀林皇太后(嵯峨皇后であった橘嘉智子)の信任を得て、一気に朝堂のトップに躍り出ます。


 
また、妹である順子が仁明天皇の中宮となり皇子(道康親王)を産みます。さらに、良房の正室は源潔姫(きよひめ)、実は嵯峨上皇の皇女(臣籍降下)でした。なお、天皇の娘が臣下に嫁いだのもこの良房が最初でした。


 
そんな状況でしたから、恒貞親王の取り巻きにとっては由々しき状況に映ったことは想像に難くありません。親王自身は皇太子という地位に執着もなかったでしょうが、臣下にとっては大問題です。


 
そこを檀林皇太后と良房に突かれたことが、承和の変に発展するのです。良房はこれを利用し、伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(はやなり)を逮捕します。逸勢は檀林皇太后とは従姉弟同士でした。


 
2人の企て(親王を東国へ遷す)を相談され、密告したのは阿保親王だと言われます。阿保親王は平城上皇の息子であり、伊勢物語の主人公で知られる在原業平の父です。


 
当初は首謀者二人だけを流罪にすることで決着が図られそうでしたが、良房は皇太后とともに天皇を動かし、さらに東宮臣下を捕らえると共に、ついに廃太子の詔が出されます。新しい皇太子は、言うまでもなく道康親王です。


 
これによって、(大)伴氏と橘氏、その他古き豪族たちは力を失い、相対的に藤原氏の力が一気に大きくなっていきます。


 
ただ、結果に見られるように「死刑」が廃止されていましたので、奈良時代のような残忍な結末にはなりませんでした。また恒貞親王は、この後も40年余り生きられ、病死ではありましたが寿命を全うされたのは幸いなことでした。

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