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薄倖の淳和天皇がただ一つ貫いた意志

嵯峨天皇から譲位されたのは、異母弟に当たる大伴親王、桓武天皇の第七皇子に当たる第53代の淳和天皇でした。

 

この淳和天皇、歴代の天皇の中で唯一のことをやられました。もっとも、天皇自らやったのではなく、薨去後に行われるよう「遺言」を遺されておりました。

 

その遺言は、自分の死後に葬儀を行うことや山稜を築くことをしてはならないということでした。そして山上から散骨してほしいとのことだったのです。その願いは叶えられました。

 

この時点で異母兄である嵯峨上皇はご健在でしたが、おそらくその遺言を聞いて驚愕されたことでしょう。火葬は既に持統天皇に始まり、豪勢な葬儀を回避することはなされていましたが、散骨とは前代未聞です。

 

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嵯峨上皇は反対されたことでしょう。しかし、淳和天皇は意志を貫き通しました。その骨は、大原野の高い山から撒かれたそうです。なお、これ以降は散骨を希望された天皇も、実施された天皇もありません。(写真は後世に作られた淳和天皇塚)

 

なぜ、天皇はそのようなことを希望されたのでしょうか。強大であった嵯峨天皇(上皇)、個性の強かった平城天皇(上皇)を見ていたこと、その狭間で様々な葛藤があったのではないかと推察されます。

 

この時期、嵯峨上皇の后であった檀林皇太后(橘嘉智子)は健在、また藤原冬嗣の次男であり政権中枢を狙う藤原良房は外戚の地位を目指していました。

 

よって、淳和天皇は自分の息子を皇太子に就けることを憚り、嵯峨上皇の息子である正良親王(のちの仁明天皇)を皇太子にしました。しかも長子であられた恒世親王は若くしてなくなります。

 

きっと、儚い世を嘆かれたことでしょうし、ある意味線の細い天皇であられたのだと推察されます。そして病に倒れ、仁明天皇に後を譲った直後に薨去されました。

 

付け加えれば、天皇のもう一人のお子である恒貞親王は仁明天皇の皇太子とされますが、承和の変を契機に廃太子されてしまいました。

 

一見穏やかに見える淳和朝も、そこは政争渦巻く歴史であったことが分かります。

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