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応天門の変で消失したのは古代豪族

清和天皇の御代、平安時代もそろそろ中期に入りますが、その時に起こった最大の事件が応天門の変でした。時は866年、貞観(じょうがん)8年のことです。

 

この事件については「伴大納言絵詞」という絵巻物があり、その詳細を伝えています。これは平安末期の作ですが、源氏物語絵巻などと並ぶ四大絵巻物の一つで、もちろん国宝に指定されています。

 

この応天門は平安京にあったいくつかの門の一つですが、大内裏の内側にあり特に重要な門の一つです。当時は火事が多かったことも事実ですが、朝廷の重要儀式などが行われる直ぐ近くでもあり、しかも放火が疑われました。

 

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さっそく犯人捜しが行われたわけですが、大納言であった伴善男が「火付けの犯人は左大臣の源信(みなもとのまこと)だ」と告発したのです。

 

善男は常日頃源信とは仲が悪く、しかももし信が失脚すれば自分が昇格(右大臣)できる可能性が生まれます。告発を受けたのが右大臣の藤原良相(よしみ)、彼自身も左大臣への出世が期待できます。

 

すぐに兵が源信邸に送られ、これを包囲します。どうも清和天皇には話しもせずに、独断で決行したようです。源信一族は大混乱に陥ります、このままでは犯人にされてしまいます。少なくとも、厳しい取り調べが行われることでしょう。

 

そこに救いの手が入ります。ストップをかけたのが太政大臣の藤原良房で、救い出された源信は天皇の元に参上し、無実を訴えるのです。

 

訴えは通ります。そして、良房は逆に伴善男に疑いの目を向けます。真実がどうだったかは分かりません、今以て不明です。しかし、何しろ最大権力者の言うことですから、善男や一族、周辺の人々が逮捕され厳しい詮議を受けます。

 

その内に、(謎の)告発者=目撃者が現れるのです。おそらく当時の取り調べですから拷問もあったでしょうが、頑強に否定していた善男も、「目撃者」の出現についに自白してしまいます。

 

これで全てが決しました。善男は死罪、しかし『刑を執行しない』規定により流刑と罪一等減じられ、伊豆に流されます。一族郎党や周辺も流刑に処せられます。

 

その主な一族は伴氏はもちろん、紀氏も含まれていました。こうして古代に隆盛を誇った大伴(伴)氏は壊滅し、紀氏も力を完全に失いました。

 

しかも、左大臣良相も影響力を失い病がちになり、事件の翌年に病死してしまいます。また源信自身もえん罪をかけられたことで気力を失い(ストレス病)、出仕しなくなってしまいました。

 

つまり漁夫の利を得たのは藤原良房、そしてその子(養子)の基経でした。基経は、源信邸包囲の情報をいち早く良房に伝えたと言われます。

 

こうしてライバル(源信は嵯峨源氏の出世頭)は殆ど全てが消え、良房が最大権力を不動のモノにして、これ以降藤原氏が他を圧倒していく時代が訪れたのです。

 

なお、放火の犯人は今もって分かりません。しかし、謎の目撃者と言い、後ろで誰かが糸を引いていたことが疑われます。そうなると、最も利益を獲得した者が疑われるというのは東西古今の必至です。

 

しかし、最大権力の前には全てが闇に葬られ、沈黙してしまうのです。

責任の所在が会社をダメにする

こんなタイトルで書いたら、そっぽを向かれるかも知れませんね。これは自分の会社のことじゃないなと思ったら、読み飛ばして下さい。もしちょっぴり気に懸かるのであれば、最後までお付き合い下さい。

 

上場しているような大会社のことは考えていませんから、数人の社員がいて、そうですね、多くても50人前後までの会社でしょうか。このコラムはいつも、そのくらいの規模を意識して書いています。

 

実は私も現役時代は、自分自身を含めて社員一人一人の責任というものを、とっても重視してやっていました。営業マンには、それぞれの担当地域や店のことについて責任を全うするように指示し、担当ごとに責任を具体的に定めたりもしました。

 

役職を決めるというのも、責任範囲を明確にすることだと考えていました。ですから役職が上がるということは責任範囲が広がるということだし、人間としての広がりが前提だとも考えていました。Photo

 

間違いだとは言いません、そういうやり方もあるのだということです。その方がわかりやすくて、マネジメントもしやすいというのであればその中での最善の方法でやれば良いはずです。

 

しかし、もし今の私が10人くらいの会社を作ったら(作る気もありませが)、役職も責任の所在もなしにしたいなと思っています。

 

そんな小さな会社で役職をたくさん作っても意味がないんじゃないと思いませんか、作るならみんな『部長』という肩書にすれば良いし、名刺に印刷すれば良い。

 

あるいはそれぞれが好きな役職を名乗っても佳いし、もしそうやったとしたら、どっちが上でどっちが下だというのがややこしいかな。いずれにしても上も下もない。仕事ができるかという度合いを、役職で区分けしてもしょうがないじゃありませんか。

 

そうそう、責任は誰がとるってことですか?それはとっても簡単です、全ての責任は社長がとれば良いのです。小さな会社ならそれができます。

 

仕事上の失敗があっても、もちろん本人は自分の能力の範囲内で責任をとり、最終の席にはいつでも社長がとる。そうやっておれば、新たな挑戦にためらうこともないはず。

 

私の知るある会社(の社長)は、これを実践されています。そうしたら、いつのまにか社員たちが仲間の責任を全員で引き受けるような企業風土になっていたそうです。お互いがお互いのことが分かっている、小さな会社だからできることです。

 

小さな会社が、大会社のまねをする必要はないじゃないですか。組織も業務職掌も責任の所在も、もちろん役職とか肩書きも。

 

責任の所在などといって、社員いじめをする必要もなくなります。むしろ、責任追及などということが社員を、会社をダメにしてはいませんか。今一度いいますが、責任は社長たるあなた(つまり会社)が、ぜ~んぶ引き受けたら良いじゃありませんか。

 

小さな貴社だからできる素敵なことだと思うのですが、いかが。

脳力開発は人間学であり行動科学です(193)

現地に行ってみると色々なことが分かります。これは、脳力開発の提唱者である城野宏先生も、情勢判断学会というグループの行事として、各地に出向かれていました。もちろん、桶狭間にも実際に行かれて確かめられたことは、言うまでもありません。

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 同様に、当時の信長が居城としていた清洲に行きますと、なぜ信長が10倍の大軍を前にして、自ら果敢に攻め込んでいったかという理由も分かります。現在の清洲城(モニュメント)は、かつての位置とは違いますが、それでも平野のど真ん中だと分かります。

 
 小説や軍記物では、重臣たちが籠城を主張したとありますが、「信長公記」にはその記述はありません。もっとも、平地の孤城を10倍の大軍で取り囲まれたら、よほどの援軍が来ない限り3日と保たないでしょう。そのことを知らない重臣ではなかったはずで、もちろん信長もです。

 
 さて今川軍は
3万の大軍と書きましたが、すでに大高城に松平元康(後の家康)軍が、鳴海城に岡部元信軍がそれぞれ23千人で進出し、信長方の前線砦のいくつかにも1千人単位の攻城軍が囲んでいました。そうすると本軍は2万そこそこだったと思われます。

 
 しかも今川軍は遠方(駿府)よりやってきていますから、本軍の
4割くらいは輜重兵(小荷駄隊)で実戦は戦いません。つまり本軍の実数は1万人余ではなかったかと計算されます。しかも、細い街道筋を行軍していますから、長く伸びていたことでしょう。

 
 これに対し信長軍は
3千人に満たなくても全てが戦闘員であり、これが長く伸びた敵軍の本陣目がけて一気に攻め込んだわけです。もしそれを、信長が計算していたとすれば、見事な合理性・科学性だったといえるのではないでしょうか。

ただただ心から感謝を申し上げます。

2日間の長岡・米百俵MGセミナーが終わりました。

 

終わるとホッと力が抜けるものですが、今日はまだ余韻が体の中に鮮明に残っています。ただただ、お越しいただいた皆さんに感謝です。

 

何がすごかったのか、それはその場にいた方だけの特権ですね。一言では言えません、ホントに感謝感激、雨あられです。偽らざる心持ちです。

 

西研MGに出会って、もうすぐ(9月で)丸30年になります。正直言って、最初のMGはいわゆる「業務命令」での参加で、初日には「もう二度とやりたくないな」と思ったほどでした。

 

でも、その時に初めての私を支えてくれた方がいらっしゃいました。特に、初日の夜研修宿泊施設で同室だった方、そしてインストのFさんに感謝です。お二人がいなければ、今の私はなかったでしょう。

 

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今回のMGセミナーにも、色んな方が駆けつけて下さいました。毎年のように来て下さる方のいらっしゃいますが、初めて長岡の地に来ていただきました方も。

 

その多くの方が、「長岡のMGに出たかったので」とか「板東さんに会いたかったので」とおっしゃって下さり、嬉しし思いを通り越しています。

 

「一緒にゲームができて佳かった」と言って下さる方、「交流会が楽しかった」。そして「来年も来ますよ」、、、もう涙ですね。(写真は今回「最優秀経営者賞」の川口寛さんです)

 

やり続けてきて良かったと思います。そして毎年この地に講師として来て下さる、西順一郎先生(MGの開発者)にも最大の感謝です。

 

思い起こせば、最初の西先生との出会いはMGに出会った翌年、1988年の1月兵庫県姫路市で開催されたMGセミナーでした。強烈な印象でした、色んな意味で。

 

その時に私は36歳、今から思えば一番佳い時に「会うべくして出会った」のでしょうね。

 

来年も同じこのタイミング(8月25-26日)に、長岡・米百俵MGを開催します。また各地からお訪ね下さるのを楽しみにしています。

 

地元からの参加は少なかったのですが、長岡ジモティである小熊さん、加瀬さんの「おもてなし」の心にも感謝です。お二人とも私より年齢は上ですが、こんな未熟な私を師として下さって、ずっとMG(やマイツール)を続けて下さっています。

 

そしてまた今日がスタートです、来年の開催に向けて。会場さんにも「来年よろしく」とお願いし、ご快諾をいただきました。とってもやりやすい施設なんです。

 

多くの人に支えていただいた2日間半、ありがとうございます。感謝そして感謝。

第1回米百俵MG

昨日のブログにも書きましたように、この土日は長岡・米百俵MGセミナーです。私が主催・共催している中で年間最大のイベントです。

 

というわけで、本日のブログはお休みです。2日目の今日も夕方まで充実した心で学び、大いに交流して参ります。

 

写真は昨夜の交流会の様子。全員がこちらにも参加して下さいました、それだけでも感謝です。用意していた地元の銘酒もすっかりなくなりました。

 

全員発表の「今日は一日」、サイコーでした。

 

今日もよろしく。20170826_192053

それはワンデーMGから始まった

今年も、昨日25日からセミナー「長岡シリーズ」がスタートしました。昨日終わったのがOA大会(主催はMUGゆきぐに)、昨夜の前夜祭を挟んで26・27日が米百俵MGです。

 

長岡でのMGセミナー、その最初は1991年夏の「長岡MG」ですが、その1年前に私の会社(当時)の社員対象にワンデーMGを開催しました。私と社員さんだけでは心許ないので、新潟県内のMG仲間に声をかけたところ、3人の方が参加してくれました。

 

その年はワンデーMGをあと1回開催、次年度はぜひツーデーでやろうと心に決め、やるのであれば開発者である西順一郎さんを講師に呼びたい。

 

本当なら、社員さんたちを順番に東京他各地のMGセミナーに派遣したかったのですが、会社は赤字企業からの再建をキックオフしたところで、業績回復は見えてきていたものの、キャッシュフローはギリギリで派遣費用の捻出は限られた範囲でした。

 

それなら自分たちでMGセミナーを主催し、県内外の仲間に来ていただこう、来ていただいた方々との交流を通じて社員さんが学んでほしい。言ってみれば苦肉の策でしたが、おかげさまでたくさんの仲間が応援してくれました。

 

以来今年で27年目、ワンデーから数えて33回目のMGセミナーです。その間には前年に中越地震に見舞われた復興途上の夏もあり、また中越沖地震ではその年開催地に選んでいた柏崎が被災、それでも柏崎の仲間が途切れず開催支援してくれました。

 

今年は名称を「米百俵MG」と改めました。明治維新の長岡での、「米百俵」の逸話にあやかったのは言うまでもありません。

 

昨年住み慣れた長岡から新潟に転居し、開催地を新潟にしようかどうしようか迷った時に、皆さんから「ぜひ長岡で続けてよ」と励まされ、それなら心も一新して取り組んでいこうと思ったわけです。

 

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今日からのMGセミナーには、県内外から40名を超える仲間(MGシーガルたち)が長岡の地にやってきてくれます。遠くは九州の玄界灘に面した街からも、北は秋田県からも。郵便番号でないのは700番台(中四国)だけです。

 

まずは昨日午後からのOA大会を、少人数でしたが無事に終えることができました。。このイベントも、かつて私の会社の社内大会に仲間が駆けつけてくれたことがルーツです。(写真は昨日のOA大会です)

 

OA大会もMGセミナーも、準備や運営はこちらでやりますが、いざ始まれば、来て下さった皆さんが主役のイベント・セミナーです。私も一人の生徒として参加させていただきます。

 

この三日間が、おいで下さった皆さんにとって佳い学びと交流、そして素晴らしい思い出の時間になりますことを祈ってやみません。

 

そして、長岡の地に足を運んで下さる皆さん、ホントにありがとうございます。感謝。

脳力開発は人間学であり行動科学です(192)

織田信長と聞くと、まず思い浮かべるのは「桶狭間の戦い」でしょうか。三河・尾張国境に攻め上がってきた、約3万の今川義元率いる駿遠三軍を、1/10の兵力で打ち破ったと言われる戦いです。

 
 生前の城野先生も、セミナー・講演でこの戦いを語られることが多かったようです。大河ドラマを始め、多くのテレビドラマでも桶狭間のシーンは何度も取り上げられています。その多くは、織田軍は折からの雨に紛れて迂回路を進軍し、行軍を休んで谷間にくつろいでいる今川軍を、坂落としのように攻め込んで打ち破ったというもの。
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 これはかつて日本陸軍が編纂した合戦分析資料に書かれていたのですが、事実はどうだったでしょう。脳力開発(情勢判断学)では、常に事実を見つめて判断することを求めます。そこで、私もかつて桶狭間の地に実際に足を運んでこの目で確かめてみました。

 
 桶狭間(あるいは田楽狭間)と聞くと、険しい谷間の地形を連想しますが、実際に行ってみるとそこはなだらかな丘陵地(現在は住宅地)です。しかも今川軍はその低地にではなく、丘陵の上方斜面に本陣を構えていたようです。つまり坂落としはありえません。

 
 つまり、信長軍は丘陵地の下の方から攻め上がってきたということになります。しかも、桶狭間まで隠れて迂回してきたのではなく、当時の主要道(鎌倉街道)をほぼ真っ直ぐに行軍してきたようです。その行軍はきっと今川軍からも見えていたはずです。

 
 梅雨時で雨が降ってはいましたが、行軍を隠すほどの大雨(ゲリラ雨)とは思えません。第一そんなに降っていたのでは、街道はぬかるみか、あるいは川になってしまうでしょう。これらのことは信長の側近だった太田牛一による、「信長公記」にちゃんと書かれています。

文徳天皇から清和天皇へ

文徳天皇の第4皇子、惟仁親王は生後僅か8ヶ月で皇太子となります。異母兄3人を押しのけて(親王が押しのけたわけではありませんが)立太子できたのは、母親が権力者・藤原良房の娘だったことによるものです。

 

この女人は女御明子、「あきらけいこ」とも「めいし」とも呼ばれていますが、まれなる美貌であったと伝わります。病がちであったそうですが、72歳という当時としてはかなりのご高齢まで生きられ、6代の天皇を見、そして藤原氏全盛に至る過程をその目で確かめられました。

 

さて、文徳天皇の急な崩御により、56代天皇として惟仁親王が践祚されます。この時清和天皇は僅か9歳であり、政務全般は太政大臣であった良房が見ることになります。これを皇族以外の「摂政」の初めとみる説もあります。

 

いずれにしても幼少期に良房邸でお育ちになった清和天皇は、良房を全面的に信頼され、全てを委ねられたものと思われます。

 

なお、天皇が良房の屋敷でご生育されたのは特別のことでも何でもなく、この時代は生母の実家でその子を育てるというのが、高貴の家ではごく普通のことでした。

 

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そして、実際に摂政という地位に昇り、藤原氏(北家)の栄華の基礎を築き上げたのは、次の藤原基経でした。基経は、良房の甥(兄・長良の子)でしたが、男子がいなかった良房の養子となります。

 

早くから文徳天皇にも気に入られていたらしく、若くして清和天皇の側近として仕えることになります。また、妹の高子(たかいこ)が清和天皇の女御となり、貞明親王(のちの陽成天皇)を産みます。(写真は清和天皇社=京都市嵯峨水尾)

 

そしてついに藤原氏が他氏を圧倒する機会が訪れました。それが866年の応天門の変です。その詳細は次回に。

続・全部原価があなたの会社をダメにする

「全部原価があなたの会社をダメにする」のタイトルで、6回ブログを更新しました。

 

そんな中で、MGセミナーに参加されていた方(製造業の方)から、いくつかのご質問をいただきました。おそらくその方は、これまで原価計算に2種類あるということをご存じなかったのだろうと推察しています。

 

会社の中で原価計算の担当者が、あるいは経理の担当の方が、「いつもの」PCソフトを使ってはじき出した答を、ごく自然に疑いもなく使われていたのでしょう。

 

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また幸いに、これまではそのことが問題になることはなかったのでしょうし、ということは会社も黒字を続けておられるのかなと思ったのです。

 

おそらく、仕事の中では「標準原価」とか「平均原価」といった数字を使われていて、特に支障を感じることもなかったというわけです。

 

たいていの製造業種の方は、そういうことだと思います。何しろ法律通り、規則通りにやっているわけですから、そのことに対して文句を言われる筋合いもありません。

 

しかし、全部原価が意味づけを変えると「税務署用(の数字)」と呼ばれ、一方直接原価の方は「経営者用(の数字)」と対比されると、それはどういうことだと言いたくなるはずです。

 

何度も申しますように、法律上も規則上も、はてまた実務の事務処理上でも、何の問題が生じるわけではありません。

 

しかし、しかしです。

 

その数字は「真実を表していない」のだとしたらどうでしょうか。また、だからこそ判断を、意思決定を誤るかも知れないとしたらどうでしょうか。

 

何しろ、全部原価で計算された「原価(コスト・変動単価)」は、全く科学的とはいえないものなのですから。同じものを、100作った日と、200作った日とではコストが違うのですから。いや、同じ日であっても100作ったラインと、200作ったラインとでは違うのですから。

 

それは「おかしいことだ」という疑問を感じないことの方が、おかしいと思われませんか?

 

製造メーカーにいて、そこから系列の販売会社に移った私自身が、現実の仕事の中で「それはおかしいだろう」と何度も叫んだ問題です。

 

早く気付いて下さい、おかしな現実に。全部原価計算を使うことはやむを得ません、法律であり制度・規則であるのですから。

 

経営者であるなら、それとは別に直接原価計算で経営を、あるいは現場を見直してみて下さいと申し上げているのです。

 

疑問が解決できない方は、どうぞいつでも私のMGセミナーにお越し下さい。そこで、自分の体で2つの違いを体験してみて下さい。

 

全部原価で、あなたの会社をダメにしない前に。

脳力開発は人間学であり行動科学です(191)

歴史上の人物を取り上げる講話を、私は「歴史に学ぶ人間学」と名付けています。それは、英傑たちも私たちと同じ人間で、同じ脳力をもっていたからであり、彼らがその時の環境条件に対応してどう動いたかが、とっても参考になるからです。

 
 確かに彼らの時代にはコンピュータやネットはありませんでしたが、それに代わるもので情報を手に入れていたでしょうし、相手に対する仕掛け、例えば謀略などは今の時代にも通じるところがあるかも知れません。

 
 そんなわけで、彼らがその時どう考え動いたかを学ぶと、類似条件の中で私たちはどう行動するかという示唆が得られます。ではこれから、少しのページを借りて何人かの英傑について述べていくことにしましょう。ケーススタディとしてお読み下さい。

 
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歴史に学ぶ人間学」では、前に書きましたように著名な英傑を取り上げます。それは『大多数の方(セミナー参加者)が知っている』からです。無名でも素晴らしい方はたくさんいらっしゃいますが、やはり身近に感じていただきたいから。

 
 さて、戦国時代の三英傑は最も頻繁に取り上げますが、参加者によって好き嫌いもあるようです。職業で違いはありますが、若い人や女性には信長が大人気、まんべんなく人気があるのは秀吉、そして経営者層には家康が評価される傾向があります。

 
 そこでまず信長です。信長というとかなり評価が分かれて、英雄あるいは先駆者視されることもあれば、暴君で血も涙もない激しい性格だと見ている人も少なくありません。49年の短い生涯を、一気に駆け抜けたという印象が強いようです。
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週末はOA大会から米百俵MGです

日射しが強くて、久々に夏を感じる日中になりました。幸い新潟地方は、地域的に雨が集中したところがあったものの、全般的にはまずまずの天候で、稲の生育も今のところ順調そうです。

 

花が終わり稲穂が少し色づき、早いところでは今月末から、来月半ば過ぎまで収穫の季節を迎えます。美味しい新米が食べられるのはあと1ヶ月ちょっと先でしょうか。

 

週末遠征から戻って、今日は「20日締め」の仕事を早起きして済ませていました。近くの郵便局から請求書等を発送し、遠征費用などの処理も完了、少し遅めのブログを書き始めています。

 

気が付いたらもう8月も下旬、子供たちの夏休みも残りが少なくなりました。そろそろ宿題をどう片付けていくか、親子で頭を悩ませている家庭もあることでしょう。

 

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私も子供時代、宿題帳や夏休みドリルなどは割合早めに片付けたものの、絵や工作、自由研究まとめなどは後回しになり、始業式前日まで悪戦苦闘していましたね。

 

毎日の天気なども、今であればインターネットで遡って調べられますが、私たちの頃は新聞が特集してくれる「夏休み天気」などを見て、書き写していたものです。(写真は夏休みのイメージです)

 

そういえば、甲子園も明日が準決勝で、雨にたたられなければ明後日には優勝が決まります。4強に残ったのは、予想通り私立の野球名門高校ばかりですが、ここまでは延長の熱戦あり、思わぬ幕切れドラマありで、やはり甲子園です。

 

そうなるとプロ野球の方は、元々贔屓球団もこれと言ってありませんので、一体今どこが首位なのかもよく分からぬまま過ぎていきます。家では新聞もとっていないので、遠征時のホテルで見た新聞で、広島とソフトバンクが首位なのを知った次第です。

 

こうして今年の夏も過ぎていきますが、いよいよ今週末はヴァンガード経営研究所主催イベントで最大の「長岡・米百俵MG」です。前日午後のOA大会(MUGゆきぐに主催)から、全国のMGシーガルたちが長岡の地に集結です。

 

初めてこの地を訪れる方もいますし、毎年常連のようにお越しいただける方もいらっしゃいます。それぞれも皆さんに、佳い学びと思い出に残る交流をしていただくため、今年も氣愛を入れて参ります。

新たなご縁で開催実現したMGセミナー

昨日と今日、埼玉県の草加市でMGセミナーを共同開催しました。たまサポの柴橋さんが、埼玉県中小企業家同友会のメンバーややTOCを学ぶ仲間に呼びかけ、今回の開催が実現しました。

 

会場の制約で2卓10名の参加でしたが、初めてMGを体験する方も6名いらっしゃいました。開始時間の制約もありましたが、初日は無事に予定のプログラムを終えました。

 

このブログでも何度か触れましたが、MG初体験の方が1人でもおられると、インストラクターとして佳い学びをさせてもらえるとワクワクします。20170819_160339


 
同時に、自分が初めてのMGに参加した時どうだったかという、原点に返る思いを感じることもできます。早いもので来月には学びを始めて丸30年になりますが、その基点が1987年の9月19日です。


 
その時点では、現在の私につながる多くのことを予測することもできませんでしたが、あの日がなければここに私はいない、ということだけは確かです。


 
一つは人とのご縁、ネットワークです。あの日からスタートした、それまでにはなかった新たなネットワークが、今の私を支えてくれています。


 
今回のMG共同開催も、柴橋さんとの出会いがなければ実現していません。実は共同開催も4回目なのですが、これまでにはなかった(埼玉)同友会というネットワークがつながりました。


 
脳力開発の城野先生から教えられた、「仕事とは人とのつながり(ネットワーク)を築いていくこと」ということを、実感しています。


 
もう次の開催予定も決まっています。そこにまた、新しいご縁がつながっていくことを願いながら、今日2日目も氣愛を込めていきましょう。

イーストアイとラッキーな出会い

夏休み・お盆休み、色んなところへ出かけた方も多いことでしょう。海外旅行を含めて、旅行に消費するお金も増加しているらしく、GDPを押し上げてくれることにも期待です。

 

今年は「山の日」から始まってお盆休みを長くとる企業も多く、さらにお出かけも増えたようで、高速道路の渋滞も半端ではなく、渋滞に引っかかって大変な思いをされた方もいらっしゃいますね。

 

鉄道も新幹線を含めてかなりの混みようでしたが、在来線の方も幹線系はもちろん、ローカル線もそこそこに混雑していたようです。

 

その一つの原因は「青春18切符」の存在で、老いも若きも18切符を握りしめて各駅停車の旅を愉しむ傾向が強まっています。

 

鈍行旅の大好きな私も、いつもの年なら18切符の旅を愉しむ時間を作るところですが、今年の夏は遠征のスケジュールがかみ合わず、ついに使わないままに終わりそうです。

 

それでも、今回の遠征では久々に東武鉄道を利用するチャンスに恵まれました。そして目的地は草加駅、何と学生時代から数えて45年ぶりに下車しました。もちろんその当時は、今のような高架駅ではなく地上駅。

 

駅周辺も大きく変わりましたね、45年前は草加駅をさらに北上すると田んぼや未開発の土地が続き、新越谷駅や武蔵野線の南越谷駅は建設工事中だったのでは。今や住宅がずっと続き、変われば変わるものです。

 

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そんな懐かしの思いだけではなく、上越新幹線では珍しい車両にも出会いました。イーストアイ、東海道新幹線のドクターイエローと同じ検測車両(新幹線電気・軌道総合試験車)です。正式名称はE926形。

 

何しろ1編成しかありませんし、上越新幹線はもちろん、東北・北海道、北陸の他秋田・山形新幹線も担当ですから、出会えるのはラッキーです。

 

そんなわけで、昨日は佳い日だったなと思った次第です。では今日のセミナー、氣愛を入れてがんばってきますか。

脳力開発は人間学であり行動科学です(190)

 20156月より、東京と神戸で『未来に舵切る脳力開発講座』を開講し、それぞれの会場で10数名の方に脳力開発の基礎を学んでいただきました。実はそこで使った教材は、今から30年余前に開催されていた脳力開発講座でも使われていたものです。

 
 それから時代は流れ、世の中の状況も大きく変わってきています。しかし人間本来の思考や行動は、環境条件への対応を除けば変化がないとも言えます。なぜなら、脳力そのものには東西古今変わりがないからです。
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 人間の大脳(皮質)細胞は150億個、脳細胞同士がつながって微電流が流れる速さは秒速50m。この事実はホモサピエンス誕生の時から、不変なのですから。たかだか30年ではもちろん、本質的なものは変わらないから、新鮮な気持ちで学びに向かえるのです。

 
 
さて、脳力開発の講座ではケーススタディを使った演習や、歴史に学ぶ人間学という講話を通じて、実際行動から学んでいただくプログラムもあります。後者で取り上げるのは歴史の中の英傑と呼ばれる人たちですが、天性の脳力は私たちと同じです。

 
 現代の私たちと違うのは、彼らの生きた時代の環境条件だけです。その条件も、もしかしたら私たちが出会うかも知れない条件と似通っているかも知れません。その時自分だったらどう動くか、歴史にイフはありませんが、自分にイフは必要でしょう。

 
 私が講座で取り上げる英傑は、時代が大きく変わる、いわゆる変革期に活動した人物を多く取り上げます。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛、坂本龍馬、あるいは河井継之助、時には諸葛孔明や劉邦など中国の英傑も取り上げています。

文徳天皇もまた悲劇の主だったのか

今上明仁天皇の退位問題が話題になった頃、では摂政をおいてはどうかという意見も一部にはありました。現行皇室典範にも規定が明示されていますが、天皇陛下が希望されていないことで、いつしか話は消えたようです。

 

我が国最初の摂政は、推古天皇御代の厩戸皇子(聖徳太子)だと教科書にも書かれていますが、当時の法律(律令の前身)には摂政の規定はなく、正式な役職ではなかったと思われます。

 

もちろん、厩戸皇子が推古天皇を摂政(天皇に代わって政務を執る)されたことは事実かと思われます。またその後も中大兄皇子や草壁皇子が、摂政たる地位におられたと推定されます。但しその後も令の規定に定められてはいなかったようです。

 

さて、平安の世も進み850年、仁明天皇の譲位により道康親王が即位されます。第55代の文徳天皇です。23歳での即位、母は藤原冬嗣の娘であり藤原良房の妹に当たる順子でした。

 

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即位に先立って第四皇子、惟仁親王が誕生(母は良房の娘明子)し、即位後時を経ずして立太子しました。天皇は第一皇子の惟喬親王を愛され皇太子に望まれていましたが、良房の強い意思を押しのける力はありませんでした。

 

また、天皇は病弱でもありましたので、太政大臣であった良房が朝堂を支配し、実質的に摂政の役割を果たしていたようです。

 

史料の一部には、これをもって良房が「摂政に任命された」とありますが、まだ令の規定に摂政(あるいは関白)の職名はなく、実際に摂政に任じられたのは次代の藤原基経であったと見られます。

 

いずれにしても、実際権力を振るったのは良房であり、文徳天皇は自分の意思を通すこともままならず、悶々とした日々を過ごされたのではないでしょうか。「天皇は政務を見ない」傾向は、この時から強まったとも言われます。

 

そして文徳天皇は最後の意思である譲位を試みますが、良房の圧力はこれを許さず、急な病に崩御されてしまいます(暗殺説もあります)。

 

史上諡に「徳」のついた天皇には、何かしら悲劇の陰があるという方もおられるようですが、もしかしたら文徳天皇もその例にもれなかったのかも知れません。

そのプロジェクトはきっと失敗します

昨日くらいでお盆休みも終わり、今日から平常通りの営業再開という会社も多いでしょう。社員の皆さんは大いにリフレッシュした顔で、出社されましたか?

 

経営者であるあなたも心身共にオーバーホールができて、新たな気持ちでスタートダッシュをきれておられるといいのですが。

 

1週間近い休みの中で、普段できない家族サービスやら自分だけの時間を過ごしたり、あるいは明日に向けてのアイディアづくりなど、充実することができておられましたら幸いです。

 

さて、今日は「プロジェクトチーム(PT)」のお話をしてみたいと思います。私自身も現役時代は多くのPTに関わる体験を持ちましたし、経営者としてもPTを主導したり、またコンサルタントとしてアドバイザーをさせていただくこともあります。

 

そんな中で、特に最近は「このPTはうまくいくかいかないか」が、初顔合わせの時にほぼ100%分かるようになりました。現役時代にもおぼろげに感じていたのですが、その時には自分もメンバーだったりしましたから。

 

もう数年前のことですが、とあるクライアントのPT会議にオブザーバー参加しました。たまたまその会社の専務とセミナー仲間で、PT立ち上げの場にお誘いを受けたのです。

 

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専務のお兄様が社長で、まだ40代の後半、お二人の父上である会長から2年前に事業継承したという話でした。社員は全部で100名くらい、営業部門が中心で他は仕入、物流、総務経理、そして開発の部門と分かれていました。

 

そのプロジェクトは全社のコンピュータ管理システムを、1年かけて全面見直しするというもので、ほとんどの部門が必ず何らかの関わりをもつものでした。

 

PTメンバーは各部門から1~2名、そこにPTリーダーの総務経理部長とサブリーダーの営業本部次長が加わって、全部で10数名でしたが、当日は各部門長も加わっていました。

 

私は友人である専務に、お願いとある一つの提案をしていました。お願いはメンバーの簡単なプロフィルをいただくこと、そして提案はメンバーに「どこの誰、なぜ来たか」のスピーチをやっていただくことでした。

「どこの誰、なぜ来たか」のスピーチはMGを体験している方にはおなじみですが、要は自己紹介というプレゼンと、PTに参加するただ今の気持ちを述べてもらうものです。

 

スピーチ自体は一人せいぜい1~2分程度、社長のPT目的の発表に続いて、全員に発表していただきました。その終わり頃に、私は隣の専務にメモを渡しました。そこには「このPTは失敗します」と書いていました。

 

専務は怪訝な表情で私に視線を向けられたようですが、私は無視していました。その間にも議題は次に移り、最後に社長から激励のメッセージがあり、初回が終わりました。

 

終了後にすぐ専務から声がかかり、社長と3人が会議場に残りました。専務から「なぜですか」と口火が切られ、メモを見た社長の顔色が少し変わったようにも見えました。

 

理由は簡単です、と私は申し上げました。要約すればメンバーに問題があるということです。第一に、初回会議に遅れてきたメンバーと部門長が数名いたこと、これなどは言語道断のことです。

 

第二に、各メンバーのスピーチをプロフィルと見比べながら聞いていて、各部門の中心(主軸)メンバーが殆どいないことが分かったのです。もちろん、PT業務に専従しようというメンバーは皆無でした。

 

もっとも、専従云々はメンバーの選択を部門長に依頼する際には、伝えていないようでしたし、社長やPTリーダー自身にもそこまでの考えはなかったようでした。

 

しかし、このPTは会社の将来を左右するくらい重要なプロジェクトです。腰掛けや自分の仕事の合間にといった意識では、いけないのではないかと申し上げました。私がもし社長だったら、即座に全メンバーの入れ替えを命じたでしょう。

 

その後のPT会議には参加しませんでしたので、詳しいことは専務の話からでしか聞こえてきませんでしたが、PTは1年の期限を大幅にオーバーし、しかもどちらかといえばシステム業者の主導で話が進んだとのことでした。

 

私が「T経営のコンサル」だったら社長も真剣に聞いたでしょうね、と専務に少し嫌みを込めて言いましたら、かれは苦笑いをして「あとはうまく運用しますよ」と応えていました。

 

あえて、皆さんにも申し上げます。PT成功のカギはメンバーにあります。少なくとも最精鋭のメンバーで構成をして下さい、しかもできれば専従に近い形で。専従できないまでも、PT最優先で動けるようにしていただけますか。

 

大企業では、「PT出向」という形をとるところもありますね。小さな会社では無理だと言われますか? そんなことではいつまでもオンリーワンにはなれませんよ。

脳力開発は人間学であり行動科学です(189)

「人に情報あり」という言葉があります。情報は人に従属しているもので、確かに書籍や映像やあるいはネットデータなどで広がっていきますが、本来それらも誰か人から発信されたものに他なりません。ですから人を知ることが情報を知ることになります。

 
 何を知っているかよりも、誰を知っているかの方が価値がある、とも言っています。自分一人が知りうる知識、とくに体験知識には限界があります。多くの不足分は、人を通して得ることのできる情報よって補っていくのです。

 
 つまり、情報のネットワークとは人のネットワークなのです。ということは、仕事の本質は人とのつながりをつくることにあります。人のいるところへどんどんと足を運び、新たな人との関係を増やしていくことこそ、創造的発展への第一歩と言えます。

 
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の指針について改めて書いてきましたが、いずれも言葉を理解して「分かった」というだけでなく、実生活や仕事の中で実際行動をしていただきたいのです。行動を繰り返すことによって、体にしみこませていき、土台習慣にしていくのです。

 
 人間は普段は殆ど無意識の内に行動しています。顔を洗ったり、歯を磨いたりする時に、いちいち次にはこうしようとかは思わずにやるでしょう。しかし、例えば普段と違い冷水にしみる歯があれば、どうしたのかと意識して磨きを強めたりするでしょう。

 
 無意識が98%と言われる中ですが、どうしてもやりたいことや、やらなければならないと考えていることについては、強い意識を持って向かっていくのではないでしょうか。大事なことは必要に応じてしっかり繰り返す、意識を切らないことなのです。

「日本ファースト」には違和感いっぱい

お盆休みはいかがお過ごしでしょうか。今年は暦の並びがよくて、「山の日」の11日から休みに入られた方も多いことでしょう。

 

お盆と言えばお墓参り、遠方に住んでいますと年に1回の墓参というケースもありますね。私も実父母のお墓は大阪の郊外にありますので、関西方面へのセミナー遠征時に時間を見つけて出かけます。

 

そんなわけで年に数回の墓参ですが、近くには弟たちも住んでいるので時々墓掃除もしてくれています。でも最近は、放置されているお墓も増えてきているとか。

 

正直言いますと、私のところでもこの先いつまで現在のお墓を維持していけるかどうか、おぼつかないところです。私や弟が健在のうちはいいとして、その後ということになりますと墓を守っていくことも大変なことだと感じます。

 

そこでいくつかの方法を考えているのですが、自分たちが今のように動けなくなるまでに手を打つというのも、法律のことなどを含めなかなか面倒です。

 

いずれにしても、これからの日本はいうまでもなく高齢化社会です。団塊の世代が60代の後半から70代に突入、団塊ジュニアたちも確実に年齢を重ねていくわけで、20年先には彼らの多くも高齢者の仲間入りです。

 

そんな時代が来ることは分かりきった「確定的可能性」であり、脳力開発的にいえば、すでにそれに対する戦略・戦術ができていなければなりません。

 

しかし、どうみても戦略・戦術が着実に実を上げてきているとは、とても思えません。口先だけの議論が繰り返されているだけで、あるいは目先に場当たり的政策が細切れに実施されているだけに思えます。

 

政権政党は自民党、しかしながら果たして期待に応えてくれるでしょうか。どうも心許ないというか、ハッキリ言ってできそうもありません。

 

実際に動くのは官僚と言われる人たちですが、それをマネジメントしコントロールすべき役割があるはずなのに、それができそうには見えません。Photo

 

では自民党に変わるポジションを担える政党があるかといえば、これまた絶望的です。民進党の前身たる民主党は、その力のないことを見事に証明してしまいました。民進党はなおさら頼りにならないでしょう。

 

その他の政党も、これといって任せていい条件を満たしてはいません。そこで新党という選択肢が出てくるわけで、東京都では小池新党・都民ファーストの会がその役割を担い始めています。

 

その延長(でもないのでしょうけど)で、「日本ファースト」を構築していこうという動きが始まっています。期待感も少しずつ出てきているようですが、、、

 

これは私の主観ですが、名前がいけません。これでは失敗するでしょう。

 

まだ正式名称ではないし、これから決めていこうというのでしょうが、出発点でダメ出ししたい気持ちになります。都民ファーストはいいのです、都民という主体が見えたから。

 

それならば、先ずは「国民ファースト」と呼ぶべきでしたね。人間が主体でないものは、未来に生き残れません。日本ファーストでは、人が主体という感じを受けませんから。トランプのアメリカファーストさえ連想してしまいます。

 

そんな違和感、あなたは感じられませんか?

準備から後片付けまで参加者主体で

お盆休みでゆっくりされていますでしょうか。私もこの時期にはいつも、次の大きなイベント・セミナーに向けての充電をさせていただいています。

 

今月は最終土日(26-27日)に、長岡MGあらため米百俵MGがあり、今年も地元はもちろん全国から42名の参加者を迎えて開催します。長岡MGから通算で33回目になります。

 

今回はその1週前、つまりお盆明けすぐに第4回目になる「こしがやMG」もあります。こちらは共同開催なので、私は身体を運んでインストに専念すればいいのですが、米百俵MGの方は準備から運営まで、基本は一人です。

 

でも、大丈夫です。ありがたいことにセミナー当日は参加者の皆さんが、色んな形で手伝って下さいますから。私は段取りだけしっかり、整えておけばOKです。こんなセミナーの形は、たぶんほとんどないでしょうね。

 

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全国各地で開催されている「西研MG」は、こんな形で主催者と参加者とが一体で運営されています。今回の会場は机や椅子などの準備は施設の方でやっていただけますが、細かいところは当日みんな(分かっている人たち)がやって下さるのです。

 

MGゲーム盤(キット)の準備から、用紙類の配置、用品配りからお菓子や飲み物の準備まで。もちろん、後片付けもです。

 

そんなことが、会社の中でもできたらよいと思われませんか?それこそ、社長やリーダーの方は段取りを整えておくだけで、あとは現場の人たちが進んでやってくれる。

 

理想的な形ですね、でもうちの会社では無理ですよ。そう言われる社長のあなた、一度西研MGに参加して見られませんか、そしてその目で確かめてみてはいかがでしょう。

 

論より証拠ですよ。

昨日は『山の日』だったけど

残暑お見舞い申し上げます。

 

立秋が過ぎたのでこのような挨拶になりますが、とても残暑って感覚ではないですね。どうみてもここは、「猛暑お見舞い申し上げます」というのが的確であるようです。

 

多くの方がお盆休みに入られたことと思いますが、この暑さではお墓参りも大変です。お年を召した方は十分注意して下さいと言いたいところですが、熱中症ってヤツはどうも年少者にも襲いかかっているようです。

 

その昔、と言ってももう50年くらい前になるわけですが、私は高校生で陸上競技部に所属していて、夏休みには合宿を含めてお盆の数日を除き夏練習が続いたものでした。

 

当然炎天下での練習になるわけで、グラウンドの一角にあった大きな楠の下だけが格好の「避暑地」でした。当時は練習中に水を飲むことは御法度でしたので、せいぜいレモン片で口を湿らすか、頭から水をかぶるくらいでした。

 

それでも倒れるメンバーの記憶はほとんどありませんから、昔は、あるいは我々年代は身体が頑丈にできていたのでしょうか。それとも、今の日本人がヤワになった?

 

今は水を飲むのが当たり前になり、スポーツドリンクの方が推奨されたり、ロードレースなどでは特注のドリンクを用意するアスリートも少なくありません。

 

それはそれとして、昨日は『山の日』でした。2014年に制定され(施行は昨年)た最も新しい国民の祝日で、その趣旨は「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」のだそうです。Photo

 

7月の『海の日』と対比され、海があるなら山もというわけで制定されたとか、8月は夏休みなのに祝日がない、大人も休める日を作ろうというわけでもないのでしょうけど。

 

元々この日くらいからお盆休みだったので、それほど変わりがないと思う人も多く、どうも知名度はまだまだイマイチのようです。

 

まぁこれで、祝日のない月はついに6月のみとなってしまいました。何か制定しようかという動きは、今のところはないのでしょうか。海があって山があるから、その次は湖の日とか、川の日だとか。

 

また、11日から20日までは交通機関は「繁忙期」になるわけで、例えば指定席の料金が高くなるとか航空運賃も割高に設定されているケースもあります。私の持っている「大人の休日クラブ」割引も、この期間は対象外です。

 

今年の場合はちょうど金曜日で、13日からお盆休みの企業などは土曜日(12日)も含めて長めの休みにして、社員さんを喜ばせる機会になったところもあるでしょう。

 

ただ、明日からは交通機関の混雑も一気にボルテージが上がりますね。特に高速道路の渋滞はうんざりしますが、これもみんなと同じ時期に休み動くという、日本人の習性からくるのかも。

 

ま、今日からも覚悟してお出かけ下さい。

脳力開発は人間学であり行動科学です(188)

 専門家意識(得意意識)はダメだと決めつけるわけではありませんが、そのために無意識の内に脳力を狭めてしまうことがいけないというのです。

 
 その昔こんな事例がありました。ある大学の偉い先生のお供をして、講演会場まで電車で行くことになったのです。その先生はいわゆるその道の権威で、名前を聞けば誰でも知っているという方でした。駅の自動販売機で切符を買おうとして、ボーッと立っておられるのです。何と切符の買い方をご存じなかったというか、これまで一度も体験がなかったのです。

 
 少しニュアンスは違いますが、できない理由はただ一つで、それは「やらない」からに他なりません。専門家意識は、狭い範囲を誰よりも深く体験したりして知っているということです。それも大事だが、浅くても広い体験知識を持っていることの意味も大きいのです。

 
 繰り返しになりますが、ペーパー知識はものの役にも立ちませんので、これを実際知識にしていく必要があります。その基盤になるのは直接行動すなわち体験(経験)ですから、多方面にわたる実践と行動の拡大がポイントになります。


 
 そこで紹介しました指針のように、まず一つは、どんな物事にも興味や関心を向けていくことです。とにもかくにも、何にでもくびをつっこんでいく、できる限りたくさん実際の事物を自分の目で見、肌で触れるということになります。

 
 もう一つは、できる限りたくさんの人に会って、誰とでも交流していくということです。
脳力開発と並んで私のところのセミナー二本柱の一つMGでは、講習も大切ですが、参加者同士の交流も同じくらいに大切であると説いています。(写真はMGの交流会)
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ノー残業デーは無意味で成功しない

働き方改革なる文字が躍り始めて久しい。時代が変わり、環境条件が変わっていくのだから働き方も変わって当然なのだが、企業の方がなかなか流れに追いつけない。

 

それは大企業も中小企業も、あまり変わりがないようだ。小さな会社なら一気に変えることも難しくないだろう、とんでもない、むしろどうしていいのか分からず右往左往しているのが中小企業だ。

 

第一、働き方改革の目指すところをほとんど分かっていない。今のところ政治主導の面が表に出すぎていて、それに対する抵抗感もあるのかも知れない。

 

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あるいは、そんなものは大きな会社にこそ当てはまるもので、小さな(私の)会社には関係がないとでも、考えられているのだろうか。

 

主なところを全て省いて言ってしまえば、人口問題というか働く人口の大きな変化に対応していくために、今やれることを今からすぐにやっていこうというのが、働き方改革のごく大まかな趣旨だ。

 

残業の問題だとか、長時間労働だとか、裁量性の拡大とか枝葉末節がピックアップされているが、、あまり細かいことに目を奪われて本質を見誤りたくない。

 

少なくとも中小企業、特に小さな会社には関係のないことだなどと避けて通っていては、気が付いたら自社が渦中にいてもがいていることになりかねない。

 

そういうわけだが、今日は枝葉末節のことに触れていこう。それは残業についてだ。

 

中小企業にとって、社員の残業時間はストレートに人件費の増大、ひいては収益・利益に響いてくるウエイトが大きい。そこで、何か手を打たなければと色んなことを試みる。

 

かくいう私も、現役社長の頃には大いに悩み、次々にアイディアと称しては手を打ってきたものだった。何しろ私の会社は季節変動の幅が著しく大きくて、平均的な会社のやることがほとんど当てはまらなかったのだ。

 

詳細は省くが、色々とやった手の中で「ノー残業デー」というのもやった。週に一度、確かその時は水曜日にしたと思うが、その日は17時半の終業時以降に仕事をしてはならないとしたものだった。

 

閑散期は何の問題もない、というよりわざわざノー残業デーなど設ける必要もなかった。毎日みんな、定時には上がりだったからだ。1時間早めに帰ったもいいよ、とさえ言っていたものだ。

 

問題は繁忙期で、むしろこの時に実施したかったのだ。それは週に一度は定時に帰って、家でゆっくり身体を休めてほしいという趣旨だった。

 
ところが実際的にそれは無理な話だった。会社に居残りしなくても、パソコンとデータさえあれば家でもできる仕事が山のようにあった。しかも、超繁忙期の1ヶ月あまりは、会社でなければできない仕事が山積みになり、ノー残業デーはあっという間に崩壊した。


 
要するに見事に失敗に帰したわけだ。皆さんの会社ではどうだろう、ノー残業デーをやっておられますか?うまくいってますか?


 
20時になったら電気を元から落とす、なんてことをやっている会社もあるらしい。まさかそのあとも、蛍雪を頼りに仕事をしているとは思わないが。


 
色んな会社を見ているが、ノー残業デーが成功した事例は皆無に近い。少なくともその結果として人件費が節約でき、士気も上がり、社員の健康度も上がった、と言う話はほとんど聞かない。


 
ならば、ノー残業デーなどやめよう。敢えて残業しない日を作らず、残業に対しての制約条件なども全てやめてしまう。それこそ毎日「残業していい日」にしてしまえばいい。


 
それだけ自由度を確保した途端に何が起こるだろう。もしかしたら、社員一人一人が自ら工夫して仕事に臨み、結果的に目的が果たせるかも知れぬ。


 
大事なことはトップの気持ち、気概だ。『好きなだけ残業してよろしい』と宣言してしまえるか、あなたは。残業で増える人件費がどのくらいなのか、頭に入っていればいい。それを上回るMQ(粗利益)を稼げば済むのだから。


 
付加価値を社員のみんながつけてくれればいい。その付加価値に見合う価格で売れればいい。それが実現するようなしくみを作ればいい。


 
そんなことは分かっているとと言われる。分かっていれば、やってみることだ。やらないままに、ただ頭をひねくり回していてもしょうがない。少なくともノー残業デーなど無意味だ。

承和の変が起こったが死亡者はなかった

天皇史上唯一の散骨を願われ実行された淳和天皇譲位後は、正良(まさら)親王が継がれました。第54代の仁明(にんみょう)天皇です。もちろん、淳和は上皇として残られますが、この時期には嵯峨上皇もご健在でした。

 

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その嵯峨上皇の意向もあって、皇太子には淳和の嫡子である恒貞親王が就かれます。親王の母は嵯峨上皇の皇女でもありました。親王はその後も度々皇太子の地位にあることを辞退されたそうですが、上皇が許されなかったようです。


 
親王は礼節に優れ、周囲からも大変慕われた方であったようです。しかし、結局恒貞親王は皇位に就かれることはありませんでした。840年にまず淳和上皇が崩御され、その2年後に嵯峨上皇も亡くなられます。


 
その直後に起こったのが承和の変です。この事件は、平安時代における藤原氏(北家)の他氏排斥事件の最初とも言われています。その余波を食らって、恒貞親王も廃太子されてしまうのです。


 
この時期急速に台頭してきたのが、藤原冬嗣の次男であった良房です。良房は檀林皇太后(嵯峨皇后であった橘嘉智子)の信任を得て、一気に朝堂のトップに躍り出ます。


 
また、妹である順子が仁明天皇の中宮となり皇子(道康親王)を産みます。さらに、良房の正室は源潔姫(きよひめ)、実は嵯峨上皇の皇女(臣籍降下)でした。なお、天皇の娘が臣下に嫁いだのもこの良房が最初でした。


 
そんな状況でしたから、恒貞親王の取り巻きにとっては由々しき状況に映ったことは想像に難くありません。親王自身は皇太子という地位に執着もなかったでしょうが、臣下にとっては大問題です。


 
そこを檀林皇太后と良房に突かれたことが、承和の変に発展するのです。良房はこれを利用し、伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(はやなり)を逮捕します。逸勢は檀林皇太后とは従姉弟同士でした。


 
2人の企て(親王を東国へ遷す)を相談され、密告したのは阿保親王だと言われます。阿保親王は平城上皇の息子であり、伊勢物語の主人公で知られる在原業平の父です。


 
当初は首謀者二人だけを流罪にすることで決着が図られそうでしたが、良房は皇太后とともに天皇を動かし、さらに東宮臣下を捕らえると共に、ついに廃太子の詔が出されます。新しい皇太子は、言うまでもなく道康親王です。


 
これによって、(大)伴氏と橘氏、その他古き豪族たちは力を失い、相対的に藤原氏の力が一気に大きくなっていきます。


 
ただ、結果に見られるように「死刑」が廃止されていましたので、奈良時代のような残忍な結末にはなりませんでした。また恒貞親王は、この後も40年余り生きられ、病死ではありましたが寿命を全うされたのは幸いなことでした。

脳力開発は人間学であり行動科学です(187)

さて、指針(土台習慣)も残るは2つです。同じような切り口ですので、一括してお話ししましょう。「できるだけたくさんの物事に首を突っ込む習慣をつくろう」と、「できるだけたくさんの人に接触する習慣をつくろう」の二つです。

 
 誰かこれをやってくれる人はいませんかと言われて、あなたは積極的に自分から手を上げるタイプですか。それとも、誰かがやってくれるといいなと思う方でしょうか。あるいは、得意なことか苦手なことかで判断しているでしょうか。
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 人間の脳は、どんな種類の情報も、どんなに多量でも受け入れることができるようになっています。また、その質や量にかかわらずちゃんと有効に取り分けて、混乱せずに処理できるという能力を備えています。つまり基本は「何でもやれる」のです。

 
 本来の脳は、何にでも対応できて何でもできるということを、昨日は書きました。ところが人間は長じるに従って、自分で勝手に制限をつけてしまうのです。そのために、本来持っているはずの力を自ら狭くしてしまっているのです。(写真はイメージです)

 
 「これはできそうだけど、あれはできないなぁ」とまぁ、勝手に思い込ませてしまっているのです。そしてできる方は、時に「専門家意識」というとんでもないレッテルを貼るに至ってしまいます。ではこの専門家意識について少し考えてみましょう。

 
 専門家意識とまではいかなくても、得意分野というのは誰もが少しは持っているでしょう。それが嵩じると、自分の脳の活動範囲や昨日範囲を狭く制限するようになるのです。何でもできる本来の機能からいうと、大変もったいないとは思いませんか。

たった72年、されども72年が経った

昨日8月6日は、広島に原爆が投下された日。人類史上初めての悲惨な出来事であったし、忘れることなく後世に伝えていかねばならない日である。

 

しかし、その原爆投下の日付を正しく答えられる日本人は、(NHKの)聞き取り調査によるとたったの3割だという。昭和20年あるいは1945年と、年号まで尋ねるのはいかがなものかとクレームもついたそうだが、そういう問題ではない。

 

少なくとも僅か72年前のことなのだ、太古の歴史ではない、年号も含めて正確に答えて然るべきであろう。T_11090044

 

とはいえ、もう72年も経ってしまったのかと慄然としてしまう。もしその日に誕生した子がいたとして、もう72歳を迎えられるわけだ。当然、原爆を実体験された方はそれ以上の高齢となっているわけだ。

 

現実問題として、実体験や焼き付いた記憶を正確に伝えて下さる方が、年々少なくなってきているのだ。映像やデジタル情報として残す試みも始まっているが、実体験の重みがどこまで伝わるだろうか。

 

そういえば、修学旅行の行き先としての広島・長崎が減っているとも聞く。これも大きな問題ではないか。

 

10人が10人知っておいてほしいと思うくらいなのだが、3割は余りにも少なすぎる。国連の非核条約に反対することと、広島・長崎の記憶を残し続けることとは同列には扱えないが、考えるべき時を迎えていると思うのだ。

 

1939年12月8日、1945年8月15日、この二つも忘れてはならない日であるはずだが。

城野宏の「東西古今人間学」DVDを観る

この週末土曜日は、東京での脳力開発シニア講座2回目でした。

 

今回も基礎習慣づくりの中で、最も重要な3つの精神的姿勢の一つである「いつも進歩発展をめざす姿勢」、すなわち現状打破の姿勢をテーマとしました。

 

そして今回は、参加者の皆さんに貴重なDVD映像を見ていただくことにしました。それは、脳力開発・情勢判断学の提唱者である、故城野宏先生の晩年の講演ビデオです。

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おそらく最後の講演とも言うべき「東西古今人間学」ですが、本を読んだ方はいらっしゃるかと思いますが、映像の方はほとんど見られていないでしょう。

 

実は私自身も、このDVDの存在を忘れておりました。ふとしたきっかけで、そういえば持っていたことに気が付き、本棚から発掘した次第です。

 

6回の講演で、1回が2時間ですからざっと12時間の長丁場(もちろん日を分けて開催されたものです)、今回はその第1回講演を見ていただきました。

 

おそらくホームビデオか何かで撮られた古い映像で、それをDVDに落とし込んだので画像や音声もやや不明瞭なところがありますが、当時の迫力ある城野先生を偲べる貴重な映像でもあります。

 

次回9月の神戸講座でも、参加者の皆さんに公開いたします。お楽しみに。

これからもガラパゴスでいくぞぉ!

昨年秋(11月だったっけな)に、ドコモが「iモード対応電話をやめる」と発表し、いわゆる従来型の携帯電話すなわちガラケーはホントに絶滅危惧種になってしまった。

 

統計によると、スマホへの移行はどんどんと進んでいて、20代では90%以上がスマホ保有者だという。しかし私のような60代では1/3くらいにとどまっているらしい。

 

そういうシニア世代が存在するおかげで、スマホの所有率はやや伸びが鈍化しているそうで、今なお4人に1人くらいはガラケーの所有者なのだそうだ。

 

もっとも私の場合はいわゆる「両刀遣い」で、スマホも8年前から使っているし、スマホには抵抗感があるカミさんも、家の中では私から取り上げたタブレットをけっこう使いこなしている。

 

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私の場合、ガラケーはもっぱら電話とメール・ショートメールだけで、他にはタイマーくらいで、ほとんどの機能を使っていない。一方iPhoneの電話も併用はしているが、仕事の電話はもっぱらガラケーなので、こちらが今のところ手放せない。

 
名刺や会社案内、セミナーのチラシなどにもガラケーの電話番号を記してある。一部にはiPhoneの番号も載せてはいるが、かかってくることは殆どない。

 

昨年秋には、従来システムのゲラケーがなくなるというニュースを聞いて、あわてて最後の在庫の中から現在の1本をギリギリ購入した。ちょうど前のガラケーがかなり古くなっていたので、買い換えの時期ではあった。

 

だからもちろん、今も併用状態で推移している。iPhoneにまとめてしまった方が佳いとも思うし、2本持っているのは確かに面倒、まとめれば通信費もいくらか節約できるはずなのだが。

 

将来いずれは一本化することになるだろうと思っている。従来型のガラケーは、もう作らないそう(今のは形はガラケーでも中身はスマホそのものだ)だし、この1本がダメになれば必然的にそうなるはずだ。

 

でもそれまでは、このままでいこうと思う。時代の先端とガラパゴスと、そのどちらも私にとっては必要な道具だから。

 
胸のポケットにも、ガラケーならスッポリと収まりがいいが、iPhoneではいささかデカさをかんじてしまう。かといって、ガラケー形スマホではしっくりこない。

 
そんなガラパゴス人間がいても悪くはないだろう。

脳力開発は人間学であり行動科学です(186)

最近のデジタル機器には分厚いマニュアルが付いています。それだけたくさんの機能があるよというのでしょうが、正直その厚さを眺めるだけでうんざりします。そんなわけで、付いている機能の殆どは使わないまま過ごしていることが多いようです。

 
 マニュアルをパラパラめくっているだけでは、一向に使えないわけで、実際に操作しながらやることで身に付きます。あるいは、こうしたい、ああしたいと思うことでマニュアルを開き、なるほどこうやるのかと手を動かしてようやく分かります。Photo

 

これがペーパー知識と実際知識の対比です。そして大部分はペーパー知識として埋もれてしまうということも、お分かりいただけるでしょう。もったいないとは思いますが、実際に使わないのだから、「私には不要なのだ」と割り切ってしまいましょう。

 
 頭のいいというか、記憶力抜群の人がいて、そういった分厚いマニュアルを暗記しているとしましょう。でも、それだけではやっぱり役には立たないのです。そのままでは、体(手)を動かす神経回路につながっていないからです。

 
 違う使い方やより効果的な使い方を考えて初めて、脳の神経回路がつながっていくのです。実践から切り離された場では、ペーパー知識をいくら詰め込んでも役に立ちません。ですから、普段から心掛けて思考と行動の連係を図るようにしていきましょう。

 
 分からないことを調べるという習慣も大切です。それも「後から調べる」のではなく、「すぐに調べる」という習慣をつけることです。こういうサイクルを回すことによって、実際知識が増えていき、実践の土台(すそ野)が広がっていくのです。

ヴァンガード経営研究所から3S経営ご提案

今日は手前味噌ブログです。

 

たまには、自社(ヴァンガード経営研究所)のPR=MGでは赤チップといいます=も、ブログに書いてみようと。8月1日に新しい会社案内ができましたので、そのお知らせも兼ねて。

 

ちなみにヴァンガード経営研究所は、私の「一人会社」です。正確には専従者として家内がいますし、社外スタッフや社外協力メンバーがいらっしゃいます。専従者以外は、共催セミナーやイベント時を除いて無給です。

 

創業は2008年6月1日、もっとも1998年前後からすでに公開セミナーの主催を始めたり、依頼を受けて経営や社員研修のサポートを行っていました。当時はまだ会社員であり、同時に出向先企業の代表取締役でしたから、「二足のわらじ」を履いていたわけです。

 

昨今は副業を認めるとかいう会社も出てきましたが、当時はもちろん私の所属会社にも副業禁止の就業規則規定がありました。そんな中で、暗黙の了解的に、休日や休暇を使える範囲での活動でした。

 

そういう意味で言うと、時代の先取りだったでしょうか。ただし、半ばボランティア的な活動でもあり、独立して独り立ちできるかという自信は乏しかったでしょう。

 

それでも自分でやりたいことは「青天井」でやるべきとの考えも持っていて、たまたま親会社に帰任することがきっかけになり独立したわけです。もっとも帰任して与えられた仕事の仕上げまで1年半という、時間をかけることになりましたが。

 

さて、今年10年目に入ってセミナーなどの活動はおかげさまで軌道に乗っていますが、もう一つの柱である企業コンサルティング&サポートの方は、まだ余力を残しています。

 

何しろ一馬力会社なので、多くのクライアントとご縁をつなぐことは物理的に難しく、これまでは限られたお客様との顧問契約としてきました。あとはスポットでのご相談に対応するだけでした。

 

しかし、一人でもやれることはないかと考えを巡らせしてみると、世の中の進化は著しく、例えばネット環境一つとっても3年、5年前とは違ってきています。ならば、さらに多くのクライアントとのご縁も可能ではないかと。

 

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そこで、新たに案内リーフレットを作成してみたのです。そこで、提案しているのが写真の「3S経営」のご提案です。

 

3Sとは、ES(社員満足)・CS(顧客満足)・SS(地域社会満足)の3つのSで、これをベースにした経営を実現していこうという提案です。そのお手伝いをするというのが、当社のミッションです。

 

詳細については、パンフレットをご覧いただいたり、ホームページでご確認をいただければと思います。
http://www.vanken.jp/concept/

 

また、新しいメンバー制として『ネット会員』制も創りました。お試しキャンペーンも近くやりますので、活用してみませんか。

薄倖の淳和天皇がただ一つ貫いた意志

嵯峨天皇から譲位されたのは、異母弟に当たる大伴親王、桓武天皇の第七皇子に当たる第53代の淳和天皇でした。

 

この淳和天皇、歴代の天皇の中で唯一のことをやられました。もっとも、天皇自らやったのではなく、薨去後に行われるよう「遺言」を遺されておりました。

 

その遺言は、自分の死後に葬儀を行うことや山稜を築くことをしてはならないということでした。そして山上から散骨してほしいとのことだったのです。その願いは叶えられました。

 

この時点で異母兄である嵯峨上皇はご健在でしたが、おそらくその遺言を聞いて驚愕されたことでしょう。火葬は既に持統天皇に始まり、豪勢な葬儀を回避することはなされていましたが、散骨とは前代未聞です。

 

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嵯峨上皇は反対されたことでしょう。しかし、淳和天皇は意志を貫き通しました。その骨は、大原野の高い山から撒かれたそうです。なお、これ以降は散骨を希望された天皇も、実施された天皇もありません。(写真は後世に作られた淳和天皇塚)

 

なぜ、天皇はそのようなことを希望されたのでしょうか。強大であった嵯峨天皇(上皇)、個性の強かった平城天皇(上皇)を見ていたこと、その狭間で様々な葛藤があったのではないかと推察されます。

 

この時期、嵯峨上皇の后であった檀林皇太后(橘嘉智子)は健在、また藤原冬嗣の次男であり政権中枢を狙う藤原良房は外戚の地位を目指していました。

 

よって、淳和天皇は自分の息子を皇太子に就けることを憚り、嵯峨上皇の息子である正良親王(のちの仁明天皇)を皇太子にしました。しかも長子であられた恒世親王は若くしてなくなります。

 

きっと、儚い世を嘆かれたことでしょうし、ある意味線の細い天皇であられたのだと推察されます。そして病に倒れ、仁明天皇に後を譲った直後に薨去されました。

 

付け加えれば、天皇のもう一人のお子である恒貞親王は仁明天皇の皇太子とされますが、承和の変を契機に廃太子されてしまいました。

 

一見穏やかに見える淳和朝も、そこは政争渦巻く歴史であったことが分かります。

脳力開発は人間学であり行動科学です(185)

知識には、大別して体験知識とペーパー知識の2つがあります。そして大半が後者の方で、かつては活字知識とも呼んでいましたが、ネット情報が格段に進んだ現代ではそれらも合わせてペーパー知識ということにしています。「ペーパードライバー」と同義だと思って下さい。

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 そのペーパー知識は、脳の中の記憶回路には保存されているのですが、実際行動の中ではまだ役に立っていないものが大半です。実際の行動命令の中で活用されていませんので、いわば「暗記しているだけ」の状態になっているのです。(写真はイメージです)

 
 一所懸命に聞き覚えしたのに実際に役に立たないというのでは、とってももったいない話です。要は使えば良いのです、鉄は熱い内に打てといいますが、見聞きした知識はすぐに何らかのカタチで使ってみることで、体験知識に「化学変化」するのです。

 
 圧倒的に多いペーパー知識を役立てて使う、実践で使うことによってどんどんと体験知識(実際知識)が増えていきます。とはいえ、何でもかんでも使えばいいというわけにはいきません。実際に使えなくても、シミュレーションすることも有効です。

 
 脳力開発のセミナーでは、ケーススタディというようなカタチで実例の中に自らを投影して学ぶこともやっています。この時もできるだけ、実例を基にしたケーススタディを使いますので、実際のプロセスや結果との対比もできることになります。

 
 また、分からないことはすぐに調べるという習慣も大切です。分からないことを分からぬまま放っておくとうのは、非常にもったいないことです。疑問点や矛盾点をそのままにしておかない、ネットの活用時代、これも有効に使いたいものです。

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