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光明皇后は橘三千代の娘なり

繰り返しになりますが、聖武天皇は「藤原の子」でありました。母である宮子は、藤原不比等の娘であり、皇后である光明子もやはり不比等の娘です。当時は母方の邸宅で幼少年時代をすごしますから、聖武(首皇子)も藤原邸でお育ちになられたのでしょう。

 

しかし変化が起こり始めます。そのきっかけの一つは、長屋王事件であり、それからしばらくして起こった不比等の4人の子の病死(天然痘)でしょう。

 

天皇は、長屋王が何ゆえに嵌められて失脚し、自死されたのかを薄々知っておられたでしょうし、その裏に藤原4兄弟の存在を意識されていたでしょう。

 

端的に言えば、藤原氏によって死に至った長屋王の祟り、すなわち怨霊です。この時代にはまだ怨霊という考えがなかったというのが通説ですが、そんなはずはないという考えも多く、私も同感です。

 

天皇は長屋王や、その他藤原氏によって失脚した人たちの怨霊に、おびえられたのではないでしょうか。そういう怨霊のはびこる平城京を捨てて、東国を御幸され、恭仁京や紫香楽の宮に遷都されたのもうなづけるところです。

 
さて、もっと大きな出来事が起こります。

 
母である宮子は、皇子をお産みになられた後どうもご病気に罹られたようです。その病はおそらく鬱病の類ではないかといわれていますが、皇子からも天皇からも離され幽閉されていたと思われます。

 
それが、橘諸兄政権の顧問格であった僧玄昉の治療で、病が平癒したようなのです。そしPhoto_2て、ある屋敷で天皇との「偶然の」再会を果たすのです。

 
そこはかつての不比等の邸宅、当時は光明皇后に譲られて皇后邸となっていました。ということは、その筋書きを演出されたのは光明皇后ご自身であったと考えるのが妥当です。

 
どうして!?という疑問がわきます。皇后こそ「藤原の子」ではないのか。藤原にとって隠さねばならない皇太后(宮子)を、夫である聖武に引き合わせる、それって、、、

 
この時、光明皇后も「藤原の子」であることから抜け出されたのではないか、そうとしか考えられません。確かに父は不比等ですが、では皇后の母は?

 
皇后の母は県犬養(橘朝臣)三千代、そう橘諸兄の母でもあります。一説には不比等に寝取られたとも伝わりますが、その母の思いを受け継がれたのではないか、とも考えられるところです。

 
藤原氏が行ってきた謀略を眼のあたりにしてきた皇后が、その祟りあるいは怨霊におびえると同時に、母の思い(藤原への復讐?)を感じたというのは、うがちすぎでしょうか。

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