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聖武天皇と藤原不比等の子たち

おはようございます。2017年のお正月はいかが過ごされましたでしょうか。さて「歴史」ブログですが、今年も歴史を彩る人物を通して、その時代を眺めていきます。古代史からスタートして、ようやく奈良時代の半ばになりましたが、時には違う時代が混じることもあるかも知れません。

では時代は奈良時代、第45代聖武天皇の話から始めることにします。聖武天皇は天武天皇の孫に当たる文武天皇と、藤原不比等の娘である藤原宮子との間に生まれ、首皇子と呼ばれておりました。祖母である元明天皇からすぐに皇位を継いだのではなく、間に叔母である元正天皇をはさんでの即位でした。

即位されたのは724年、御年24歳でした。当初は長屋王(天武天皇の孫・高市皇子の子)を筆頭とする、皇親勢力が脇を固めていましたが、5年後の長屋王の変を契機に不比等のPhoto 4人の子が朝堂を支配することになりました。長屋王一族の自死の裏に藤原氏の暗躍があった、といわれる所以です。

それはともかくとして、藤原氏は4つの家(北家、南家、式家、京家)からそれぞれ公卿を出して実権を握っていきます。それまでは一家から公卿になるのは一人という、暗黙の決めごとがあったのですが、藤原氏は4つの家に分かれることで強引に朝堂の独占を目指したといえます。

しかも、聖武天皇の后として光明子(不比等の娘・母は県犬養橘三千代)を立て(結婚は即位の前ですが)、皇后立后を実現します。臣下の娘が皇后になるのも、もちろん初めてのことです。また、藤原4家もそれぞれ夫人を後宮に送り込んでいます。

そういう状況の中ですので、若き聖武天皇もおそらくご自身が「藤原の子」であることを意識され、光明皇后や伯叔父である藤原4兄弟に全面依存する気持ちであったであると推測されます。ところが順調に見えた「藤原政権」でしたが、一気に崩壊するのです。天皇即位から13年、長屋王の変から8年経った時(737年)でした。

それが天然痘の大流行、どうも朝鮮半島から九州・太宰府を通して平城京にもたらされたようです。これによって、あろうことか藤原4兄弟が相次いで頓死し、朝堂の多くの役人も罹病し死に至りました。ここから、天皇にも大きな変化が生まれてくるのです。

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