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桓武天皇は怨霊はびこる平城京を捨てる

今上陛下が日韓共同開催のサッカーW杯を前に、桓武天皇のご生母のことに触れ、韓国とのゆかりを感じると発言されました。これは六国史の一つである「続日本紀」に、ご生母が百済の武寧王の子孫であると記述されていることによるものです。

 

前回も書きましたが、そのことからみると皇位を継ぐことはほとんど考えられなかった山部王でしたが、聖武天皇のみならず、天武天皇の血を引く王がいなくなってしまったことで、光仁天皇の皇太子に立てられました。

 

そのつながりを、関裕二氏などは中臣鎌足に求め、実は鎌足は百済の王族として倭の国に人質として送られた余豊璋であったとし、不比等によって再興された藤原家が、縁につながる山部王を推戴したと見ています。

 

その真偽を論じることは私にはできませんが、藤原百川(式家)が積極的に擁立を策したことは事実です。

 

また、奈良時代が天武天皇系での皇位継承だったのに対して、光仁天皇そして桓武天皇に至って天智天皇系に戻ったというのは、いささか短絡かなと思います。それを言うなら、持統天皇は天智の娘であり、元明天皇も同じ、元正天皇は孫に当たります。

 

私は持統天皇の時代にすでに天智系の皇統に戻っていて、持統はその血脈をずっと伝えていくことを望み、称徳天皇でそれが途切れたことで、より純粋な天智皇統に戻されたというところではないかと、推察しています。

 

さて、山部王は光仁天皇の譲位を受けて781年に44歳で即位されます。皇太子には同母弟である、早良親王を立てます。親王はこの時出家され(親王禅師)ていて、ご本人は望まないまま還俗されたようです。Photo

 

これは桓武天皇の子である安殿(あて)親王=後の平城天皇=が、まだ幼少であったことによるものでした。すでにこれまでにも幼少の親王を皇太子とする例は、軽皇子=文武天皇や首皇子=聖武天皇でありましたが、慎重を期されたのでしょうか。おそらく、桓武擁立への風当たりもあったのだと思われます。

 

なお、安殿親王のご生母は藤原乙牟漏(おとむろ)で、彼女は藤原百川の兄・良継の娘です。百川の娘(旅子)も山部王時代の桓武に嫁いでいます。

 

平安京遷都に先立つ10年前の784年に、桓武天皇は長岡への遷都を決意されます。平城京からの遷都は、古来仏教勢力(南都大寺)を嫌ったためだとか言われますが、一番の要因は、血塗られた奈良時代の歴史によるものかと思われます。

 

天皇の皇位継承に当たっても、光仁天皇の井上皇后やその息である他戸親王を犠牲にしています。不破内親王=井上内親王の同母妹=事件もありました(淡路に配流された後生死不明)。
★写真は不破内親王ゆかりと言われる千葉県の松虫寺

 

その他諸々の怨霊がはびこっている平城京、一刻も早くそこから遠ざかりたかったというのが真相ではないでしょうか。それを裏付ける史料はありませんが、古代人の深層心理には常に怨霊があることを忘れてはならいないでしょう。

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