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嵯峨天皇と檀林皇后はおしどり夫婦?

第52代の嵯峨天皇は桓武天皇の第二皇子であり、平城天皇とは同母の兄弟になります。いったんは、平城上皇の子・高岳親王を皇太子に立てます。

 

しかし、復位を目指した上皇の反乱(薬子の変)を鎮めて後、高岳親王を廃太子します。これは自然の成り行きであったでしょうが、さりとて自分の子を皇太子とするを憚られたのか、異母弟である大伴親王を立てます。

 

この天皇の時代は、薬子の変以降は表面的に大きな事件も起こらず平穏な状況が続きます。しかし、裏側では皇位継承を巡るうごめきがあり、藤原氏とくに北家の台頭が次第に著しくなり、対立構造があらわになっていく時期でもあります。

 

ただ、嵯峨天皇の時代に「死刑廃止」が法(弘仁格)として定められ、この後保元の乱に至る間の300数10年間は、確かに死刑が執行されることはありませんでした。

 

一方では、そういう「穢れ」の仕事は貴族がやるべきことではないという考えが広がり、その裏仕事を支えるべく武士という階級が存在を大きくしていくのです。

 

さて嵯峨天皇にも増して存在感が大きかったのは、檀林皇后と諡された天皇の后、橘嘉智子でした。聖武天皇の時代、政敵であった藤原仲麻呂に敗れ葬られた橘奈良麻呂の孫に当たります。

 

天皇との仲も睦まじく、2男5女をもうけられます。長子である正良親王は後の仁明天皇となりますが、絶世の美女であったとも伝えられています。存命中は大きな権力を持ち、皇位継承にも介入して政争を巻き起こしたと伝えられます。

 

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仏教にも深く帰依し、日本最初の禅院・檀林寺を創建します。壮大な寺院だったと伝えられていますが、後に廃寺となり、現在はその地(嵯峨野)に天龍寺が建てられています。檀林寺も後に造られますが、直接的なつながりはないそうです。

 

この皇后(皇太后)は死に当たって、自分の遺体を鳥獣へ与えるために路傍に放置するように命じ、その腐敗していく姿を大衆にも見せ、絵にも描かせたそうです。

 

一方、嵯峨天皇はというと多くの妻妾をもたれ、お子様の数は49名とも伝えられています。これが財政を圧迫したために、多くの子女は「源姓」を与えられて臣籍降下しています。嵯峨源氏と伝わる人たちですが、やはり政争に巻き込まれた人物もありました。

 

そして大伴皇子(淳和天皇)に譲位し、正良親王が皇太子となります。これにも、皇后の意志が強く働いたことでしょう。そして、藤原冬嗣をはじめ藤原北家の力が少しずつ大きくなっていくのです。

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