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藤原の子から抜け出そうとした聖武天皇

さて、聖武天皇です。通説によると、体も心もややひ弱であられたらしく、とくに遷都を繰り返された頃から政務を顧みない状況が続いたとも。

 
聖武天皇(幼名は首皇子)は「藤原の子」と、異名されました。父は文武天皇(天武天皇の孫で草壁皇子の子)ですが、母は藤原宮子、すなわち不比等の娘です。

 
故あって、母親とは分け隔てられて育たれたようですが、幼い頃は藤原一族の庇護のもとにありました。母・宮子はどうやら、気鬱(ノイローゼ)症状があったようで、天皇は母の愛を受けることなく過ごされました。

 
そして、后にはやはり不比等の娘である光明子(幼名安宿媛)が皇太子時代に選ばれ、729年に皇族以外では初めての皇后となります。以後は藤原氏の娘が皇后になるという先例にもなるわけですが、光明皇后自身も「藤原の娘(藤三娘)」意識を持たれていたと推察Photo されます。

 
天然痘の猛威から3年後の740年から、聖武天皇の彷徨遷都が繰り返されるのですが、それは心の弱さの故かも知れませんが、もしかしたら「藤原の子」から脱却するための彷徨であったのかもしれません。

 
政は橘諸兄が中心になり、滞りなく進められています。「諸兄政府」に反対して反乱を起こした藤原広嗣はすぐに成敗されてしまいます。

 
都を転々とされる間に、全国に国分寺と国分尼寺を建てる詔が出され、その集大成として大仏建立が具体化していきます。そして天皇は、この大事業に民間の力を活用しようとされています。

 
その中心人物が僧行基です。その死後「行基菩薩」としてあがめられたこの人物、元は朝廷から弾圧された民間宗教集団のリーダーです。その行基を大仏建立の責任者に抜擢した聖武天皇、その底流に「反骨の精神」があったと私は想像するのです。

 
その大仏殿、天皇は紫香楽宮周辺に創りたかったようですが、様々な事件、例えば森林火災などが起こり、最終的に東大寺が創建されます。この火災、どうやら藤原氏の暗躍ではないかと思われるのですが。

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