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坂上田村麻呂は心温かな武人貴族だった

蝦夷(えみし)征討の歴史は古く、日本書紀にもその記述があります。もっともその記述は、果たして史実かどうかは疑問視されているようです。さらに5世紀の後半の、雄略天皇(倭王武)による征討が宋書の中にあります。

 

ですから、古くから中央(ヤマト)に対して反抗する部族があったことが推定され、その内関東から北の部族を蝦夷と呼んでいたようです。ただ、反抗するといっても、それは中央から東北への進出に伴う小競り合いから始まったのではないでしょうか。

 

すなわち、アメリカの西部開拓史ではないですが、辺境(いわゆる「柵」)が北へ北へと延びていくことによって、有り体に言えば「侵略」が進むにつれて反抗も激しくなったかとも思うわけです。

 

つまり蝦夷側からすれば、大和朝廷の方が侵略者であり、平和を脅かす存在ではなかったのかとも考えられるわけです。歴史は常に勝者の側から書かれますので、さもありなんということになってしまうのでしょう。

 

それはともかく、蝦夷征討は奈良時代に入って本格化し、桓武朝に入ると蝦夷に阿弖流為(アテルイ)という英雄族長が現れます。この阿弖流為の元で組織的な抵抗が繰り返され、朝廷軍は789年に大敗してしまいます。

 

ここに登場したのが坂上田村麻呂です。平安遷都から3年後に彼は征夷大将軍に任命されますが、この時39歳の男盛りでした。その前年には征東副将軍の一人でしたが、中心的な役割だったのでしょう。

 
実際の戦闘は801年に入ってからでしたが、翌年にはアテルイは田村麻呂に降伏し、モレ(母礼)とともに京の都に送られます。田村麻呂は二人の助命を願い出ますが、朝廷はこれを退けます。

 
そのため、蝦夷の英雄アテルイはモレと共に斬刑に処せられますが、武人としての田村麻呂はおそらく涙を流したことでしょう。
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田村麻呂が創建(本願)したと伝えられる清水寺には、平安遷都1200年に当たる1994年に「北天の雄 阿弖流為母禮之碑」が建立されています。(写真は清水寺)

 
なお、蝦夷征討は財政の困難から804年に中断され、田村麻呂はそのまま将軍位を保ったと言われています。しかし、前回も触れましたが彼は武人(貴族)ではありましたが、武士ではありません。

 
その後は朝廷内で位を上げ、桓武、平城,嵯峨の三天皇に仕えて大納言にまでなっています。記録によれば身長が5尺8寸とも伝えられています、ざっと176cmですから、当時としてはかなり大柄だったのでしょう。

 
54歳で亡くなりますが、その後も偉大な武人、大将軍として語り継がれる存在でしたし、また東北・蝦夷地の人々にも慕われていたと伝えられています。アテルイ達の助命嘆願も含め心温かい人物だったと思われます。

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