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孝謙上皇の逆襲と藤原仲麻呂の乱

頂点に上り詰め、恵美押勝の名までいただいた藤原仲麻呂でしたが、太政大臣(太師)になった同じ年760年に光明皇太后が逝去されると、次第にその権勢に陰りが見えてきます。

 

孝謙上皇が弓削道鏡を信任し始めたことに焦りを感じた仲麻呂は、淳仁天皇に上皇を諫めるようにけしかけますが、これが逆効果を生みます。激怒した上皇は、天皇の権限を制限するとともに、実質的に返り咲きを図りました。

 

焦燥した仲麻呂は自分の兵権を活用して多くの兵を都に集め、天皇やその兄弟(親王)たちと共謀し政権の奪還を目指しますが、後難を恐れた一人が上皇側に密告します。仲麻呂側と上皇側との間で、孝謙発動のための鈴印争奪戦が激烈になります。

 

上皇は、仲麻呂の官位を剥奪、全財産の没収を宣言しますが、仲麻呂はいち早く平城京を脱出し、近江国を目指して北上しました。上皇は70歳の吉備真備(仲麻呂の政敵)を政権中枢に復帰させ、追悼軍の指揮を任せます。

 

瀬田の橋を先行して焼かれた仲麻呂は致し方なく、琵琶湖の西岸を北上しますが、氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立しますが、愛発関を固めた上皇軍を破ることができず、南へPhoto 引き返します。

 

そして再び今度は船で愛発関を目指しますが撃退され、湖岸の三尾で妻子一族ともに斬られて敗北してしまい、塩焼王も誅されます。これが世に言う「藤原仲麻呂の乱」です。

 

淳仁天皇も廃位されてしまい、淡路国に流され(淡路廃帝)、やがて逃亡を謀って捕まり病死したと伝えられていますが、どうも殺されたようです。正式に天皇として認められ、淳仁の名が贈られたのは明治天皇の代になってからでした。

 
そしていよいよ孝謙上皇は、再び天皇の位に戻り(重祚)称徳天皇となられます。いわゆる天武系天皇の最後となるわけです。

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