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種継暗殺事件で早良親王は怨霊となる

今週のブログは、1週空いてしまった「歴史と人間ひとりごと」からスタートです。

 

桓武天皇は平城京からの遷都を決意されますが、なぜ飛鳥や奈良(平城)を捨てて、それまでほとんどゆかりのない山城国を選ばれたのかは、諸説様々です。詳しいことは書物に当たっていただくこととして、まず選ばれたのは長岡の地でした。

 

長岡京は、現在の地名で言えば長岡京市から向日市、そして京都市西京区に亘る広大な都で、遷都が宣言されたのは784年です。続日本紀によれば、長岡(乙訓)の地が選ばれたのは、水運がキーポイントだったようです。

 
確かに近くで淀川が木津川等を合流して大阪湾に流れていく拠点地勢で、狭隘な谷間を抜けていく平城京の大和川に比べると、物流には非常に便利です。ただ、その分水害の危険性も大きく、結局そのことが平安京への遷都につながります。Photo

 
そしてこの遷都、造営の中心になったのは藤原種継でした。藤原式家の出身、宇合の孫ですから藤原不比等の曾孫に当たります。光仁天皇時代に順調に出世し、桓武即位と共に一気に昇進が加速します。

 
長岡京造営使に任命された種継でしたが、遷都から間もない翌年785年の秋、造営の監督中に日本の矢がその身を貫きます。世に言う「種継射殺事件」です。首謀者として大伴氏や紀氏、佐伯氏などが捕縛されます。

 
すでに死亡していた、歌人としても名高い大伴家持まで生前の官籍を剥奪され、庶人に落とされてしまいます。死者にむち打つという感じですが、これによって古代の名族・大伴氏や紀氏は第一線から退かされてしまいます。

 
この後も、藤原氏による他氏の排斥が続くのですが、それはまた次回以降に。

 
さて種継の暗殺事件は、これにとどまりませんでした。捕縛された中に、皇太子(弟)である早良親王に使える東宮の官吏が多くいたのです。親王は当時35歳、高僧から還俗して皇太子にされたことは、親王の本意ではなかったとも言われています。

 
しかしそうであったことが悲劇を呼んだわけです。ついに、暗殺事件に連座していることを疑われ、皇太子を廃され乙訓寺に幽閉されてしまいます。もちろん、早良は無実を訴えますが、桓武の耳には入りません。

 
早良は抗議の絶食を始め、淡路国に配流される途中で憤死してしまいます。その場所は現在の守口市(高瀬)付近と伝えられています。しかし、亡骸はそのまま淡路に送られてしまいます。

 
そしてついに、早良は怨霊となるのです。

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