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長屋王の怨霊が混乱の元であったかも

聖武天皇の即位から13年、長屋王の変から8年、737年に世の中をひっくり返すような出来事が起こりました。長屋王亡き後、朝堂を牛耳っていたのは藤原不比等が遺した4兄弟、武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)でしたが、この4人が相次いで病死するのです。

原因は天然痘でした。元々日本には天然痘はありませんから、おそらく中国大陸から朝鮮半島を経て九州にもたらされ、それが一気に西日本に広がって、平城京を襲ったものと思われますが、中央政府のトップの半数以上がなくなるという猛威でした。当然政権はガタガタになります。

聖武天皇は震え上がったことでしょう。当時は病の原因もほとんどわかっていませんでしたから、天然痘の猛威ももちろんですが、何よりもその裏に「祟り」があるのではと思われたことでしょう。つまりは怨霊の仕業だと。誰の怨霊?

もちろん長屋王です。その自死に対して天皇自身は手を下されてはいないでしょうが、変の原因の根元には自分の存在があることは、感じておられたに違いありません。おそらく「自分に天皇としての徳がないからこの疫病が流行った」、そして長屋王の怨霊がよりひどい状況をもたらせていると。

前者については、自ら仏弟子となって徳を高めるとともに、仏の功徳を世に広めるために何ができるかを考えられたことでしょう。そこで全国に国分寺と国分尼寺を建立する詔を出Images されます。そしてその中心になるべき存在として、大仏建立を発意されたのでしょう。

一方長屋王の怨霊に対しては、どうされたのでしょう。残念ながら、何をどうされたのかについては記録が残されてはいません。これをもって、この時代はまだ(平安期に見られるような)怨霊思想はなかったという歴史学者がおられるようですが、バカじゃなかろうかと思います。あったに違いない、私の結論です。

後世の、例えば早良親王に対するような、あるいは菅原道真に対するような対応・対処が、宮中で秘かになされたと考えるのが当然だと思いますよ。

光明皇后が施薬院や悲田院をつくり、そこで活動をされたことも、あるいはそこにつながることではないかと。とくに皇后は藤原氏の出であり、亡くなった4兄弟は異母兄たちですから、余計に強い思いを感じられたことでしょう。必死であったというと、大げさすぎるでしょうか。

ところで朝堂、政治の中心は藤原4家の柱がいなくなったことで、橘諸兄がその任に当たりました。諸兄は橘三千代と先夫(美努王)との子で葛城王と呼ばれていましたが、臣籍降下して橘姓に。三千代は藤原不比等と再婚し、その子が光明子ですから皇后と諸兄は義キョウダイ(異父兄妹)になるわけです。

ところが、このあたりから聖武天皇の混迷が始まるのです。

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