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文徳天皇から清和天皇へ

文徳天皇の第4皇子、惟仁親王は生後僅か8ヶ月で皇太子となります。異母兄3人を押しのけて(親王が押しのけたわけではありませんが)立太子できたのは、母親が権力者・藤原良房の娘だったことによるものです。

 

この女人は女御明子、「あきらけいこ」とも「めいし」とも呼ばれていますが、まれなる美貌であったと伝わります。病がちであったそうですが、72歳という当時としてはかなりのご高齢まで生きられ、6代の天皇を見、そして藤原氏全盛に至る過程をその目で確かめられました。

 

さて、文徳天皇の急な崩御により、56代天皇として惟仁親王が践祚されます。この時清和天皇は僅か9歳であり、政務全般は太政大臣であった良房が見ることになります。これを皇族以外の「摂政」の初めとみる説もあります。

 

いずれにしても幼少期に良房邸でお育ちになった清和天皇は、良房を全面的に信頼され、全てを委ねられたものと思われます。

 

なお、天皇が良房の屋敷でご生育されたのは特別のことでも何でもなく、この時代は生母の実家でその子を育てるというのが、高貴の家ではごく普通のことでした。

 

Photo_3

そして、実際に摂政という地位に昇り、藤原氏(北家)の栄華の基礎を築き上げたのは、次の藤原基経でした。基経は、良房の甥(兄・長良の子)でしたが、男子がいなかった良房の養子となります。

 

早くから文徳天皇にも気に入られていたらしく、若くして清和天皇の側近として仕えることになります。また、妹の高子(たかいこ)が清和天皇の女御となり、貞明親王(のちの陽成天皇)を産みます。(写真は清和天皇社=京都市嵯峨水尾)

 

そしてついに藤原氏が他氏を圧倒する機会が訪れました。それが866年の応天門の変です。その詳細は次回に。

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