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聖武天皇彷徨の末に変化の兆し

聖武天皇時代の大きな事件は、前回お話ししたように天然痘の大流行で、政治の中枢にいた藤原不比等の4人の息子「藤原四兄弟」が同じ年に相次いで病死します。

これに代わって朝堂の中心に躍り出てきたのが橘諸兄です、この時すでに53歳。皇族(敏達天皇5世孫)でしたが、臣籍降下して橘姓となります。母が県犬養橘美千代で、不比等に再嫁していて光明子(皇后)の母でもあります。

諸兄は下道(吉備)真備を登用、学僧である玄昉とともに政権運営に当たります。これが737年から翌738年ごろのことです。これに不満を持ったのが、藤原式家・宇合の息子である藤原広嗣でした。

当時広嗣は大宰少弐に左遷されていて、諸兄政権に不満を募らせていました。そして740年の秋、ついに1万の兵を率いて九州で反乱を起こすのでした。しかし追討軍に敗走し、松浦で追捕され処刑されてしまいます。
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ところがこの反乱の最中に、聖武天皇は突然遷都を決意し、伊勢に行幸後そのまま恭仁宮(平城京から木津川を越えたところ・現在の加茂付近)に留まってしまいました。実はここは諸兄の本拠地でもありました。

大極殿も移されてきますが、天皇は突然造営を中止させて紫香楽宮(信楽)に移転、さらに744年難波宮に遷都、そして745年に平城京に戻るのです。この彷徨が何を意味していたのかは類推するしかありませんが、不安定な精神状態であったことは確かでしょう。

一時は紫香楽宮付近に大仏殿を造ることも考えられたようですが、結局元の平城京に大仏建立を目指すことになります。この間に、息子であった安殿(あて)親王が突然亡くなります。

この死は病死(脚気)となっていますが、藤原氏による毒殺の噂もあって、真偽のほどは不明です。親王は光明皇后の実子ではなく、そのために排除されたのではないかという疑いがあるわけです。

こうして後継ぎをうしなった天皇は、初の女性皇太子になっていた(738年)阿倍内親王への譲位を考え始めるとともに、大仏建立に心血を注ぐことになるわけです。ただ、どうもこの頃から気持ちの変化が始まったように思われます。

すなわち、「藤原の子」からの脱却です。それについては次の機会に。

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