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藤原政権が次第に色濃くなってきた

藤原種継暗殺事件、早良親王の廃太子とその憤死事件。暗雲が立ちこめた長岡京を諦めた桓武天皇は、長岡の東北に当たる山城国葛野郡・愛宕郡に新たな京を定め、平安京と名付けられた都に遷ります(794年)。

 

早良親王や、その以前に廃され謎の死を遂げた井上皇后と他戸親王の怨霊に悩まされたためと言われますが、さらには天災や疫病の蔓延が再遷都の引き金になったのでしょう。

 

もっとも、平安京に遷ってもなお怨霊の跋扈、鴨川の氾濫などには悩まされ続けたらしく、天皇自身や皇太子(安殿親王)も時に病に悩まれたようです。

 

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この時期の朝廷では、次第に藤原氏の勢力が再び大きくなり始めており、長岡京で暗殺された種継や遷都の前に亡くなった百川と良継、百川の息子の緒嗣らを排出した式家が力を持っていました。

 

桓武天皇の皇后であった藤原乙牟漏は良継の娘であり、安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)の母となります。しかし、平安京遷都前に亡くなられます。

 

また、夫人であった藤原旅子は大伴親王(後の淳和天皇)の母ですが、父親は百川です。こちらも平安遷都までに逝去、相次ぐ悲事は早良親王の祟りとされたようです。

 
かくの如く桓武朝ではまだ藤原式家の優勢が続きますが、その力の源は奈良朝で先祖の不比等がやったが如く、自分の娘を天皇(あるいは皇太子)に嫁がせ、生まれた子の外祖父となることでした。

 
他の藤原家やそれ以外の豪族も、もちろん同じ狙いを持って天皇や親王に娘を嫁がせますが、皇后や夫人になれたのはほとんどが藤原氏です。この後藤原家が王朝を牛耳っていくのが、平安朝の中期まで続きます。

 
実際には明治時代に至るまで(もしかしたら今上天皇のご成婚まで?)、この「伝統」はずっと引き継がれていきました。良かれ悪しかれ、日本の歴史はこうして作られていったと言うことなのでしょう。

 
さて桓武朝と言えば蝦夷征伐、その中心となって活躍した坂上田村麻呂の名前が出てきますが、田村麻呂は後の歴史における武士とは異なる存在です。武門の公家という位置づけになるわけですが、次回はその辺りに焦点を当てましょう。

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