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平安京は平安な都ではなかった?

早良親王は桓武天皇の同母弟であり、11歳で僧籍に入られましたが、天皇の即位と時期を合わせて還俗されたものです。皇太子に就かれたのも本人のご意思ではなかったと思われますが、天皇の長子であった安殿親王はまだ幼少でしたので、おそらく中継ぎを期待されていたのでしょう。
 

そこに、「藤原種継暗殺事件」が勃発します。たまたま連座した官人の中に、東宮に仕える者が多かったこともあって、連座という濡れ衣を着せられたモノと思われます。もちろん皇太子の地位は剥奪され、乙訓寺に幽閉されてしまいます。
 

親王は無実を訴え、抗議の絶食を敢行しますが、天皇も側近たちも貸す耳を持ちませんでした。淡路国への配流が決まりますが、親王は絶食を続け道中で逝去されました。しかし、死骸はそのまま淡路の配所に送られてしまいます。Photo_2
 

ところが、その直後から桓武天皇の周りに様々な出来事が起こります。皇太子に立てられてすぐの安殿親王が病に冒されたのを皮切りに、天皇の后が次々に亡くなり、さらに実母である高野新笠までもが病死してしまいます。
 

ちまたにも疫病が流行し、都も洪水に襲われたりします。天皇は震え上がります、これは早良廃太子の祟り、怨霊の仕業に違いないと。すぐに何度も鎮魂の儀式を行いますが、怨霊の跋扈を止めるには至らず、ついに亡骸を大和国に戻し「崇道天皇」という諡を追贈します。

 
平安京の鬼門に位置する高野村(現在の左京区上高野)には、崇道神社が建立されます。この早良親王の怨霊が、史料に初めて出てくる怨霊だといわれていますが、これまで見てきましたように古代から怨霊という発想はあり、記録に残らないまでも「怨霊の仕業」とは多くの人が感じていました。
 

そして794年、都は新たに造営された平安京に遷ります。ここから世は「平安時代」に入りますが、京の都は明治天皇が東京に遷られるまで都として存在しておりました。また、中には正式の遷都勅令が出ていないので現在も首都は京都だという方もおられますが、これはちょっと無理がありそうです。
 

ところがその名とは違い、平安の都も当初は不安渦巻く、また疫病や自然災害にも何度か見舞われる状況でした。また蝦夷の平定のために大軍を送ったりしたため、風当たりも強かったようです。蝦夷征伐で名を上げたのは坂上田村麻呂でしたが、財政困難もあり、805年には中断を余儀なくされました。
 

そんな中で、いよいよ藤原氏が再び力を伸ばしていきます。また天皇は、最澄や空海といった仏教界の新星を保護したことでも知られており、まさに新しい都の新しい動きが始まりました。

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